計画的求婚
その日、私は緊張を着込んだような表情の彼氏に別れを切り出された。
ここ最近、忙しいからと疎遠になっていた彼氏との久々の待ち合わせ。うきうきと喫茶店にやってきた私は、両手で握りしめた水のグラスがかたかた震えるのを見下ろした。そっと手を離し、グラスの表面を覆う水滴で濡れた手をテーブルの下で擦り合わせる。
「…………今日ってエイプリールフールだっけ?」
手汗と水滴の区別も分からない状態でそんな間抜けな返事しか出来ない私に、つきあって四年経つ彼氏――隆史は深々と頭を下げた。
「ごめん! 本当にごめん!」
「…………隣の彼女は?」
今更ながらそう訊いたのは、現実に向き合ったから。
隆史の隣に座る、ゆるふわ系の女。
待ち合わせ場所に到着した当初から気になっていたけど、紹介もなく別れ話に突入したせいで聞き出せなかった。
「あの、……今一番好きな相手」
「そう……。わかった、もういい。帰る」
きっと私の目は虚ろだったに違いない。
隆史やその女を責める気力もなく、立ち上がる。
注文してなくてよかった。
「さよなら」
最後に別れを告げる声をかけて、けれどお幸せに、とは言えなかった。
言えない自分が汚く思えて、それ以上に惨めで苦しかった。
好きな人の次の幸せを喜べない。
だって、私をずっと好きでいてほしかったから。
店を出て、数歩進んだ時。
背後の喫茶店のドアが勢いよく開いて隆史が追いかけてきた。
追い打ちをかけるつもりか、それとも謝る気か、あるいは未練で私を引き留めようとでもいうのか。
私はちらりと振り返り、しかしすぐに見るのも嫌になって歩き出した。
「待ってくれ、祐美!」
――と。隆史が叫んだのを合図にしたように、私の行く手を阻むように、数人の男女が横一列になって歩いてきた。
よけようとしたら、いきなり踊り出した。
何でだ。
どこからともなく軽快な音楽が鳴り響く。
周囲の人々がひとり、またひとりとキレのあるダンスを披露し始めた。
……フラッシュモブ?
っぽい。
ぽいんだけど、何で今、私の前でやるかな?
混乱が静まると、まさかまさかと思い始めた。血の気が引く。
そんな馬鹿な。
やめてよね。恥かかせないでよね!?
……そのまさかだった。
隆史が踊り始めた。
いつの間にか、先ほど隆史の横に座っていた女も長い髪をぶんぶん振り回して踊っている。
皆真剣だ。
……どれだけの時間、練習したのかな。
というか、帰ってもいいよね?
つい見入ってしまった物の、このままここにいるのはヤバいと冷や汗が流れる。
だが、我に返るのが遅すぎた。
「裕美! 驚かせてごめん! さっきのは嘘なんだ。オレと結婚して下さい!」
私の前にひざまずいて、隆史が指輪を取り出した。
周りガン見。
期待度だけが上がっていく。
隆史の、成功以外の未来は見えないぜ! みたいな満面の笑みと態度がすごい腹立つ。
だらだら冷や汗があふれ出る。
いやいやちょっと待てや私!
今考えるべきはなんだ?
そう、私の未来だ。
本音を言うならば、ザケンナー! な気持ちしかない。
ちょうどいい高さにある隆史の顔に回し蹴り食らわせたい。
あの別れ話はアレか。一度どん底まで落として一気に上げることで感動を増してサプライズの成功確率を上げる手段かなめんなチクショウ。それとも動画アップ用にストーリー性を出したかっただけか。
前にテレビで交通違反か何かでポリスに捕まって何やらあって最後にプロポーズしたサプライズ求婚観たことがある。
確かポリスにも協力してもらったんだよね。
何故心臓に悪いドッキリ仕掛けられて許せるんだろうって疑問に思ったよ。恋人が逮捕されるとか泣くからマジで。
そうそう、プロポーズされた女の人、大喜びで抱きついていたっけ。その素直さが今凄い欲しい。
ああ、いやいや、待て。待つんだ私。思考が逸れてる。現実逃避は後にしよう。
私、三十一歳。
今プロポーズされてる。
断る? ああ、正直ぶん殴って断りたいとも。すっきりしそうだ。
こんな見せ物にされて、録画されてるプロポーズとか、マジない。
けど私よ。
このプロポーズを断って、この先結婚とかどうなるんだ?
確実に、この一連はネットに上がる。誰かが上げる。もう私には止めようがない。何故なら関係ないっぽい人たちがぞろぞろと集まってきてたから。人だかりの中心に私はいる!
そんな顔バレ予定の私に、素敵な旦那さんが現れるだろうか?
人前でフラッシュモブプロポーズした男を振る女を受け止めてくれる懐のでっかい男が現れるだろうか? 男に恥をかかせることに躊躇しない気の強い女に惚れる、私好みの男は存在するだろうか?
無理じゃね? いても売約済みばかりじゃね? 年齢的に。
でもだからって、隆史と――…結婚?
別れ話切り出されるまでは、有りとか思ってたけど、むしろいつプロポーズすんだコイツとか思ってたけど、いっそ私からプロポーズしたろかとか思いもしたけど! ……この十数分で色々無理が生じてる。
好きな気持ちは消えてない。消えてはないんだけど、このプロポーズには頷きたくない。
待ってる目の前の隆史と周囲のモブたち。
ちなみにまだ隆史がひざまずいてから三十秒くらいしか経ってない。
プロポーズに驚いて声のない人で通る時間。
ど、どうしたら?
「…………裕美?」
私の熱のない瞳に気づいたのか、隆史が表情をこわばらせて首を傾げる。
――よし、決めた。
迷った時は玉虫色の曖昧返事しかないよね?
「――考えさせて下さい!」
勢いよく頭を下げる。
「な、なんで!?」
なんでって……決まってんでしょ。
人を手酷く傷つけて、そこからサプライズで無理矢理上げるとかわけわかんない。
一方的すぎる。
しかも見せ物状態。これって一種の脅迫だよね? お互いの信頼関係とか、好意とかが確かなら問題ないんだろうけど……。
今の私には、無条件に受け入れるなんてできない。
……これがもし、二人っきりでのサプライズなら。どんな類のサプライズでも、少しだけ怒って、けど抱きついてキスして泣いて喜んだと思う。
でもこれは駄目だ。
私は自分で思っていた以上に、別れ話に怒っているらしい。
ついでに私の意志ガン無視で、周りを巻き込んでプロポーズを見せ物にすることを選んだ隆史のひとりよがりなサプライズの一切が、どうしても許せない。
でも、そんなはっきりと注目の中言うのははばかられた。だってネットで拡散されたら、私の性格を知っている友人たちはともかく、職場の人たちに知られかねない。取引先とかに知られるのもちょっと……どころかかなりきつい。
だから、言葉を濁す。
「だって別れ話の後にプロポーズなんて……今、頭が凄い混乱してるの。
とにかく、考えさせて下さい」
「そんな!」
頭を抱える隆史と、成功するとばかり考えていたらしいモブたちの気まずそうな顔。
一番気まずいのは私だよ。
断りたくなかった。笑顔で受けたかった。
隆史が好きな気持ちはまだ変わってない。
けど、好きの後に『だけど』がついてしまう。
好き、だけど。
好き、なのに。
その場からそっと離れた私は婚期を逃したかな、とすぐさま酷い後悔に襲われながらも、撤回することはできなかった。
ああ、お願いだから。
誰か私を肯定して!
でないと後悔で泣いてしまいそうだ。
傷つけられたから傷つけ返したのではなくて、傷つけられた分の信頼がごっそり削り取られてしまったのだと思う。
このまま結婚を受け入れて、もやもやした気持ちを押し殺して生きるのも有りだった。
でもきっと、そんなのは破綻が見えているだけで。いつか爆発するかもしれない。そのとき、私たちはこれまでの楽しい思い出すら踏みにじった大喧嘩を繰り広げて憎しみ合うようになるのだ。
私は、受けるにしろ断るにしろどちらにしろ後悔を抱えて生きるのだろう。
叶うならば、落ち着いてから二人でじっくり話し合いたい。どうしてこうなったのか、遠い気持ちの擦り合わせをしたい。
すれ違ってる気持ちを言葉にして理解し合えたなら、この騒動もいい思い出になるのだろうし、理解し合えなければ――終わってしまうのだろう。
ああ、悲しい。
四年も一緒に過ごしてきたのに、私たちはお互いのことを多くは理解できていなかった。
私は、テンションが上がった隆史が何をしでかすのかを。
隆史は、私の怒りの琴線を。
――怒りの琴線。
どうやら、私の心はとても狭いようだ。
それとも心を寄せていた隆史相手だったから、痛みが増したのか。
柔らかくなっていた心に深々と凶器が突き刺さり、ごっそり削がれてしまったのかもしれない。
『喜ばせようとしてくれたんだから、別れ話の嘘くらい許してやりなよ!』
必死にそう叫ぶのは私の恋心。
『喜ばせたいからって、人を傷つけていいはず無いでしょ……!』
そう泣きわめくのは私の傷心。
まあ、とりあえずは。
友達に愚痴という名の相談をしてみようと思う。
馬鹿だと呆れられるか。
同意を得て慰められるか。
どちらにせよ、思いを吐き出して泣いてしまえば私の波打った心も少しは落ち着きを取り戻せるだろうから。
お読みくださりありがとうございました。