君の珈琲はまだ上手に淹れられない
三人で暮らす家のキッチンには沢山のお茶の為の材料、それから器具が揃えられている。
それを全て揃えているのは、キッチンを自分のお城にしている俺のお嫁さんだ。
多種多様の紅茶の葉に、多種多様の珈琲豆を眺めて、短く溜息を吐く。
紅茶を茶葉から、珈琲を珈琲豆から、そんな風に淹れるのはお嫁さんこと嫁ちゃんだけで、どんなに真似をしてみても同じ味は出せないのだ。
駄目だな、ともう一度溜息を吐き出して、戸棚からインスタント珈琲の粉を取り出す。
嫁ちゃんが自分の手でお茶を用意する時には、常に茶葉と珈琲豆を使うが、流石に俺や娘ちゃんはそんな真似は出来ない。
そのため茶葉と珈琲豆意外にも、お茶のティーパックとインスタント珈琲の粉があるのだ。
「珈琲?飲むの?」
欠伸混じりの問い掛けに顔を上げれば、長いふわふわとしか髪の毛を掻きながらこちらを見る嫁ちゃん。
学生時代は可愛さの方が勝っていたけれど、今では年相応の色っぽさがある。
黒いシャツから覗く白い肌を見て、眉を下げながらも頷くと、ボクにも、というお願いが投げられた。
一人称が私ではなく、ボクになっていることから、確実に寝不足だなぁ、と感じる。
黒いシャツの胸ポケットには、長年使われている万年筆が収まっていた。
またしても欠伸をする嫁ちゃんは、リビングの椅子に座って頬杖をついている。
「……珈琲淹れるのは良いんだけどさ。インスタントだよ?」
「何でも良いよ」
真っ黒な瞳がとろりと細められ、答えが返される。
何徹目だろうか、薄らと浮き上がる隈を眺めながら二人分のマグカップを食器棚から取り出す。
マグカップもティーカップもそこそこの種類があるが、そんなに必要なのか拘りを持たない俺からは疑問が残る。
自分の分はいつも使っている、白地におとぎ話にでも出てきそうな兎の描かれたマグカップ。
嫁ちゃんの分は暫く迷って、赤と黒のトランプ柄のマグカップを取り出す。
二つの陶器がぶつかればカチンと音がして、ゆらりと眠そうな瞳がこちらを向く。
「寝そう?」
「……いや、まだ寝ない」
重そうに頭を揺らしながら言う嫁ちゃんは、今にも寝てしまいそうだ。
一日の睡眠時間は十時間は必要、と普段から言っているのに徹夜をする時は三日でも一週間でも出来てしまう。
体を壊して倒れるか、誰かが止めないとそのまま眠らない日々を過ごすんだと考えると、いつもゾッとする。
頭だけでなく体も揺らしている嫁ちゃんを尻目に、ヤカンに水道水を入れて火に掛ける。
ぼわっ、と浮かび上がる赤混じりの青。
揺れるそれを押え付けるようにヤカンを置いて、沸騰するのを待つ。
それからインスタント珈琲の粉が入った瓶を傾け、その蓋を開ければ、ふわりと香る珈琲の匂い。
いつも嫁ちゃんが淹れてくれるのとは少し違う、インスタントらしい安めのどこでも感じられる匂いだ。
これでも十分美味しいけど。
ティースプーンで山盛り一杯を二つのマグカップに入れて、瓶の蓋を閉める。
沸騰したヤカンの火を止めて、それぞれ熱湯を注いでいけば珈琲の匂いが強くなった。
真っ黒なそれをティースプーンでぐるりと掻き混ぜれば、粉が溶けていくのを感じる。
うつらうつらと船を漕ぐ嫁ちゃんに笑みを浮かべながら、赤と黒のマグカップに角砂糖を二つ投げ込む。
ぐるりぐるり、ティースプーンを回すと渦が出来上がり、味が均一になるのが目に見えるようだった。
そうして白く温かな湯気を立ち上らせるマグカップを二つ持ち上げて、嫁ちゃんを呼ぶ。
「出来たよ」
嫁ちゃんの目の前にマグカップを置けば、重そうな瞼がこじ開けられて、ぼんやりとした黒目がマグカップを見つめた。
それから、ゆるゆると手を伸ばして、両の手の平でマグカップを包み込む。
のんびりとした動作だけど、今にも眠ってしまいそうだ。
立ったまま嫁ちゃんを見ていると、小さな呟きで「安い、匂い」というのが聞こえたが、気のせいだろうか。
……多分気のせいじゃない。
微妙な気分で目を細めたが、嫁ちゃんはそれに気付くことなく静かに珈琲を啜る。
ふぅ、と湯気を吹き飛ばすのは温かいものを口に入れる時に良くする仕草。
湯気が吹き飛んだのを見届けてから、その細い喉を上下させて、かくりと首を傾ける。
「甘い」
「角砂糖二つだよ」
きゅう、とマグカップを持つ手に力が込められて、眉間にシワが出来上がる。
そんな顔しないで、なんて笑いながらマグカップを持っていない手でシワを伸ばしてみた。
昔は珈琲飲めなかったのに、今では豆から挽いて作るし、勝手に砂糖を入れたら不服そうな顔をする。
苦いもので下を刺激して目を覚ましたかったのだろうが、カフェインで十分だと思う。
まぁ、今はそのカフェインすら効かないらしく瞼が落ちかけだ。
綺麗な形の頭蓋骨を確かめるように頭を撫でれば、僅かな身じろぎが伝わって、なくなる。
天然パーマ、と言った嫁ちゃんの髪は、さらりと落ちるようなものではなく、ふわりふわりとまとわりつくような髪質だ。
柔らかなそれを堪能していると、首の根元からがくりと頭が揺れて、慌てて嫁ちゃんの手からマグカップを奪い取る。
半分ほどになった中身を見て、テーブルに置けば、のろのろと伸ばされる手。
限界だなぁ、音を立てて珈琲を啜り、そっと伸ばされている手を掴む。
マグカップから伝わった熱で暖かい。
「危ないよ。もう寝よう」
「……冷める」
微妙に噛み合わない会話に苦笑しながら、持っていたマグカップを嫁ちゃんのマグカップの隣に置く。
緩く首を振り続ける嫁ちゃんだけど、もう目が閉じかけている。
「大丈夫だよ。また淹れてあげるから」
だから、と続けようとした瞬間に、下に下がり気味だった嫁ちゃんの顔が、俺の方に向けられる。
眠そうな目だけれど、ちゃんと開いていた。
「豆からだったら、嬉しい」
さっきは何でも良いって言ってたのになぁ。
言い終わって直ぐ様目を閉じた嫁ちゃんが、体をこちらに倒してくるのを支えながら、インスタント珈琲を眺める深夜の話。