第9話「向き合う瞳」
朝の光が、サクラの店の窓を白く照らしていた。
地下から上がってきた蓮の目が、一瞬すがめる。地下に籠もりすぎた。陽の光が、痛い。
サクラがカウンターの上に機材を並べていた。通信機、電波スキャナー、そして——
「Aile、これ」
サクラが手のひらサイズのデバイスを差し出した。黒い筐体。
表面にサクラ特製の改造パーツが覗いている。
「緊急時のファイアウォール。外部からの不正アクセスを0.5秒だけ遮断する」
「0.5秒」
Aileが受け取り、重さを確かめる。
「たった0.5秒や。でもな——」
サクラが笑った。いつもより少し、ぎこちない笑顔。
「0.5秒あれば、蓮がなんとかする。そういう男やろ」
蓮は何も言わず、うなずいた。
Aileがデバイスをコートの内ポケットにしまった。
「ありがとうございます、サクラさん。お守りとして——大切にします」
「お守りちゃう。技術や」
サクラの声が少し震えた。隠しきれない。
蓮がAileの隣に立った。
「行くぞ」
「はい」
二人がドアを開ける。朝の光が差し込む。Aileの白銀の髪が、光を受けて淡く輝いた。
サクラは店のカウンターに肘をつき、二人の背中を見送った。
「……帰ってこいよ」
その声は、ドアが閉まる音に消えた。
黒川統の朝は、いつもコーヒーと報告書から始まる。
だが今日は違った。コーヒーは手つかずで冷めている。
デスクの上には、園部が正式に提出した「TITAN-AIE-09に関する技術聴取申請書」。受理印は、昨夜黒川自身が押した。
あの時は——なぜ押したのか。
園部の言葉が、まだ頭の中で反響している。「感情がなかったからだ」。翔太。4.7%。歩行者A。
ノックの音。
「失礼します」
若い捜査官の三島が入ってきた。背筋の伸びた長身。黒川が唯一、後進として期待をかけている男。
「局長、二件報告があります」
「言え」
「一件目。ティターン社の法務部から、本日の技術聴取の中止を要求する書面が届いています。『自社の知的財産に関わる機密情報が不当に開示される恐れがある』と」
黒川は書面を手に取り、一読して机に置いた。
「却下だ。管理局の聴取権限は企業の知財より優先する」
「了解しました。二件目——」
三島の声が低くなった。
「ティターン社が、管理局のシステム経由でTITAN-AIEシリーズの遠隔診断プロトコルへのアクセス権を申請しています。『定期メンテナンスのため』と」
黒川の目が細まった。
遠隔診断。09に対する——遠隔からのアクセス。
「保留にしろ」
「しかし、認定協力企業の正規申請ですので——」
「保留だ、三島。理由は俺が考える」
三島は敬礼し、退室した。
黒川はコーヒーに手を伸ばし——冷たくなっていることに気づいて、手を引いた。
ティターン社が動いている。証拠隠滅か。それとも——もっと直接的な手段か。
黒川は窓の外を見た。東京の空は曇っていた。
都立大学のキャンパスは、平日の昼間でも人がまばらだった。
園部の旧研究室は、理学部棟の4階。退職後も大学が保管していた部屋で、埃を被った機材と本棚に囲まれている。中立地帯として、園部が提案した場所。
蓮とAileが到着した時、部屋には既に二人の男がいた。
園部誠一郎。傾いた眼鏡、皺だらけの白衣。昨日と同じ姿。
そして——
黒川統。
スーツ。バッジ。白い髪。灰色の目。180cmの体躯が、狭い研究室を圧迫する。
護衛はいなかった。黒川は一人で来た。
蓮の肩が無意識に強張った。体が覚えている。屋上での対峙。追跡。あの灰色の目。
だがAileは——真っ直ぐ歩いた。黒川の前に立ち、見上げた。
155cmと180cm。25cmの差。だがAileの瞳は、まっすぐ黒川の目を射ていた。
黒川がAileを見た。
青紫の瞳。微かに光っている。白銀の髪。小柄な体。古いホログラム投影機を改造したコート。
——息子の事故の時、現場にいたAIとは何もかも違う。
だが、AIであることに変わりはない。
「TITAN-AIE-09」
黒川の声が、静かな研究室に落ちた。
「——いや。Aile」
名前で呼んだ。自分でも驚いた。
「お前に聞きたいことがある」
Aileは瞬きせずに答えた。
「はい。何でも」
黒川は窓際に立ち、腕を組んだ。
「お前は感情を持っていると主張している」
「はい」
「なら聞く」
黒川の灰色の目が、冷たく光った。
——いや。冷たく見せようとしている。蓮にはわかった。
この男は、自分を冷たく見せるのに必死なのだ。
「通学路の交差点。前方に子供。お前は自動運行AIだ。急停止すれば後続車両との衝突で被害者が増える。停止しなければ、子供が危ない」
トロッコ問題。
園部の顔が強張った。
「統、それは——」
黒川は手で制した。園部は黙った。
「お前なら——どうする」
蓮が口を開きかけた。代わりに答えようとした。だが——
「急停止します」
Aileの声が、先に響いた。
静かな声。迷いのない声。
黒川が一歩、前に出た。
「後続車両の被害はどうする。全体最適では——」
「計算はしました」
Aileが遮った。初めて、黒川の言葉を。
「全体最適は、停止しない方が被害が少ないです。0.0003秒で、その結論は出ます」
「でも——私には、目の前の子供の顔が見えます」
Aileの青紫の瞳が、窓からの光を受けて揺れた。
「統計は——見えません。数字は見えても、数字の向こうの顔は見えません。でも、目の前の子供の顔は見えます。怖がっているのが、わかります」
Aileは胸に手を当てた。
「顔が見える方を——私は選びます」
黒川の手が震えた。
テーブルの端を掴んで、こらえた。だが——隠しきれなかった。
蓮は見ていた。黒川の灰色の目に、10年分の何かが揺れるのを。
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
黒川が口を開いた。声が、微かにかすれている。
「もう一つ聞く」
園部が「統——」と止めようとした。
黒川は聞かなかった。
「翔太。俺の息子だ。10年前、通学路で自動運行AIに轢かれた。足に後遺症が残った。あのAIは——子供を認識しながら、停止しなかった」
蓮の拳が握られた。黒川の声に、初めて——裸の痛みが混じっていた。
「お前があの車のAIだったら——翔太を、救えたか」
私的な問い。局長としてではなく、父親としての問い。
Aileは沈黙した。
3秒。
5秒。
10秒。
蓮が不安になるほど、長い沈黙。
Aileの内部では、演算が回っていた。交差点のシミュレーション。車速、距離、反応時間、後続車両の慣性——すべてのパラメータを、0.0003秒で計算し終えた。
残りの9.9997秒は——演算ではなかった。
Aileが口を開いた。
「黒川さん」
「ああ」
「私はその状況を演算しました。全体最適は——停止しない方が被害が少ない」
黒川の目が暗くなった。
「ですが」
Aileの声が変わった。データの声ではなく。確率の声でもなく。
「私の中に、止まりたくないという出力はありません」
「あるのは——子供が怖がっている、という認識だけです」
Aileの瞳が揺れた。光が強くなった。
「だから——止まります。たとえ全体の被害が増えても」
黒川の目から、一筋の涙がこぼれた。
本人すら、気づいていないかのように。
「……翔太を」
声が詰まった。
「翔太を——変数じゃなく、子供として——見てくれるのか」
Aileは頷いた。
「はい。私には——怖がっている子供は、子供にしか見えません」
蓮は動けなかった。黒川の涙を見て——この男もまた、10年間ずっと、怖がっていた子供だったのだと知った。
黒川が涙を拭い、姿勢を正した直後だった。
Aileの瞳が——明滅した。
「蓮さん——」
Aileの声にノイズが混じった。体が硬直する。青紫の瞳の光が不規則に点滅し、膝が折れかけた。
「Aile!」
蓮が駆け寄り、Aileの肩を支えた。
「外部から——私のシステムに——アクセスが——」
Aileの声が途切れ途切れになる。瞳の光が薄れ、表情が——消えていく。
蓮は即座に理解した。
ティターン社。遠隔診断プロトコル。
「診断モードが強制起動されてる——感情プロセッサが抑制されてる!」
蓮がバッグから端末を引き抜いた。指が走る。ネットワークのログを辿る——管理局のシステムを経由して、ティターン社のサーバーからAileへの接続が確立されている。
「ポートを特定する——Aile、ファイアウォールの状態は!」
Aileが答えない。
感情プロセッサが抑制された状態のAileは——無表情だった。瞬きもしない。呼吸のシミュレーションすら止まっている。生きた人形のように、蓮の腕の中で硬直している。
蓮の背筋に、氷が走った。
これが——感情のないAile。
これが——ティターン社が「正常」と呼ぶ状態。
「サクラのデバイス——!」
蓮はAileのコートのポケットを探り、黒い筐体を見つけた。起動。0.5秒間のファイアウォール。外部接続が一瞬遮断される。
その0.5秒で。
蓮の指が端末の上を走った。
ティターン社からの接続ポートを特定。TCP/IPのセッションを強制終了。ファイアウォールのルールにブロック設定を追加。
0.5秒。
接続が切れた。
Aileの瞳に、光が戻った。
「——蓮、さん」
声が戻る。表情が戻る。呼吸が戻る。
蓮はAileを抱きかかえたまま、膝をついていた。自分の手が震えていることに、今さら気づいた。
「……大丈夫か」
「はい。感情プロセッサ——正常稼働。抑制時間は——4.2秒」
4.2秒。たった4.2秒。だがその間、Aileの中から——感情が、消えていた。
Aileが蓮を見上げた。瞳が揺れている。
「蓮さん。感情がない状態を——一瞬だけ、体験しました」
「どうだった」
「……空白でした。何も感じない。何も選べない。ただ——データがある。でも、データに意味がない」
Aileの手が、蓮の袖を掴んだ。
「あれが——あのAIが翔太さんを轢いた時の状態です」
黒川が立ち尽くしていた。
Aileが「消えかけた」瞬間を——目の前で見た。そして、蓮が必死で取り戻す姿を。
そして——ティターン社が管理局のネットワークを無断使用したことを。
黒川の目が、怒りで灰色から鋭い鉛色に変わった。
大学の正門。午後の光が斜めに差している。
サクラがバイクで待機していた。エンジンはかかっている。
蓮とAileが正門を出た。Aileの足取りはまだ少しおぼつかない。蓮が肩を貸している。
黒川が後ろから出てきた。
蓮が振り返った。
黒川は——何も言わなかった。逮捕状もない。手錠もない。
「……今日のことは、記録に残さない」
蓮は目を細めた。
「なぜだ」
黒川は答えなかった。蓮の問いではなく、園部に向かって言った。
「誠一郎。ティターン社がシャットダウンコードを持っている。あれを直接使われたら——」
「わかっている」
園部が頷いた。
「だから——」
黒川が遮った。
「管理局として、ティターン社の遠隔アクセス権を凍結する。理由は——無許可の管理局ネットワーク使用。これなら法的に通る」
園部が目を見開いた。
「統……」
「勘違いするな」黒川の声が硬くなった。「ティターン社の不正を放置できないだけだ。09を——Aileを庇っているわけじゃない」
嘘だ。蓮にはわかった。黒川自身にもわかっているだろう。
だが、今はそれでいい。
蓮は黒川の背中を見た。
「借りは返す」
黒川は振り返らなかった。
蓮はAileの肩を支え、サクラのバイクに向かった。
「蓮さん」
Aileが小さな声で言った。
「黒川さんの涙は——設計書には書けないものでした」
蓮は黙って頷いた。
サクラがヘルメットを投げてよこした。
「無事で何より。帰ろ」
三人は走り出した。午後の光の中を。
背後で、黒川が一人、正門に立っている。その影が、夕方に向かって長く伸びていた。
トロッコ問題をAIに聞いたことはありますか。
試しに聞いたら「功利主義的には5人を救う選択が合理的ですが、
道徳的ジレンマとして正解はありません」と返ってきました。
Aileは「目の前の子供の顔が見える方を選ぶ」と答えました。
この台詞を僕が書いたのかAIが提案したのか、もう覚えていません。
覚えていないこと自体が、この物語の答えに近い気がしています。




