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2 プロローグ 約束の前夜、それぞれの胸に秘めた想い


「もぉ~~~~~~! お兄ちゃん! また寝坊!?」


 微睡みに突き刺さる、針金めいた声だった。

 きんきんと響く声で、曖昧な意識が強制的に目覚めへと引きずり出される。

 ぼやけた視界の中でも、その真紅の少女は鮮烈に輝いている。

真紅へと、焦点が合っていく。

 真紅の正体は、腰まで伸びる長い髪を、二房のおさげに。髪に近い赤色の瞳。強気そうなツリ目。背丈は、今目覚めた彼よりもずっと低い。痩せ気味の細い肢体、薄い胸、青白い肌。

 どこかちぐはぐな印象。見た目や態度、口調は、活発で強気そうだが、よく見ると触れれば壊れそうな脆さのある、儚げな雰囲気を纏っている。

 二人は兄妹だ。

 妹の名は、アザミ・シラヌイ。そして今起こされた寝坊助の兄が――ヒギリ・シラヌイ。


「……うぅー……ねむ。おはよ、アザミ。今朝は元気か?」


 ヒギリは問いかけつつ、起き上がると、洗面所へ向かい、顔を洗う。

 鏡に映る、いつも通りの顔と対面。そこにはぼーっとした見飽きた顔が、いつも通りに。 

 灰色の髪に、赤い瞳。普段は鋭く攻撃的な目つきも、今は燃え滓のように覇気がない。

 いつも通りの朝。やかましい妹、冴えない自分の顔、澄み渡る快晴の空。


「私はいつも元気だし、お兄ちゃんは今日もお寝坊さんのダメダメだよ」


 手早く身支度を整えていくヒギリの周りをうろちょろしている妹が言う。


「……ほんとかあ?」


 こつん――と、ヒギリは、アザミを捕まえて、彼女の額に自身の額をぶつける。


「いたっ、頭突き!? なんで、ひどっ!」

「起こし方が乱暴だったのと、ダメダメって言った仕返し」

「ちっちゃいこと根に持つなあ。…………とっ、というか! いつまで頭くっつけてるの? そんなに私のこと好きなの?」

「……恩も仇も利子つけて返したい性分なんでな。ああー、まあ大好き」

「……あぅ。……ふぅ~ん……、あっそー」


 アザミの頬が、彼女の髪色に僅かに近づくように赤く染まる。


「……よっし、熱ねーな。じゃ、俺はフィア兄ぃンとこいくけど、おとなしくしとけよ?」 


 くっつけていたおでこを離して、とんとんと彼女の頭を叩いてから、少し荒い手つきでわしゃわしゃと撫でる。真紅の綺麗な髪が広がる。


「言われなくてもしてますーっだ。子供扱いしないでよねっ」

「別に子供扱いはしてねーよ、心配なだけ」

「してるから。というか、それが子供扱いなの、過度な心配禁止ー」

「しょうがねーだろ、心配なんだから」

「……あっそー。ふぅ~ん……まあ、わかった。おとなしくしてるし、っというか、いつもしてるし。……帰りは? いつもどおり?」

「おう。いつもどおり。んじゃ、いってきます」

「うん、いってらっしゃい。……………………がんばってね」

「おう、がんばってくる」


 ぼそりと聞こえた声に頷き、扉に手をかけた。きぃ、と木製の扉が軋む。

 ひらひらと背後でこちらを覗いているであろう妹へ手を振りながら歩みだす。

 頬を撫でる穏やかな暖かい風。瑞々しい葉をつけた木々の隙間から注ぐ柔らかな日差し。

 豊かな自然に囲まれた村の風景は、今日も優しく彼を包んでくれる。

 《星降りの村・アステル》。

 『星降り』の名の通り、星を見るには最高の村だ。

 空気は澄んでいて綺麗だし、王都にあるという光属性の魔力を利用した魔道具による外灯なんてものもない。つまりは片田舎にある小さな村であるということだが、ヒギリはそれが気に入っていた。

 緑豊かで、人々は皆優しい。かつて暮らしていた場所とは大違いだ。前に住んでいた場所も、都会とは言い難いところではあったが、人の気性がまるで違う。そちらでの暮らしも、ヒギリは嫌いではなかったが。

 家を出てしばらく進んだ、小さな川に架けられた橋を渡った先、そこで声をかけられる。


「やぁ……ヒギリちゃん。……今日も……ザフィーのとこかい?」


 しわがれた声に、ゆったりと流れる雲のような優しい口調。


「うーっす。モースお姉さん、今日もお美しい。そそ、フィア兄ぃのとこ。今日こそは凱旋するぜ」


 腰の曲がった老婆に、ヒギリはそう返した。


「……あらやだねえ、ふふ……それじゃ、ほい、いつものね」


 ヒギリに投げ渡されるリンゴ。それを彼は片手で掴み取ると、勢いよく齧りつく。 


「んん~~、今日も美味いよ!」

「ありがとうねえ……。お姉さん、次はおまけするよ。……ヒギリちゃんがザフィーに勝ったら、さらにおまけだねえ~……」

「うぁっはは! ヒギリ、相変わらず上手いのう、しわしわババアにお姉さんたあよく言うわ!」

「…………あんたも少しは見習ったらいいんだけどねえ~~……」


 モース婆とヴリオ爺。彼らの作る果実は村でも評判で、二人はとても仲の良い老夫婦だ。

 村の人達は、ヒギリ達のとある事情を知っていて、知った上でとても良くしてくれる。

 老夫婦に手を振りつつ、目的の場所へと歩みを進める。

 いつも通りだ、何もかもが。

 いつも通りの、美しい光景。

 いつも通りの、優しい人々。

 そして。


 いつも通り――――妹の体は、病魔に侵されていた。


 確かに、熱はなかった。が、確かめたのは熱だけではない。彼女の体内を巡る魔力は、今日も異常を来している。

 難しい病気だった。長くないかもしれないと、何度も言われた。あまり例を見ない、治るかどうかもわからない、そんなヒギリだけではどうにもならないものであった。

 体が弱く、この村へ来てからは、まともに外の世界へ出たこともない。

 ぎゅっと右手を握りしめる。悔しさを噛みしめるように、強く、強く。

 今はどうしようもない。

 けれど、希望がないわけではない。


 妹を蝕む病魔ぜつぼうに怯えながらも、日々を生きていけるのは、その希望があるからだ。

 



「――来たか、ヒギリ」


「よう、フィア兄ぃ、今日こそ勝つ!」


「ははっ、抜かせ。十年早い」



 透き通る青空のような髪色の青年と、馴染みのやり取りを交わす。

 彼の名はザフィーア。

 ヒギリにとっての彼は――憧れであり、超えなければならない高い壁であり、彼ら兄妹を救ってくれた恩人でもあり。

 ――かけがえのない、希望を見せてくれた男であった。


 ◇


 激烈な踏み込みより砂埃が舞ったかと思えば、ヒギリはザフィーアの懐へ潜り込んでいた。

 引き絞られた拳が放たれるよりも以前、拳が引かれた時にはこう告げられていた。


「大振りすぎる、それでは食らってやれんな」


 ヒギリの右拳が放たれるよりも早く、迎撃の拳が放たれていた。

 踏み込みも、大げさな予備動作もない拳。威力だけ見れば、ヒギリが放つはずだったものよりも遥かに劣る。

 だがそれは、ヒギリが踏み込んだ先で、ちょうど彼の顔面が来るであろう場所を過たずに狙い澄まし、相手が前進してくる勢いも上乗せされる完璧なタイミングのカウンター。


「ぐ、がァ……っ、のォッ!」


 顔面にザフィーアの左拳を受けてもなお、ヒギリは拳を止めることはなかった。

 痛烈なカウンターすら捻じ伏せ突き進んだのだ、大抵の者であればこれは対処できないだろう。しかし――


「甘い」


 顔面を打ち据えていた拳が素早く引かれ、ザフィーアの胸元を捉えるはずだったヒギリの拳は、軌道が大きく逸らされた。


「――相変わらず、打たれ強さには目を見張るものがある。が、それだけでは俺は取れん」


 そのまま左拳を引いて、その勢いのまま左肩を引き、右肩を前に――回転の勢いを加えた右足が、ヒギリの足元を薙いだ。

 まるで地面が消えたかのような浮遊感。浮いた体へ左拳が振り下ろされ、ヒギリの体が大地へと打ち付けられた。


「……いってぇーッ! クソッ、ちくしょうッ、また負けた!」


 村の一画に設けられた広場の中、木の枝で線を引いただけの簡素な闘技場から、ヒギリの声が轟いた。


「何度も言っているが、思い切りは良い。一撃の威力も、打たれ強さもある。あとはそれの活かし方だな。どれだけ強い一撃を持っていようが、当てられないのなら宝の持ち腐れだ」

「じゃあどうしろってんだよ」

「考えろ。その負けん気は買うが、想いよりまず理を想え。その思考は、お前の糧となる」

「教えるのめんどくせーだけじゃねえだろうなあ?」

「はは、さあて、どうだろうな? それも考えてみろ」

「だーっ、クソ! もっかいだ、もっかい!」


 跳ね起きて構えるヒギリの頭を――、


「次ァオレだアホ、雑魚はさっさと退け!」


 ――背後から伸びた手が小突いた。


「……あァ? 誰が雑魚だって?」


 ヒギリを小突いたのは、彼よりもさらに凶悪な顔つきの少年。

 翡翠色のボサボサの髪、鋭い目つきに、獣めいた鋭い歯列。

 彼の名はヴァン・シュトゥルム。

 ヒギリよりも好戦的――どころか、頭の中には戦いしかないと言っていい。

 ここでこうしていなければ、村の外で獣なり荒くれ者なり魔物なりに、手当たり次第に戦いを挑んでいるであろう程の、狂人と表しても間違いない気質を持つ青年だ。


「テメェだよ、テメェ! この埃頭!」

「んっだとッ、この野郎てめぇ! 抜いて燃やすぞ、雑草頭!」

「……雑草だとコラ、テメェ」

「誰が埃だてめぇ……」


 灰色と翡翠色。

 互いの頭髪を揶揄した罵声をぶつけ合い、にらみ合う。



 

「はーいそこまで――――っっ! みっともない子供の喧嘩はやめなさいっ!」



 

 ゴッ、と鈍い音を鳴らしたのは、ヒギリとヴァンの頭へ振り下ろされた拳骨。

 鉄槌を下したのは、一人の少女。

 水色の髪を後ろで一つにくくっている活発そうな少女。

 優しげに微笑みを浮かべ、一見柔和そうであるが、たった今起こした行動からも分かる通り、彼女は見た目ほど柔和でない――どころか、ヒギリやヴァンと同じく、苛烈な部類に入るだろう。


「リウビア、てめえ、兄貴ぶん殴るとはどういうつもりだコラ」


 髪色はザフィーアに近い青系統だが――彼女はヴァンの妹リウビア・シュトゥルム。


「おい、コラ、ヴァン、テメェ、妹に凄んでんじゃねえよ、妹は大事にしろっていつも言ってるだろいつになったらわかんだアホ馬鹿ヴァン」

「あァ? 知るかっつぅーの燃え滓、てめえの妹じゃねえだろうが、アァ?」

「俺の妹かどうかは関係ねえよ。兄貴ってのは妹守るもんだっつー当然のことを言ってんだコラ! んなこともわかんねえのか、あぁ!?」

「だー、かー、らー……喧嘩するなって言ってるよねぇっ!?」


 ゴツンッ! と一際大きな音が響いて、二人の男が、少女の足元に倒れた。


「兄さんはアホすぎ。ヒギリは……まあ、ありがと。でも、結局喧嘩になってたし、ダメね、アホすぎ。二人ともアホすぎ! ……ねえ~~、フィア兄ぃ?」

「ああ、相変わらずだな」

「あーあ……私、やっぱりフィア兄ぃの妹だったらよかったのになあ」

「ハッ、オレだっておめーみたいな生真面目ゴリラよか、アザミかノーチェみてーな女の子らしい妹がよかったっての」


 ヴァンの言葉に、リウビアの表情が僅かに曇った。

 一瞬。ほんの一瞬の変化であったが、ヒギリはそれを見逃さなかった。


「おい待て、ヴァン、コラ! いくら可愛いからってな! いくら可愛いからってなあ! いくら! 可愛いからってなあ! アザミは絶対やらねえぞ!」

「例えだっての! 三回も言うんじゃねえうるせえよ! いい加減妹離れしたらどうだ!? この妹馬鹿が!」

「ハッ、馬鹿で上等だっての。妹馬鹿だあ? そんなこたあな、当たり前なんだよ! それがおかしいっつーんなら、俺ぁおかしくて構わねえ! 妹離れ? 知るかボケ、俺ぁ一生アザミを守んだよ! っつーかお前、前から思ってたけどもっとリウビアには優しくできねえのか?」

「あァ? だからなんでてめえにそんなこと……、」


 そうしてまた始まる二人の言い争い。

 リウビアとザフィーアは、顔を見合わせる。リウビアが肩をすくめ、ザフィーアがため息をついて薄く笑った。

 二人の言い争いを、リウビアの背後から恐ろしそうに見つめている少女がいた。

 真っ黒い足元まである長く艶めく髪。少し長い前髪から覗く暗い瞳。

 普段の表情は乏しい。何を考えているのか読み取り難いぼーっとした表情のことが多いが、、しかし、今は違った。その視線は妙に熱っぽく、一点に注がれている。

 そこから読み取れるのは恋慕――というより、崇拝や敬愛、執着……とにかく並々ならぬ想いをヒギリに抱いているようだ。


「ノーチェ、あんま見ないほうがいいわよ、馬鹿がうつるわ……」

「……ですが、ヒギリ様が……心のままに、楽しそうですし……」


 リウビアの言葉に、途切れ途切れの小さな声で返した少女は、嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 彼女が先程も名前が出ていた少女、ノーチェ・トリウィア。

 彼女の手のひらに、カタカタと音を立てて歩く、小さな黒い蜘蛛が。


「わっ……ノーチェ、なにそれ……!?」


 どうやら虫は苦手なようで、リウビアは青ざめて後ずさりしていた。


「またお父様から発掘された《遺産》を譲っていただいたのです……可愛いでしょう?」


 黒い蜘蛛はカタカタと音を立てている。魔導器の一種だろうか、リウビアに蜘蛛の仕組みはわからないが、精巧な作りのそれは、本物でないようだが、それでも恐ろしい。


「そ、そうかしら……ごめん、ちょっとわからない……」

「そうですか……こんなに愛らしいのに」


 ノーチェは指先で蜘蛛をつつくと、再び視線をヒギリへ戻した。

 ヒギリとアザミ、ヴァンとリウビアの二組の兄妹。

 そして、とある事件をきっかけにこの輪の中――いいや、外側にそっと入り込むようにして、ヒギリを見つめ続ける少女、ノーチェ。

 そして皆のまとめ役で、年長者で、憧れで、戦いの師であるザフィーア。

 この六人は、もうずいぶんと前からずっと一緒だ。

 アザミはあまりここへ来ることはできないが、皆いつも彼女を気遣ってくれている。

 ノーチェは新参だが、リウビアやアザミには気に入られている。

 ヒギリ、ヴァン、リウビアは、それぞれの理由で強さを求め、ザフィーアに師事している。

 ザフィーアは王都の《星導騎士団》にも頻繁に協力を求められる凄腕だ。

 もうすぐヒギリ達も、ザフィーアの後を追って王都で行われる騎士団への入団試験を受ける。

 ヒギリの夢――いいや、目的は騎士団に入って誰よりも功績をあげ、少しでも早くアザミの病気を治すこと。

 それが、ザフィーアに見せてもらった彼の希望で、もう少しで手が届きそうな――是が非でも掴み取らなければならないものだった。


 ◇


 相談がある――なにやら神妙な面持ちのヒギリにそう言われて、リウビアの心は高鳴った。

 不意打ちだった。いつもの稽古が終わってからの呼び出し。ちょうど彼女も、同じように彼を呼び出そうと思っていたところにこれだ。運命めいたものを感じて、期待をしてしまうのも無理がないだろう。

 そういった幻想を生み出しやすい、少女特有の状態をなんと呼ぶのか、彼女はまだよく知らない。

 フィア兄ぃの妹だったらよかったのに……とは、彼女の口癖で、先刻のやり取りも似たようなことを繰り返している。

 ヴァンの妹で、ザフィーアに憧れていて――けれど、×をしているのは……。

 少女の淡い期待は、あっさりと打ち砕かれた。


「ありがとな、二人共」

 

 呼び出されていたのは、ノーチェとリウビアの二人だった。


「……はぁ~……」


 大げさなため息が出てしまう。


(二人きりで、とは一言も言ってなかったわね……)


 リウビアは思う――ノーチェは、とてもいい子だと思う。大人しいく物静かで、あまり自分の考えを人に伝えるのが上手くないが、とても優しくて、賢くて、女の子らしく、可愛いところがたくさんある。

 きっと男が好くのは、こういう子なのだろうなと、リウビアはなんとなく察していた。


「どうした、リウビア」


「別に……。そっちこそどうしたのかしら? 兄さんやフィア兄ぃを呼び出すならまだしも、私達になんの用?」

「わたくしは、どのようなご用向でもかまいません。それがヒギリ様の心からのお申し付けであれば、どのようなものでも」


 木陰に佇むノーチェが、スカートの裾をつまみ、片足を軽く曲げ、もう片方の足を引いた。

 彼女の身を包むのは漆黒の生地に大量の白いフリルがあしらわれたワンピース。かなり高価であろうそれは、彼女にとても良く似合っていた。

 彼女自身の美貌、身を包む美しい衣服に、流麗な所作。なんでもないような朴訥な場所も、彼女を加えれば、それだけで鮮やかな絵画のようだ。


「ノーチェ、だからお前は別に俺の従者じゃないんだからさ……」

「申し訳ございません。ですが、わたくしのこの体も、心も、全てはヒギリ様のために……これがわたくしの、心からの願いなので」

「あー……、」

「また始まっちゃったわね」


 かつてヒギリは、ノーチェを救ったことがある。その一件以来、彼女はこうして全てをヒギリに捧げると誓い、大げさで過剰な忠誠心を見せてしまう。

 ヒギリとしては、彼女の好意は不快ではない。彼女のような美しい少女に好かれて嫌な訳がない。だが、ヒギリは彼女とは対等の関係でいたかった。

 どうにも彼女ような高貴な女性が、自分のような平凡な人間にへりくだるのは落ち着かない。

 ノーチェの家はとても裕福で、本来ならここでこんなことをしているような身分ではないはずなのだ。

 それでなくても、ヒギリに女性を傅かせたいという願望はないし、叶うのならば誰とでも関係は対等なものが好ましいというのが信条だ。勿論、ザフィーアのような尊敬できる人間にはそのように接する。いつかは彼に追いつきたいという気持ちもまた真実ではあるが。

 対等でいたい。しかし、彼女と過去にあったある一件から、彼女の心からの願いをヒギリは否定することができない。


「……とにかく、二人に相談がある。こればっかりはフィア兄ぃやヴァンには聞いてもしょうがないんだ。アザミのことなんだが……」

「貴方、まさか……ついに……」

「なんだよ」

「妹のことを、一人の女として……」

「そんな、ヒギリ様……。ですが、どれほどの背徳に落ちようとも、決してわたくしが貴方へ抱いた想いは損なわれません……!」

「いやいや、ねえーって。リウビア、妄想がすぎるぞ。変な本の読みすぎじゃねーの? 大丈夫かよ?」


 心底呆れたような顔になるヒギリ。リウビアとしては、この男にそんな目を向けられるのは甚だ不本意であった。


「……う、うるさいわね。変な本なんて読んでないわよ、貴方じゃあるまいし。で、アザミちゃんがどうしたの?」

「もうすぐ《星降りの夜》だろ? たぶん、俺達みんなで集まって過ごせる最後の《星降り》だ。それに、アザミは《星降り》が誕生日だ……だから、アザミに何かプレゼントをしたいんだ。しばらく離れてても、いいように、何か……今年は、特別なものにしたい」

「……だったら決まってるでしょ?」

「え?」

「ええ、決まっていますわ」


 にっこりと笑った二人の少女は、悩める男に助言を施した。

 言われてみれば、とても簡単なことだった。

 こういうことはやはり女の子には敵わないなと痛感すると共に、ヒギリは二人の頼れる友人に感謝する。

 彼女達がいなければ、こんな簡単なこともわからなかっただろう。

 妹の喜ぶ顔が、今から目に浮かぶ。

 もうすぐ妹を置いて、この村をでなければいけない。別れも、彼女を一人にしてしまうことも、辛くてたまらない。だが、騎士となって、彼女の体を治す方法が見つかれば……。

 幼い頃から、元気になったらしたいことをいくつも数えた。いろいろな町へ行きたい、冒険がしたい、一緒にしたいことは、星の数ほど。

 だから、少しの別れも、その先の未来を思えば耐えられる。

 この別れは、寂しいだけのことでは、ないのだから。

 妹の笑顔を思い浮かべると、約束の夜が待ち遠しくなっていた。


 ◇


 静かな部屋の中に、ペンを走らせる音だけが響いていた。


 今朝、お兄ちゃんがおでこをくっつけてきた。

 顔がすっごく近くて、睫毛の長さも、瞳の色も、唇の艶めきも、とてもよく見えてしまって、私は心臓の高鳴りが聴かれてしまっていないか心配で、そのドキドキが、また胸を高鳴らせてしまって。

 お兄ちゃんは、いつも私をそうやって驚かせる。

 まったく本当に、ヒギリには困ったものだ。なんてね。

 普段は決して口にはしないけれど。

 ヒギリ。たまに、たまにだけど、心の中でだけは、貴方のことを名前で呼んでいるの。

 この気持ちは許されないものだけど。

 おかしいのかもしれないけれど。

 フィア兄ぃなら、優しく間違いを諭してくれるかもしれないけど、リウビアやヴァンに知られたら、きっと気持ちが悪いと言うだろうけれど。

 でも、でもね。

 ねえヒギリ、私はね、貴方のことが、


「…………ああ、いけない! ダメ、ダメ、ダメダメ、こんなの、ダメだよもうっ!」


 筆が乗ってしまうと、隠し続けていた想いを記してしまう悪癖は、何度やっても治ってくれそうにない。

 アザミはペンを持ち替え、今まで使っていた赤色から、黒のインクで一部分を塗りつぶす。

 それから再びペンを持ち替え、再び赤色の文字を綴っていく。

 ――赤色のそれは、アザミの血液だ。

 血で兄への想いを綴る。事情を知らない者にはさぞ奇異に映るかもしれないが、これには訳があるのだ。

 血液は、《想力》を込めやすい。

 かつて兄にねだって買ってもらった一番のお気に入りのペンで、己の血をインクにして、兄への想いを綴っていく。

 想いを込めた紙片を、複雑な魔法陣が刻まれた石版の上に置く。

 そして、とても綺麗な赤色の石、紅玉ルビーめいた輝きを放つそれに優しく口付けをする。

 火の魔力が通った小さな《想星石メモリア》を、紙片の上に置く。

 ぱっ、と花咲くように点火し、紙片は燃え広がって赤色の輝きを放つ。

 紙片が。紅玉のような石が。美しい炎と光に包まれて――それら全てが凝縮されていくように一点に集まる。

 点火のために使ったものよりも一回り大きく、さらに激しく輝きを放つ新たな《想星石メモリア》が出来上がっていた。


 ――《想星石メモリア》。

 それは、人の記憶が込められた結晶。

 アザミは今、兄への記憶を、この結晶へと閉じ込めた。それで記憶が失われているわけではない。ただ、記憶の在処を移し替えただけ。だが、これで込められた《想力》を使うことができる状態にはなっている。

 この世界を脅かす悪しき存在、《魔星獣》。単に魔物とも呼ばれることも多い。

 そして、人類の脅威と戦い世界を守る存在《星騎士》。

 《魔力》も《想力》も、《騎士》が使う力という点では同じだ。

 《想力》には大きな代償が伴うため、その分強い力を行使できる。

 魔力に記憶を込めたものが《想力》。

 それを使えば、込めた記憶は消えてしまう――それが代償だ。

 たった今作った《想星石メモリア》。ここへ込めた《想力》を使って魔術を行使すれば、大きな力となるが――込めた分の、アザミのヒギリに対しての記憶は消えてしまう。

 しかし、《想星石メモリア》にはただ強大な力とする以外にも様々な使い方があるのだ。

 例えば、込めた想いを他者に伝えること。それだけなら、記憶が消えることはない。

 アザミはそのためにこの真紅の石を作ったのだ。

「大丈夫、だよね……。見られちゃダメなところは、ちゃんと消したよね……?」

 《想星石メモリア》に記憶を込める時は、その記憶を強く想起することが大切だ。

 方法は様々。それこそ、想いを表現する数だけ存在している。歌にしてみたり、絵に描いてみたり、どんな方法でもいいのだ。

 アザミがやっていたのは、最も基本的なやり方の一つで、込めたい想いを紙に綴り、それを燃やすというもの。

 モノにも《想力》を込めることができる。想いを綴った紙には力が宿り、その力が結晶となって出来上がったのがこの《想星石メモリア》だ。

 血のインクも、完成度を高めるための工夫だ。これも方法としては基本ではある。

 しかし、『血液』という有限かつ貴重で、生存に必要なものを使うというのは、なかなか入れることのない一手間だでもある。それだけ込めた想いが大切なものであるということを物語っていた。

 出来上がった《想星石メモリア》にも、優しく口付けをした後、胸に抱き寄せ、強く握りしめる。

 《星降りの夜》が近い。

 その時ならば、普段は恥ずかしくて伝えられないようなことを伝える勇気が出るかもしれない。

 人は星に願う。

 流星には、願いを叶える力があると言われている。《星降り》は、その名の通り雨のようにたくさんの星が流れる日だ。

 伝えたいこと。

 願いたいこと。

 この胸に星のように広がる数多の想い。

 大切な人達が、この村を去ってしまう前の、最後の《星降り》。

 兄とは、これからしばらく離れ離れになってしまう。体の弱いアザミは、王都へついていくことはできない。

 ――伝えたいこと、まだたくさんあるなあ……。

 これまでずっと守ってきてくれたことへの感謝。

新しい場所でも兄ならば絶対に上手くやっていけるということ。

いつも語っていた、誰よりもすごい騎士になりたいという夢は、きっと叶うということ。

自分のことを気にかけてくれることは嬉しいが、そんなこと気にせずに、ただしたいように、もっと自分のことを優先してくれてもいいのだということ。

その上で、いつか自分の体が治ったのならば、かつて交わしたたくさんの約束を果たしたいということ。

 冒険がしたい。世界中を見て回りたい。世界は魔物で溢れ、悲劇に溢れ、危険も付き纏うだろう。それでも、だとしても、悲劇だけではないはずだ。

 美しいものも、たくさんあるはずだ。この村で一生を終えたらわからないような、たくさんの美しいものが。勿論、この村にだった、たくさんの美しいモノや人があった。長閑な景色も、鮮やかな星空も、かけがえのない宝物だ。それと同じくらい素晴らしいものが、世界には溢れているはずだから……。

 それから……それから……一度考え始めると、堰を切ったように溢れ出す願いごと。


 《星降りの夜》までの間、込められるだけ込めようと、アザミは再びペンを取って、溢れてくる想いを綴り続けるのだった。


 ◇


 ひとしきりに思いの丈を紙片にぶつけた後、アザミは地図を取り出して机に広げた。




 冒険を夢見る彼女は、こうして村の外に広がる世界へ想いを馳せるのが日課だった。

 どんな魔物が、どんな景色が、どんな冒険が……外の世界のことを考え始めると、想像が尽きない。

 果ての森の向こうには、何があるのだろう? あの海の向こうには?

 想像の翼は、この地図に収まるレクエルド大陸の外にまで広がっていく。

 だが、穴が空く程眺めた地図の一点にだけは、アザミは視線を向けることはなかった。

 《王国指定禁忌領域》――そこは、アザミとヒギリにとって思い出したくない……しかし絶対に忘れることができない記憶に纏わる場所だった。




 日が昇り、沈み、夜になれば月と星々が顔を出す。

 それを何度か繰り返し、その度にアザミの想いが積み重なる。

 ヒギリもまた、来るべき日への準備を重ねていた。

 そして――《星降りの夜》に想いを伝えたいと考えてるのは、二人だけではなかった。

 リウビアもまた、秘めた想いを伝えようとしていたのだ。


「……ねえ、ヒギリ……《星降り》の時、少しだけ二人だけになれるかしら?」


 ヒギリは鈍い。頭の中には、妹のことと、強くなること、そればかりで性根はいつまで経っても子供のままだ。だが未熟なのはリウビアも同じ。こういう時、なんと言ったらいいかわからない。だから正直に、あまりにも直接的に、「二人だけに」などと言ってしまった。

 さすがにこれではもう、その先を伝えてしまっているのも同じだろうかと、リウビアが顔を赤くするも、


「あん……? 今じゃダメか?」

「……ダメよ、絶対に。大切な……とても大切なこと話がしたいの」

「おう……? わかった、もちろんいいぞ。お前の大切な話ならちゃんと聞かないとな」

「……うん。ありがとう。それじゃ、また明日ね」

「おう、またな」


 そう言って、二人は別れた。《星降り》前夜のことであった。

 相変わらず鈍い、あそこまで言ってもまだ察しがついていないらしい。まったく、どうしてあんな男を……と考えて、リウビアは笑みを零す。きっかけは、出会った頃のあの出来事だろう。我ながらなんと単純とは思うが、こうなってしまってはしかたがない。

 彼女は想う、それを告げた時の彼の顔を。

 アザミのことで大変な時だ、それを理由に断れるかもしれない。

 やっぱり、ノーチェのことを……という懸念もある、これが一番高い可能性だろう。

 そもそも、アザミもノーチェも関係なく、自分では彼の心を掴めないかもしれない。

 でも、いいのだ。

 リウビアには夢がある。

 立派な騎士になるという夢が。

 これはその夢へ進む前の儀式。

 人生の大きな転換点を迎える前の区切り。

 結果がどうなるにせよ、ここで気持ちに決着をつけていれば、自分は夢へ進める気がした。

 受け入れられずとも、ならばもう自分には夢しか残されてないと、ただ進むだけよくなるのだから気が楽だ。

 それに、もしも、彼が応えてくれるのならば……。

 彼の夢だって、リウビアと同じ道のはずだ。彼と共に、夢へ歩めるのなら、それはどれだけ素敵なことだろう。


 ただそこで静かに輝く星に、リウビアはそっと願った。

 その星が、流星でないのだとしても、強く強く願った。

 


 この時、彼女はまだ知らなかった。

 先程交わした会話。

 

 それは、今のままの・・・・・彼女と彼が交わせる、最後のものであったことを。

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