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No.68「四ノ宮と針裏」

 研究室のノックが三度鳴り「失礼します」と扉の向こう側から聞こえた。針裏相手に待っても返事は来ない事を学んだ四ノ宮は、返答を待たずにドアノブを捻る。


「こんにちは。調子はどうだい?」


「毎回来る度にそういう社交辞令はいいから、早く紙よこしてよね。もう四ヶ月で百回くらい聞いて飽きたんスけど」


「酷いなぁ、社交辞令なんかじゃないよ。あと、まだ三桁はいってないからね」


「はいはい」


 依頼書を受け取ろうと椅子ごと振り返り、初めて今日の彼を見た。

 四ノ宮は松葉杖をついていたのだ。右足にはギブス、頭にも包帯を巻いており、頬にはガーゼの絆創膏が貼り付けられている。

 なんとも痛々しい姿で反応に困った。


「……階段から派手に転んだって、そうそうそんな情けない事にはなんないと思うんスけど」


「ははは。これは任務でやっちゃったんだよ」


「任務? 本当に化け物相手にやってるとか言わないっスよね? 冗談は四ノ宮の職場だけにしてほしいなぁ」


「まだ信じてないの? 本当に人外対策局って組織はあって、人外もいるんだよ。人外は高校時代に一緒に見た事あるでしょ? 霊とか妖怪とか、そういうのをひっくるめて人外っていうんだ。組織の存在はこの依頼書と、針裏の口座に振り込んでるAMSって字が証明してるでしょうよ」


 返す言葉がなく鼻を鳴らして受け取るが、依頼料は龍崎から担当が変わってから四十万円だ。

 不満は揚げ足取りのようにそこへ向けられた。


「龍崎サンの時は六十は貰ってたのに。やっぱペーペーは給料もペーペーなの?」


「月収は針裏の一回の依頼料よりもちょっと上くらいだよ」


「にしたって初任給はちょっと下くらい? 結構貰えてるんスね。その歳だと同年代の二倍くらいっしょ」


「どっかのぼったくり法医学者未満程じゃないけど、まあまあね。この通り命懸けだし、給料が割に合わないってやめられちゃあただでさえ人員不足なのに、大変な事になっちゃうよ」


「嘘にも真実味が出てくる言葉だねぇ。それと未満って付けちゃうあたり、嫌味くさい」


「あはは、本当だってば」


 困り顔の四ノ宮がなんだか面白くなってきて、思わず吹き出してしまう。疑問符を浮かべる彼にヒラヒラと手を振り、なんでもない事を伝えた。


「んで、この遺体は四ノ宮の怪我とも関係あるんスか? 無関係? それとも、」


 針裏が意地の悪い笑みを浮かべて遺体を指さした。


「四ノ宮がこっち(・・・)になり損なった?」


「……ははは。いつか俺も、針裏にメスを入れられる日が来るのかな」


 いつもはそんな軽口を難なくあしらう彼なのに、今日は弱音を漏らしてきた。想像とは違う返しに肩透かしを食らう。

 棘のある言葉といい気弱な態度といい、今日は彼らしさが感じられなかった。他者が『らしさ』を決めつけるのも押し付けがましいとは思うが、彼の良さが影になるのには危うさを感じる。


「縁起でもない事言わないでよ、とか言うと思ったんスけどねぇ。なーんか拍子抜け。つまんなーい」


「はは、面白さを求められてもなぁ。俺は血も涙もある普通の人間だもん。つまらなくて当たり前だよ」


「どっかで聞いたようなセリフっスね。……やっぱさ、この仕事は四ノ宮は向いてないと思うね。身体壊す前に心壊すんじゃない?」


「そんな楽しそうな顔で言われても、言葉とのあべこべ感がいろいろとあれだよ。身体の方はほら、医師免許持ってる針裏に頼んで、心の方は自己管理頑張ります!」


「肩の力抜けって言ってるのに、頑張りますとかいう肩に力入れようって宣言、馬鹿じゃないの? 頑張らないのを頑張るとか変でしょ」


「変人に変って言われちゃあ世話ないなぁ、俺」


「僕ちゃんが変人って事は否定するけど、四ノ宮の詰めが甘そうなのは肯定してあげるっスよ?」


「はははっ、詰めが甘いとか言われちゃ心折れるって! ……そのせいでこのザマなんだからさ」


 四ノ宮は自分ではなく、袋の中に入っている、人だった肉塊をチラリと見やる。その視線は酷く悲しいものだった。やがて悔いの感情が彼の顔を支配しようと蝕み始めた時、針裏は少し大きい声を出してそれを食い止めた。


「ふーん、詰めが甘いせいで仲間が死んだって? 随分とペーペーが有能ぶるね」


「え……?」


「見た感じこの人は古傷も結構あるし、筋肉のつき方からしてその道も長いプロなんじゃないの? そんな人が殺られるくらいなのに、四ノ宮がでしゃばったところで死体が増えるだけだったと思うけど」


 彼なりの優しさを汲み取り、四ノ宮は弱々しく笑顔を浮かべた。


「……うん。ありがとう、針裏」


「お礼とかキッショーい」


「もう、素直じゃないなぁ。じゃあね、明日来るからちゃんと仕事してよ?」


 笑いながら松葉杖をついて出て行く彼の背中には、濁って黒くなりつつあるモヤのようなものが見えた。見え方や色が違えど、これをオーラと呼ぶ人もいる。針裏の目にオーラが黒く映る時、心を病んでいる印だった。


「……危ういっスねぇ。ホント」


 椅子に足を乗せ体育座りの姿勢で天井を仰ぎ見て、しばらく眺めてからタバコに火をつける。


「……不味(まず)。龍崎さん、いつもこんなもん好んで吸ってたとか味覚音痴?」


 吸えば灰になっていく短い命に、燃やせば全てが灰になるこの世界で。

 業火で焼き尽くそうが、残る何かを手探りながらに求めていた。


「その内、美味しくなったりするんスかねぇ?」


 灰皿の底にタバコを擦り付け火を消してから、体内に残留した紫煙を吐き出した。散々に燻らせていた室内が、霞んだように白んで見えた。






 *






「……これ、よろしくね」


 あれから一年経ち、だいたいの夏祭りも終わった八月下旬の事。四ノ宮は挨拶も無しに足元がおぼつかない調子で、一枚の紙を机に置いた。


「わーお。顔が真ーっ白。幽霊と間違ったんスけど。しかも目の下のクマのせいでパンダ。一体何を目指してるの? パンダの幽霊? 退魔師が人外の仲間入りとか笑えないんスけど」


「ははっ……。もしも人外に堕ちたら、龍崎隊長に殺されたいかな。きっとあの人なら躊躇せずに殺してくれる」


「何その他殺願望。まあ殺されかけたとしても、僕ちゃんが助けてあげなくもないけどね? その代わり金はめちゃくちゃ貰うけど」


「あはは、ぼったくられそうだなぁ。給料も知られちゃってるから、根こそぎ掻っ攫われそうだよ」


「僕たるもの貪欲であり続けたいじゃん?」


「ブレないなぁ針裏は」


「四ノ宮もたいして変化のない人種だと思うけど」


「じゃあ、俺ってどんな人?」


「四ノ宮は生真面目だよ。馬鹿みたいに真っ直ぐで、何をやってもだいたいは卒なくこなす。だけど万能じゃない。要領は悪いし、僕といれば変に庇って高校時代はよくとばっちりを食らってた」


 でも、と針裏は続けた。


「長所と言っても、物は言いようで良さばかりじゃない。正しさばかりを求め考えすぎて、ドツボにハマってよく悩んでたけど、それってどうなんスかね。正しくあろうと思うなら、心も一旦そこから離すべきだ」


 俯いた彼は、しばらくして微かに顔を上げた。そこには困ったような笑みが貼り付けられている。


「そうだね。俺は生真面目だって馬鹿にされて、針裏が起こした問題にはことごとく巻き込まれて、それとは別でたまにパンクしたりもした。……良かったよ。高校時代を知る人が近くにいてさ」


「何そのゼロ距離感。気色悪〜」


「まーた素直じゃないなぁ。……ところでこの部屋タバコ臭いんだけど、大学内は禁煙だったはずだよ。それに体に良くないよ。いつから吸ってるの?」


「最近っスかねぇ」


「高校時代から『ストレスフリーな僕は四ノ宮よりもきっとずっと長く生きるだろうな』って豪語してたくせに、これじゃあ判らないね。賭けじゃ長生きした方に遺産全部あげるって約束だったけど、俺も金持ち夢じゃなくなっちゃうのかもなぁ」


「あげないっスよ〜。死ぬ前に使い果たすんで」


「それは無し! ルール追加。最低給料一ヶ月分は残しておく事! 紙に書くのは面倒だから紳士協定って事で!」


「それは不公平っスよ。四ノ宮が四十万ちょいだとして、僕ちゃんはなななーんとうん百万は余裕なんで。てか紙に書いてなかったら、死んだ後に意思表示できないっしょ」


 ドヤ顔で痛いところをつくが、四ノ宮も負けじと言い返す。


「あはは、確かに。それにしても俺の十倍二十倍あるのに、どうして見なりはだらしないかなぁ。しかもご飯だってちゃんと食べてるようには見えないし、一体何にお金を使ってるの?」


「ちょっとした器具とか標本とか? まあいろいろだよ。女の子とも触れ合わなきゃ灰になりそうだし、何かと要り用なんだよね〜」


 イタズラな笑みで揉むような仕草をする。


「……不純」


「すごく健全っスよ? 法の範囲内なら何したって咎められるいわれはないもんね」


「へぇ、てっきり針裏は法に触れるだとか触れないだとかいう基準で行動してないと思ってたよ」


「捕まったら美人との接点も絶たれるでしょ」


「そこかぁ。やっぱり大差ないね」


「ええ? ありありでしょ」


 申し訳程度に笑声を漏らし、その間に良い事を思いついたと指を鳴らした。


「もっとお金をかけるべきところにかけようよ。革靴もヨレヨレで部屋の隅に埃かぶったまま置いてあるし、履いているのは大学のスリッパ」


「ああ、存在すら忘れてた」


「Tシャツだって伸び切ってるし、ズボンなんてシワだらけじゃないか。白衣だって汚れたまんまで洗濯もしない。全部買い換えたら? 今度の日曜、ちょうど非番だから買い物に付き合うよ」


「めんどーう」


「気分転換に付き合ってよ。俺を救うつもりでさ。ちゃんと集合時間には間に合うように来てね。高校の時五時間も待ったんだから」


「そんなの知らないっスよ。待ってる方も頭おかしいっしょ。変人はどっちなんだか」


「じゃあ午後二時に君の家に向かうから、それまでに用意はしててね?」


 約束しても針裏は来ないだろうと経験則から予想した上でそう提案し、有無を言わせずにそそくさと出て行ってしまう。



「相変わらず強引なところは悪いくせっスね」


 それは彼だけに対してであり、無理矢理にでも取り付けないと拒否されるからだという事は、知る由もない事だった。

 何故かまた扉が開く。


「その日近くでお祭りあるけど、行く?」


「絶対行かない」


「言うと思った。じゃあショッピングね」


「彼女かよ、四ノ宮は」


「妹と同じくらいの女の子と龍崎さんの元で学ばせてもらってたんだけどね、その子にはお母さんみたいだって言われたよ。ははは、俺男なんだけどなぁ」


「憎まれ口が達者な妹ねぇ」


「とても素直な良い子なんだよ」


 話の途中で着信が入る。すると苦笑しながら「じゃあ、また」と言って扉を閉めた。一人になり、そういえばと彼は季節のイベントを大切にする節があった事を思い出す。


「夏祭りかぁ。変わらないもんスねぇ」






 *






「……出てこない」


 何度も呼び鈴を鳴らすが、一向に出てくる気配はない。想像はついていた事態だが、万が一にも寝坊ではなく倒れている可能性を考慮し、試しにドアノブに手をかけてみる。難なく右に最後まで周り、鍵のかかっていない部屋へ条件反射のように「お邪魔します」と挨拶をしてから入室する。


「針裏開けっ放し。防犯上良くないからやめろって…………高校通っていた時に……言った、で……しょ」


 驚愕の光景を目の当たりにし、最後の方はイントネーションがおかしくなる。白目を剥きそうなくらいにショックなものとは、ゴミ屋敷になりかけている彼の一人暮らしの2LDKだ。足の踏み場はなく、かろうじて床が所々に見えている。壁沿いに物が積み上げられており、段ボールに入ったままの荷物が散乱していた。


「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと針裏。前に俺がここに来たのが高三だったはずだよね? そんだけ経っても段ボールとかそのままって……。クローゼットとか買わないの?」


 リビングから寝室の戸を開けると、床に大の字になって寝ている家主がいた。


「掛け布団はあるのに敷き布団がない!?」


 雷にでも打たれたような衝撃に大声を上げると、針裏は寝ぼけながら唸っている。床に放られている衣服の中で寝返りを打つと、まくら代わりにしていた週刊の少年漫画雑誌から頭が落ちる。ゴンッという鈍い音の後、イビキが一瞬だけ止まる。やっと起きるかと思いきや、数秒後には再開した。


「……変人にもほどがあるって」


 叩き起こし、買い物よりもまずこの悲惨な部屋の状況から好転させようと努める事にした。


「要るもの要らないものに分別して。三秒以上迷ったら不要なものとして捨てる! はいやるよ!」


「はあ〜?」


 寝起きの悪さと片付けという面倒極まりない事に苛立ちを覚えつつも、働き蟻のようにせかせかと働く四ノ宮を見て渋々片付け始める。しかし三十分も経たない内に、初めから少ない所有物がほぼゼロになった。床に散らかっていたのはゴミだけだったのだろうか。


「……これ、ちゃんと考えて別けてる?」


「面倒いからテキトーに捨てておこうと思って」


「もう少し物に執着した方がいいよ。ただでさえ少ない私物が皆無だよ。段ボールの量に比べて物が極端にないね」


「当時は教科書だの制服だのジャージだの色々あったっスからねぇ。卒業した日にすぐ捨てたけど」


 ゴミ袋をひっくり返し、中の物を全て出す。


「もう俺がやるよ。ゴミというゴミ以外は残しておくから。後は適当に片付けて……って、ちょっと寝ないで!」


「もうカップルみたいな会話うるさいなぁ。間に合ってるしそーゆー趣味ないから」


「俺もそういう趣味はないよ。ただここは針裏の部屋なんだから、どこに何があるのかとか把握くらいはしてね。いちいち電話がかかってくるのは嫌だから」


「電話するくらいなら探すのを諦めるっスよ」


「いや、そうならないように今見ててって……一言くらいは聞いてよ。むしろこの数秒間で寝れるのがすごいや」


 呆れてもう起こそうとはしなかったが、片付け終わってから一つ気になる事があった。


 ――ここからお風呂場が見えるけど、シャンプーもリンスもボディーソープもなくない……? お風呂ってどうしてるんだろう。二日にいっぺんくらいは大学で入ってるのかな? それにしたって汗を流すくらいの目的の為にあるんだから、シャンプーとかはないか。


 自分の大学生時代を思い出す。そして大変な事に気づいてしまった。


 ――待って待って待って? じゃあまさか髪とか水でしか洗ってないの!? だからこんなに髪がボサボサなのか……! 研究室自体臭かったから気づかなかったけど、実は針裏も臭いかも!?


「起きて針裏っ! まずは美容院に行こう!」


 怠い、眠い、面倒くさいの三拍子しか言わない針裏を引きずり、四ノ宮行きつけの美容院に連れて行く。すっかり顔馴染みの四ノ宮が来店し、店員達が名前を読んで挨拶をしている。


「こんにちは。すみません、予約していないんですが空いてますか?」


「はい、空いてますよ! 夏祭りが始まる前は多かったんですが、イベントが終わるとポツポツ空きが出るんですよ」


「だってよ針裏。今日は友人のカットをお願いしたくて。あと、トリートメントもした方が良さそうなくらいにゴワゴワなんですけど……」


「あー……歯ブラシみたいな質感になってますね」


「見かけは針を立てていない時のハリネズミっぽいですよね」


「針っぽいのは髪が絡まっているせいですね……」


 店長と思しき男と四ノ宮の散々な言いように、「失礼な」と反発しようとしたが、鏡に映った自分の髪は確かに酷評が頷けるくらいに酷いものだった。ベテラン店長以外の店員達は笑顔が引きつっており、鏡越しに視線も感じる。


 街中ですれ違う人すれ違う人には容赦なく奇異の眼差しを向けられ、大袈裟に避けられていく。気にもしていなかったが、客観的に見てあの反応は妥当だったと今なら思える。椅子まで誘導されると質問が始まった。


「じゃあ四ノ宮の言う通り、カットとトリートメントで」


「カラーはどうしますか?」


「このままでいいっス」


「髪型のご希望などございますでしょうか?」


「おまかせしまーす」


「かしこまりました! では先にシャンプーからしますのでこちらへどうぞ」


 大人しく着席した事に安心し、四ノ宮は順番待ちのソファで座って待つ事にした。


 携帯電話で世界のニュースを読みながら過ごした小一時間。暗くなった視界を見上げると、そこには一人の男性の姿があった。研究室にいる時の針裏と全く同じ格好であるものの、見違えたように髪には清潔感がある。


 家を出る時にヒゲを剃らせた甲斐があり、首から上を見れば年相応の社会人に見える。冴えない浮浪者のような雰囲気は消え、性格に難がありそうだという印象は変わらないが整った顔立ちである事は確かだ。

 高校時代のイケメンの復活に、四ノ宮は無言でただただ首を縦に振った。


「……これで満足っスか?」


「うん、うんっ、うんっ! 見違えたよ! 髪もサラサラだし、寝癖のない針裏を見たのは初めてかも。癖毛もブロー次第でストレートになるものなんですね。セットまでしていただいたんですか? ていうか、ちょっと俺と似てるかも?」


「四ノ宮さんすっかり保護者みたいですね。癖は完全に寝癖で、元々癖がつきやすい髪質なのですが、毎朝直すのが面倒だとの事で軽くパーマを当て、セットしなくてもいいようにしてみました! どうでしょう!」


「とてもいいですね! これで寝癖がついてもいつもよりは絶対に見栄えがいいです」


「完全に僕の保護者になりきってるけど、保護者なんだからお金は払ってくれたり?」


「……俺より稼ぎあるよね針裏は。月収はとか二十倍くらいあるよね?」


「財布忘れた」


「…………」


 美容院を出てからは、今までに向けられていた視線とは一八〇度も違うものになっていた。格好はだらしないままだが、顔と髪次第でこんなに人へ与える印象が変わるらしい。


「安心したよ。君、独身だったらいろいろとヤバくなりそうだからね。人間としての幸せを知らないまま、学者人生を全うしそうだよ。それはそれで一つの生き方だとは思うけど、針裏の幸せそうな笑顔を一度でも見てみたいや」


「別に興味ないし。女って束縛チックだし、恋人って関係自体が既に束縛じゃん。好き勝手したいのにいちいち機嫌損ねられちゃ面倒極まりないっスよ。絶対無理無理。家に帰んのもデートもイベント事も面倒いし」


「うーん、針裏は偏見チックだよ。寛大な女性も世の中には沢山いるはずだよ」


「そうっスか? そういう四ノ宮も彼女いないし、人の事言えないでしょ」


「俺はいつ死ぬか分からないもん。そんな人の帰りを待たせちゃ可哀想だよ」


「何そのあえて作ってないです的な嫌味〜」


 悲しい言葉を無視し、明るい方の話題を広げる。そんな未来があって欲しくはないという願いを込めて。


「ははは、そう聞こえた? ああここ。早くその汚い服から着替えないとね。てか長袖に白衣って暑くないの? 脱げば?」


「暑さには強い。寒さには弱いんスよ」


「耐熱性なんだね」


「僕の研究室はクーラー壊れたままだから自然とねぇ」


「直してもらえないの?」


「いろいろあって弁償しなきゃいけないんスよね」


「有り余ったお金はそこにも使うべきだと思うよ……」


「それ、提出物出しにきた学生にもぼやかれたんスよね」


「そりゃ暑いもん。夏だし血も肉も腐りやすいだろうに。凄まじい匂いだよ」


「へぇ、気づかなかった」


「耳鼻科行ってらっしゃい」





 夜六時過ぎ、服も買い終え何故かショップバックを持たされている四ノ宮。針裏は遠慮という物を知らずに家まで荷物を持たせている。行きは浮浪者、帰りはIT系の若社長の風貌であり、イメージチェンジは成功だった。家に上がり、帰路の途中に立ち寄ったコンビニで買ったビールやつまみをテーブルに広げる。


「家具がテーブルだけって前衛的だよね」


「間に合ってるんスよ。テーブルあるだけマシ」


「布団くらいは用意すべきだと思うよ。ああそうだ、これ持ってきたのに部屋のあまりの惨状に渡すの忘れてた。はいプレゼント」


「……何これ?」


 開けると、白い布が出てくる。広げてみれば、それは一番身近な衣服だった。


「どう? その白衣、撥水加工されているんだよ。だから濡れないし汚れない。効果が落ちてきたらこのスプレー吹きかければ復活!」


「四ノ宮にしては気が利くんスね」


 逸らした先の窓に微かに映る針裏の目は優しかった。見た事もないくらいに穏やかで、口角も心なしか上がっている。


「いつも気をきかせてると思うけどなぁ」


 針裏は見られている事に気づいていない。今だけは、いつも一枚も二枚も上手な彼の上に立っている気分だ。何より、初めて笑顔にさせる事ができて嬉しかった。


「これで全部の服を洗濯しなくていい訳っスね」


「まあ撥水剤スプレーしちゃったら洗濯の意味あんまないけどさ、白衣は汚れちゃうからであって、他の衣服は洗ってよ!?」


「めんっどくさ!」


「言うとは思ったけど……」


 苦笑する四ノ宮に、「当たり前っスよ」と返す針裏。再会してから約一年。大人の仲間入りをしてから学ぶ事も沢山あったが、今は親友の存在の大切さを今までよりも深く知った。


「あ、それ。懐かしいなぁ」


 テーブルの下に高校時代の名札が落ちているのを見つけた。


「ああ、こんなとこにあったんスね。てっきり自分で捨てたかと」


「え、名札とかとっておかないの?」


「うわ、四ノ宮そういうタイプ? 女々しい〜」


「ははは、こんなんで女々しいって言われるのも癪だなぁ。んじゃあこれ要らないなら帰りに捨ててくよ」


 そう言いズボンのポケットにしまった。

 積もる話というものがなくはないが、当たり障りのない話をする。そのまま居心地の良さから夜の九時まで話し込んだ。

 最後の一本を口に付けてビール缶を傾けるが出てこない。九〇度以上首ごと後ろに倒しても、一滴しか落ちてこなかった。あたりに並ぶビールの缶は十本を超える。酒豪である針裏の分も含めればかなりの数だ。


「あれ、もう無いや。でも飲み過ぎたね。お酒じゃなくて違う飲み物を買ってくるよ。コンビニってここを出て右を三分くらいだったよね?」


「そーそー。三分経っても着かなかったら間違ってるって事〜」


「了解。じゃあいってきます」


「そういういちいちの挨拶も律儀過ぎ〜」


「挨拶って大切なものだよ? いってきます」


「はいはい。いってらっしゃい」


「ははは、初めて挨拶返してくれた! いってきます!」


「何回言うんスか」


 針裏は犬を追い払うかのような仕草をしているが、悪態を物ともせずに四ノ宮の笑顔は清々しく晴れ晴れとしている。心を開いてくれた事が嬉しくてたまらなかった。

 高校一年生でクラスメイトになってからというもの、成績優秀だが素行不良の問題児と、世話焼きな優等生の奇妙な二人組は高校卒業まで続いていた。


 お互い別々の大学に進学してからは針裏が連絡をマメに返すはずもなく、自然と疎遠になっていった。一方的に親友だと思っていたのだろうかと四ノ宮は少し悲しくなったが、再会してからは以前よりも深い仲になれたような気がする。


 気難しく、近くにいる事すら至難の技である針裏。そして実力があり難はあれど天才と謳われている彼に認められる事はもちろんだが、何よりも正義感を鬱陶しいと言って離れていかなかった、唯一無二の存在である。


 避ける事すら面倒だとも言いそうだが、本気で嫌がっているのではなく、嫌味は彼にとって酸素を吸い込み二酸化炭素を排出するのと同等の行為だ。

 しかし四ノ宮に向ける言葉には毒気がない。彼の言葉はチクリと刺す針のようなものばかりだが、ハッキリと根拠や自信を持って接してくれ、気付かされる事の方が多い。


 彼の針のような言葉の裏を読めば、気遣いという優しさが感じられた。


 四ノ宮にとって、とても有り難い存在だった。


 様々な思いを噛み締めながら外に出ると、たちまち生温く湿った空気に包まれる。それはどこまでも付き纏ってきて、歩く気力を少しずつ削ってくる。


「やっぱり、お祭り行きたかったなぁ」


 学生時代に二人で行った事を思い出し、今日行かなかった事を後悔した。無理矢理付き合わせたが、悪態をつきながらもなんだかんだ言ってついてきてくれた。それは今日の彼と重なるくらいで、変わらない事に安心感すら覚える。


 暑さから逃れるように、土地勘のないところでコンビニの灯りを求めた。くだらない事を考えている間に着き、水やジュース、アイスも買った。レジで会計をしてもらっている時には、家に到着するまでの三分間でアイスが溶けないかという心配をしながら支払った。


 本日二度目の帰路につきながら星を眺める。普段は忙しさから空を見上げる事も少ないが、久しぶりに見た夜空は星の主張が強い気がした。

 その訳は案外すぐ近くにあり、何故かを知った瞬間に奇妙さを覚える。

 それと同時に嫌な予感がし、胸騒ぎに襲われる。


 ――来る時、見落としがなければ切れかけていた街灯はなかった。突然切れるなんて事はあるのだろうか。無いとは言い切れないけど……。


「…………っ! この気配ッ!」


 目を凝らすと、暗い街灯の下で佇む獣のような影が見えた。

 気づいた瞬間に間髪を入れず制御装置(リミッター)を発動する。見かけは何も変わらないが、これで人外へこちらからも干渉できるようになる。武器は拳銃一丁で弾は十発しかないが十分だ。


 獣型ならば知能はそこまで高くないはずであり、経験上一番倒しやすい。


 この見立てが、甘かった。


 睨んでいた先の影が風景に溶けたかと思えば、それは目前にまで迫っていた。ほぼ反射的に引き金を引くが、緊張のせいか手汗が酷く滑らせてしまう。


 急いでもう一度トリガーに指の腹を置くが、引くよりも早く人外からの攻撃を食らう。飛んできた大きな拳に吹き飛ばされ、後方へ無様にも何度も何度も転がった。

 顔面めがけて振りかぶられた手を避けたのだが、二メートルはあるであろう人外は上から無秩序に手を振り下ろしている。避けきれなかった肩に拳を叩き込まれたのだ。


「う、あぁあぁああ……つっ……あぁッ……!」


 木に亀裂の入ったようなミシッという音の後には、耳元で何かが砕ける音がした。四ノ宮はくぐもった呻き声をあげながら、激痛に息を荒らげた。左肩から腕にかけてが変に捻じ曲がり、もはや使い物にはならない。力も入らず指一本動かす事ができなくなっていた。


 けれど左腕を庇う暇もなく、だらりとただの肉塊に成り下がったお荷物を煩わしく思った。意思なくぶら下がる腕というのは、こんなにも重いものなのかと初めて知る。


 ――こんな左腕に構ってなんかいられない。これをエサにしてでも倒さないと……!


 腕を失えば退魔師としての人生も失う事になるかもしれない。しかしそれは重々承知の上でこの職についているのだ。


 四肢を食いちぎられようと、上半身と下半身とを切り離されようと、体にいくつ風穴を開けられようと。武器がなくたって、腕や足が一本もなくなったって。


『命ある限り最大の最善を尽くす』


 それが仕事だ。その覚悟を持っていたはずなのに、死が目の前をチラついた途端に恐怖心に体が支配されそうになる。


 こんな時に決まって思い出すのは、凄惨な事件現場になってしまった実家の事だった。

 温かく優しい両親や妹の事だった。

 すると心が奮い立たされる。それはふつふつと腹の底から湧き上がる怒りであるが、今は原動力が何でもよかった。


 目の前の人外を殺せれば、今は、それで全てが良かった。


 銃弾を撃つが人外の体をすり抜ける。驚き亜然と立ち尽くし、おもむろに制御装置(リミッター)を視界に捉えようとした。

 破損し、機能しなくなっていたのだ。


「嘘、だろ……?」


 目の前の人外が、ニタリと口元に笑みを浮かべた。口の端からヨダレが糸を引きアスファルトの上に落ちる。

 四ノ宮は嫌悪感と恐怖に顔を引きつらせながら後退った。


 その反応すら楽しむように、残酷にも鉛のような拳は振り上げられた。

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