見解の相違
向かいに建つコンビニの明かりは、三階のベランダ越しでも部屋に入ってくる。カーテンを閉めても真っ暗にはならない。おかげで近すぎる杵島君の表情が読み取れた。……何か怒っている? この状況で、そうすべきは私の方だと思うのだけれど。
「いつもこんなに無防備なの?」
「まさか。こんなふうに襲われたのは初めてだよ」
「ふーん……」
今、なにかまずいことを言っただろうか。彼の顔から表情が消えた。弁解する必要を感じたけれど、どこに対して何を行えばいいのやら。
「私だって危機管理ぐらいしてる」
「説得力ないよ」
ですよね。だけど、理由はある。
「杵島君を信じていたのに……」
「その言い回し嘘くさいなぁ。本心どうぞ」
「だから信じてたんだよ、完全草食系男子で、今は彼女の尻に敷かれてるって」
「前半は意図的につけこんだ。後半は魔女どもの仕業に初めて感謝、かな。」
また彼の顔が近付いてきた。道行く人が振り返るほどのイケメンではないけれど、落ち着いた目元とか、角のない輪郭が優しげな雰囲気を作っている。実は百八十センチの長身だが、細い体躯で威圧感など出せるはずもなく、見た目から完全に草食系で物腰も柔らかい。おそらく中学生くらいまでは「かわいい」とか言われて女子に囲まれていたに違いない。どこまでも「お友達」タイプ。だからこそ、パワーバランスが完全に女子に傾いていたあのゼミでも、うまくやっていけたのだろう。
その彼が、
「これでも、おれのこと男として意識できない?」
耳元で囁いた。
背筋を這い上がる何かから逃げ出したくて、身じろぎした。ひ弱そうだと思っていたのに、掴まれた両腕は相変わらずびくともしなくて、敵わないと思い知る。くやしくてくやしくて、
「私の方が範囲外だったんじゃないの」
思わず、言うつもりのなかった本音が漏れた。
「なにそれ」
「…………」
「言って」
「………………」
「おれ、冗談でこんなことしているつもりないんだけど。好きでもない子にキスなんかしない」
キス。
そういえば、された。どさくさに紛れて忘れてしまいたかったけれど。思い出したとたんに、頬が熱くなった。
「もしかして、まだ逃げられる気でいる?」
もしかしても何も、現在進行形で「なかったこと」にする道を模索している。……まだ見つからないけど。
むっつりと黙り込むと、杵島君は剣呑に目を細めた。そんな顔は初めて見る。唇を歪めるような笑顔なんて、想像もできなかったのに、今、目の前にある。思わず引いた顎を、骨ばった指で掴まれた。二度目のキス。自由になった両手で肩の横を殴りつけたがびくともしない。タオルケットを潜ってハーフパンツの裾から侵入した掌が、膝裏から太もも撫で上げた。悪寒に似た感覚が脳を麻痺させる。は、とも、ふ、ともつかない息が鼻から抜けた。弛緩した瞬間を逃さず侵入してきた暖かな異物が、口内を一回りして引き上げた。
「紗月さんが言ってくれないなら、おれはこういう方法でしか本気を示せない」
なんだそれは。脅しか。性質が悪すぎる。
泣きたくなんてないのに、じわりと涙がわいた。やつは、よりにもよってそれを舐めあげた。
「その方がいいっていうなら、ご期待に応えるのにはやぶさかじゃないけど」
「期待してない」
「まあ、そう恥ずかしがらず」
「頭沸いているんじゃないの」
「それは否定できない」
なぜそこで嬉しそうに笑う。にやにやするな。「仕方ないなぁ」――何が。
「仕方ないよね?」
言いながら、彼は着ていたシャツを頭から脱いだ。仰天した私にはその隙をつくことができないほど素早い動作で、再び覆いかぶさってくる。掌が先ほどと同じルートで足を這い、さらには不埒な指先が下着と素肌の間をなぞった。
変態か。
不愉快なことに、杵島君はとても愉快そうに見えた。脅しじゃない。やぶさかじゃないというのも本気か。ここに至ってようやく私も理解した。途端に怖くなった。それを見計らったように、やつは私の下着を軽く引っ張った。
「ストップ!! わかった、言うから!」
「えー……」
半泣きの私を前にして、彼は残念そうに眉を下げた。いかにもしぶしぶと指が離れる。それだけでも安堵がよぎった。
「ちゃんと起きて話そう。こんなに顔が近いと落ち着かない」
頼み込むと、恐ろしいことに何か考えるそぶりを見せた。固唾をのんで返事を待つ。たぶんそれほど長い時間じゃなかった。だけど、「いいよ」と言って彼が見せた笑顔に、私は不吉なものしか感じなかった。
そして、そんな予感ほど当たる。