その理由
私はこの話を誰にもしていない。先輩の側から漏れるなんてことも考えにくい。だから、杵島君が知っているはずはないのだけれど。
「紗月さんはひとを責めないよね」
ふと、拘束が解かれた。背後の熱が離れる。一抹の寂しさを感じた――いや、流されすぎだろう。しっかりしろ。ここで感じるべきは「安心」だ。
自己暗示をかける私の横をすべりぬけて、杵島君はベッドから降りた。跪いて見上げられた。ひるむ私を逃がさないとでも言いたいのか、右手を取られた。
なんなの。触っていないと気が済まないの。
つっこみそうになったけれど、どう考えても墓穴を掘る行為に思えた。思いとどまることに成功した。
「こんなことしてるおれに、『そんな人だと思わなかった』とも言わない」
「心の底から思ってるけど」
先ほど「信じていたのに」と口に出したばかりだ。
「うん、でもそれ、紗月さんの中ではおれを責める言葉じゃないでしょう」
否定できなくて、私は黙り込むしかなかった。だって、「信じていた」のは言ってしまえば「思い込んでいた」と同じ意味で、「思っていなかった」のは、「見る目がなかった」ということだ。勝手な思い込みからその人格を否定する言葉を吐けるほど、私は偉くない。故意にだますつもりがあったというならともかく、責めるのはお門違いだ。
「そういうところを最初に好きになったんだけど、でも、二股男ぐらいはきっちり責めてやればよかったんだ」
やっぱり、知っている。
「その話……」
「晶子さんから聞いた」
登山サークルに残り、ゼミも一緒だった親友だが、彼女にだって私は話していない。
「晶子さんは、紗月さんの様子がおかしいってんで、件の先輩を問い詰めたそうだけど」
初耳だ。晶子は知っているそぶりすら見せなかった。そんなことまでしておいて、何故何も言ってくれなかったのか。いや、私が何も言わないのだからそれも当然か。平静を装っていたはずなのにバレバレだったとは不甲斐ない限りだけど。
「おれが聞いた時にはとっくに卒業していたから、どんな人なのか確かめたわけじゃないけど、紗月さんが引きずる価値なんてないよ。なんでその人の価値観が絶対だなんて思うの。そんなに好きだった――? 今、君のことが好きなおれの価値観なんて歯が立たないくらい?」
好きだった――?
自問したことのない問いに、私はとっさに答えられなかった。もちろん好きだから付き合ったのだ。本当に? 別れ話も淡々とこなしておいて。ショックを受けたのは別れ話の瞬間より、他の彼女がいた事実を聞いた瞬間だったんじゃないの。選ばれなかったことに傷ついたんじゃないの。
本当に好きだったの?
視線が彷徨う。意味もなく天井の角を眺めて、壁のカレンダーに移って、手元に戻る。右手の先の杵島君はその間もじっと私を見ていて、答えを待っていた。
答えなきゃ。
――でも、その前に。
「二つ、確認したいんだけど」
往生際の悪い私に杵島君は微笑んだ。言葉より明確な許諾に思わずひるむ。もしかしてこれが甘やかされているということだろうか。なぜだかいたたまれない心地になるんだけど。
促されている。見とれる程の美形じゃない、見慣れた顔だ、しっかりしろ、と自分を叱咤しながら、でもやっぱり恐々訊ねた。
「その話、他に誰が知っているの」
「おれが聞いた時には、ゼミの面子がけっこう揃ってたかな」
恥ずかしさに眩暈がした。一体晶子はどんなつもりだったのか。決して口が軽いタイプではない。だって、私にはずっと隠しおおせている。
「牽制だったんだと思うよ。だっておれ、結構あからさまに紗月さんと仲良くなりたいって公言してたから」
たたみかけられた事実に顔を覆いたくなる。そっと見守られていたことを、私一人が知らなかったのか。
「軽い気持ちなら近づくな、って面と向かって言われたし、それから魔女どもは妙に結託しておれを邪魔するし。相沢さんとかその筆頭だよ。そのくせ今日は『あんた六年も何やってんの』とか言いやがるし。自分が先に結婚決まったからってほんと……でも、まぁ、やっとお許しいただいたってことかな」
油断していたところに掌をつっと、指でなぞられた。肩を震わせた私を妙にうれしそうに見る。上目遣いはやめてくれないだろうか。
「二つ目は?」
「…………杵島君の自信の根拠」
「自信?」
「君は流れに身を任せるタイプの人間だけど、勝算もなくこんなことする人でもないことも知ってる」
「その言い方……紗月さんの中でおれは相当腹黒いね」
「今日さらに黒が濃くなったところだよ」
「まぁ、セクハラで訴えられても仕方ないことしてるって自覚はある」
「どちらかと言うと強制わいせつじゃないの。自分から部屋に入れた以上、認められるかはあやしいところだけど。だけど、聞いているのは法的な話じゃないよ」
「紗月さん、結構冷静だよね」
不満げな呟きに穏やかじゃないものを感じた。冷静で何が悪い。というか、そんなはずないだろう。
何かくるかと身構えていると、やつはこちらを見上げたまま小首を傾けた。かわいくなんかない。
「でも、なんのことだかわからないな。自信って?」
――言わせたいのか。
他意はないと主張する笑顔が胡散臭いことこの上なかった。一歩踏み出した先に罠が仕掛けられているような錯覚。でも退路なんてなくて、腹を括るしかなかった。
「私が君を好きだという、自信」