No.90「思惑」
――――これが、人外対策局が公になる三ヶ月前、三月上旬の事だった。
そして事情の聴取や様々な手続きなどを済ませ、バルは日本へ移る事を決めた。日本の新学期である四月には間に合わなかったが、五月下旬頃に日本へ居場所を得た彼は人外対策局に入局する。
その間までに実子の所属する隊が不祥事を起こしたらしい事を風の噂で耳にしたが、彼女はその大変さを他人に見せるような事はしなかった。
間も無くして訓練隊である仮編成実子隊に所属し、新しい日常が始まった。程よい距離を保てる人間関係を築こうと努めた。
いつも気にかけてくれる実子には感謝していた。あの絶望の淵から救い出し、今はこうして人に囲まれる普通の生活ができている。孤独が人にとって毒である事を知っていたのだろう。
馬鹿話ができ、ふざけあえる仲間ができた。それは自覚せずとも大きな救いだった。
実子にはもちろん、隊の仲間や、ティアをはじめとした右京隊の皆に、いつも支えられていた。
だからこそ、悲しい事を閉じ込められていたのだ。
ティアのおかげでリズを悼む気持ちとも向き合いながら、生きる為に日々をすごせていたのだ。
けれど、あれから一年と少し経った頃、見過ごせない出来事に直面した。
しかし、あまりにも現実味を帯びない、一度溜飲が下った出来事を蒸し返され、心は荒れている。
――まずは、実子隊長を探さないと……。隊長が言った方がいいって判断をしたのなら、刑事部に報告しよう。見たもの、堕とす方法を。
焦りに早る歩調。ティアへの罪悪感から逃げるように走り去ってきてしまった事への情けなさ。様々な感情を抱えて基地内を探し回った。先ほど連絡した時は取り込み中だったのか出てくれなかったが、そろそろその用事も済んだ頃だろうと掛け直してみる。
すると、前方から着信音が鳴る。
驚きに見上げると、目の前に実子がいた。
「隊長……!」
焦りの中にほのかな安堵が宿る。頼れる人がいる事の、なんと心強い事か。
安心し軽く笑みを浮かべながら駆け寄っていく。
「隊長、刑事部での取り調べの件が終わりました。そ、それで、容疑者の妖刀に触れ記憶を読み取ったのですが、そしたら……記憶の中に、亡くなったはずの枢機卿がいたんです。人外に堕とした方法は――――」
溢れ出てくる全ての言葉を聞かず、実子はバルの足を自身の足で払いバランスを崩させて故意に転倒させた。
「っ!? た、いちょ……?」
とっさに受け身をとるが、その行動の意味が解せずに戸惑う。
彼女はブツブツと何かを呟いている。
「人外は殺す……。混血も、何もかも、人外は皆殺し……。殺してやる……殺してやる……殺してやる……」
倒れ上半身だけを起こしたバルの腹部を踏み倒し、それから馬乗りになる。
「うっ……ゲホッゴホッ……!」
「殺してやる、殺してやる、お姉ちゃんを殺した人外なんか殺してやる……皆殺しだ……殺してやる」
「どうしたんですか! しっかりしてください……!」
戦いに使う拳銃ではなく、常に隠し持っている折りたたみ式のナイフを、実子はポケットから取り出し刃を向けた。
「皆殺しだ……殺してやる……ころしてやる……コロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤル……!」
それを構え振り上げたのを見て、やっと危機感を覚えたバルは、実子の手首を掴み勢い任せに振り払った。なんとか馬乗りから逃れるが、彼女の手にはまだナイフが握られている。
「なんで……」
何故敵意を向けられているのかなんて、聞くまでもない。
それは、バルの中に人外がいるからだろう。
悪い事というのは、立て続けに起こるらしい。
裏切られた気分に逃げる気力すら吸い取られていく。
救ってくれた彼女に殺意を抱かれ、生きろと言って励ましてくれた彼女に、今、殺されかかっている。
――人外が俺の中にいるから殺されるんだ。……別に咎められないよなぁ。ここは人外を殺す組織だし、のこのこ入ってきた俺が間抜けだっただけだ。
バルは覚悟をして構えていた手を下ろした。ここぞとばかりに、実子は生きる事を諦めた獲物へと鋒を向ける。
振り上げられたナイフ。
刹那に、空を切る音が聞こえた。
しかし、待てども衝撃を感じない。刺された感覚もなく恐る恐る目を開いた。ギリギリのところで、震えた手で握られたナイフが止まっている。
彼女自身、何故止まっているのかわからないといった表情で戸惑いを見せている。
「隊長……?」
手を伸ばし腕に触れると、それは弾き返され、尻餅をついた。そのまま再度馬乗りになられ、ナイフが心臓辺りで震えている。
バルはそれを黙したまま受け入れようと思った。
「…………なんで」
言葉の後で、頬にヒタリと何かが落ちてきた。
雨のように次々と降ってくる雫を、自分の頰が弾く。驚きに、視線をまっすぐ上へ、実子の顔を覗き込む。
「み……こ、さん……」
彼女は、泣いていた。
「どう……したんですか」
「殺してやる……殺してやるぅっ……!」
憎しみを涙として流していた。まるで誰かの仇だとでも言うような瞳だ。
人外に姉を殺された彼女には、人外として殺されても仕方がない。人外だというだけで、殺される理由を充分に持っている。
彼女に殺されるのなら、仕方がないかなとも思えるくらい、実子は苦しそうな表情だった。
ナイフが当たり、その鋭利な感触は服越しにも伝わってきた。人外対策局の制服であれば防刃なのだが、あいにくと今着用しているのは私服だ。上着のジャケットに刃先数ミリが埋まる。左胸にチクリとした痛みを感じた。
随分と焦らしてくれる。
殺すなら、さっさと殺してほしいのに。
瞼を閉じた時、顔の前で風圧を感じた。
「――――実子ッ!!」
ナイフが床に落ちる音、人がもつれて床を転がる音がする。
「何やってるんだ!!」
聞き覚えのある声だ。しかし、彼のこんな険しい声音を、バルは初めて聞いた。
「右京さん……」
どうやら実子の腕を掴みあげてナイフを叩き落としたらしい。足元で二人は立っていた。
「バル君大丈夫!? …………血が!」
白いシャツに赤いシミが広がっていく。表面が切れただけで、重症ではない。大丈夫だと伝えるために頷くと、右京はホッと息を吐き出し鬼の形相で彼女へ向き直った。
「何やってるんだよ!? 部下に刃物を向けるなんて!!」
両肩を掴み揺さぶるが、実子は呪文のように同じ事を繰り返すだけだ。
「殺してやる……コロして、やる…………殺してやる、こ、ろしてやる、殺してやる……」
様子がおかしい事に気がつき、右京は状況説明を求めバルを見やる。バルが知るはずもない。突然殺されかけたのだから。
力なく首を振ると、右京は苦渋の面で実子の腕を己の肩に回し立ち上がらせた。
「バル君は医務室に行って、治療してもらってきて。怪我の理由を聞かれるだろうけど、少しこの事は黙っていてくれないかな」
右京の背中は、酷く落ち込んでいるように見えた。実子は永遠と虚ろな目で殺意を言葉にしていた。
「……分かりました」
バルは立ち上がり指示通り医務室に向かった。不思議とあまり痛さは感じない。浅かったというのも要因だろうが、そんな物理的な傷よりも、心の傷の方が深く痛んだ。
――何もかも、意味がわからない。記憶についても誰に相談すればいいんだろう。
現在の実子隊のメンバーが頭に思い浮かぶ。通信情報専門部の朱里と、同じ退魔師部の雛だ。
けれどどうだろう。信用するに値するのだろうか。誰を信じればいいのかもよくわからなくなっていた。
「…………リズ」
ポロリと、一番信頼していた人の名前が溢れた。無意識の事に驚き立ち止まる。
追い詰められると思い出の人を懐かしむという、あれだろうか。
グシャグシャの笑顔で彼女を懐かしむ。
「君さえ生きていてくれたのなら、」
――――全てが、それで良かったのに。
大粒の涙が落ちていく。頬を濡らし床も濡らし、喉の奥が締め付けられる感覚に眉を歪めた。
咽び泣くなんて、この歳になっても許されるだろうか。
こんな情けない姿を晒して、リズに呆れられたりしないだろうか。
「情けないわね」――そんな声が聞こえた気がして振り返る。
けれども、誰もいなかった。
希望が萎み、迫る絶望の手に心が掴まれそうだった。
「うっ……う…………」
どうしようもなく、彼女の事が思い出されてしまう。
「うああああああああああああッ……!!」
そうなると、もう、自制はきかなかった。
人が滅多に通らない廊下で泣き崩れていると、右京と契約している天邪鬼の天が遅れて現れる。右京を探していたのだろうが、泣き声にオドオドと辺りを見回していた。
「バルお兄ちゃん……?」
あたふたしている姿を見て、バルは苦笑いを浮かべた。
彼が現れなかったら、気を紛らわせてくれる人がいなかったら、きっとこのまま堕ちられたのに。
そんな思いを孕みながら、酷く自嘲的な表情をする。腹の中で負の存在が力をなくしていくのを感じた。
「……あはは、ごめん、ごめんね」
「むう」
「大丈夫だよ」
やっと泣き止むと、天が幼さの残る歩き方でちょこんと目の前に座り、短い腕を精一杯に伸ばして地べたに座しているバルの頭を撫でた。
「ほんとうに、だいじょうぶ?」
「うん。情けないところを見せてしまったね」
「ううん。なにか辛いことが、あったんでしょ? それに、血がでてるよ。はやく手当てしないと……」
「うん、今から行くんだ」
「むう、気をつけてね。……それとバルお兄ちゃん、右京さん、どこにいるか知らない?」
あの後どこへ行ってしまったかは分からないが、だとしても天は近づけない方がいい気がした。
「ちょっと今取り込み中なんだ。だから俺と来ない? 医務室なんて退屈かもしれないけどね」
「うんっ、バルお兄ちゃんについてく!」
仕事中の右京を邪魔しないためか、バルを心配したのか、天は屈託のない笑顔でそう答えた。
医務室で治療をし終えてからは、真っ直ぐに寮へと帰る事にした。右京に責任のある彼を、あまり勝手に連れ回すのは良くないだろうという考えに至っての事だ。しかし一人で留守番させるのも可哀想だと思い自室へ向かいかけるが、ドアノブに手をかけ思いとどまった。
――さっきあんなのがあったばっかじゃ、信用できないや……。
隊の仲間はつまり、実子の部下だからだ。逃げるにしては近すぎるが、零崎零のような事をすれば懲罰は免れない。組織の決まり事として逃亡は許されていないし、実績のない局員など一発解雇ものだ。
「名無隊なら、信頼できる……」
意を決してインターホンを押す。ティアや夜斗が出てきたら気まずいなという懸念は杞憂に終わる。
「は、はーい! ……ってあれ、バル君?」
気弱そうに見えるのは、困り眉と上目遣いのせいだ。金髪猫毛な前髪の隙間から、いつも不安そうな瞳を覗かせている。ビクビクした態度も以前よりは改善なったが、緊張による吃音はやや健在だ。
「ど、どうしたの? 天まで……」
とりあえず二人を通す。天は慣れたようにリビングへ向かい、その後ろをバルが、そして住人であるはずの佐久兎は最後列で恐る恐る歩んでいった。
リビングにはアルと愛花、信太の姿があった。
誰もがバルを見て怪訝そうな顔をしながらも迎え入れた。
「珍しいお客さんだね。お久し〜」
アルはヒラヒラと手を振りながらスナック菓子を食べている。なんと呑気な事か。思わず笑ってしまう。一気に日常に引き戻され、さっきまでの事が嘘のように感じられた。悲しさも薄れ、良い気分転換になりそうだった。
「何しに来たのよ」
相変わらずのぶっきら棒さで愛花が来訪理由を尋ねる。正直に白状すべきか答えあぐねていると、信太がそういえばと何かを思い出した時のリアクションをした。
「バルさ、最近ティアといたんだろ? 訊きたい事あんだけど……」
彼にしては珍しく覇気がない。ティアの事で心配事を抱えているらしい。
「どうかしたのかい?」
「いや……あのさ、なんか最近ティアからタバコの臭いがするんだよ。なんか知らね?」
その発言に名無隊の三人は驚愕の表情を浮かべる。五感の鋭い信太だけが気づいていたようだ。
「あ、それ天もかいだよ。言ったら、しーってされた」
子供も正直だった。二人の証言を得て動揺は更に増す。
「な、ななな、ティア、え? タバコ? じ、冗談よしてよね!? あの子に限ってそれはないわよ!」
「愛花……『うちの子に限って』なんてフラグを自ら立てたようなものだよ! でもまさか……いつの間に非行に走ってたの!? お父さん失格だああぁ……」
「ふ、二人とも落ち着いて……」
自分より慌てている人を見ると冷静になるという現象の上、佐久兎は宥め役に回る。やがて、視線を一矢に集めているバルが口を開いた。
「それ、多分ティアが吸ったんじゃないと思うよ」
「な、なんでそう思うのよ」
「この前の召集で、俺達が龍崎さんに詰め寄ったのを覚えてる?」
もちろん、と四人は頷く。天はいつの間にかテレビに夢中になり、昼のニュースのテーマパーク特集に目を輝かせている。
そんな中、バルからは驚きの発言が飛び出した。
「実はあれ、龍崎さんの指示だったんだ」
今度こそ、四人全員が絶句する。
「どっ、どうしてあんな事……! ふ、ふふ、不信感が募るばかりで、皆こ、困惑してるよね。ティアがあ、あんな事するのも、へ、へへへ変だと思ってたんだ……」
いつもよりも吃りが酷い佐久兎の言う通りだ。実情として組織全体に波紋を呼んでいた。
「組織内のブールの動きの抑制、または裏切り者の炙り出しのためだよ」
「じゃああれはハッタリだったの?」
アルの言葉に首を横に振る。
「あれは本当の事さ。あえて皆の前で晒し、隠蔽できないようにしたんだ」
「じゃあ報告書のやつは?」
「分かっていて言わせたんだ。何者かが隠匿したらしい事をね。あとは、他に何か情報を握ってないか確かめるために近づいてくるだろうっていう見立てだよ」
「そんなに上手くいくかな〜。相手は殺せばいいって極端な考えかもしれないし、危なくない?」
アルが渋い顔をするが、反対にバルは笑顔を浮かべた。
「もし龍崎さんに襲いかかってきたとしても、右腕がいるから安心だよ」
「右腕?」
「ああ。知らないかい? 独眼の退魔師を」
*
カラスの鳴き声が憂いを帯びている。夕焼け色に焦がされた街はどこか物悲しいものがあった。
「龍崎副局長!」
帰宅途中の龍崎の足元に人影が伸びてくる。
「ハハッ。副局長だとか中将だとか、まだまだ定まんねえな」
言葉は返ってこない。だんまりを決め込む人物に代わり、龍崎が背後を振り返る事にした。
「どうしたんだ。何か用か? 黙ってちゃわかんねぇぞ」
タバコを咥えながら後頭部をガシガシと搔きむしる。これは彼の困った時の仕草だ。
「噂で……聞きました」
怪訝な面持ちで次の言葉を待つ。
「副局長が、ブールについて何かを知っているらしいという事を」
「お前も緊急招集であった話の内容は知ってるだろ。俺が握ってんのはアレくらいだ」
「それ、本当ですか? 他にも何か知っているんじゃないですか」
「おいおい、本気で俺を疑ってるのか? 何も知らね
えって言ってんだろうよ。疑われてるんだから正直に白状した方がいいって事くらい、この馬鹿だって判るぞ」
「そうですか……。すみませんでした」
本当に申し訳なさそうにヘラリと笑う。しかし龍崎はいつものように笑顔を返す事はなく、タバコの煙を静かに吐き出した。
「…………謝るならよ、その後ろに持ってるもんを納めてくれないか」
鋭い眼光で射抜くが、相手に動揺した様子はなかった。龍の眼に睨まれても、蛙は怯まない。
「何の事だかさっぱりです」
それどころかとぼける余裕すら見せる。
「でも……この戦いは、沢山の人が大切な人を失うでしょうね」
「どういう意味だ」
深く刻まれた眉間のシワの下、龍崎に一層厳しい目を向けられ、首元に見えない気配が巻きついてくるような感覚を覚えた。それはまるで名の通り、龍のようだった。
「やだなぁ。そんなに目くじら立てないでくださいよぉ。ちびっちゃいそうです」
「……お前だったのか」
問われ粘着質な笑みを浮かべる。そして、名前を呼ばれる前に龍崎を嗤った。
「――――木村ァ」




