第28話 黒瀬凛は、他のヒロインたちの変化まで見てしまう
黒瀬凛は、人を見る時に自分の感情をいったん後ろへ下げる。
少なくとも、そうしようとする。
誰かが好きだから甘く見るとか、嫌いだから厳しく見るとか、そういう雑な見方をできるだけ避けようとする。
その結果、見なくていいものまで見てしまう。
そして今のあいつは、たぶんその状態に入っている。
月曜の朝、教室に入った瞬間から、凛の視線が以前より少しだけ広くなっているのが分かった。
前までは俺だけを見ていた。
正確には、“俺にまつわる問題”を見ていた。
今は違う。
俺に対する周囲の反応ごと見ている。
最悪だ。
そこまで視野が広がると、日和の変化も、透子の変化も、いずれ全部つながってしまう。
「おはよう、御影くん」
教室の前方から飛んできた日和の声に、俺は鞄を机へ置きながら小さく返した。
「……おはよう」
「間、短かった」
「まだ測ってるのか」
「だって減ってるし」
「何の話」
「おはようの間」
近くにいた女子が笑う。
「もう朝の恒例だね、それ」
「やめろ」
「何で」
「面倒だから」
「それも恒例」
軽い。軽すぎる。
でも、その軽さが今の教室の空気なんだろう。
ほんの少し前までなら、俺相手にこういう雑談が自然に回ることは少なかった。
席へ着くと、相馬が振り返る。
「今日も人気者だな」
「やめろ」
「いや、でも事実じゃね?」
「どこが」
「朝比奈が普通に話しかけて、周りもそれを普通に受け取ってる」
相馬が言うと、前の方から日和が「普通にって何」と笑いながら口を挟む。
その何気ない流れの中で、ふと教室後方に目をやると、凛がこっちを見ていた。
目が合う。
凛はすぐに視線を逸らさない。
前ならもっと露骨に、“御影だけを見る”目だった。
今のそれは少し違う。
俺と日和の会話、その周りの空気、相馬の反応――そういうものをひとまとめに見ている目だ。
ほんと、面倒な女だな。
◇
一限目のあと、凛は担任に何か頼まれて一度教室を出た。
日和はその間に、友人から借りていたノートを返し、別の女子と文化祭準備の話をしている。
そのやり取りを見ていると、確かに以前より変わった。
全部を受けない。
でも、断り方がきつくない。
ちゃんと笑って、ちゃんと線を引く。
そのバランスを、少しずつ覚えている。
悪くない。
むしろかなりいい変化だ。
だが問題は、そういう日和の変化もまた、周囲から見えることだ。
「ねえ、朝比奈さん」
「ん?」
「最近なんかちょっと余裕あるよね」
友人の一人が何気なくそう言う。
日和はきょとんとしてから笑った。
「そうかな」
「うん。前より“私がやるよ”が減った」
「あー……」
日和が少しだけ首を傾げる。
「それは、たしかにあるかも」
「何かあった?」
その問いに、日和はほんの一瞬だけこちらを見た。
すぐに逸らしたけれど、俺には分かった。
今の一拍で、あいつの中では俺が原因候補に上がっている。
やめろ。
そういう見方を、そういうタイミングでするな。
「ちょっとだけ、自分で気をつけるようになっただけ」
日和は軽くそう言って笑う。
嘘じゃない。
でも全部でもない。
その会話の端を、教室へ戻ってきた凛が聞いていた。
何も言わない。
ただ、自席へ戻る前に日和の方を一度だけ見て、それから俺の方を見た。
分かる。
つながったな、今。
日和の変化が、俺を経由している可能性に、凛はちゃんと気づいた。
◇
二限目は移動教室だった。
理科室へ向かう廊下で、人の流れに少し遅れて歩いていると、横へ凛が並んだ。
「何だよ」
「別に」
「その返し流行ってるのか」
「便利なので」
「やめろ」
凛は前を向いたまま言う。
「朝比奈さん、前より断るようになりましたね」
やっぱりそこか。
「そうだな」
「あなたが何か言ったんですか」
「言った」
誤魔化しても無駄な気がしたので、短く答える。
「……そうですか」
凛は一瞬だけ黙った。
「いい変化だと思います」
「珍しく素直だな」
「事実なので」
そこも変わらない。
「でも」
凛は続ける。
「朝比奈さん、自分で変わったつもりでも、周りから見たら“誰かの影響”って分かる程度には不自然です」
「……」
「特に、最近のあなたとの距離感は」
「お前、それ本人に言うなよ」
「言いません」
「ならいい」
「ただ、見ています」
そうだろうな。
凛は視線を前へ向けたまま、淡々と続ける。
「以前なら、朝比奈さんはあなたのことを“ちょっと話しにくいけど、たまに優しい人”くらいで処理していたと思います」
「細かいな」
「今は違います」
「どう違う」
「かなり気にしている」
そこまで言い切るな。
だが反論できない。
日和の視線、声のかけ方、さっきの一拍。
どれを取っても、たしかに“気にしている”のだろう。
「……お前、嫌な観測するな」
「自覚はあります」
それだけ言って、凛は先に理科室へ入っていった。
ほんと、面倒くさい。
◇
昼休み、図書室へ寄るつもりはなかった。
なかったのに、結局足がそちらへ向いてしまった。
理屈は後からいくらでもつけられる。返却棚の確認とか、文化祭準備の掲示の位置とか、そういう小さい理由を。
でも本当のところは、自分でも分かっている。
透子の顔を見ておきたかったのだと思う。
それがもうかなり終わっている。
図書室へ入ると、透子はいつもの窓際にいた。
今日は読書ではなく、何冊か本を広げてメモを取っている。
俺が入ったことに気づくと、ほんの少しだけ顔が上がる。
目が合う。
そのあとで、前みたいにすぐ逸らさない。
「御影先輩」
静かな声。
「何」
「今日は早いですね」
「昼休みだからな」
「そうですね」
透子は小さく頷く。
「本、少しだけ見ますか」
その誘い方が、あまりに自然で困る。
「何を」
「私が迷ってるやつ」
「またか」
「だめですか」
「だめじゃないけど、何で毎回俺なんだ」
透子は少しだけ考える。
「御影先輩と話すと、整理しやすいので」
やっぱりそこへ戻るのか。
俺はため息を飲み込んで、透子の向かいではなく、斜め隣の席に腰を下ろした。
それだけで、前よりずっと近い。
透子は本を一冊ずつ見せながら、「これは少し暗すぎるかも」「これは後半が好きで」と短く話す。
会話は静かだ。
でも続く。
途切れたとしても気まずくない。
そこが一番まずい。
しばらくして、図書室の扉が開いた。
振り向くと、凛だった。
……何で来るんだよ。
凛は一歩だけ中へ入って、すぐにこちらに気づいたらしい。
ほんのわずかに動きが止まる。
俺と透子。
同じ机。
広げられた本。
自然に続いていた会話。
その全部が、凛の視界へ入る。
「……失礼します」
凛はいつも通りの声で言って、資料棚の方へ向かった。
だが、歩き方がほんの少しだけ硬い。
透子もそれに気づいたらしく、ページをめくる手を止めた。
「黒瀬先輩」
「何ですか」
資料棚の前で凛が振り向く。
「何か探し物ですか」
「委員会の昨年資料です」
「そうですか」
透子はそれだけ言って、また本へ目を戻した。
声の調子に変化はない。
だが、空気は確実に少し変わっていた。
凛は本棚からファイルを抜きながら、こっちを見ている。
いや、正確には見ていないふりをして見ている。
最悪だ。
凛はたぶん今、見てしまっている。
日和の変化だけじゃない。
透子の方も、俺に対して前より自然に距離を詰めていることを。
そしてそれは、原作にはなかった動きだ。
「御影先輩」
透子が小さく言う。
「何」
「この本、たぶん御影先輩好きです」
おい、今その言い方をするな。
「何でそう思う」
「人の誤解が積み重なる話なので」
透子は静かに言う。
それを聞いて、資料棚の前の凛の肩が、ほんのわずかに動いた。
聞いてる。
絶対聞いてる。
「……お前、それ好きだな」
「はい」
「即答かよ」
「気に入っているので」
そう言って透子が少し笑う。
駄目だ。
今の一連の流れだけで、凛の中の観測材料がどれだけ増えたか想像したくもない。
◇
図書室を出るタイミングは、凛の方が先だった。
資料ファイルを抱え、扉のところで一度だけ立ち止まる。
「御影」
「何」
「あとで少しいいですか」
「嫌だ」
「聞く前から拒否しないでください」
「面倒そうだから」
「正解です」
自覚あるんだな。
凛はそのまま出ていった。
透子がその背中を見送り、小さく首を傾げる。
「怒っていますか」
「怒ってはないだろ」
「でも、少し硬かったです」
「……」
「私、何か変でしたか」
そこを聞くのか。
「変ではない」
「そうですか」
「ただ」
「ただ?」
「前より、普通に話すようになった」
そう言うと、透子は少しだけ目を丸くした。
「嫌ですか」
「またそれか」
「大事なので」
本当にまっすぐだな。
「嫌ではない」
正直にそう言うと、透子はほんの少しだけ目を細めた。
「じゃあ、よかったです」
その笑い方が、やっぱり前より自然だ。
透子は静かなまま、少しずつ距離を詰める。
それを凛は、たぶん全部見てしまった。
今日はそれが、一番まずい気がした。
◇
放課後、人気の少ない渡り廊下で凛に呼び止められた。
ファイルを抱えたまま、あいつは壁際に立っている。
風が少し強い。窓の隙間から入ってくる空気が冷たい。
「何だよ」
「今日の図書室です」
「嫌な始まりだな」
「ええ、自覚はあります」
「で?」
凛は一度だけ息を吐いた。
「あなた、自分が思っている以上に周りに影響していますよ」
やっぱりそれを言うのか。
「唐突だな」
「唐突ではありません」
凛はまっすぐ俺を見る。
「朝比奈さんは前よりあなたを見るようになった。白峰さんは前よりあなたと普通に話している」
「普通にって」
「前の白峰さんは、もっと自分の中で止める人でした」
そこまで見ているのか。
「……」
「でも今日は違った」
凛は淡々と続ける。
「あなたに本を見せて、感想を前提に話して、距離の取り方も自然でした」
「お前、やっぱり見すぎだろ」
「見えたんです」
「便利だな、その言い訳」
「言い訳ではなく事実です」
凛はそこで少しだけ声を落とした。
「問題は、それをあなたが自覚していないことです」
「してないわけじゃない」
「なら?」
「面倒だから考えたくないだけだ」
そう答えると、凛はほんの少しだけ目を細めた。
「その逃げ方、最近よくしますね」
「逃げじゃない」
「逃げです」
「……」
「でも、分からなくもないです」
その一言が意外で、思わず顔を上げる。
「何が」
「自分が何かを変えていると自覚するのは、責任が増えるから」
凛はファイルを抱え直した。
「朝比奈さんの変化も、白峰さんの変化も、全部あなたのせいだとは言いません」
「せいって言い方やめろ」
「では、影響です」
「それも重い」
「重いです」
きっぱり言い切る。
凛は少しだけ視線を外した。
「でも、私はそう見えました」
その言い方は、本当に正直だった。
黒瀬凛は、見たものを簡単に誤魔化さない。
だからこそ厄介だし、だからこそ適当に流せない。
「……お前までそういうこと言うのか」
「お前まで?」
「朝比奈にも似たようなこと言われた」
「そうでしょうね」
凛は小さく頷く。
「朝比奈さん、かなり見ていますから」
「だから嫌なんだよ」
「でも」
「何だよ」
「白峰さんまで、ああなるとは思っていなかったです」
その一言に、今度は俺が黙る。
ああなる。
つまり凛も、透子の変化をそれなりに大きなものとして見ている。
「……」
「御影」
「何」
「あなた、本当に分かっていないんですか」
その問いは、責めるというより確かめる響きだった。
分かっている。
分かっているから、面倒なんだ。
日和は気にする。
透子は静かに距離を詰める。
凛はそれを全部見てしまう。
そして俺は、原作にない接点の増加に怯えている。
「分かってるよ」
低く答えると、凛は少しだけ息を吐いた。
「ならよかった」
「何が」
「そこまで鈍くはないんだなと」
「ひどいな」
「事実です」
「便利だな」
「ええ」
そこで、凛はほんの少しだけ口元を緩めた。
「でも、気づいているなら」
「何だ」
「少しは自分からも調整してください」
「してるだろ」
「足りません」
「厳しいな」
「あなた相手なので」
その返しもだいぶ柔らかくなったな、と内心で思う。
凛は最後に小さく言った。
「私は、あなたが思っている以上に周りを変えていると思います」
「……」
「それを怖がるのは分かります」
「お前、たまに嫌なくらい鋭いな」
「褒めてませんよね」
「褒めてない」
「知っています」
そこだけはほんとに安定してるな。
凛はそのまま踵を返した。
去っていく背中を見送りながら、俺はしばらくその場を動けなかった。
自分が思っている以上に周りを変えている。
その言葉は、嫌になるくらい重かった。
◇
校門を出る頃には、空はもうかなり暗くなっていた。
街灯がぽつぽつ点き始め、夕方というより夜の入口に近い色だ。
風は少し冷たく、制服の袖口から入る空気が肌に残る。
スマホを取り出し、メモアプリを開く。
凛:日和・透子双方の変化を認識。
「自分が思っている以上に周りへ影響」指摘。
観測範囲拡大。危険。
最後の一行を見て、少しだけ笑いそうになる。
危険。
ほんとにそれしか書けない。
でも、もう分かってもいる。
ここから先は、個別ルートを横に並べて処理する段階じゃない。
日和と透子と凛、その視線が互いに絡み始めている。
つまり、物語そのものが群像の形を取り始めている。
原作よりずっと早く。
ずっと静かに。
そして、その中心に俺がいる。
「……ろくでもないな」
小さく呟いて、スマホをしまう。
だが、そういう“ろくでもなさ”の先にしか、たぶんもう次の救済はない。
黒瀬凛は、他のヒロインたちの変化まで見てしまう。
そのことが、次の段階の始まりを静かに告げていた。




