No.19「最大の最善」
「これ、佐久兎の……」
ある日の朝、リビングのテーブルには佐久兎の制御装置がポツリと寂しく置いてあった。それを信太が見つけ、割れたガラスでも拾い上げるように静かに手に取る。その悲しそうな背中を、残る四人が目撃した。
「……アルは、この事は視えなかったのか? 佐久兎が出て行っちまう事、未来視の能力で視えなかったのかよ!」
アルは答えない。しかし、それが答えだった。口を開こうとしないアルに腹を立て、信太は彼の胸ぐらに掴みかかる。
「視えてたんだろ?! なんで……なんで止めなかったんだよ!」
「未来が見えてても……これは、ボクが止めていい事じゃないと思ったんだよ」
「なんでだよ、大切な仲間だろ!」
「だからだよ! ……大切な仲間だからこそ、自分で決めた道を歩んで欲しいんだ」
およそ負の感情がこもった目を静かに信太に向けた。いつもの笑顔は消え、お互いに悲痛な表情を浮かべている。
「これは自分の決める事だから……。最初に右京さんだって言ってたでしょ? 命の関わる事だって」
やがて信太の目には涙が溜まり、零れる寸前に力なく手を離した。気の利いた言葉は到底思いつかず、誰も何も言う事をしなかった。アルが一言だけ強く言った。
「これが、佐久兎の決めた事なんだよ」
夜斗はただただ気まずそうな顔をしている。その心境は複雑だと誰でも判断できるほどに、表情は心情を映していた。佐久兎のこの行動は、夜斗と同じ行為はできないと言っているようなものだった。夜斗のした事を否定しているに等しい。
そして制御装置を置いていった事が何を意味しているのか。
それは、人外対策局を辞めるという事だった。そして、右京隊にとっては仲間を失うという事になる。
人殺しがどれ程重いものなのかは、誰もが分かっている。しかし、この柵からはなかなか逃れられない。誰もがこの仲間を慕っていた。だからこそこの関係を崩したくない。大切な人を失ってきた人達が、やっと見つけた居場所。そして大切な人達だ。
――私達は、人外対策局に縛られていたから、この関係を保てていたのだろうか。それ以外に繋がりなんかなかったのだろうか。人の温かさを知った、しかし孤独だった人間が、自ら孤独を選択するというのは、どんな理由があるのだろう。
佐久兎は、何を思ったんだろう。
何も考えず理解しようともせず、否定をしなければ自分は傷つかない。
相手を想い理解をしようとし、受け入れようとすればいつかは傷ついてしまう。
信じず裏切られない生き方が前者で、信じて裏切られる生き方が後者だ。
皆、後者だ。前者だと言い張る人も、他人と相容れる時点で孤独は望んでいない。佐久兎は何かを思い、理解をしようとし、そして拒否をした。その生き方は何なんだろう。
酷く頭が痛む。亀裂の入った関係が、頭痛として現れているように。臓腑の傷みもなかなか引かない。このままでは、ただの足手まといにしかならない――
「……ティア?」
愛花がティアを呼ぶ。その先の背後の鏡にはティアが映っていた。自分自身を見て、随分と冷淡な表情だと思う。なんでもないよといつも通りに笑おうとするが、何故か自嘲気味な笑みになる。
「……あはは」
――何故だろう、上手く笑えない。
綺麗事だって笑われるかもしれないけれど、私は皆に笑っていてほしい。
いつか、命を落とすという意味で仲間を失うのではないだろうか。取り返しのつかない事が、いつか起こるのではないだろうか。
ならば、人外対策局なんて辞めて、ただの友達として関係を築きたい。
そう思う反面、私は人外対策局を辞めようとは思わない。同じ傷を抱える仲間同士だからという理由で、ここの居場所が心地良い訳でもない。
沢山の物を失った。沢山の思い出の最後は、いつも後悔しか残らない。
沢山の人を喪った。この先も、この組織に所属し続ける限りは喪い続けるだろう。
それなのに、私を今、人外対策局にとどめているものは果たしてなんなのか――
「……ア……ティアってば!」
いつから愛花はティアを呼びかけていたのだろう。考え込んでいたせいで、声が届いていなかった。先程も呼んでくれていたはずなのに、また考え事をしてしまっていたようだった。
「あぁ、ごめん! んじゃ学校に行きますか!」
このままでは、周りが見えなくなってしまう。
このままでは、周りを見なくなってしまう。
*
「ティアー?」
昼休み、実子隊の朱里が一年A組の教室を訪ねてきた。
「はい……?」
「うわぁ、ティア大丈夫ぅ? クマ酷いしやつれてなぁい? 愛花もあんたを心配してて、授業に全く集中してないのよぉ」
「クマ……? 愛ちゃんが授業に集中できてない……? 教室に熊が出たんですか? どこへ連絡すればいいんでしょう。役所ですか、保健所ですか?!」
「ベアじゃないわよ、目の下にあるやつよ。クマにも気づいてなかったなんて、自分の事は一番お粗末ねぇ。少しくらい自分を大切にしなさいよ。ティアがどんだけ周りに影響を与えているのか、分かってないんでしょ?」
自分に周りへ影響を及ぼせるほどの価値なんて無い。朱里は、かいかぶりすぎなのではないだろうか。そう思った。
「……あはは」
困って笑うと、朱里は頬を膨らませた。
「まぁたそうやって笑う。強がるせいで周りに心配かける事だってあるんだから、たまには誰かに感情吐露するのも悪くないんじゃないのぉ? ストレス溜まってるでしょ」
「そんな事ないですよ?」
「少しは朱里の事見習ったらぁ? ストレスフリーで生きる方法とかさぁ。……それに、そっちの隊長さんは随分とお人好しなのねぇ」
朱里の口から、右京の事について出てきた。あまりにも以外で、ついつい間の抜けた声がでる。
「分かってるんでしょ? 右京さんがわざわざ辞める道を示した理由」
「右京さんの言葉のまま、命あるものを殺す事に覚悟し切れていない私達に、逃げ道を提示してくれたんじゃないんですか……?」
「そうねぇ、でも朱里達の隊ではそんな事はわざわざ言われない。あんた達の隊とは、決定的な違いがあるのよ」
「違い?」
「スカウトされたのは一緒。でも断る余地があった。右京隊とは違うわぁ。朱里達は、自分の意思で組織に所属する事を決めたのよ? それに比べて右京隊は、覚悟とか色々と不安定で不確かなんじゃなぁい? 人外対策局っていうのは、大切な人を失った人しかいないから傷の舐め合いみたいなところがあるけど、デカイ傷を抱えているからこそ、考え方の違いが大きな溝を生むの。憎しみを原動力にしてる人の方が多いわ。だから白砂派……つまり、人外との共存を望まない派が多いわねぇ。だって、その方が楽だもん」
人は楽な方を選ぶ。一枚岩ではないこの組織の中で割れているのは、しかし人は楽な方のみを選ぶわけではないからだった。
「この先そんな険悪な関係になりそうな人達とも、円滑な人間関係を築いていかないといけないわよぉ。朱里も不安じゃないって言ったら嘘になるけど、誰もがティアみたいに器用に人と関われる人だけじゃない。人を惹きつけて人を動かせるような人材、こんなジメジメしてる組織には必要だと思うけど」
「か、過大評価しすぎです」
朱里の言う事は一理ある。確かに覚悟や関係性、そして目的意識さえも不安定で不確かだ。しかし彼女の目に映る自分の像が、あまりにも実物とかけ離れているようにティアには思えた。
「ジメジメしてるだけの土があったって仕方がないのよ。命懸けてんだから、笑顔咲すくらい生産性のある事をしないとさ。ティアは太陽であり、恵みの雨よ。……なーんてねぇ。本当だけどここまで朱里に言わせたんだから、それくらいの働きはしなさいよねぇ。じゃあ、お節介焼きに来ただけだからぁ〜」
くるりと踵を返し、背を向けそのまま手を振りながら教室を出て行ってしまった。
「……私、いったいどんな風に映ってるんだろう」
しかし、ティアの迷いは不思議と消えていた。
――悩んでいたって仕方が無い。
*
事件から一週間が経った。そして今朝佐久兎がいなくなった。どこにいても、夜斗を見れば後ろ指をさして「こいつのせいで」と始まり、罵倒を浴びせる。
――あぁ、またか。……居場所が無ぇや。
帰宅しようと校門を出たところで、十台のカメラに囲まれる。一ヶ月くらい前もこうしてカメラに囲まれていたっけと、今は違う意味で注目されている事を思い出す。
「夜斗さん! 人外を操り生徒を襲わせたという憶測が飛び交っていますが、本当なんでしょうか?!」
「人外対策局の人間が人外を使って人間を襲うなんて、一体どういう事なんですか!」
「やはり襲わせたのは夜斗さんなんですか!」
――居場所なんて……もう、無いのか。
反論する気力もなく、ただただ近くの質問だけを眺めていた。
その時だ。
「口を謹んでください」
いつの間にやら自分よりも頭一つ分くらい小さい女子が、夜斗とカメラの間に割って入っていた。驚きに顔を上げると、見慣れた姿がそこにはある。
「……ティア、どうして」
「ティアさん、今回の件はどうお考えですか!」
「どうって……出処の分からない、そんなデマ情報の事をですか? 先ほど貴方自身が口にした通り、事実に基づかない憶測でしかありません」
人外対策局員としてではなく、一人の人間としてティアがそう発言した。人外対策局に所属する身としては、ここでの勝手な発言は控えるべきなのだ。
「夜斗は命懸けで人を守ったというのに、人外を操って人を襲わせたって……? 冗談じゃない。どうしてそんな事が言えるんでしょうか。そんな事実は一切ありません。私達は、常に何が『最大の最善』であるかを考えながら戦っています。実際、常に命を天秤にかけるような事ばかりです。……退魔師だから命懸けで人を守るのが当たり前だとか、それが私達人外対策局の人間が当たり前にする事だと言うのであれば。……退魔師達を、自分達の保身の為の消耗品程度にしか思っていないのであれば。貴方達は皆、批判し貶めようとしている対象である私達よりも残酷で、世界は自分中心に回っていると思っているような、自分勝手で可哀想な人達だ」
これは、批判される事を覚悟の上で述べた言葉だった。しかし多くの人の心を動かしたのも事実で、今一度考え直さなければならない事にも気づかされた。そしてティアが庇ってくれた事に、情けなくも嬉しく思った。
「ティア、ちょーっと無茶しすぎ! あははっ」
「そうよ、いきなりテレビに出てたからびっくりしたじゃないの!」
「そうそう、夜斗の顔見た? ティアが現れた瞬間に泣きそうになってやんの!」
「な、なってねぇよ!」
またしても突然現れた三人が、カメラと夜斗達の間に入る。信太の言葉を否定するが、次の言葉を聞き、更に喉が絞まる感覚にとらわれる。無邪気な彼の言葉を、とても頼もしく思ったのだ。
「居場所が無いって思ってんならちげーかんな! 仲間だろ、オレ達さ!」
――あぁ……何考えてたんだ、俺。居場所なら、ここにあんじゃん。
「それは当たり前! 夜斗の居場所なんていくらでもあるんだから。何を勝手に孤独になった気になって黄昏てるの?! こっちが寂しいでしょうが。高校生が黄昏るなんて寒いよ!」
珍しいティアのしかめっ面。自分よりも小さい彼女を、自分よりも何倍も頼もしく感じる。
「ティアこそ勝手に心読むなよ!」
「え? かっ……勝手に流れ込んできてた?!」
「はあ?! コントロールできるんじゃなかったのかよ!」
「ごめん?! だって強い思いは勝手に流れ込んできちゃうから……!」
慌てるティアの頭に手を乗せた。彼女の小さな頭は、夜斗の手に容易に収まってしまう。彼が手をどけた後、ティアは両手で頭をおさえた。まだ残る温もりに触れ、怪訝そうな顔をする彼女に一言、伝えたい言葉を口にした。
「……ありがとな」
*
深夜二時。右京隊の部屋の扉が開く。電気がついていた事に驚いたのか、少し小走りでリビングに向かってきた。
「おかえり」
「おう、ただいま。……待ってたのか」
「やだなぁ、眠れないだけです! そういえばご飯食べた?」
「まだ」
「じゃあ用意してくるね!」
「もう遅いんだから寝ろ。自分で用意するから」
「眠くないよ〜、冴えっ冴え! ちなみに今日の夕食はオムライスです!」
そう言い残しキッチンへと向かうティア。その後ろ姿を自然と目で追った。
戻ってきたティアの手にはお盆の上にオムライスとケチャップ、水とスプーンが置いてある。それをテーブルへ静かに置き、そのまま夜斗の隣に座った。
「天が手伝ってくれたんだよ!」
「そうなのか。作ってくれたのに悪かったな。……天にも、ティアにも」
「私は気にしてないけど、天は寂しそうだったよ。天は夜斗大好きっ子だからね!」
優しい笑みを浮かべる。今までに、どれだけこの笑顔に救われてきた事だろう。この組織に所属してから今までを思い返すと、ティアの笑顔ばかりが頭に浮かんだ。
「どこに行ってたのかとか、訊かないんだな」
「躊躇いなく言えるなら、訊かなくても先に言うかなって思って。人には言いたくない事もあるよ。あ、食べたら下げといてね? 洗わなくていいから、お風呂入ったらすぐ寝なさい!」
ティアは立ち上がり、おやすみと言うとそのまま立ち去ろうとした。小さな背中を見て雨の日の夜を思い出し、夜斗はその手を掴む。
「夜斗……?」
「あの時とは逆だな。あの雨の日の夜、弱ってたのはティアで、去って行く手すら掴めなかった。でも、今は違う。なぁティア、本当に……ありがとうな。感謝してもしきれねぇや」
不安の色を映していた彼女の顔は、やがて零れ落ちそうなほどに目に涙を溜めた。潤む瞳に、への字に結んだ口。涙を堪えているせいで、頬はやがて紅く染まった。
「……本当は、私の顔も見たくないんじゃないかと思ってた。キメラの時だって、悠君の時だって、いつも夜斗の事を傷つけて……だから本当は、本当はっ……!」
「馬鹿。なわけねぇだろうが」
そう言い、腕を引っ張る。息がかかりそうなほどの至近距離で、夜斗はティアの瞳をまっすぐと覗き込む。
「俺は……人を殺したのか? それとも、人外を殺したのか?」
「……人外、だよ」
――――それは事実で、優しい嘘だった。
「もし次にまたキメラが現れたら、もう俺は躊躇しない。元が人だとしても、俺が人殺しだと言われようとも躊躇わない。もし、敵が俺の家族だって、俺はもう迷わないから」
穏やかに微笑む夜斗の守りたいものは、もう近くにあった。
「俺にはそこまでしてでも、守りたいものができたんだ」
それはもう、目の前にいる。ティア、そして仲間達。彼にとってかけがえのない存在が居場所となり、そして拠り所となっていた。
「ティアが病院で目を覚ました時、大切なものがあるから弱くなる人と、大切なもののために強くなれる人、何が違うのかって八雲さんの問いにこう答えたな。大切なものを信じられるか、信じられないか、だって。俺は大切なものを失いたくないからこそ、人は強くも弱くもなるんだと思う。大切だと思う気持ちと、信じるという気持ちはきっと似ているんだ。何もティアが気に病む必要はないからな。おかげで少し、俺は強くなれた気がする」
ティアの腕から手を離し、自分の座っているソファーの隣のスペースを二度ほど軽く叩く。その行動の意味を理解し、彼女は再びソファーに腰かけた。
「今日はな、悠の墓参りに行ってきたんだ。なんか……いろいろと吹っ切れて、しっかりケジメがつけられた気がする。ティアには今まで救われてきたし、ありがとうとかごめんとか沢山言わなくちゃいけないな」
「……ありがとうも、ごめんも受け取る」
それはティアの優しさで、
「だから、夜斗も私からのありがとうもごめんも受け取って」
「俺は、ありがとうしか受け取ってやらない」
「……夜斗らしいや」
――これは俺の我儘だ。




