可能性の問題
お許しが出たのでベッドから降りた私は、すぐに後ろから手を引かれた。よろけながら座ったその場所は、なぜか随分暖かかった。特に、背中が。立ち上がろうとすると背後から腕が伸びてきて、腹回りをがっちりホールド。視界には四本の足が映った。私の足を挟むように床に下されているのは杵島君のものに違いなくて。
背後から抱きかかえられていた。
確かにこれなら顔は見えない。けど、明らかに先ほどよりも密着率が高い。おまけに彼は上半身裸のはずだ。
「なぜこうなるの……」
「照れ屋な紗月さんのために、顔をなるべく見ないで済むようにしてみたんだけど?」
絶句する。と、長い指が私のお腹の上で縦線を書いた。不意を突かれて体が跳ねる。隠しきれない忍び笑いは耳のすぐ横から聞こえた。
「腹を割って話そうか」
楽しそうだね。
居心地の悪さに身じろぎする。自分の部屋だというのに、何故私がいたたまれなくなるんだ。
「落ち着かないんだけど」
「わがままだなぁ」
どっちが。
「嫌なら、おれはさっきの続きでもいいけど?」
「なんで二択なの」
「こうでもしないと紗月さんが逃げるから」
回された腕に力がこもるのが分かった。頭に重みが加わる。
「ねえ話してよ。おれは本当に、ずっと好きだったんだ」
「……でも、何もしなかった」
私は最初に皆を泊めた日のことを思い出していた。試験期間明けの打ち上げで、たまにはこんなところもいいだろうと、全国チェーンの居酒屋で騒いでいた。店は朝まで開いているから、最初は徹夜する気満々だったのだけれど、連日のレポートでやはり疲れていた。一時を回るころには本気で寝入ってしまいそうな人がちらほらいたから、私は部屋を提供することになった。途中離脱で付いてきたのは五人くらい。酔いと眠気でふらつく集団は、部屋に着くなり爆睡した。私も例外じゃない。そして起きると、部屋に残っていたのは杵島君だけだった。
さすがにまずいと思った。だって、密室に男子と二人だ。だけど杵島君は普段通りで、自分ももう出るからちゃんと鍵をかけてね、と言って帰っていった。拍子抜けした。なんだ、こんなものか、と。
そんなことが三回はあった。いつも最後は杵島君で、よっぽど面倒見がいいのだと感動したくらいだ。そして確信した。私はそういう対象じゃないのだと。
「ずっと好き? だったら、今頃こんなことしなくても、いくらでも機会はあったんじゃないの?」
当時の独り相撲を思うと、自然と口調はぶっきらぼうになる。
「機会を生かしていたら、おれに見込みはあった?」
「…………」
「ゼミが楽しかったし、学生の間はこのままでもいいかな、って、たぶん、皆思ってたんじゃないの」
確かにそんな空気はあった。遠慮というわけではなく、その方が居心地よかったのだ。特別な一人なんて決めなくても十分に日々は充実していたし、失うリスクなんて負いたくなかった。ゼミの外で恋人を作る人ももちろんいたけれど、彼氏彼女をゼミの集まりに連れてきたりはしなかった。
「そのうえ紗月さんは、ゼミの外でも予防線張りまくってたし」
「予防線?」
「自覚なかったの? 『告白もさせずに振る女』って一部で有名だったんだけど」
「は?」
初耳だ。誰かを振った覚えなんて全くない。そもそも、告白してこない相手をどうやって振るというのか。
「まあ今となっては好都合だから、その辺は無自覚でいいよ」
頭の上で杵島君が笑った。色々と釈然としないけれど、下手につついたら藪蛇になりそうだ。
「うっかり振られないように、できるだけ自然に仲良くなろうと頑張っていたんだけど、紗月さん、すっごくガード堅いし」
笑いに苦いものが混ざったようだ。こんな状況に持ち込まれて、ガードも何もあったものじゃないと思うんだが、と反駁しかけて、思い至った。先ほど彼は、「意図的につけこんだ」とか言ってなかったか? つまりこれが、「自然に」頑張った成果だとでも。
「ろくに甘えてくれない人だから、付け入る隙がほんとなくてめげそうだったよ。友達の下心のない親切にも同じ態度だと分かったから、なんとか持ち直したけど」
彼がどこをどう頑張ったのか、まったく心当たりはないのだけど、杵島君は私にとって(これでも)一番仲のいい男友達になったのだから、努力したというのは事実なのだろう。不本意この上ないことに、今のこの状況はその結果、らしい。でも、彼には私などより仲のいい女友達がたくさんいる。何故よりによって私なのか。結局そこは納得できない。
「おれ、紗月さんをでれでれに甘やかしたいんだ」
楽しげに耳元で囁かれて、切ったばかりの髪の襟足がざわりとうごめいた気がした。
まずい。
何が、と訊かれても答えられないけれど、とにかくまずいと思った。逃げなきゃ、まずい。
「理解できない」
「そうかなー? 単純なギャップ萌えだよ。みんなの前ではしっかり者だけど、自分にだけに甘えてくれるって、想像しただけで……」
語尾が消えた。腹部に回った腕に力が入った気がした。こころなしか体温も上がったように感じた。
杵島君は明らかにごまかしの空咳をした。「まあ、つまるところ」もう一度、咳。
「仲良くなれたかなと思った頃に、ちょっとだけ甘えてくれて、ほんとたいしたことじゃないのに照れていたのが悶絶するほど可愛かったんです。で、これ以上になったらどうなるのかな、とか」
「慣れたら照れることもないんじゃないの」
何を想像したのか、恐ろしくて聞きたくなかった。というか、それはいつの話だ。むしろ誰の話だ。目を覚ませ、という意味を込めて期待を打ち壊そうと吐き捨てた言葉は理屈として当たり前の帰結。親しくなればそれだけ遠慮が減るだけだ。
「紗月さん」
「なに」
「今照れてるでしょ」
「!!」
ぐあ、と一気に頭に血がのぼった。鏡を見なくてもわかる。私は今、顔が、赤い。
杵島君の腕が離れた。ちょっとだけ呼吸が楽になる。ありがたい、と思ったことを、私は直後に後悔した。肉の少ない硬い腕が頬に当る。肩を抱き込まれていた。うなじに熱い吐息を感じた。
「かわいい」
「…………!!」
絶叫したかったけど、何を叫んでいいのかわからない。心臓がばくばくする。何かの発作じゃないかと疑う。そうならいいのに。救急車でも乱入してくれれば、この状況も終わらせられる。わかっている。これは逃避だ。わかってしまった。これは、本音だ。
私は自分が正気である自信がない。
「なんで……」
「うん」
「なんで私なの」
答えより先にリップ音がした。私の首に顔を埋めたまま、彼は苦笑を漏らした。
「どうしてそんなに自己評価が低いのかな。どれだけひどい失恋したの」
今度は心臓が止まるかと思った。これは軽口なのか、それとも――
判断しかねて硬直する。瞬間に脳裏を駆けて行った記憶は、今もまだ鮮やかだった。