現状の認識
裏切られた信頼への嘆きとか、油断していた自分への怒りとか、もう少し客観的になれたら湧いてきたんだろうけど、今はただ驚くことしかできなかった。
「どうしたの」
答えは溜息だった。息がかかるほどの至近距離からの。
――ちがう
薄暗がりでひかる瞳を間近に見返す。脳内で警鐘が鳴る。駄目だ。見つめ合ったりしちゃ駄目。たぶんこれは
逸らそうとした眼差しを逃がさないとでもいうように、圧迫感が質量を伴って襲ってきた。胸に感じる重みに押されて、ほとんど抵抗できずに仰向けに倒れる。視界は塞がれていた。そして、口も。
ん、と喉が鳴った。次の瞬間には唇は解放されていた。代わりに暖かな空気が口元を撫でて行った。
たぶんこれは溜息じゃない。
見上げた瞳が宿した熱に、体の奥が震えた。今自分が感じているのが何なのかよくわからない。恐怖に似ていて、それでいて、それを望んでいるような。そんなはずがない、と叫ぶ声が聞こえた気がした。
繰り返される荒い呼吸も、のしかかってくる体温も、近すぎる顔も、その表情も、すべてが信じられなくて。
「どうしたの」
同じ言葉しか出てこない。
見返す双眸の眦が吊り上がった。
「無防備すぎるんじゃないの」
不機嫌な声が近すぎる。説教なら甘んじて受けるから、少し――いや、できれば大幅に離れてくれないだろうか。部屋を出て行けとは言わないから、せめてベッドから降りてほしい。
口に出したらまた怒られる気がした。
「今、困ってるでしょ」
今度は正真正銘の溜息だった。結局、口に出さなくても怒られるようだ。
「怒るとかあがくとか、やることあると思うんだけど、まだ困ってる」
「まだって――」
「本気にしてないだろ」
急に低くなった声音に、びくりと肩が震えた。すると彼は、何故だか満足そうに笑った。
「そうそう、そうやってちゃんと意識して。できれば自覚もお願いしたい」
――意識? 自覚?
思わず胡乱気に眉根を寄せると、
「紗月さんが好きなんだ。ずっと好きだったんだ」
やつは満足げな笑顔のまま言い放った。
嘘だ、と喉元まで出かかったが何とか飲み下す。神経を逆なでしない言葉を探して中途半端に口を開けている無様な姿を、彼が面白そうに眺めている。
――そんな言葉は信じられない。だって……
「杵島君は……」
「うん」
「相沢さんと結婚するんじゃないの?」
「は?」
今度は彼が唖然と口を開ける番だった。
「けっこん? おれが? あの魔女と……?」
「まじょ?」
なんのことだかわからずに聞き返したが、彼は聞いちゃいないようだった。脱力してその場で突っ伏す。ただですら近いと感じていた距離がほぼゼロになった。顎の下で動く柔らかな髪がくすぐったい。
「どいてもらえないかな」
当たり前の要望だと思ったのだが、返事はなかった。代わりに鎖骨のあたりを撫でられた。くすぐったくて思わず身をよじると、今度は「ちゅ」という音が聞こえた。待て。
よく考えれば、やつの両手はこちらの両腕を捕まえている。鎖骨をなぞった感触は生温かった。つまりあれは、撫でられたのではなく、舐められた、のか……? では、続いた音は。
「ちょっと待って!」
「おしおき」
「意味不明だよ!!」
「なんでおれが魔女……もとい、相沢さんと結婚しなくちゃいけないんだ」
「仲がいいんだと思っていたけど」
「やめてくれ……」
呻きながら杵島君は身を起こした。そのままどいてくれるかと期待したけれど、私の腕を道連れに両手を枕横に固定したまま、それ以上動く気はなさそうだった。
「おれは体よく使われていただけだよ」
「旅行とか、一緒に行っているみたいだったけど……?」
「運転手として引っ張られたんだよ!! 紗月さんに会えると思って引き受けたらいないし、あの時は本当に騙された」
あの魔女どもめ、と忌々しそうに吐き捨てる。
複数形?
「それは、ゼミの女子のこと?」
私も含まれているのだろうか。
「正確には、おれの邪魔をしようと結託している人たちのこと、かな」
近くの瞳が遠くを見つめていた。たぶん含まれていないのだろう。
杵島君と私は大学時代の友人だ。ゼミが同じだった。男女比四対十五という、圧倒的に女子が強いゼミで、皆仲が良かった。よくあちこちを旅行したけれど、旅費節約のため男女混合で雑魚寝、なんてことは当たり前。学校で酒盛りして、そのまま誰かの家に転がり込んで夜を明かすことも珍しくなかった。
卒業して四年になる。一年目は二度集まった。二年目は一度旅行に行った。昨年はバタバタしていて集まりに顔を出せなくて、今日は卒業後地元へUターンした組が示し合わせて戻ってくるということで、久々の飲み会になった。
SNSで知っている部分もあるけれど、やはり直接話すと盛り上がる。中でも今日一番のネタになったのは、九州に帰っていた相沢さんが、「結婚が決まったから、こっちに戻ってくるわ」と左手の薬指に光る指輪を見せた瞬間だった。
「相沢さんが指輪を見せたとき……」
「ん?」
「見つめ合って微笑んでいた」
「ねえよ!!」
茶番を終わらせる核心をついたつもりだったのだけど、電光石火のつっこみが入った。
「おめでたい報告なんだから、目が合えばご祝儀代わりに笑うのは普通でしょ。だいたい相沢さんがおれに向けてたのは“微笑”なんかじゃなかった。あれを言語化するなら『ざまぁwww』だよ」
「相沢さんと仲のいいりっちゃんやカジさんも君を見て笑っていたようだったから、あのあたりの人たちも知っていたのかな、と」
「はなし聞いてる?」
なんだか呆れたように言われて、さすがにカチンときた。君がそれを言うのか。
「聞いているけど、こんな状況じゃ頭が働かない」
恨みを込めて睨みつけると、彼は言葉を詰まらせて心持ちのけ反った。
罪悪感があるのなら、反省して解放してほしい。