その初恋は本物でしょうか?
「もう3年ですね。ナタニエル様」
ジュリーは黒のドレスに身を包み、墓前に白百合の花束を手向けた。その墓石には『ナタニエル・コルビュジエ』と刻まれている。――ナタニエルはジュリーがかつて愛した元婚約者だ。
「今日はあなたに、そして私の初恋に『さようなら』を言いに来ました」
ジュリーはナタニエルの墓石の前で目を閉じ祈りを捧げた。そんな彼女を黒髪のすらっとした青年がそっと抱き寄せた――。
***
「初恋の"妖精"が夢に出てきたんだ!!!」
ある日のお茶会で、婚約者のナタニエルが興奮気味に言った。その翠眼は恍惚として輝いていた。
「――妖精というのは、王都の収穫祭でナタニエル様がお守りになった"白百合の妖精"様のことでしょうか?」
ジュリーはまたかという表情を浮かべた。
「ああ、そうだ。彼女がそのまま大人になったような可憐な容姿だった」
「それは……よかったですわね」
10歳の頃、ナタニエルは王都の収穫祭で"白百合の妖精"に仮装した少女に出会い、彼女に一目ぼれした。騎士に扮したナタニエルは、家族とはぐれた"妖精"を案内し、無事彼女の"兄"を探し当てたという。
「美しく波打つような金髪に、そして深い海の底のような瞳。本当に美しかった」
ナタニエルの思い出の中の"初恋の妖精"は、小柄で守ってあげたくなるようなかわいらしい少女だそうだ。
ナタニエルは、眉目秀麗かつ優秀で、社交界では銀髪の貴公子とも呼ばれている。普段は非の打ちどころがない紳士で、ボワナール侯爵令嬢であるジュリーとの婚約も政略として受け入れ、パートナーとして大事にしてくれている。仲も悪くはないはずだ。だが初恋の話になると、ナタニエルは急に人が変わったようになる。彼女はいつもそれを醒めた目で見ていた。
ジュリーは紅茶の水面に映った自分の黒髪を恨んだ。そしてヒールを履くと彼より高くなってしまうその身長も。
「あの祭りの後、家の者に頼んで、彼女を探させたがどうしても見つからなかった。あれだけの美しさ、平民なら目立つだろうに」
「平民ですか……」
ナタニエルは侯爵家の嫡男だ。もし彼女が平民の子ならば結婚は許されない。ならば見つけてどうしようというのか。
ナタニエルはこのお茶会の後、頻繁に"白百合の妖精"の夢を見るようになった。ある晩は観劇、またある晩は湖畔で彼女と愛を囁き合ったそうだ。そしてジュリーをエスコートして夜会に出席しようという日も、ナタニエルは馬車の中で、夢の話をした。初恋の妖精と舞踏会で出会い、1曲一緒に踊ったらしい。
「――ナタニエル様、これは隣国のおまじないですが、牛乳を皿に入れて枕元に置かれてはいかがですか?」
ジュリーの母方の実家は隣国の公爵家だ。隣国は魔術が盛んで、従兄弟のオーギュスタンも優秀な退魔師、つまり悪魔祓いである。ジュリーは、オーギュスタンから聞いた"おまじない"をそっとナタニエルに教えた。
「牛乳? そんな話はどうでもいい! とにかく白百合の妖精は、田舎育ちでステップがたどたどしくてな。俺が丁寧にエスコートして、ワルツを踊ったんだ。その姿が初々しくて天使のようだった」
ナタニエルは顔を赤らめ、饒舌に語る。ジュリーとて、できることなら彼の好みの令嬢になりたい。だがダンスは貴族のたしなみ、ワルツは基本中の基本だ。今さら、下手に踊れと言われても困る。
「実は今日の舞踏会であの夢が正夢になって、彼女に出会えないかと思っているんだ」
「正夢ですか……?」
夢見心地のナタニエルを尻目に、ジュリーは小さくため息をついた。
馬車が会場に着き、2人が馬車を降りれば、ナタニエルのエスコートはいつも通り完璧だった。ジュリーが歩きやすいよう歩幅を合わせ、ダンスもリードしてくれる。ジュリーも彼に身を任せ、軽やかに2曲踊った。
「ジュリー、では宰相閣下のところに挨拶に行こう」
「ええ、分かりましたわ」
――しかし、ナタニエルの夢は本当に"正夢"になった。
宰相閣下は時の権力者だ。彼の元には、彼とつながりを持ちたい貴族たちが群がっていた。その人混みの中に、彼女はいた。
「白百合の妖精……」
流れるような金髪に美しい碧眼、黄緑色のドレスをまとったその姿はまさに妖精だった。ナタニエルはジュリーの手を離し、彼女に話しかけた。
「美しき令嬢、今宵あなたとダンスを踊る栄誉を」
「まあ! 私はこのような場には慣れていなくて。ダンスもまだ練習中なのですが、よろしくて?」
「俺がリード致します」
ワルツの間、白百合の妖精は何度も何度もナタニエルの足を踏んだ。でも、ジュリーの完璧なステップより、妖精のたどたどしいステップが、ナタニエルを虜にした。
ナタニエルはジュリーのエスコートも、挨拶回りも放り出し、白百合の妖精とそのままどこかに消えてしまった。後で聞いた話では、そのまま彼女と一晩を共にしたらしい。人伝に白百合の妖精は、最近子爵家に引き取られたリリンという令嬢で、子爵家の庶子だと聞いた。
そして、夜会からしばらくして、ナタニエルから「婚約を破棄したい」と申し出があった。
「君は5年間よく婚約者として尽くしてくれた。礼を言う。だが俺は運命の初恋と再会した。君とは結婚できない」
「……そうですか」
ジュリーがもう何を言っても、ナタニエルの耳には届かない。彼女は無力感に苛まれ、扇子を固く握った。
「こちらの都合での婚約破棄だ。慰謝料はきちんと払う」
提示された額は、婚約破棄の慰謝料としては破格だ。だが今まで見たことがないようなナタニエルの冷たい視線に、ジュリーは涙をこぼした。
「ナタニエル様、最後に一つお尋ねしたいことがあります」
「なんだ?」
「――その初恋は本物でしょうか?」
「何かと思えば、嫉妬は見苦しいぞ。ボワナール侯爵令嬢」
そうか。もう彼は「ジュリー」と名前で呼んでくれないのか。ジュリーは悲しみで歪んだ口元を扇子で隠した。
「分かりました。コルビュジエ侯爵令息、あなたは確かに私の"初恋"でしたわ。ではどうぞ"初恋"のリリン様とお幸せに」
正式に婚約が破棄されると、ナタニエルはすぐに"白百合の妖精"ことリリンと婚約をした。
社交界は、美しき銀髪の令息と、不遇な子爵令嬢の恋を持て囃した。それはもう、ジュリーが居心地の悪さを覚えるほどに。彼らを題材にした恋愛劇まで上演され、すっかりふさぎ込んだジュリーは隣国にある母方の実家に身を寄せた。
「ジュリー、久しぶりだね。元気だったか」
出迎えたオーギュスタンが、いたずらっぽく笑った。年が近く小さい頃よく遊んだ仲のいい従兄弟だ。
オーギュスタンが黒髪をかきあげると、耳元の真っ赤な耳飾りが揺れた。オーギュスタンは、昔から魔術が得意で、今は悪魔を祓ったり、呪いを解いたりする退魔師という仕事をしている。あの耳飾りは魔除けの一種だろう。屋敷の中にも、たくさんの魔道具や魔除けが置かれていた。
「……元気な訳がないでしょう。オーギュスタン兄様にも色々相談したのに、全て裏目に出ましたわ」
ジュリーの瞳からとめどなく涙が溢れ出した。
「ほらほら、早く中に入って。今侍女にお茶を淹れさせるから」
オーギュスタンは、日当たりのいい中庭にジュリーを迎え入れると、一つ一つ話を聞いてくれた。
「では、そのリリンとやらは、王都の収穫祭で妖精に仮装して、ナタニエル殿に会ったとまで言っているのかい?」
「いくら侯爵令息に見初められたからって、平気で嘘をつくなんて……」
「やはり、俺の見立てが正しいかもな。舞踏会で会ってすぐ、婚約者のいる令息を控室に引き込むなんて、貴族令嬢の所業とは思えない」
「ええ」
「ナタニエル殿は、夢で何度も彼女を見たって言っていたのだろう?」
「会う度にうれしそうに夢の話をされていました」
「俺が教えた牛乳は試したか?」
「ナタニエル様にはお伝えしましたが、聞き流されました」
「そうか。コルビュジエ侯爵や夫人に相談したかい?」
「手紙でお伝えはしました。ですが、リリン様のご実家の子爵領で、新たな金脈が見つかったそうで、向こうはよりうまみのある婚約に乗り換えられて喜んでいるようです。お返事すらありませんでした」
「ジュリー、残酷なことを言うようだけど、初恋というのは叶わないものだよ。彼のことは忘れて、次の恋をした方が君のためだ」
「ですが、このままでは……」
「君は既に部外者だ。もうどうすることもできない」
「……そうですが」
ジュリーはやるせなさに歯噛みした。
ジュリーはその後、隣国で穏やかな時を過ごした。退魔師のオーギュスタンの仕事を手伝い、依頼状を整理したり、護布に刺繍を施したり。呪われた人形に間違って触って、自分まで呪われた時は大騒ぎだった。そんな日常で、ジュリーはナタニエルのことを段々と忘れていった。
だが、隣国に渡ってしばらくすると、ナタニエルとリリンが結婚式を挙げたという知らせがジュリーの元に届いた。
「ナタニエル様の結婚式に、お父様とお母様が出席なさったそうです」
「婚約破棄した家の結婚式に出向くとは、叔母さんたちも物好きだな」
本来その結婚式で、ナタニエルの隣にはジュリーが立ち、彼と永遠の愛を誓い合うはずだった。
「招待されれば、付き合いで行かざるを得ないのが貴族でしょう。とても盛大な式だったそうですわ。ただ、ナタニエル様は持病の肺病が悪化したそうで立っているのが辛そうだったと、手紙にありました」
「もしかしたら、もうだいぶリリンに食われてしまったのかも知れないな。あとどのくらい持つか」
「ねえ、オーギュスタン兄様。次の収穫祭でもう一度あの素敵な魔法をかけてくださらないかしら? 金髪の妖精姿で、ナタニエル様に声をかければ、きっと私のことを"白百合の妖精"だと気づいてくれると思うの」
――そう。あの"白百合の妖精"は魔法で黒髪を金色に染めた幼き日のジュリーだった。
数年後、黒髪のジュリーと再会しても、結局ナタニエルは、彼女が白百合の妖精だと最後まで気づかなかった。初めはジュリーにも、いつ気づいてくれるのだろうという期待があった。しかし、真っ黒な髪も、伸びすぎた背も、彼の好みではないと知ってから、ジュリーは彼にあの時の妖精が自分だとは言えなくなった。彼との大切な"初恋"の思い出を汚したくなかったのだ。
「一瞬でもナタニエル様の気を引ければ、あの方は"リリン"から解放されるかも知れません」
「諦めた方がいい。君は子どもの時とは違って背も伸びて、顔もだいぶ大人びた。髪の毛を金髪にしただけで、ナタニエル殿が思い出すとは思えない。ずっと婚約者だったのに気づかなかった男だぞ」
「しかし、このままあの方を見捨てるなんて、私にはやはりできないです」
「彼もそして君も"初恋"を美化しているだけだ」
美化、そう言われてジュリーははっとした。彼女はあの収穫祭で、家族とはぐれ、1人泣いていた。そんな時、優しくエスコートし、一緒にオーギュスタンを探してくれた小さな"騎士"に恋心を抱いた。
彼がコルビュジエ侯爵家の令息だと気づき、政略上のうまみもあまり望めないのに、親にわがままを言って婚約を結んでもらった。収穫祭での小さな初恋に幻想を抱いていたのは、むしろジュリーの方かも知れない。
「私は、彼とよりを戻したいとは思ってません。ただ、過去と決別するために彼を助けたいのです」
「……分かった。そうであれば、協力してやる。だが俺は優しくはないから、ちゃんと見返りは求めるぞ」
「見返りですか?」
「そう。見返りは――」
突然の提案に、ジュリーは目を丸くした。長い前髪の隙間から、赤い瞳がいたずらっぽく覗いた。
ナタニエルの肺病の進行は早かった。何人かの医者に見せたが、一向に体調はよくならず、夏の終わりには遂に寝たきりになったと聞いた。その年の収穫祭に出ることも叶わなかった。リリンは、そんなナタニエルを見放し、従者と駆け落ちしていった。
王都に雪が積もり始めた頃、ナタニエルが死の床についたという連絡がジュリーの元に届いた。
「コルビュジエ侯爵夫人、お久しぶりです」
「愚息のためにわざわざ帰国してもらって、本当に申し訳ないわね。でもどうしても最期にあなたに会いたいって言って、あの子が聞かないの」
コルビュジエ侯爵夫人は、元来はつらつとした女性であったが、今はその面影もない。
「いいえ。ちょうど一度こちらに戻ろうと思っていましたから、問題はございません。こちらは従兄弟のオーギュスタンです」
「コルビュジエ侯爵夫人、お初にお目にかかります。オーギュスタンです。隣国で退魔師をしております」
「タイマシ?」
コルビュジエ侯爵夫人は、訝しげにオーギュスタンを見た。
「平たく言うと悪魔祓いです。自分で言うのもなんですが、各国王侯貴族から引っ張りだこなんですよ」
「まあ! "悪魔祓い"ですか。ならばもう少し早く来てもらえばよかった。――私はリリンとの結婚には反対だったんです。あの娘はまるで"悪魔"のような子でした」
夫人に案内され、コルビュジエ侯爵家の屋敷を歩く。室内全体がどこかどんよりとして、ジュリーが通っていた時のような活気はなかった。夫人がナタニエルの部屋をノックすると、中からか細い返事が聞こえた。
「お久しぶりです。ナタニエル様」
ベッドの上に横たわるナタニエルの頬はこけ、肌も青白かった。それでも何とかその身を起こし、ジュリーを出迎えた。
「……ボワナール侯爵令嬢、いやジュリー、久しぶりだな。本当によく来てくれた」
「ええ、お久しぶりです。ナタニエル様」
「隣の彼は?」
ナタニエルが胡乱な目をオーギュスタンに向けた。
「こちらは従兄弟のオーギュスタンです。今は彼のところでお世話になっております」
「――そういえば、ジュリーの母方の実家は隣国の公爵家だったね。それにしても、従兄弟にしては少し距離が近いのではないか?」
ナタニエルはオーギュスタンを冷たく見据えた。
「ははは。ナタニエル殿、元婚約者に嫉妬ですか? それに俺たちはただの従兄弟ですよ」
オーギュスタンが、わざとジュリーの肩を抱き、快活に笑う。ジュリーはこれ以上、場の雰囲気が険悪にならないよう、お見舞いに持ってきた菓子をナタニエルに渡した。
「ナタニエル様が好きなクッキーを買ってきました。どうかご体調がよろしい時に、お召し上がりください」
「……! よく覚えていたね。ジュリー。ありがとう。本当にありがとう」
それから2人は、以前のように穏やかに話した。王都の流行、政治の話、そして社交界の噂――あの婚約破棄がまるで嘘だったかのように楽しい時間だった。
「ジュリー、今日は君と話せてうれしかった」
「私もです」
「すぐ戻るのかい?」
「ええ、明日には」
「そうか……。君と会うのもこれで最期かも知れないな。いい思い出ができたよ」
「何をおっしゃっているんですか! ナタニエル様のご体調はきっとよくなります」
ナタニエルはなけなしの力を込めて、ジュリーの手を握った。
「ありがとう、ジュリー。……本当はね、この手で君のことを幸せにしたかった。どうしてあの時、自ら白百合の妖精を手放してしまったのだろうな」
白百合の妖精? まさか……!?
ナタニエルは疲れたのか、そのまま倒れるようにベッドに横たわった。コルビュジエ侯爵夫人がナタニエルの額を撫でた。
「ナタニエルがこんなにしゃべったのは久しぶりで……。きっとジュリーさんに会ってうれしかったんだと思うわ」
「今さらですけどね」
オーギュスタンがチクリと言った。
「この子ね、リリンが屋敷を去ってから、あなたの話ばかりしていたわ」
「そうですか……」
ジュリーの脳裏に可憐なリリンの姿が浮かんだ。ナタニエルは"白百合の妖精"ことリリンに恋をしていて、ジュリーに対しては、婚約者という立場を超えた興味や関心を持っていなかったはずだ。
「リリンと一緒に出て行った従者は遺体で発見されたわ。この子と同じようにやせ細っていた」
「ナタニエル殿の生気は、ほとんど失われている。これは病ではなく、悪魔の仕業でしょうね。お話を聞く限りリリン嬢は"淫魔"ではないかと」
オーギュスタンが、やせ細ったナタニエルを見下ろしながら言った。
「――淫魔ですか?」
「淫魔は想い人の容姿に化けて、生気を奪い取る悪魔です。ナタニエル殿の場合、彼が恋焦がれた"白百合の妖精"に姿を変えて、夢に現れた。そして少しずつ彼の心を魅了していった」
淫魔――それはサキュパスとも呼ばれる。名を変え、姿を変え、人々を魅了し破滅させる恐ろしい悪魔だ。
「……そうですか。オーギュスタン様、やはりリリンは悪魔だったんですね。息子が、ナタニエルが回復する手立てはありますか? いくらでもお支払いします」
「完全に魅入られる前なら、枕元に牛乳を置くとよいと言われているが、一度淫魔の手に堕ちてしまうと、その魅了は退魔師でも祓うことが難しい。しかもナタニエル殿はその生気のほとんどをもう淫魔に吸われてしまっている」
コルビュジエ侯爵夫人の目に涙が浮かんだ。
「そうですか。どの医者に見せても、もう無理だと言われてましたから、覚悟はできています。けれど原因が分かってよかった。ジュリーさん、本当に馬鹿な息子で申し訳なかったわ」
「いえ、こちらこそお役に立てず申し訳ありません」
ジュリーたちは、深々とコルビュジエ侯爵夫人に頭を下げた。屋敷の外には、冷たい小雨が降っていた。ボワナール侯爵家のタウンハウスに戻るとすぐ、ナタニエルが亡くなったという知らせが早馬で届いた。ナタニエルはベッドサイドに置かれていた処方薬を一度に全部飲んで、自害したという。知らせを聞いたジュリーは、すぐに彼の元に戻った。
ベッドサイドでは、コルビュジエ侯爵夫妻が立ちすくんでいた。
「自死なんてどうして……! そんな愚かなことをナタニエル様がするなんて! 絶対に嘘よ」
遺書は残されていなかった。だが状況的に、自殺以外はありえなかった。ジュリーはナタニエルの手を握った。さっきまで楽しく話していたはずなのに、その手は冷たくなっていた。もう二度と開くことのない瞼を見つめ、ジュリーは何度も何度も彼に問うた。
「どうして? どうしてなの? ナタニエル様、答えて。自ら命を絶つなんて」
オーギュスタンは泣き叫ぶジュリーを抱き寄せ、悔しげに言った。
「……淫魔が離れると、魅了は薄れる。想い人と話をして、完全にその呪縛が解けたのだろう」
「ならばなぜなのです? あの悪魔から解放されたのでしょう? どうして死を選んだのですか!」
「すまない、ジュリー。この可能性は考えていなかった。これは完全に俺の落ち度だ」
そう言って、オーギュスタンは頭を抱えた。
「ナタニエル様……ナタニエル様!」
ジュリーはナタニエルの手に縋り、丸一晩泣き続けた。ナタニエルの手は段々と硬くなった。ジュリーの目は腫れ、声は枯れた。オーギュスタンはそんな彼女に寄り添い続けた。
ナタニエルの葬送はしめやかに執り行われた。オーギュスタンはすぐにジュリーを隣国に連れて帰った。ナタニエルとの思い出が残るこの地にいれば、いつまでも彼女がふさぎ込んだままだと考えたのだ。
だが隣国に渡っても、ジュリーは自分を責め、部屋に引きこもった。オーギュスタンは仕事の合間を縫って、そんな彼女をお茶に誘った。中庭の陽だまりの中で、彼女がぼそりと言った。
「ナタニエル様は、私への贖罪のために命を絶ったのでしょうか……?」
「君は、そう思うのか?」
「ええ。あの日、私と会ったから、ナタニエル様は魅了が解けた。自分の置かれた状況に絶望し、犯した不義理に気づいた。そして自分を責めた。だから……」
「あくまで俺の意見だが、それは少し違うと思う」
「何が違うのですか? ではどうして自死を選んだのでしょう?」
一筋の涙が、ジュリーの頬を伝った。
「ナタニエル殿はあの時、俺のことを憎々しげに睨んでいた。俺たちの距離感を見て、従兄弟以上の関係だと気づいたのだろう」
「ナタニエル様がオーギュスタンを睨んでいたなんて、気づきませんでした」
「ナタニエル殿に残された時間はほとんどなかった。このまま衰弱死すれば、死後君が自分のことを忘れ、俺と幸せに生きていくと悟った」
ジュリーは固唾を飲んだ。
「ナタニエル殿は、きっと君の中に深い傷跡を残したかったんだよ。あのタイミングで自死すれば、生涯君はナタニエル殿のことを、忘れることができないだろう?」
「それはあなたの憶測だわ。ナタニエル様はそんなことを……」
「現に今の君はナタニエル殿にかなり囚われているだろう? 本当に自分の行いを悔いて、君の"幸せ"を願ったのなら、あんな死に方はしない。――ずるい男だと俺は思うよ」
「ずるい男……」
「君は気が済むまで泣けばいいし、俺はいつまででも待つ」
「"見返り"はいいんですか?」
「ははは。俺は気が長い方だからな」
"見返り"――それはオーギュスタンとの結婚だった。
オーギュスタンは公爵令息と言っても次男で、家を継ぐ立場ではない。また退魔師としての仕事が忙しく、結婚については、のんびり考えていた。だがそんな息子を心配して、彼の両親が次々と縁談を持ってくるようになった。
オーギュスタンは疎ましいお見合いに辟易していた。そして、どうせ結婚するなら、自分の仕事に理解があり、昔からよく知っているジュリーがいいと彼は言い出した。
「すぐには無理だと思うが、少しずつ、俺を好きになってくれたらうれしい」
「ありがとうございます、オーギュスタン兄様」
それから、季節が何巡かして、ようやくジュリーもその気持ちの整理がつくようになった。
***
「里帰りは久しぶりですわ」
祖国に向かう馬車に揺られ、ジュリーが言った。車窓には懐かしい小麦畑が広がっている。
「3年ぶりか。ジュリー、泣きたくなったら泣けばいい。俺が上着で隠してやるから」
「ありがとう。でも泣かないように頑張ります。私も貴族令嬢ですから」
祖国に里帰りしたジュリーは、ボワナール侯爵家の人たちに温かく迎えられた。
ジュリーは王都に親族と親しい友人だけを集め、オーギュスタンと小さな結婚式を挙げた。彼女はもう隣国で生きていくと決めていた。だからあえて大きな結婚式はしなかった。
それでもジュリーのことを心配していた友人たちは、ジュリーの花嫁姿に心から歓喜し、そして祝福した。
「ジュリー、よかったわ。あなたのことを本当に心配していたの」
「素敵な人と巡り合えたのね。よかったわ」
「隣国でお幸せにね。あら、どうしたの、ジル。もしかして飽きちゃった?」
見ると友人の隣で小さな男の子が、ぐずっていた。一緒にお茶会をして、観劇をして遊んだ彼女らはもう令嬢ではない。彼女らの傍らには、夫と何人かの子どもたちがいる。ジュリーはナタニエルと歩んだはずの未来に一瞬思いをはせ、またその瞳を潤ませた。
「どうした? ジュリー」
「いいえ、何でもないです」
「君の瞳が海みたいになって、何でもなくはないだろう?」
「オーギュスタンは、やはり鋭いですね。大したことではないのですが、私がナタニエル様と何事もなく結婚していたら、今頃あのくらいの年の子の母親だったのかなと思って。……すみません、本当にすみません」
ジュリーの瞳にとめどなく涙が溢れ出した。皆から見えないように、オーギュスタンが抱き寄せた。
「全くナタニエル殿は、淫魔よりたちが悪いな。ははは」
オーギュスタンは辛いことも悲しいことも、冗談めかして言うのが得意だ。それに怒る人もいるかも知れない。けれど、ジュリーにとってはありがたかった。こんな時、オーギュスタンまで辛そうにしたら、きっとジュリーは余計に自分を責めていただろう。
「――ナタニエル様はやはり"ずるい男"ですわ」
「そうだな。この国を去る前に文句を言いに行こう」
「え、いいんですか?」
「ああ。その方が君も踏ん切りがつくだろう?」
「……ありがとうございます」
***
結婚式から数日後、2人は王都郊外のひっそりとした丘に向かった。貴族墓地だ。その中のまだ新しい墓石の前で、ジュリーとオーギュスタンは立ちどまった。墓石には『ナタニエル・コルビュジエ』と刻まれている。
この日のジュリーは黒髪のまま、喪服に身を包んだ。ジュリーはジュリー。ナタニエルの初恋の"白百合の妖精"ではない。
「おい、ナタニエル殿。今日はあんたに文句を言いに来た。ジュリーがいつまで経っても、あんたのことを忘れられないって涙をこぼすんだ」
「オーギュスタン、ナタニエル様のお墓の前で何を言っているんですか!?」
「だが、事実だろう。こっちは迷惑しているんだ」
「ふふふ。それはそうですが……もう3年ですね。ナタニエル様」
ジュリーがしんみりと、そして悲しげに微笑んだ。
「今日はあなたに、そして私の初恋に『さようなら』を言いに来ました」
手に持った白百合を墓前に手向けると、突風が吹いて、白百合の花びらが空を舞った。まるでナタニエルがジュリーに「行くな」と言っているようだった。
「私は隣国で、オーギュスタンと生きていきます!」
ジュリーはその風に負けまいと強く言った。オーギュスタンがそっとジュリーの肩を抱き寄せた。
「……さようなら、ナタニエル様」
ジュリーはそのまま振り返らず、墓地のある丘をあとにした。オーギュスタンの手をしっかりと握って。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
初恋ってどうしても美化しがちですよね。
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