4 地獄の底にて、■■の出会いを
なぜ、恐れるのか。
なぜ、逃れるのか。
恐れるべきは、暗黒ではない。
恐れるべきは、穏やかな白昼。
安穏に背を向け、走り出すがいい。
稲光となるのだ――稲光は、恐れることなく疾走する。
稲光は一条の光となって駆け抜け、■のように暗黒を引き裂くのだ。
×は死ぬと■になるという。
駆け抜けなければならない。
全ての命に、輝きを与えるために。
第一章
どうか全ての■が輝きますように/VSフルグル・モルス
――男は、微睡みの底から浮上した。
また、あの夢を見た。何度も繰り返される、脳髄に深く刻まれた悪夢。
失われた遠い日々。夢の始めは、いつも懐かしさや愛おしさで満たされ、永遠にそこに浸っていたいと願ってしまう。だが、そんな甘く生温い願いは叶わず、最後には決まった結末を迎える。
――ザフィーア・グラキエス。
ヒギリを救い出した男。
ヒギリの憧れだった男。
ヒギリの最愛を殺した男。
ヒギリが殺すと誓った男。
ヒギリ・シラヌイは現在、この場所――《監獄迷宮アンフェル》の最奥部へ投獄されている。
あの日。三年前の《星降りの夜》、ザフィーアによってアステルの村を滅ぼされ、最愛の妹であるアザミを殺された。その後、囚えられてからは、この地獄でひたすらに魔物を殺し続ける日々だ。
なぜ、こんなことをさせられているのか。理由はわからない。
だが、ヒギリは戦い続けた。
鬼の頭を潰している間は、ほんの少しだけ楽になれる。
ヒギリを苛む憎悪と悔恨は、常に彼の心を焼き続けている。
ザフィーアへの憎悪。アザミやリウビア、村の人々が失ったこと、大切な者を守れなかった後悔。己の弱さへの怒り……思考は常に、どす黒い感情で満たされている。
力を振るえば、一瞬でもそれが薄らぐ。暴力はもはや快楽であった。
同時に、ヒギリは強くならなければならない。故に、どういう意図があるにせよ、戦い続けられることは都合がよかった。
稀に低級な鬼以外の、強力な魔物が放り込まれることもある。
余人であれば恐怖に竦み、仕向けた相手をさぞ恨むであろうが、ヒギリにとっては相手が強ければ強い程に好都合。
そうして、地獄の底で牙を研ぎ続けた。
――――「憎悪の牙を研げ。俺を殺したいのならば、力をつけろ。相手をしてやるのに相応しい存在になった時、また俺の前に現れるといい」
様々な教えを受けて、憧れさえ抱いていた男。あれだけ慕っていた男を、今はただひたすらに憎み、想像の中で幾度となく肉塊にした。
あの男の言葉に従うのは癪だったが、しかし。
ヤツの言葉通りの時が来るのなら――――。
絶望に埋め尽くされたヒギリが、自ら命を絶っていない理由。
生きる意味の全てを奪われてもなお、こうして無様に生にしがみついているのは、ただその時を待ち続けているからだ。
外へ出られるなどという話は聞いたことがない。
いつまで閉じ込められ続けているのか、刑期などというものがあるのか。
しかし彼には、ある確信があった。
それがあるから、彼はこうして地獄の底で復讐の幕開けを待つことができる。
暗闇の中で今日も戦い、殺し、憎悪を重ねて牙を研ぎ、悪夢を見る。
血が滴り、溜まり、赤黒い瘡蓋を重ねるような、そんな日々を三年も続けていた。
常人ならば数日で発狂するような日々の果て、擦り切れた心の残滓を繋ぎ止めてくれるのは、胸に踊る赤色の輝き。
ヒギリは胸の《想星石》を撫でてから、眠りに落ちる。
――アザミ、今日も生き延びてしまったよ。
――アザミ、俺は必ず、ヤツを殺すから……。
失われた愛しさを握りながら、微睡みに落ちる。
またあの夢、見るだろうか。
どちらでも構わない、あの時のことは、決して忘れはしない。
《想星石》に刻むまでもなく、心の中では、憎悪の炎が永劫に燃え盛っている。
◇
――その小さな少女は、物々しい仮面をつけ、その面貌を秘していた。
《星導騎士団》が身に纏う純白の制服。背丈は低い。年齢は十代前半程度、まだ騎士学校に入ったばかりでもおかしくない程に若い。
だが、佇まいからは、体格からは見合わぬ風格が滲んでいる。強く引き結ばれた口元、真っ直ぐに伸びた背筋。仮面の奥の眼光は鋭い。
「お初にお目にかかります。この度、ヴォルカ様の後任として《四星剣》の末席へ加わりました――アマネセル・リュミエールと申します。至らぬところはありますが、」
幼さが残りながらも、凛とした声で淀みなく述べている途中。
少女の目の前の男が、飛びかかる蛇めいた機敏さで手を突き出して少女を制止した後に、突如勢いよく叫び始める。
「堅苦しい挨拶は抜きにしましょう! ワタ死はフルグル・モルス。ご存知でしょう? ご存知デスよね? では、紹介は省きましょう。人生は有限、時間は有限、人の願いは無限、であればワタ死達は、常に走り続けなければならない、そうでしょうッ、そうデスよねッ!?」
「……え、と……は、はい! おっしゃる通りかと……」
少女は男の言葉に気圧される。いちいち言葉の度に入る大げさな動作や、声の大きさ、異様に見開かれた目、どれを取っても奇怪な男だった。
漆黒の長い髪。高めの身長に、蜘蛛のように長い手足。少々目つきが悪い上に、不健康そうな顔色、目元には濃い隈が。左目には黒い眼帯が。顔の造形自体は整っているが、それでも全体の印象としては不気味さが先行してしまう、そんな風貌。
「まずはようこそと言っておきましょう、歓迎しますよアマネセル様。この場は罪人を囚える監獄であると同時に、この世界を救済するため――つまり、ザフィーア様の崇高な目的に有用な場所なのですから」
「は、はい、存じております……」
アマネセルは異様な風体と雰囲気の男に気圧されつつ、頭の中でこの場所の知識を引き出した。
《監獄迷宮アンフェル》。このレクエルド大陸を統べるディアスティマ星導王国、その領内で大罪を犯した者全てがここへ送られる。大陸全土が王国領内となった現在、世界中の罪人がここへ集められるという訳だ。周囲は魔物が取り囲んでおり、ここからは出ることも、近づくことも困難。
魔物避けの魔道具を持ち、さらに限られた者だけが知る魔物の出現頻度が低いルートを通らなければ、この場所へは辿り着けない。
《星導騎士団》最高戦力《四星剣》の一人であり、このアンフェルの監獄長でもある男、フルグルによって非道な実験が行われているという噂も聞く。
本当ならば、許せないことだ。だがアマネセルはそれが正しい世界のためなら、多少の非道には目をつぶろうと思っていた。
フルグルには告げるはずもないが、それを見極めるのも彼女がここへ来た理由の一つ。
「……それで、アマネセル様がここを訪れた理由というのは?」
「まずは、《四星剣》であるフルグル様への挨拶を――、」
「アー、そういうのはいいデス、不要デス。他には?」
「……では、本題を。あの男……《炎獄の凶手》に会わせていただけないでしょうか?」
《炎獄の凶手》――ヒギリ・シラヌイ。
彼が成したあることから、そう呼ばれるようになっていた。三年前に現れた英雄、ザフィーアによって平和を取り戻しつつある世界において、最悪の大罪人の名だ。
「フム。なぜ?」
「見極めたいのです、あの男を」
「見極める、デスか? これは異なことを。アナタが口にしたその名の通り、ヤツはただの人殺し。ザフィーア様の理想に立ちはだかる障害……つまり、悪でしょう?」
「そこに疑いはありません、ヤツは悪でしょう。ですが、どうしてそんなことをしたのか。私は、それが気になるのです」
「悪を成す動機など……。金、名誉、己の強さを誇示する傲慢……そんなところデス」
男は心底理解できないというように、大きく首を横に振りながらため息をつく。
「……では、もう少し腹を割りましょう。……ヤツは、私の記憶の手がかりになるかもしれないのです」
「……アァ~、なるほど、そういうことデスか……」
記憶。アマネセル・リュミーエルには、過去の記憶がない。
そのことはフルグルも承知していた。
どこから来たのか、親は誰なのか、自分は何者なのか。
そういったことの全てが謎に包まれており、彼女はそれを探し求めている。
己が何者かもわからぬまま、それでも空っぽの心の中に芽生えた信念に従って、戦い続けてきた。
空っぽの彼女の中に、僅かに残っていた記憶。
それは、誰かに救われ、守られるというモノ。
恐ろしいナニカに襲われる自分を、守ってくれる誰か。
全てが靄に包まれたような、曖昧な記憶。
なにもない彼女にとっては、その曖昧なものに縋るしかないのだ。
「私の記憶の中にいる誰かと、ヤツが……似ている気がするんです。それに……、」
「――いいでしょう。何事もまず試してみることは素晴らしいデス」
言葉の途中で、フルグルはぱちんと両手を合わせた。
「そのような探究心は私好みデスしね。……デスが、ご注意を。あの男はただの獣。ザフィーア様の理想も理解できぬ狂人。得られるものがあるとは思えないデスが」
「私の個人的な頼みに付き合わせてしまって、申し訳ありません。ご協力、心から感謝致します。……ところで」
仮面の少女が、足元へ視線を向けた。
「なんデス?」
「この下……何か、強大な魔力を感じるのですが、一体なにが?」
「アァ、デスからこの下ですよ――件の《炎獄の凶手》を幽閉しているのは」
彼はこの監獄の最奥部にいると言う。
たった一人の人間が、ここまでの魔力を放つものだろうか? だとすれば、あの男は一体どれ程の力を――。
アマネセルは、地下深くにいるその男へ思いを馳せる。
果たして、彼は自身の記憶の手がかりとなり得るだろうか。
そして少女の目的はそれだけに留まらない。
空っぽの少女が宿した信念――それは、この世界を救う英雄となること。
ザフィーアというこの世界の救世主。少女は過去に、彼にも救われている。
そして記憶の中の、自分を守ってくれた誰か。
胸に宿る二つの憧憬を糧に、少女は遠く険しい夢への進む。
◇
長く長く続く階段。深く深く、地の底へ降りていく。響く足音。粗悪な魔道具が、頼りなく暗闇を照らしている。階段を降りた先は、長い通路が。
キキッ、と鳴いた鼠が足元を駆けていく。アマネセルは目を剥いた。
鼠が負の《魔力》に侵食され、魔物化していたのだ。魔物が生まれる過程は様々だが、既存の物質や生物が魔力によって変質するというのが最も一般的な例だ。
『魔物化』の自然発生は容易には起こらないとされる。あるとすれば、それは人が悪意を持ってそのための術式を行使した時だ。
しかし――通常では考えられないような負の想念が渦巻く場所で、それは起こりうる。
「あんなものを、放っておいていいのですか?」
魔物化した鼠を指して、少女は問う。
魔物と化したところで所詮は鼠、大した戦闘力はない。だが万が一あれに噛まれでもすれば、そこから不浄の魔力を送りこまれ、人間も魔物化してしまうだろう。
もしもここが平和な村ならば、あの一匹でも存亡の危機となる。血眼になってでも殺処分すべき存在だ。
そして、返ってきたのは信じられない答えだった。
「構わないでしょう? 仮にあれで罪人がどれだけ不浄に侵されようが、何人死のうが、それは仕方のないこと。無価値な命は、無価値に散るもの。この世界は価値なき命に溢れているのデス」
だからこそ……と最後に小さく、しかし力強く何かを付け加えようとしたが、フルグルの言葉はそこで終わった。
――アマネセルは、絶句した。
フルグルという男が異常なことは承知していたが、ここまで極端な考えなのは想像以上だ。
アマネセルは、罪人は正しく裁かれるべきだと考えている。罪には相応の罰を。なのに、この男の考え一つで死んでしまっては――それでは、あまりにも報われない。
確かにここにいるのは罪を犯した者達だ。誰かを傷つけた者達なのだろう。しかしだからと言って、そういった者達が考えなしに殺される世界には、先がない。
ここに、正義はあるのだろうか。
英雄を志す少女は、常に求め続けている。
答えを求め続ける。この悲劇満ちる世界で、それを求めることをやめてしまっては、人は本当に、人を脅かす悪しき存在と変わらなくなってしまう。
――キキィッ! と一際甲高い鳴き声が、暗い通路に響く。
少女が魔物化した鼠を踏み潰したのだ。
「……ごめん、なさい……」
小さな赤黒い染みに向けて、謝罪を零した。
魔物を殺すことに躊躇いはない。しかし、あの一匹の命が魔物と化した原因は、フルグルという男の怠慢のせいだ。
彼がこの場所の《不浄》に目を向けていれば、『魔物化』が起きることもなかったはずなのに。
《不浄》。負の想念が溜まり、魔物化が起こりやすくなることをそう呼ぶ。
ここは不浄が溢れた地だ。監獄という場所の特性上、この場所で不浄を取り除くことは難しいのかもしれない。だが、それを目指すのが監獄長であるこの男の果たすべきことではないのだろうか。
「死、死死死死死……ッ! これはおか死い! アナタは存外、下らないことに拘るのデスねッ! その価値なき命に、何を謝罪すると言うのデス!」
不気味な、悪意が漏れ出るような笑い方だった。
「アナタの信念は理解できません。デスが、アァ! 信念を持つことは素晴らしいデスッ!
信念。目的。野望。願望。渇望。夢と言い換えてもいいデス。
魔の蔓延る時代、人はただ殺し、ただ喰らい、ただ犯し、ただ生きる……アァ、許せないデスね、それでは輝きが失われる。夢はいいデス、夢は魂を輝かせる。輝きはこの暗い世界を照らす光なのデスから」
「あなたのような人が、夢を語るのですか……」
「オヤオヤ、これまたこれまた異なことを。ワタ死程、夢を持ち、それに向かって邁進する者もそうはいないデスよ? 無論、ザフィーア様には遠く及ばないのデスが」
漆黒の長髪、その隙間から狂気に満ちた、暗闇に塗りつぶされたような瞳がこちらを覗き込んでくる。
「……――あなたの夢とは?」
「勿論、第一にザフィーア様の理想の実現。それから……ワタ死の個人的なモノもあるのデスが……そちらはまだ秘密ということで」
「ザフィーア様は、現状を容認しているのですか?」
「まさか! あり得ない!」
「だったら、どうして!? それはザフィーア様に反するということでは――、」
「死死ッ……なにを馬鹿な」
「……なにが、おかしいのですか?」
仮面の奥で少女の瞳が怒りに燃える。常に人を嘲弄するような態度にも、まったく読めない考えにも、いい加減付き合いきれない。
「容認もなにも――そもそも、このような些事をあの御方が気にするはずがないデスよね?」
「些事? 人の命に関わることを、些事と言ったのですか……?」
「ええ、理想に犠牲は付き物です。アァー……デスが、理想のための犠牲ですらないデスね、理想への道の端に落ちている砂礫の一粒、そんなものデスよ、ここにいる者の……そして、大抵の者の命は」
「……わかりました」
「わかってくれましたか、ワタ死の信念を」
「いいえ……今、あなたと話し合うことは無駄だと、よくわかりました。構いません、理解し合えずとも私達は同じザフィーア様の理想のための剣。それに、こうなるかもしれないことはレイン様に忠告されていたので」
「そうデスか。アァ~……レイン、懐かしい響きデスね……彼女は元気デスか?」
「……はい。私もしばらく会っていませんが、騎士学校時代には、何度も厳しく指導して頂きました」
「死死……それはいいことデス、研鑽は輝きに必要なものデスからね」
レイン・トラジェディ。《四星剣》の一人で、アマネセルの師だ。
話題は共通の知人のものへシフトし、先刻の問答は互いにこれ以上口にしないと、暗黙の内に了承した。
互いにわかっている。ほんの少し語り合ったところで、強固な信念が譲れるはずがないと。
そして、どれだけわかり合えずとも、それでもザフィーアという男の下で、理想のために戦う剣であることに代わりはないと。
剣同士が理解し合う必要などない。
剣はただ、敵を切り裂けばそれでいい。
――――そして、辿り着いた。
《炎獄の凶手》と呼ばれ、地の底へ幽閉される男、ヒギリ・シラヌイ。
彼は《四星剣》が一人、ヴォルカ・エクリクスィを殺したのだ。
アマネセルは、ヴォルカの後任。
この世界を救う英雄へ歯向かい、大罪人となった男。
空っぽの少女の手がかりになるかもしれない男。
予感がした。何かが変わり、何かが起きる予感が。
少女はまだ知らない、この出会いで激変することを。
彼女の運命が。
世界の運命が。
過去を知らぬ空っぽの、英雄を志す少女。
過去を奪われ憎悪で満たされた英雄を殺す男。
男と少女、二つの歯車。
二つの歯車は、やがて世界の運命を回す。
歯車が噛み合った瞬間は、きっとこの出会いからだったのだろう。
少女は仮面を取って、その場所へ足を踏み入れた。
鎖に繋がれた男が、こちらへ視線をやって――その瞬間、信じられないものを見たというように、大きく目を見開いた。
掠れた、震えた声で、男は言う。
「――――アザミ……?」
アマネセル・リュミエール。
真紅の髪を持つ少女の顔は。
ヒギリの失われた最愛――アザミ・シラヌイにそっくりだった。
◇
4 地獄の底にて、■■の出会いを
4 地獄の底にて、運命の出会いを