No.11「見舞い人」
院内を早足で歩く。すれ違う人が恐れをなして道を開ける中、愛花と夜斗は険しい顔でただひたすら歩みを進めていた。少しでも早く、その気持ちに急かされていたのだ。
一〇二号室の前に立ち、意を決して扉をノックをする。そのまま返事を待つ事なく、間髪いれずに横開きのドアを開けた。初めに目に飛び込んできたのは、意外な事にも人垣だった。
「右京さんに新とバルまで……。どうしたんですか?」
「やあ夜斗君。愛花ちゃんも入りなよ」
右京さんに促され入室し、静かにドアを閉める。そして窓際のアルの元へと向かう。そこでやっと見えるティアの姿に、愛花は軽く悲鳴をもらした。夜斗も息を詰まらせる。平静を装おうとするが、いつも通りの表情を作る事が困難になる。
点滴をするために布団から出された片腕は、七分袖なのに見える肌全体が赤紫色をしていた。点滴の管以外にも繋がっているのは、心電図や血圧など測るためにつけられているものだろう。肌の痣といいこの状況といい、決して軽視していたわけではない。しかしこれはあまりにも酷かった。
「一般病棟に移されたのは今朝の事なんだ。衰弱しきってて顔色も良くないよね……」
アルの言葉が耳に入ってこないくらいに、佐久兎から聞いていた以上に事態は深刻だった。顔面蒼白で目の下が赤黒くなっている。いつもは桜の花弁のように鮮やかな唇に全く色味がなく、見える限りでも肌は無数の痣と擦り傷だらけになっていた。
「ショックを受けているところ申し訳ないんだけど、二人にも話を聞きたい。あの日のティアちゃんに不審な点はあったかな?」
「無かったと思いますけど……」
「あたしも無かったと思います」
「それはここにいる三人も君達と同じ回答をしたんだ。じゃあ、不審な人物を見なかった?」
「見てないと思います」
「同じくです」
「じゃあ、ティアちゃんが崖から落ちる前、どんな様子だったか覚えてる?」
「崖の上で何かを追っているようでした」
「でもあたし達には……何も見えませんでした」
「そう、そこなんだ。この中の誰も、ティアちゃんが崖だと気づかずに落ちるほど間抜けだとは思わないよね? だから、その見えない何かを追うティアちゃんの事も、こう考えるとつじつまが合わないかな。彼女は、現実とは異なる幻覚みたいなものを見ていた、もしくは見せられていたんじゃないだろうかって」
「そ、それって……誰かが仕組んだって事ですか?!」
愛花が吃驚した後に、嫌悪感を隠そうともせずに露わにした。それは犯人に向けた感情だろう。
「何よそれ……目星はついているんですか?」
「ああ、なんでも新君は昼食の時にあゆみちゃんを呼びに行く途中、誰かと密かに話す彼女の声を聞いたそうなんだ」
「あゆみって、実子隊のか?」
夜斗が訊くと新が静かに頷く。組織内に裏切り者が出たという事だ。よりによって実子隊の隊員であり、何度か顔も合わせている。あんなに近くにいて、なぜ不穏な動きに気づかなかったのだろうかと自分達を責めた。
「その時確かに『蜃気楼を起こす』って言ったんだ」
「蜃気楼……?」
何故ここで自然現象である蜃気楼が出てくるのかが理解できない。そんな顔でいると右京が察してくれた。
「蜃気楼っていう現象は、昔は大蛤という生き物の吐く息が起こすと謂れていたんだ。しかしそんなはずなんてない。大概はただの自然現象さ。……しかし例外もあって、大蛤も歳を重ねすぎると突然変異で妖怪になる事もあるらしい。大蛤という妖怪は、人々に実際には無い物を見せ困らせたという言い伝えがあるんだよ」
「でも、それが何だって言うんですか?」
愛花が不安の面持ちで頼りない声を出す。
「本来は困らせる程度の妖怪に、誰かが入れ知恵をして殺人未遂の域まで運ばせたとしたら? しかもそれがあゆみちゃんだった場合由々しき問題なんだ。人外を悪用する事は、組織としても固く禁じている事だしね。法にも触れるし、これは立派な殺人未遂事件なんだよ」
「そんな事ができるんですか? 入れ知恵って操ったって事ですか?」
「今までに人外を操った例が多々ある。ありえない事じゃないよね」
「そんな、なんであゆみがティアを……」
右京の言葉に愛花は戸惑いを隠せないようだった。あゆみには不審な点も多い。表情が乏しく、口数も極端に少ない。海にいたって、行動を共にしたのは昼食を摂るほんの少しの間だけだった。
「あれから実子さんはどうしているんですか?」
バルが右京にそう問う。いつになく真剣な表情には悲しみの色が見え隠れしている。
「新君の証言を元に、本人に気づかれないよう監視中だよ。上への報告はしたけれど、まだあゆみちゃんへの追求は許されていない」
「どうしてですか?」
「確固たる証拠がないからだよ。もし大蛤を使役したのならそれは処分対象だ。けれど、それを実際に見た人がいないでしょ?」
それきり誰もが黙り込んでしまう。しかしそんな沈黙を破ったのは新だった。
「そういえば……。いや、実際に見たわけじゃないんですけど、ティアがあの場所から落ちた時、花火を始めた頃からもうあゆみはそこにいなかった。で、でも! 常に一人で行動していたから、それがどうって事でもないのかもしれないですけど……」
「常に単独行動。疑う要素は沢山あるよね。アリバイの証明だって難しい」
「でも、まだ間違いの可能性もあるんですよね……?」
新の言葉は信じたくないという叫びにしか聞こえなかった。それもそうだ。同じ隊の仲間が殺人未遂をし、人外対策局を裏切ろうものならば動揺くらいするだろう。パニックを起こさないだけマシだといえるかもしれないが、まだ関係性が浅いからこそ保てる理性がある。
「仲間だから疑いたくないって気持ちも分かるけど、許可なしに人外を使役した時点で局内にいる権利を剥奪される。その程度で済めばいいけれど、殺人未遂もしているんだ。きっと彼女は法で裁く事になる。見逃すわけにはいかないんだよ。せめてティアちゃんが目を覚ましてくれれば、何かが分かるかもしれないのに……」
しばらくの静寂が病室を包む。人呼吸起き、右京は再び口を開いた。
「ああごめん、感傷的になっている場合じゃなかったね! 俺は更に分かった事を報告して来なくちゃいけないから、また基地に戻るよ。でもこれが殺人未遂事件だった場合、犯人がまだ捕まってないから無抵抗なティアちゃんを一人にしておくのは危ない。愛花ちゃんか夜斗君、どっちらかが今日はここに泊まっていってくれないかな。……アル君もずっと寝ずにいたみたいで、限界が近そうに見えるからね」
アルへ視線を移すと、困ったような笑顔で頭をかいていた。
「あたしはかまわないんですけど、どうして殺人未遂で狙われてるかもしれないティアに、警察とか組織内からの正式な警護がつかないんですか?」
「事故だって判断されたからだよ。一般人が人外を信じているかどうかと聞かれれば、以前よりはマシになったけどまだまだNOでしょ? 大多数の人間には見えてもいないんだからさ。だから混乱しないように警察には余計な情報は黙っておくんだ。さっき言った法律って言うのも、人外関連のものは独立していてね。刑量についても人外対策局に全てが委任されているし、法に触れる事でも特別に許可されている事もある。皮肉を込めて無法地帯なんて言われたりもするかな。とりあえずできる事として、同じ隊で守る事になったんだ」
まだまだオカルト集団チックな人外対策局と警察とでは、上手くコミュニケーションが取れていないようだった。古くから警察上層部とは繋がりがあり、四年前にやっとそれ以下の刑事達の間で繋がりができたが、なかなか難しい関係だというのも事実だった。
人間同士の治安維持のための組織が警察であるのなら、人外に関しては人外対策局が事を解決する。同じ立ち位置ながらに真逆のものだからこそ、理解が得られない。
「……俺が残るよ。愛花は天を頼む」
「そんな事言ったってあんた、アルと同じくらいにクマひどいわよ」
「俺はあの時、何もできなかったんだ。だから……」
次の言葉を迷っていると、唐突にバルに胸ぐらを掴まれる。彼は見た事もないくらいに顔を歪め、怒気を孕んだ目で怒りをぶつけてくる。
「……そうだ。君は……夜斗は、ただの役立たずだ。だからなんだ? だから今度はとでも言うつもりか? 笑わせるな。あの時何もできなかったお前が、ただ突っ立っていただけのお前が、今更何ができるって言うんだ?! 今度なんてないかもしれないんだぞ! いつまでそんな甘い事言ってやがる!!」
「……バルッ!」
新がバルを引き剥がす。返す言葉もない。あの時何もできなかった自分が、ムシの良い事を言っていたのは明白だったからだ。
「落ち着きなよバル、病院だぞ。夜斗ごめんね。バルはまだ心の整理がついてないんだ。……俺達は帰るよ」
決して俺と目を合わせないバルを、申し訳なさそうに新が腕を掴んだまま連れて出て行った。愛花は隣でバルのあまりの剣幕に身を固くしている。夜斗は、顔を上げる事すらできなかった。
「……アイツの言う通りだ。あの時あの場所に俺しかいなかったら、ティアは確実に死んでた。アル達がすぐに助けに行ったからティアは助かったんだ」
あの日の悪夢を繰り返す事になるかもしれなかった。そう思うと、握る拳は震えた。自分への怒りや、仲間を失う怖さ。やり場のない感情は心の中で膨らんでいく。
「夜斗だけじゃない。あたしも……あたしもあの時、何もできなかった……!」
愛花は床にへたりこみ、泣き崩れていた。
「……大切な人が目の前で死にかけたんだから、正気でいられる人の方が少ないよ」
「アルくんの言う通り。でもこれで分かったんじゃないかな。……ただ優しいだけじゃ、人は救えないんだよ」
右京の言葉をよく考えた。
――過去に囚われてる俺の弱さは、それを乗り越えない限り人を救えない。優しさに勇気や強さがなければ、人を救う事なんて到底できないんだ。
「じゃあ、俺達も失礼しようか。残るのは夜斗君でいいかな?」
「は、はい!」
「じゃあ夜斗、ティアをよろしくね。今日中に意識が戻るはずだから」
アルが最後に部屋を出てそう言い残し、ドアを閉めた。医者にそう言われたのだろうか。目を覚ましてくれるのなら、そんなに嬉しい事はない。ただひたすら待つだけだった。
*
アル達が帰ってから数時間が経つ。備え付けの掛け時計の針は午後三時を指していた。夏の日は長い。まだまだ午前中の気分だな、と夜斗は思った。
「飲み物でも買ってこようかな」
そう思いちょうど立ち上がったところにドアを叩く音がする。夜斗が返事をすると、ドアが静かに開かれた。
「こんにちは」
そう言い入室していたのは、二十代前半の男性。育ちが良さそうな印象で、温和で爽やかな笑顔で立っている。ティアのお見舞いに来た人だろう。だが、殺人未遂があった後なので一応警戒する。
「……失礼ですが、誰ですか?」
「あぁ、失礼。ティアの兄、御祈祷八雲です」
にわかに信じ難い言葉に、確かめるかのように関係性を復唱する。突然の来訪者は、彼女の兄だった。




