1 プロローグ 開幕の前に/地獄の底での微睡み
――男は、地獄の底で微睡んでいた。
その場所は地獄と言って差し支えないだろう。
地の底を照らすのは、か細い月光のみ。薄暗く、石の床は硬く冷たい。鼻を突く腐臭。到るところに、黒く変色した血や腐肉がこびり付いている。
だが、暗闇も、冷寒も、腐臭も――鉄格子が軋んで開き、入り込んできた化物も、なにもかも、男にとっては、どうでもいいことだった。
「ギギィ!」
「ギィァ!」
不快な金属音と呻き声で、浅い眠りから引きずり出される。
男は視線を上げた。鋭い眼光が、化物を射抜く。
化物――赤黒い肌、落ち窪んだ瞳。矮躯に見合わぬ異様に発達した手足の筋肉。口端から伸びる鋭い牙。一見、人とも取れるが、決定的に異なるのは頭から生えた黒い角。
鬼であった。
それも、十は下らない。一体の鬼が、石の壁を殴りつける。砂煙が舞って、砂礫が飛ぶ。膂力を誇示した鬼が金切り声を上げ、呼応するように周囲の鬼達も叫ぶ。
男がゆっくりと息を吐いた。眼前に迫るの鬼の声に対し、それをどこか遠くで微かに耳にしたかのように、緩慢な反応を見せる。
「そう焦らなくてもいいぞ」
じゃらり――鈴の音めいた響き。男の手足を戒める枷から伸びる、鎖の音。
じゃらり、じゃらり――と。立ち上がり一歩進む度に冷たい金属音が響く。
「……すぐに全員、殺してやるから」
男が左手の指を折り曲げていく。一本ずつ、ゆっくりと丁寧に、憎しみを握りしめるように指を折り曲げ拳を作る。
その拳は、赤黒く変色していた。血が付着しているから――というだけではない。拳に連なる腕も、同様に男の他の部位のような肌色ではない。
全てが瘡蓋に覆われたような、罅割れた左腕。
明らかに、人のモノとは思えなかった。
人よりもずっと、鬼に近いような。
鬼よりもずっと、醜悪にも見える。
拳を振り上げる。
鬼が男目掛けて飛びかかり、鋭い爪を突き立てようとする。
「――大振りすぎるな、そんなもんは食らってやれない」
鬼の爪が到達するよりも先に――最短距離、最高効率での拳打。腰の捻りは小さく、脱力から繰り出されたそれは、決して彼の全力の一撃ではない。むしろ逆、ただ最速で当てるための拳で――鬼の頭部が爆散し、鮮血が弾けた。当てるのみで十分。それほどまでに、男と鬼達の力は隔絶している。
「ギ、ァ――?」
疑問系の断末魔だったように思える。
己の死に、何故とでも言いたげな。
男は鬼の躯を蹴飛ばし、別の鬼へぶつける。怯んだそいつへ駆け寄り、拳を振り抜く。
再び鮮血が飛沫を上げた。
――真紅の鮮血。
真紅。月光が照らし出した真紅を目にして、脳裏に先程までの微睡み、その中で見ていた夢が浮かんできた。
また、同じ夢を見ていた。
満たされない。こんな掃いて捨てるような戦いでは。
乱雑な作業のような、こんな殺戮では、断じて満たされない。
我が拳が求める血は、このような卑小なものではない。
鬼を殺しても満たされぬ。
人を殺しても満たされぬ。
殺すべきは、英雄だ――――あの英雄を、殺さなければならない。
男は、夢に想いを馳せる。
襲い来る鬼達を、ただ作業のように潰しながら。
先程まで見ていたいつかの遠い大切な記憶に。
同時に――消し去りたくとも、決して消えない悪夢に。
微睡みに落ちるように、縋るように、記憶を揺り起こす。
男は、全てを奪われ――復讐を誓った。
地獄の底で鬼を殺す男の名は、ヒギリ・シラヌイ。
世界が待ち望んだ救世主――絶対の正義たる英雄。
――――その英雄を、殺すと誓った男だ。