エピローグ
『ティアが……死んだ』
彼女の死を知ったのは、青々とした晴天の朝の事だった。清々しいまでに晴れていて、雲一つないこの空は、今は亡き彼女を連想させる。
「今、なんて……」
『蔦森呼斗に、殺されたんだ』
はっきりと電話越しに実子からそう告げられる。動揺する心は、まとまらない感情が溢れそうになっていた。
「そんな、そんな事って……」
『とりあえず帰国しろ。右京隊の隊長はお前だろう。お前がしっかりしなくてどうする』
「だってそんな……ティアちゃんがっ……!」
『落ち着け! ……この電話を切ったら帰国の準備をしろ。そして帰ってきたらまずは、本部の局長室に行け。一局長が待っている。それから他の五人は、人外対策局管轄の病院に入院中だ。今は……隊長としての務めを果たせ』
実子の言葉は厳しかった。
彼女の言葉は正しかった。
実子の言葉は優しかった。
彼女の言葉は冷たかった。
「ああ……ごめん。……ありがとう」
混乱で頭がおかしくなりそうだった。それでも正気を保てていられたのは、きっと彼女の言葉があったからだった。
――仲間の次は、部下を死なせてしまった。
*
「……右京隊隊長、実盛右京です」
ドアをノックした後に名乗ると、すぐに返事が返ってくる。入れと言うこの声は今までに何度も聞いてきた。しかしあまり好きではない。局長が嫌いなわけではないが、その声を聞く機会がどうしようもなく嫌だったのだ。
「海外任務ご苦労だったな。早速キメラ事件についてだが、見事仮編成右京隊の訓練生は任務を遂行した。悟原というキメラは無罪放免で釈放済みだがな」
「……は、何故ですか。何故キメラが世に放たれるんですか?! それに、釈放するにしてもそれまでの日数が……裁判も行なっていないのでは……?!」
「そして訓練生である御祈祷ティアは、戦闘中に命を落とし殉職した。これで今回の事件は終わりだ。右京の口から五人へ報告しろ。以上だ」
右京の言葉に聞く耳を持たない局長の言葉はあまりにも機械的で、およそ感情というものは微塵も感じなかった。死者数の多いこの組織の中で、いちいち死を悲しんでいては局長は務まらないのかもしれない。だが、それはあまりにも無情だった。せめても死を悼む素振りくらいは見せるべきだ。
「……そもそも無茶だったんですよ。彼らだけにあんな大きな事件を任せるなんて、時期尚早だったんです。所属してから二ヶ月やそこらの訓練生六人でこの任務に当たろうだなんて……。どうして局長は直々にこんな命令を出したんですか?!」
「彼女達はもう優秀な退魔師だ。それを何故隊長自らが否定する。右京が一番に認めてやらんでどうするんだ。任務は遂行したんだぞ」
その言葉の意味が分からなくてただ黙ってしまう。彼女達と言った局長の言葉には、何か裏がありそうだった。「彼女」が示すのはティアの事だろう。しかし何故、既に亡くなっている人を先頭に立てたのだろうか。これが局長なりの悼み方だったのだろうか。
「……っ、失礼します」
局長室を出てからも怒りは収まらない。街を展望できる程の高さから眺める景色は、ありふれた言葉で語るのならば、単純に綺麗だと言える。特筆すべき事がないくらいに当たり前で、ありきたりな美しさだった。
自分がどんなにちっぽけかを思い知るには充分の高さ。しかしどうだろうか。局長ほどの人は、他人がどれ程までにちっぽけな存在なのかという事を知るのではないだろうか。だからこれは、一局長にとっては無力な人間を見下すための高さでしかない。
先頭に立つ者は、部下の死体を踏み越える事もないのだから。
――ダメだ。こんな感情のまま、あの五人と向き合うわけにはいかない。頭を冷やしてから……そうだな、明日行こう。俺なんかよりもずっと、彼女と親しかった彼らの方が辛いはずなんだから。
*
病室に来た隊長から、ティアの死が告げられた。あまりにも衝撃的だったが、同じ病室にいない事から薄々察しはついていた。ただ、それを信じなかった。信じたくなかったのだ。
「なんで……、なんでっ……!」
彼女の最後を見届ける事のできなかった愛花は、まだ彼女の生存を信じていた。実際に見届けた夜斗がなんと言おうとも、今この瞬間、右京から告げられるまでは嘘だと信じていた。しかし嘘が嘘ではなく真実だと証明され、愛花の頬には涙が伝った。奥歯を噛み締めるが、感情はそのまま流れ落ちていく。
見届けた夜斗すらも、五人全員が彼女の生存を信じていた。ティアの事だから、いつものふざけた調子で「なんちゃって」とおどけながら帰ってきそうな気がしていたのだ。死を告げる右京の言葉は、淡々としながらも本人はだいぶやつれた様子だった。
「嘘ですよね……嘘ですよねっ?!」
訊いているのに、聞きたくない。そんな愛花の心情を誰もが察する。聞きたいのは現実ではない。今求められる言葉は、優しい夢だった。
「……あいつ、俺達を救ってくれって頼んで、でもその代わりお前を殺すって呼斗に条件を突きつけられたんだ。それに解毒薬が六つしかなくて、自分の代わりに悟原を救ってって言ってた。その後呼斗に……。そして解毒剤打たれて動けるようになった俺と悟原で、呼斗を殺した。……ティアと悟原がいなかったら、俺達は今……生きてねえよ」
だいぶやつれてしまった夜斗の言葉を聞いている間に、悲痛な表情で涙を浮かべる信太。しゃくりあげながら嗚咽を漏らしていた。初めて詳しく聞いた当時の状況に、自分を責めた。
「オレが……オレが弱いせいでっ……! なんで自分の命犠牲にすんだよ!」
震える信太の声には、自身への憤りがこもっている。自責の念にかられる彼の姿は、彼らしくはなかった。
「……ボク、ちょっと外の空気吸ってくるよ」
聞き終わったアルはいつも通りの口調で、しかしものすごい形相で静かに病室から出て行ってしまう。これほどまでに感情をむきだしにしたアルは初めて見る。すれ違い様に、右京と目を合わせる事もなかった。
――未来なんか視えてても、視えるだけじゃ意味がないんだ。何やってんだ、ボクは……。同じ過ちを何度繰り返す……?!
アルの後ろ姿を見届け、佐久兎は布団で身を覆う。拒絶の姿勢を示しても現実は変わらない。そんな事は重々承知だった。ただ、今はこれ以上何も聞きたくなかったのだ。
皆が動揺と喪失感に支配されていた。その悲しみは心の余裕を無くし、やがて怒りや憎悪へと姿を変えていく。
そんな状況下で、隊が機能するはずもなかった。同室であるものの、心の距離は以前より遠くなった気がする。楽しい会話なんてできるはずもない。その代わりに、重い沈黙が病室に蔓延った。
仲間の死という、右京や実子、八雲の所属していた零崎隊と同じ理由で、今、右京隊は同じ末路を辿ろうとしている。
誰もが失った大切な人の名を今日も呼んだ。何度も何度も、一日の内に心中で強く呼び続けた。
『……やあ、久しぶり』
夜斗の中ではこの悟原の言葉が引っかかった。ティアの死が確定していた時点で、あの部屋にはもう話す相手なんていないはずだったからだ。
――まさか、ティアは生きているのか?
そんな希望が脳裏をかすめるが、それはきっと願望でしかない。久しぶりというあの言葉は、直前まで戦っていたティアにかけられるべき言葉ではない。久しぶりに会った誰かに向けられるのが適切だ。
――天にはなんて言おうか。ティアの事をまかせてくれた八雲さんには、どんな顔で会えというのだろう。ティア無しでこの隊は機能するのか? 間違いは誰が正してくれて、バラバラになりかけている俺達の事は、一体誰が繋いでくれる?
ティアがいなくて俺は……俺はこの先どうすりゃいい。もう二度と大切な人は死なせないって誓ったのに、また大切な人を失った。
言ったじゃねぇか。
『私も皆とした約束は、ちゃんと果たせるように守りたいな!』
約束を守りたいって。
『皆……生きてまた会おう。必ずだ。誰一人欠けずに、皆生きて必ず帰って来るんだ』
生きて右京さんにまた会って、皆でここに帰ってくるって。
『……約束だからな! 誰一人欠けずに、皆生きて必ず帰って来るって』
信太のその言葉に拳ぶつけ合っただろうが。
『じゃあほら。もう一回約束だ! 誰一人欠けずに、皆生きて必ず帰るぞ!』
誰一人欠けずに皆で生きて必ず帰るって。それに最後だって口にしたのは、この約束だったじゃねぇか。
『約束……。誰一人欠けずに、皆生きて……必ず、帰、る……』
嘘だったのかよ。その約束は果たされないまま、嘘で終わっちまうのかよ。そんなん、ティアらしくもないだろうが……!――
ここにいる誰もが、ここにいない誰かも。
彼女の幻想を見て楽しかった日常を思い出し、彼女の存在を心から願った。
*
白衣に身を包んだ男が病室を眺めていた。前髪で隠れた瞳は、どんな色を映しているのだろう。それを知れる者はここにはいない。そして、相変わらずの寝乱れ髪を乱暴に掻きむしった。
白い部屋のベッドには、一人の少女が眠っている。繋がれた心電図からは一定の音が鳴り続けていた。
「……願う現実、それは真か真の嘘なのか。本当に約束は破られたんスか? 光を見失えばそこで終わり。現実を見ようとするな。嘘を見抜け。真は既に、散りばめられた。……六人を繋ぐものは何だった〜? ねぇティアちゃん、答えてよ。君達の本当の実力はこれから見せつけてくれるんスよね? 傍観なんてさせてくれない程に、今までの人生の中で一番ワクワクしてるんスよ」
ガラス越しの問いに彼女は沈黙を貫く。
「これから始まるのは終わりの始まり……それとも始まりの終わりっスかね?」
次回から第二章です。




