3 プロローグ 星が降る夜に願いは届かず、全ては終わりを迎えて
待ちに待った《星降りの夜》当日。
その日は朝から、ヒギリはどこか落ち着かない様子だった。朝食の際に飲み物を零す、歩きながら柱に突撃する、シャツの前後は逆だし、アザミが話しかけても上の空の時がある。
「……お兄ちゃん、どうしたの?」
挙動不審な兄を怪訝そうな目で見つめる。
「いや? え? なにが?」
「なんか変だよ?」
「へ、変とはなんだよ、変とは」
「……だって、なんか……ふふ」
言うまでもなく変なのだが、あまりにも誤魔化すのが下手すぎるヒギリを見ていたら、なんだか面白くなってきてしまった。
「なに笑ってんだよ、変なやつだな」
「お互い様だね」
「…………アザミ」
「なに?」
真剣な顔で名を呼ばれたかと思えば、兄は立ち上がって部屋に戻ってしまう。しばらくして出てきた兄の手には、なにやら見かけない上等な素材の袋が。
「……それは?」
アザミが問う。兄は少し勇気を振り絞るように深く呼吸してから口を開くと――、
「――――誕生日、おめでとう」
「ありが、と…………わっ、プレゼント? なんか、今年のはおっきいね……開けていい?」
「ああ、開けてくれ」
袋の中を見て、アザミの目が見開かれる。
――いつの日か、彼女はそれを見ていた。村にたまにやってくる行商人が持っていた、珍しい一品。遠い憧れは、そのまま胸の奥に沈み、忘れていくものだと思っていた。
「嘘、なんで……これ……」
一足の靴だった。
丈夫で高級。珍しい魔物の素材が使われた、冒険者のためのブーツ。アザミの小遣いでは到底手が届かない、どころか、二人の貧しい暮らしの中にそんなものを買う余裕はないというほど高価なものだった。
「……なんで、なんで……?」
瞳から、涙が溢れた。
「金なら心配ねーよ、随分前から溜めてたし、ザフィーアに無理言って、つえー魔物の討伐依頼にも連れてってもらってたからな。……だからさ、問題はアザミが何を欲しいかだったんだけど……大丈夫、だったか? これで、合ってる……よな?」
涙の意味は、ヒギリもわかっていた。それでも、不安でしかたなくて聞いてしまう。
「大丈夫、どころか、……すごいよ、お兄ちゃん、なんで私が欲しいもの……」
「すげー見てたじゃねえか。そのくせ欲しいとか全然言わねーし……そういうとこあるよなあ、お前。わかるって、何年お前の兄ちゃんやってると思ってんだ」
「……鈍いくせにっ。もう、こんな時にだけ……」
「なんだよ、鈍いって、合ってたんだろ?」
「教えない」
「ええー……教えろよ」
「やだ」
「……んだよ、ケチ。ま、いいや。……あとそれから、これも……、ちょっと来い」
「ん~?」
手招きするヒギリのもとへ歩み寄り、顔を寄せるアザミ。
「ちっと動くなよー……よし!」
首元へ手を伸ばしたかと思えば、アザミの首から赤色の《想星石》が下げられていた。
こちらが相談の成果。ノーチェとリウビアのアドバイスである『いつでも身に着けられるものを《想星石》に』。ペンダントにするという発想も、そのためのデザイン、チェーン選びなど、ヒギリでは到底たどり着けない品になったと思う。
「…………あっちゃー」
「……え、なに、こっちはダメだったか!?」
「ううん……違うの……すっごく嬉しいよ。でも、これ……」
アザミは困ったように笑いながら、赤色の《想星石》が下げられたペンダントを取り出した。
これは、この日のために兄への想いを込め続けた《想星石》で作ったもの。
兄と妹、二人とも発想は――想いは同じだった。いつでも想いを込めたものを見に付けていて欲しい。ずっと一緒だと、そう伝えたいという想い。
「あっちゃー」
先程のアザミの口調を真似てから、小さく笑うヒギリ。
「ま、いいだろ別に。むしろ俺達兄妹の絆が生んだ奇跡と言える」
「あはは、はいはい……じゃ、頭下げて、お兄ちゃんにもつけたげる」
「おう」
しゃらん――と細い鎖の音が、二つ。
兄妹二人、揃いのように――首から互いへの想いが込められた赤色をぶら下げる。
「それね、ちょっと仕掛けがあるの。お兄ちゃんの魔力通してみて?」
「おう? なんだ?」
言われた通り、《想星石》に触れて微弱な魔力を通す。
《大好きなお兄ちゃんへ。
お兄ちゃん、いつもありがとう。恥ずかしくて、照れくさくて、あんまり言えないけど、今日は特別だし、それに……想星石を通してなら、言えないことも、言えるかなって》
ヒギリの頭の中に、イメージが流れ込んでくる。そこでは、部屋で一人筆を取り、兄への想いを綴る妹の姿。
これはアザミの記憶。ヒギリを想っている時のアザミの記憶が、頭の中に流れ込んでくる。
《今までずっと、私を守ってくれてありがとう。お母さんもお父さんも死んじゃって、二人だけになっちゃって、怖くて、悲しくて、辛くて……なのに、私の体は全然治らなくて、嫌なことばっかりで……それでも私が今日まで笑顔でいられたのは、お兄ちゃんのおかげです。お兄ちゃんがいなかったら、きっと、私はこんなに幸せではいられませんでした。
だから……本当に、ありがとう。
それから、心配しなくても大丈夫だよ。
お兄ちゃんが王都に行くのは……ちょっと寂しいけど、少しの間離れていても、この想星石が繋いでくれるから。寂しくなって、私が恋しくなったら、いつでもこれを私だと思って、石を握ってみて。離れている間の分、ずっとずっと大丈夫なように、たくさん……本当にたくさん、これまでの全部……私の人生は全部、お兄ちゃんに守ってもらった大切な日々の重なりだから、その分だけの想いを込めてあります。
それを少しずつ、お兄ちゃんが見られるようにしてるから……だから、大丈夫。
私も大丈夫です。王都に行っても、頑張ってね。
あなたが守ってくれた、あなたのアザミより》
「……う、うぐっ……うう……うぁああああああ…ああああああああああ、アザミぃいいいい……あああ、アザミぃいいい……あじゃみぃぃいい……………っ」
涙が、想いが、様々なものがこみ上げてきた。
大粒の涙をぼろぼろ零している途中で――、
《……よっし、最初の分は、これくらいでいいかな? ふふ、お兄ちゃん、どんな顔するかなあ……。えーと、次はどうしようかなー、うーん……》
「あああああ……、…………。……はは、……あははっ……あっはっははははは……っ!」
なぜか泣きながら、笑い声を上げるヒギリ。
「は!? なんで泣きながら笑うの!? 泣くのはわかるけど、笑うのは!?」
「……これ、たぶんアザミが想定してないとこの記憶も入ってるよ。なんか、次はどうするかうんうん唸ってるとこ見てるから今」
「どぅわあー!? うわーうわー失敗したーっ! 見るな! 恥ずかしいから見るなーっ!」
「いやですー、もうもらったからめちゃくちゃ見ますーっ!」
「馬鹿ー! アホ! ダメダメお兄ちゃんなんかもう嫌いだっ!」
「ははは、なんとでも言え、もう遅いぞ妹よ……お前がお兄ちゃんを大好きなことはわかっている! そして!」
悪魔みたいに笑ったかと思ったら、いきなり表情を一変させて、
「ありがとう、アザミぃぃ……俺、頑張るからならぁぁ! すぐ戻ってくるからなぁ! 」
「だーっ、どわーっ、もう、鼻水くっつけるなアホーっ! アホーっ、馬鹿ーっ! あ――――、いやっ、最悪っ、靴に鼻水とぶっ、ふざけんなアホアホアホアホーっ!」
「なんだよー、俺があげたやつじゃん、俺の鼻水つけとけよ」
「もうもらったから私のだしふざけんな馬鹿アホお兄ちゃんっ! しばらく帰ってくんなっ!」
ぼこっ、涙と鼻水まみれの兄の顔面にパンチを入れた後――、兄妹はまた二人で大笑いするのであった。
◇
「よっし、じゃあ行くか」
「うん……っとと」
さっそくプレゼントされたブーツを履いたアザミは、足になじませるようにトントンとつま先で地面を叩いてる最中によろめいた。
「おいおい、っぶねーな。平気か? まだちょっとだけデカいだろ、それ」
「うん……少しだけ大きいかも。ごめん、私、足ちっちゃくて……」
「ははっ、ちげーよ馬鹿。もう少しアザミが成長して、ちょうどよくなった頃には体が治ってるだろ? そしたらさ、それ履いて一緒に村の外を見て回ろうぜ、ってことだよ」
「…………お兄ちゃん、」
あと少しだけ大きくなったら。
この体が、治ったら。
兄の込めれくれた願いに、示された最高の未来に、アザミは泣き出しそうになってしまう。
涙を堪え、愛おしそうにそっと靴を撫でる。
「んっ」
ヒギリへ手を差し出すアザミ。
「……ん?」
「手」
「……手?」
「繋いで!」
「お、なんだよ……普段は恥ずかしいから絶対ヤダっていうのに」
「今日は特別」
そして、二人は手を取りながら、歩みだす。
この村で一番高い丘の上。
そこが一番星がよく見える場所だ。
自宅を出てすぐ、モース婆達の住む家を通りかかった時だった。
――――悲鳴が聞こえた。
どこから? 一体なにが?
村に魔物が入り込んだ? だとしたら、どうする? ザフィーア達を呼んで、アザミを安全なところに……、
ヒギリの思考は、そこで一度途切れることになる。
暗い道の先――雲の隙間から差し込んだ月光が、それを照らし出した。
腕が異形と化したモース婆が、
あんなに優しかった老婆が、
自身の夫、その心臓を貫いている。
「なん、で……、」
疑問よりも先に。
「……いや、いや……なに……、な、んで……、」
「やあ、ヒヒ、ギギァ、ギィィ……ヒィ、ギィリちゃァン、ア、ザァァ、ミチャン……」
老婆の顔は、赤黒く変色しており、醜い鬼になっていた。人と鬼。鬼の領域が、人の部分を侵食し、老婆の原型を壊していく。
ずるり、
――果実を剥くように。
異形の老婆は、胸を貫いている腕を引き抜いて。
ぐちゃ、
――果実を潰すように。
瑞々しく、人体が弾けた。
長年連れ添っていたはずの夫の体を塵のように踏み潰す。
「ヒィ、ギリチャン……オォ、まけ、しとくよォォ……オイシイ、ヨオ……」
異形の老婆が、ぐちゃぐちゃに弾けた、柘榴めいた脳味噌の残骸を差し出してくる。
生前の時によく口にしていた言葉が、不気味に残響していく。
「クソ……クソ、クソっ……ごめん、ごめん………………ごめんっ!」
ふらふらと近づいてくる小柄な老婆目掛け――足を振り上げ、彼女を蹴り飛ばした。
「……お兄ちゃんっ……!?」
「――もう、人間じゃない……、だって、人を、殺して……」
なぜこうなってしまったのか。
彼女はもう助からないのか。
わからない。わからないが、ここで躊躇えば、アザミに身に危険が及ぶ。
ならばヒギリは迷わなかった。
もしもまだ彼女を救う方法があったとしても。
それでも、アザミに危険があるのなら、ヒギリは半人半鬼の異形を――迷わず殺す。
「イタ、イ……よオ、ヒギリちゃん……」
「ごめん……、ごめんな、さい……ッ!」
迷わない。アザミを脅かす者は、誰だろうが、何だろうが許さない。
それでも――彼女への気持ちがなくなるわけではない。
ずっと、優しくしてくれた。アザミのことを知っても、少しも蔑んだりしない、むしろ本当の孫のように、気遣ってくれていた。
「……アザミ、走るぞ」
彼女を手を引いて、異形を通り抜け先へ進んだ。
早くこのことを知らせなければいけない。
原因はなんだ? 被害はどこまで広がっている?
「……とにかく、ザフィーアに……」
彼ならば、事情を知っているかもしれない。それにヴァンやリウビア、ノーチェ達にも。
みんなは無事なのだろうか?
まさかもう、だとしたら。その時、自分は……。
際限なく疑問と恐怖が湧き上がる。
今考えるべきはまず何かを取捨選択をしようと必死に頭を回す。
頭が赤熱していく最中、
ヒギリの思考に、唐突に――空白が生じた。
「……あ、……」
足が止まった。
崩れ落ちそうになるのを、必死に踏みとどまる。
彼の視界に飛び込んできた光景、
それは、
――――見渡す限りの、死体と、異形。
もう、なにもかもが手遅れだった。
この村は、とっくに滅んでいる。
「ギ、ァ……」
「オイシイ、オイシイ……」
「アァ……、イタイ、たすけ、テ……」
「オ、母サン、ドコ……?」
異形達はまるで人の意識があるかのような言葉を吐きながら、人間を殺している。
「オ、母サン、ドコ、ドコ、ドコ……ココ、ココ、ニ、イル……?」
そう繰り返しながら、死体の腹を引き裂いて、臓物を引きずり出している少女がいた。
「今日ノ、ゴハン、オイシイ、ネ……」
そう繰り返しながら、人の肉を食らっている男がいた。
「……アザミ、見るな、聞くな。下がって、目を閉じて、耳を塞いでろ。……すぐに、終わるから」
ヒギリはずっと、アザミを守るためだけに生きてきた。
だからこれは、仕方がないことなのだ。
こうする以外の生き方を知らない。
彼は、世界を救う英雄ではない。
アザミのためだけにしか。
たった一人の少女を守るためにしか、戦えないから。
だから――。
足元には、剣の刺さった死体が。剣を持っている鬼もいる。恐らく、生前の人格や願望に引きずられるのだろう。なら、剣に執着する人間が鬼となれば、剣を振るうのかもしれない。
今は事情や理由は、どうだっていい。アザミを守れるかどうか、それだけを考えろ。
剣を引き抜き、構えた、
――――その時だった。
「ヒギリ……、」
よく知っている声だった。
水色の髪を後ろでくくった少女。その体は、鬼に侵食されていた。
「リウビア……?」
「あ、はは……ごめん、私、失敗しちゃったわ……」
異形となった左手を右手で必死に隠していた。
「お前、まだ意識が……」
「……すぐにおかしくなっちゃう訳じゃないみたい。人によって違うのかしら……でも、もう遅いね……私もすぐに、みんなと同じになるんだと思う」
「そんな……嘘だ、いやだ……そんな、そんな……っ!」
「――――ねえ、ヒギリ」
狼狽えるヒギリの言葉を、切り裂くように遮る。
「――私を、殺して」
「無理、だよ……できるわけ……」
「お願い……ねえ、お願い……だって、だって、もう……そうしないと……」
リウビアの左腕が、脈打つように跳ねた。
「でないと……あなたを殺してしまうから……」
リウビアの左手が――異形の腕が、ヒギリへ迫る。
咄嗟にヒギリは剣を振り抜き、リウビアの腕を跳ね飛ばした。
「……そう、それでいいの」
次の瞬間、
リウビアはまだ人の部分を残した右手で、ヒギリの剣を掴む。
血が滴るも構わず握りしめて、
自身の胸へ切っ先を突き立て、
――――ヒギリを抱き寄せる。
剣を胸に突き立てたまま、そんなことをすればどうなるか。
ヒギリの握る剣が、リウビアの胸を、深く深く貫いた。
「ご、めんね……最後に、こんなワガママ……でも……あなたの手で、こうされたかったから……あなたを、ずっと……」
リウビアは、残った血まみれの右手で、ヒギリを抱きしめていた。
「なんで……なんでだよ……リウビア……」
「もう……ここまでしてどうしてわからないのかしら、それはね……」
◇
「……ねえ、ヒギリ……《星降り》の時、少しだけ二人だけになれるかしら?」
「あん……? 今じゃダメか?」
「……ダメよ、絶対に。大切な……とても大切なこと話がしたいの」
「おう……? わかった、もちろんいいぞ。お前の大切な話ならちゃんと聞かないとな」
「……うん。ありがとう。それじゃ、また明日ね」
「おう、またな」
◇
「…………ああ、もう……どうしてよ……あと少しで、言えたのになあ……」
右手の力が抜けていき、彼女の体が、地面に倒れた。
「ああ、……ああああ…………あああああああああ――――ッッッッ!!!!」
叫ぶ、叫ぶ、力の限り。
「あああああああ――――ッッッッ!!」
恐怖を振り払うように、現実から目を背けるように、ただ叫ぶ。
「なんで、なんだよ、誰が、こんなッ、なにがどうなってんだよッ、どうして……どうしてッ、なんでだよオオ、なんで……、ああああああ、あああああああァァアアアア――ッッ!!」
鬼のように、獣のように叫びながら、大切な仲間だった少女を殺した剣を引き抜いて、群がる鬼を斬り殺していく。
殺して、走って、逃げて、殺して、殺して、殺して、殺して……。
大切な、たった一人を守るために。
異形の群れから逃げ続け、狂乱の果て――先刻までの狂騒が嘘のように静謐に包まれた空間にたどり着いた。
丘の上になる、一番星が綺麗に見える場所。
村に顕現した地獄が嘘であったかのように。すぐ近くで起きていることなど、無関係と言わんばかりに。
そこから見える星空は、呆れる程に美しかった。
漆黒の空の中に浮かぶ星々、宝石を散らせたような輝く石。
もしもあれが《想星石》だとしたら、一体どれだけの想いを詰め込めるだろう。どんな想いが込められているだろう。
きっと、こんなことになっていなければ、その美しさで涙したかもしれない。
魂を失った抜け殻のような少年の代わりに涙するように、空では星が流れ始めた。
《星降り》の由来となった、流星の雨。
夜天を裂く輝線が。
夜天に咲く輝線が。
漆黒の夜空に幾重にも光輝の線引いて、鮮やかな輝きで彩っていく。
「こんな感傷は不要だとわかっているが……やはり、いつ見ても美しいな」
星空の下――その男は、当たり前とでも言いたげに、そこに立っていた。
青色の髪、全てを見透かすような冷然とした鋭い目つき。遠くで響く人ならざるモノ達の絶叫など雑音と言わんばかりに、涼しげな、何時も通りの表情で、その男は佇んでいる。
「……フィア兄ぃ……? なにやってんだ……村が、大変なことになってるのに……」
「ヒギリ――貴様の故郷を焼き払ったのは俺だ。
貴様の両親を殺したのは、俺だ。
貴様が妹と二人、生きていかなくてはならなくなったのは、俺のせいだ」
唐突に。
本当に、前触れなく、彼はそんなことを口にした。
「…………、あ?」
「村は予定通り、地獄と化したか? どうだ、俺の描いた悪夢の味は?」
「なあ……なんで、こんな時に……ふざけて……、いや……もう、あんたもおかしくなってんのか? 変、だな……どこも、鬼じゃないのに……全部、人間なのに……なんで……」
「――人も化物も変わらん、いいや、人のがいくらか醜悪かもしれんな。くだらん幻想に縋るな、ヒギリ。現実を受け止めろ。貴様の見たこと、聞いたことが真実だ」
「…………テメェ、次にフィア兄ぃのツラのまま、ふざけたこと言ったらぶっ飛ばすぞ」
「もう一度言う。現実を見ろ。俺がこの村を滅ぼしたんだよ。なぜだかわかるか?」
「……テメェ、いい加減にッ!」
駆け出し、拳を振り上げる。
「何度も言っているだろう。そんな温い拳は食らってやれないと」
ヒギリの放った右拳を、左手で外側へ払いのけると、今度はザフィーアがヒギリへと右拳を叩き込んだ。
体が宙を舞って、地面に叩きつけられる。
視界いっぱいに星空が広がった。
「見惚れるのは後にしろ。現実から目を逸している暇はないぞ」
いつの間にか眼前に立っていたザフィーアが、ヒギリを蹴飛ばして体を反転させた。
「しっかりと目に焼き付けろ」
刹那――ザフィーアは四本の氷柱を出現させると、ヒギリの四肢へと突き立てた。
「がッ、あッ、ああああああああああ…………ッッ!」
四肢それぞれが貫かれ、地面に縫い留められる。
「貴様の愛する妹の最期だ。目を背けず、見届けるべき義務があるだろう」
「……なにを、言って……」
意味が、わからない。
理解ができなかった。
だが、全てを拒絶して、空白のまま壊れそうになる思考を、強制的に現実へ引き戻す声が響いた。
「いや……やめて……なんで、フィア兄ぃ、どうして……いやァッ! やめてッ!」
ザフィーアがアザミの髪を乱雑に掴み上げて、ヒギリの前まで引きずってくる。
まるでモノを扱うように。
害獣の死体でも運ぶように、淡々と。
「やめろ……やめろ……ッ! アザミは……アザミだけは……! なんだよ、なんなんだよ! なにがしてえんだよッ!? 何が目的だ! 殺すなら……殺すなら、俺だけにしろよッ! アザミは、アザミは関係ねえだろ……アザミだけは……頼むから……、」
「この期に及んで、愚鈍極まりないな」
ヒギリの前へ、アザミの体が叩きつけられた。
「必要な生贄は一人だ。殺すのは一人で十分なんだよ。貴様は殺さん。だが……何度も言っている通り、妹が死ぬ様は見届けてもらう」
「やめろ、……やめろ……ッ!」
氷に縫い留められた手を、足を、強引に動かす。肉が裂け、骨が砕けて、血が滴るが、関係ない。四肢がぐちゃぐちゃになったまま、這うようにして進む。
「見届けろと、そう言っているだろう」
淡々と、歯車で出来た氷のように。
ヒギリを蹴飛ばして、再び氷柱を出現させる。
今度は、ヒギリの四肢全てが凍りついていた。
刹那、氷が砕け散り、四肢も粉々になっていった。
四肢全てが欠損し、まともに動くことが出来なくなっても、それでもヒギリは、凶行を止めようと芋虫のように這いずる。
「ザフィーア……テメェ……殺す……殺して、やる……」
「ああ、そうだ、それだよ。そこで憎悪を燃やしていろ――さて、終幕だ」
腰の刃が引き抜かれた。切っ先が、アザミへと向けられる。
「やめろよ……やめてくれ…………やめろ――ッッ!」
流星の中で叫ばれるその願いを、誰も聞き届けはしない。
本当に、ただの作業のように。
いとも簡単に、あっさりと。
ザフィーアが握る刃は、アザミの胸を貫いていた。
「…………あ、ああ……、」
「――そして開幕だ。この供物を以て、俺は世界を救済する」
「ああああああああああああああああああ………………ッッッ!」
絶叫が響き渡る。
喉が裂けんばかりに、叫び続ける。
「殺す、殺す、殺す殺すッ……テメェだけは、絶対に殺すッ!」
なぜあの男を殴り飛ばすための拳がない。そう思いながら叫び続けていた時。
ヒギリの腕に――あるはずのない、消え去った右腕があった場所に。
異形の腕が、現れていた。
残りの四肢も同様に、異形と化した再生した。だが関係ない。どうでもいい――今はただ、この男を殺すための手と足になるのならばそれでいい。
こいつを殺せれば、なんだっていい。
駆け出し、叫ぶ。
「ザフィーアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――――ッッッッッ!!」
咆哮と共に疾走し、異形をの腕を振り上げる。
「今はまだ、その時ではない」
心臓を抉り出してやるために伸ばした異形の手が、斬り飛ばされていたかと思えば。
体が、刃で貫かれている。
「憎悪の牙を研げ。俺を殺したいのならば、力をつけろ。相手をしてやるのに相応しい存在になった時、また俺の前に現れるといい」
刃が引き抜かれ、ゆっくりと倒れていく。薄れていく意識、その中で。
手を伸ばす。
異形となった左手を、
躯となった最愛の彼女に。
今宵の地獄は、これにて閉幕。
されどこれは、ただのハジマリ。
世界を地獄に叩き落としてでも、一人の男を殺すと誓った。
凄絶な復讐譚の、ほんの一端に過ぎない序章。