4話 茎放美競刃さん③
男が電話を止めた瞬間、確保しようとつま先に力を入れた時、静まり返ったフロア内に、パシャンと水が跳ねる音が虚ろに響いた。
「だれだ!」
突如獰猛な目つきとなり音が聞こえた先を睨みつける男。
室内灯をつけられると、闇の中から凄惨たる光景に呆然と立ち尽くす少女の姿があった、落としてしまった紙コップから赤黒い飲料水が溢れ広がっていく。
「これは……なんなの……」
(アイツ……!)
「おやぁ、試験体が逃げ出したのかと思えば、さっきのお嬢ちゃんじゃないか、いけない子だねぇ、こんなところまで来ちゃって……、一人じゃないだろ? 一緒にいたお兄ちゃんはどこだ?」
放心気味の姫奏の腕を逃さないように乱暴に掴んでは返事も待たずに、一刻も早くここから連れ去ろうとする。
その時、怯えた表情で見上げる姫奏をよく見て。
「おや、お嬢ちゃんもよく見たら目の色が違うのか、ふふん……まぁいい、お嬢ちゃんは人質だ」
そう言ってニタリと醜悪な笑みを浮かべると、そのまま奥の個室に連れていかれて、鉄製の扉を締め、カギを掛けられる。
その部屋は、窓すら無く、狭く汚れた石畳に覆い尽くされ、汚れた湿っぽい空気に包まれており眉が潜まる。
「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――!!!!」
その中央の台座には両手足を冷たげな鉄製の枷に嵌められ監禁されたような状態の妊婦が、劈くような絶叫を迸っていた。
その声は、怒りと、悲しみに包まれていて、フロアを埋め尽くす乳児の死体以上の衝撃を姫奏に与えた。
「あっ……! おじさんっ、あの人、赤ちゃんが生まれそうだよ、早く助けなきゃ!」
「じゃあ、お嬢ちゃんが取り上げてあげな」
「えっ――っ!?」
育成マニアといえど、人間の産婆の経験は未だに無かった。
しかし、危機的状況であり、育成マニアとして避けては通れないこの状況は姫奏にとって極まりない経験となる状況ではあった。
そして、決断する。
「わたしが、やる!」
「ほう……」
男にとっては、どうせ産めば死ぬ運命の母体であり、生まれた子も、取引先の人間に渡すまでの間生きていれば良いと、ある程度の時間稼ぎが出来れば良いと考えただけに過ぎず、姫奏がどうこうしようと結局無駄なあがきであると知って、けしかけたに過ぎない。
俗世から隔離されたような、暗く穢れた部屋も男にとっては見慣れた場所なのかもしれないが、幼い彼女が、この苛烈な空間で精神を保ち気持ちを切り替え動けることへ対しての非凡な才能に彼は気がつく事は無かった。
そんなことよりも、近くに必ずいる同行者の男の方が気になっていたくらいだ。
(保護者のあのあんちゃんはどこだ? すぐに飛び出してこないところを見ると、冷静な暗殺者か……、腰抜けか……。どちらにせよ、ここを見たものは生かして返さん、ゴミ袋を動かした形跡があれば誰かが確認に入る決まりだからな、今頃見つかって殺されてるかもな)
男は浅く椅子に腰掛けると、懐からタバコを出し、一服吹かしながら姫奏の動向を見守る事にした。
「おばさん! 赤ちゃん産まれそうだよっ! 頑張れる!?」
「ひぐっ――!? ああぁっ!?」
妊婦のひっそりとした手首には、鉄の枷が柔らかな皮膚を摩擦し血が流れていた。その手を包むように支え声をかける姫奏だったが、直後衝撃的なことを告げられる。
「殺してッ!! 私はもうだめだし、この子ももう駄目なのッ!! 生まれてきても異形の姿でぇ……ッ!! だったらッ!! 生まれてくる前に殺してあげたほうがこの子の為なのッッ!!」
「ッ!! 駄目だよ!! そんなこと無い!! わたしがっ、わたしが赤ちゃんも、あなたも助けるから!! 弱い気持ちに負けないで!!」
必死で呼びかけ対応する姫奏を、半笑いで見守りながら、一本目のタバコを捨て2本目に火をつける男。
母親の言うとおり、死なせてあげることがこの場の最善であり、それを救おうとすることなどエゴなことだと、男は思っていた。
「あなたは……」
「わたしは、姫奏、マニア城の!」
「けてマニアの……? 私、もしかして……ひぐっ!」
マニア城の者と聞いて、僅かに安堵の表情を見せる、この世界でマニアの存在は大きく、更にマニア城の住人とまで聞けば、不可能を可能にする希望さえ見えてくるのだ。
「そうだよ! ふくべぇさんが……そうだ、携帯で……あれ、電波がない」
「ははは、当たり前だろ、ここは特殊な地下だからね、助けは呼べないよ」
マニア城の住人と言えど、肝心な城主かみやふくべぇを呼び出せないと知り、眼の前にいるのは自分の年齢の半分にも満たないであろう、頼りない5歳の少女。
妊婦の女性の表情が曇っていく。
「大丈夫……! わたしが……わたしだけでも、あなたを救ってみせるから!」
「うぐぅぅあ゛ぁぁーーーっ!!」
その時、女性の身体が大きく跳ねた、完全破水したのだ。
素早く股ぐらへ移動し赤ちゃんの受取体勢に入る姫奏、胎児の頭が見えてきて、じわじわと出産は進んでいく。
「あ、頭見えてきたよ……! もう少しっ!?」
胎児が産道をぐっと下がってきて、降りてきているのは、母親も感じている様子だった。
どんな形であれ、もうすぐ我が子と会えると思えば、少しだけ力が湧いてくる様だ。
だが、髪の毛が見えた辺りで、止まる。
(奥底で止まっている、なにか引っかかっているの?)
「くっくっく……」
違法農薬で生まれてくる子供は、全て完全な異形体で生まれてくる、その姿は時として人の形からかけ離れることもしばしばある、手足の数が異常に多かったりすることもある為、ここでは基本的に自然分娩は行われず、麻酔をかけないで帝王切開を行い無理やり胎児を取り出され、妊婦はそのまま絶命する。
姫奏が真面目に自然分娩を試そうとしている姿は、今までの経緯を見ていた男にとって滑稽で笑いを堪えるのに必死の様子だ。
「もう少しだよっ! 頑張って!」
「あぁぁぁあぁぁぁっ!! 痛い! 痛い! 痛い!」
「――――っ!!」
陣痛が来るたびに、悲痛な声を上げる女性、このまま産道に詰まったままでは息もできず母子ともに危険な状態になることなど目に見えてわかる。
「はぁ……、もう諦めな? 死んだんだよ、母親の方も段々おとなしくなってきた、それによ、生かして取り上げてどうするよ? その引っかかり方は腕が4本くらい出来てるパターンだな、そんなガキ生きてても見世物になるだけだ、母親も嫌だろ? そんなのが自分の腹から出てきたらよぉ」
ふぅーとタバコを吹かしながら、諭すように言う。
分娩室の中は、過去に無残に葬られた亡き骸の腐った肉の匂いと、タバコの煙が混ざった異臭に包まれている。
「おばさん! しっかりして! あんなおじさんの言うこと聞いちゃ駄目だよ! おばさんはお母さんなんだよ! 生まれてくる赤ちゃんはどんな子でもかわいいよね? もう少しだから……頑張ってよ!」
それはまるで、半分は自身に言い聞かせるような悲痛な叫びだった。
姫奏の呼び声に、女性は涙を流した、その涙の意味するものは、必ずしも姫奏の思いと一致するとは限らない……。
「だったら……! わたしが育てる! どんな子でも……わたしは育成マニアなんだ……!」
凛とした意志を崩すこと無く訴える姫奏に対し、妊婦の女性は声を殺し、その双眸からは涙がとまることなく流れていた。
生まれてくる子の残酷な運命を悟り、ただ悲痛な悲しみに満ちた涙。
「はぁ……、大体なにが育成マニアだ、まだお嬢ちゃん子供だろ? 子供なら、大人しく、家でママに甘えていればよかったものを……」
男にとっては、育てられる立場にある子供が育成を語る事が可怪しかった。
静寂に包まれた部屋で、男のぼやきを、背中で聞いていた姫奏が、静かに語り始める。
「わたしのお母さんは……、わたしを産んですぐ、カルマで死んだ……」
その言葉に、軽く舌打ちをし、黙って耳を貸す男。
カルマ病とは……この世界特有の病気で、魂が衰弱死する奇病である、致死率は100%でかかると必ず死ぬ、特効薬もない。
「お母さんは、占いマニアで、この世の最果てまで占う事が出来る凄い人だって聞いたよ」
「占いの力で、わたしがどんな人生を歩み、どんなふうに生きていくのかもお母さんはわかったはず」
「だけど、そんなお母さんが叶えたかった願いを私は覚えている……」
『占いの結果でなく、自らの目で、娘の成長を見定めたかった、と――』
それは、自身が生まれる以前、まだ胎内にいる頃の記憶、母が、父に向かって泣きながら訴えた言葉を聞いていた。
「だからわたしは……、この星の生まれてくる全ての命を育てる事が出来るくらいの、育成マニアとして――!!」
その時――、姫奏の叫びと同時に、妊婦の女性から部屋を静寂貼り破る産声が聞こえた。
「産まれた!?」