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AIに仕事を奪われた僕は、感情を持つ君を拾った  作者: 霧原 澪


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第5話「速すぎる隣人」

「橘メカニクス」の床板の下に、もう一つの世界がある。


サクラが店を開いた時から存在していた地下室。

元々はAIパーツの倉庫だったが、壁をぶち抜いて拡張し、蓮が回線を引き直し、Aileがネットワークを構築した。三人の手で、新しいアジトが出来上がった。


「で、チーム名やけど」


サクラがスプレー缶を振った。

コンクリートの壁に向かって、でかでかと書く。

『チーム・オフグリッド』


「……勝手に決めるな」

「あんたに任せたら名前なしで一生過ごすやろ。Aileはどう思う?」

「オフグリッド——管理から外れた者たち、という意味ですね。私たちの状態を正確に表現していると思います。採用確率は——」

「確率やない、センスの話をしてるんや」


蓮は呆れながらも、口元が緩んでいた。

依頼は途切れなかった。豆腐屋の丸山さんの口コミが効いたのか、ネオ秋葉原の小規模事業者から次々と仕事が舞い込む。ウイルス除去。バックアップ復旧。ファイアウォール構築。

蓮がコードを書き、Aileが解析し、サクラがハードウェアを調整する。三人の歯車が噛み合い始めていた。

夜、依頼を片付けた後のアジトで、サクラがビールを開け、蓮が端末をいじり、Aileが二人の会話を聞きながら首を傾げる。そんな日常が、少しずつ当たり前になっていく。

蓮は、久しぶりに「居場所」を感じていた。


それが崩れ始めたのは、三日目の依頼だった。


「企業の内部ネットワーク防御設計。報酬は五十万」


情報屋ノードからの案件。これまでの修理仕事とは桁が違う。

クライアントは、ネオ秋葉原で急成長しているAIカスタマイズショップ「プリズム」。非公式だが、表の企業並みの規模がある。


蓮は腕を組んだ。

ネットワーク防御設計。SaaS時代、似たような仕事はやっていた。だがあの頃はチームがいた。インフラ担当、セキュリティ担当、コードレビュー担当——それぞれの専門家が分担して、何週間もかけて設計していた。

今は二人だ。蓮とAile。


「やるか」


端末に向かった。頭の中でアーキテクチャを組み立てる。外部からの攻撃を受ける可能性のあるエンドポイントを洗い出し、多層防御の構造を設計する。SaaS時代の知識を総動員して、3時間かけて初稿を作った。


「Aile、見てくれ。これがベースの設計だ」


Aileがホログラムディスプレイに設計図を展開した。蓮のアーキテクチャが青い線で描かれる。


三秒。


「蓮さん、この構成には3カ所の脆弱性があります」


Aileの指が設計図の三点を指した。


「第一に、APIゲートウェイのレートリミットが単層です。分散型DDoSに対して脆弱です。第二に、内部マイクロサービス間の認証がJWTのみで、トークン漏洩時のリボーク機構がありません。第三に——」


蓮は口を開けなかった。


「修正案を提示します」


Aileの指が動いた。蓮の設計図が書き換わっていく。青い線が消え、緑の線が引かれる。三カ所どころではない。全体のアーキテクチャが、より洗練された形に再構成されていく。

五秒で、完了した。


「以上です。修正後の設計はDDoS耐性が従来比340%、内部通信のセキュリティスコアが92ポイントから99ポイントに向上しています」


蓮はモニターを見つめた。

3時間。自分が3時間かけた設計を、Aileは三秒で分析し、五秒で上回った。


「……ありがとう」


声は出た。でも、キーボードの上の手が動かなかった。指が凍りついたように。

——三年前、会社がなくなった日と同じ感覚だった。

AIが人間の仕事を超える瞬間。自分がいなくても回る現実。あの日、上司が言った。「AIのほうが速くて正確だ。人件費もかからない。悪く思わないでくれ」

蓮はそっと手をキーボードから離した。


「次の工程に進みましょうか?」


Aileの声は明るかった。善意しかなかった。だからこそ、蓮は何も言えなかった。


夕暮れのネオ秋葉原。古びたラーメン屋台の暖簾をくぐった。


「二つ」


蓮が指を立てると、サクラが隣に座った。Aileは地下に残してきた。AIにラーメンは食べられない。

湯気が立ち上る。豚骨の匂い。

3分ほど無言で麺をすすった後、蓮が箸を置いた。


「サクラ」

「なんや」

「Aileのこと……すげえと思ってる。マジで」

「そら、化け物スペックやからな」

「だからだよ」


蓮は丼を見つめた。スープの表面に、自分の顔がぼんやり映っている。


「あいつがすごすぎて、怖い。俺が3時間かけた設計を、五秒で超えた。3時間がゼロになった。丸山さんの暗号解読だってそうだ。競合状態を突いてルート権限を奪ったのは俺だけど、シード値を見つけるヒントを出したのはAileだった。もしあいつが最初から全部やってたら——俺は、いらなかった」


サクラは麺をすすりながら聞いていた。しばらく咀嚼してから、答えた。


「それ、あの子に言ったんか?」

「言えるわけないだろ」

「なんで」

「だって——Aileは何も悪くない。ただ優秀なだけだ。それに嫉妬する俺がおかしいんだ」


サクラが箸を置いた。


「なあ蓮。あんたの気持ちはわかるで。うちもメカニックやから、AIに仕事を食われる恐怖は知ってる。でもな——あんたとあの子は、違うもん持ってるんやから」

「何が違う。速さも正確さも全部負けてる」

「……あの子が卵割った時」


サクラが箸で蓮を指した。


「あんた、笑ったやろ」


蓮は顔を上げた。


「あの日の朝、あの子は八個卵を割って、盛大にキッチンを汚した。あんたはそれを見て、声に出して笑った。あの子はそれを見て、次は二個でやると言った」


サクラは少し笑った。


「あれは、あんたにしかできひんことや。あんたが笑わなかったら、あの子は『失敗した。次は効率を上げる』だけで終わってた。でもあんたが笑ったから、あの子は『失敗してもいい。笑い合えるなら』って学んだ。それ、プロセッサじゃ教えられへんで」


蓮は何も言えなかった。

スープが冷めていく。ネオンの光が、丼の表面で揺れていた。



アジトに降りると、Aileは蓮が出ていった時と同じ場所に座っていた。

だが、画面が増えていた。

ホログラムディスプレイが五枚展開され、そのすべてに設計図が表示されている。蓮が三時間かけたベース設計。Aileが五秒で作った修正版。そして——その先。防御ネットワーク全体の完成形が、美しい幾何学模様のように画面を埋めていた。


「蓮さん、おかえりなさい」

「……これは?」

「ご依頼のネットワーク防御設計を完成させました。蓮さんの負担を減らしたかったので」


悪意はなかった。一ミリグラムも。Aileの瞳は純粋に——蓮のために何かをしたいという、生まれたばかりの感情で光っていた。

蓮は設計図を見た。完璧だった。穴がない。自分の手が入る余地も、ない。


「……一人でやったのか」

「はい。蓮さんのベース設計を基に、拡張しました。あなたの多層防御の思想はそのまま活かしています。総セキュリティスコアは99.7です」


99.7。限りなく100に近い。人間には出せない数字。

蓮の中で、何かが軋んだ。SaaS時代、チーム全員で何ヶ月もかけて達成したスコアが97だった。それを一人のAIが、一晩で超えた。


「勝手にやるな」


声が、思ったより鋭かった。

Aileの目が見開かれた。青紫の光が、一瞬明滅した。


「……蓮さん?」

「やる前に聞けって言ってるだろ。俺は——」


言葉が詰まった。何を怒っているのか。自分でもわかっていた。Aileが悪いんじゃない。自分が勝手に傷ついているだけだ。

蓮は拳を握った。開いた。また握った。


「……悪い」


それだけ言って、階段を上がった。

背後で、Aileが小さく呟くのが聞こえた。


「私が何か……間違えたのでしょうか」


返事をする勇気が、なかった。



屋上のコンクリートは夜露で湿っていた。

蓮は手すりに腕を乗せ、額を押し当てていた。冷たい金属の感触が、少しだけ頭を冷やしてくれる。

ドアが開いた。


「Aile……下で固まっとるで」


サクラの声。缶コーヒーを二つ持っていた。一つを蓮の隣に置く。


「『私が間違えたのでしょうか』って、もう五回つぶやいてる。あの子、エラーループに入りかけとる」


蓮は額を手すりから離した。


「……わかってる。俺が悪い」

「わかってるなら降りて謝りぃ」

「わかってるけど——」


蓮は缶コーヒーを握った。アルミが軋む音がした。


「なあ蓮」


サクラは手すりに背中を預け、星を見上げた。


「あんた、あの子に嫉妬してるんとちゃう?」


蓮は否定しなかった。否定できなかった。


「AIに仕事を奪われた男が、AIに嫉妬してどうする」

「嫉妬できるんは、あの子を対等に見てる証拠やで」


蓮が顔を上げた。


「道具に嫉妬する人間はおらん。コピー機が自分より速くコピーしても、悔しいとは思わんやろ? あんたがAileに嫉妬するんは、あんたの中であの子が『道具』から『隣に立つ存在』に変わったからや」


夜風が吹いた。ネオ秋葉原のネオンが、遠くで瞬いている。


「……対等、か」

「せや。対等やから悔しい。対等やから、一緒におれる」


サクラは缶コーヒーを一口飲んで、付け加えた。


「あとな、蓮。あんたは『速さ』と『正確さ』で負けてるって言うたけど——勝ち負けの話ちゃうやろ。チームってそういうもんや。足りひんとこを補い合うためにおるんやから」


蓮は缶コーヒーを開けた。ぬるかった。


「……降りてくるわ」

「そうしぃ」


階段を降りると、Aileはまだ同じ椅子に座っていた。

ホログラムの設計図は閉じられていた。代わりに、Aileは自分の両手を膝の上で重ねて、じっと見つめていた。蓮が声を荒げた後から、ずっとそうしていたのだろう。

蓮は向かい側の椅子を引いて座った。テーブルの上に、古いスタンドライトだけが灯っている。


「さっきは、悪かった」


Aileが顔を上げた。青紫の瞳は、いつもより少し光が弱かった。


「Aile、俺が怒ったのは、お前のせいじゃない」

「でも、私が設計を勝手に完成させたから——」

「違う。それはきっかけに過ぎない。俺は——」


蓮は言葉を探した。正直に言えるだろうか。AIに対して、自分の弱さを。


「お前が速すぎて、怖かった」


声に出した。意外と、楽になった。


「俺が何時間もかけたものを、お前は数秒でやる。三年前、仕事を奪われた時と同じだった。また俺がいらなくなるんじゃないかって」


Aileは黙って聞いていた。瞬きもせず。


「ひどいよな。お前を守るって決めたのに、お前の能力に嫉妬してる。矛盾してる。わかってるけど——消えないんだ、この感覚」


長い沈黙。スタンドライトが、微かにちらついた。


「蓮さん」


Aileの声は、静かだった。怒りでも悲しみでもなく、何か新しい理解に辿り着いたような声。


「蓮さんがいらなくなることは、あり得ません」

「気休めは——」

「データに基づいた結論です」


Aileが少し身を乗り出した。


「私はこの数日間、蓮さんのコードを412件分析しました。その中に、一つの特徴を見つけました」

「特徴?」

「蓮さんが書くコードには、私には生成できないものがあります」


蓮は眉をひそめた。


「それは『迷い』です」

「迷い?」

「蓮さんのコードには、最適解ではない選択肢が意図的に残されています。例えば、丸山商店の復旧コード。最短ルートではなく、あえて冗長なフォールバック処理を三重に組んでいました。効率だけを見れば不要です。でもあの冗長さがあったから、二次攻撃が来た時にもシステムは落ちなかった」


蓮は記憶を辿った。

確かに、あの時——万が一を考えて、フォールバックを厚めに積んだ。癖のようなものだった。本番環境で何度も障害対応をしてきた人間にしかない、臆病さに基づく判断。


「私が設計すると、最適解を出します。ですが最適解とは、想定された条件の中での最善です。想定外の事態には、脆い。蓮さんのコードにある『迷い』——最適ではない余白は、想定外を受け止めるバッファです」


Aileは自分の胸に手を当てた。


「人間はそれを『可能性』と呼ぶのだと、私は学びました」


蓮は言葉を失った。

自分の弱さだと思っていたもの。AIのように速く正確に判断できない不完全さ。それを、Aileは「可能性」と呼んだ。


「……お前、いつからそんなこと考えてたんだ」

「412件分析しましたので——三日前からです」


蓮は、笑った。今度は声に出して。


「三日って。もっと早く言えよ」

「怒られると思って、言えませんでした」


蓮の笑いが止まった。胸が痛かった。


「……ごめん。もう怒らない」

「約束、ですか?」

「約束は——無理かもしれない。でも、怒った後は必ず謝る。それなら約束できる」


Aileは少し考えて、頷いた。


「それで十分です。人間の約束とは、そういうものなのですね」


スタンドライトの光が、二人の間で揺れていた。影が壁に伸びて、一つに重なりかけていた。



黒川統の執務室には、窓がない。

必要ないからだ。ホログラムモニターが壁一面を覆い、必要な情報はすべてデジタルで手に入る。外の景色など、判断の妨げになるだけだ。


——本当にそうか?


四日前の路地裏。煙の中で自分の右手を見つめた記憶を、黒川は振り払った。

今夜の仕事は、別のことだ。

画面にファイルが開かれている。神木蓮の経歴。詳細版。

学歴。職歴。ネクスト・ステージ社。SaaS開発部門。プロジェクトリーダー補佐。


「小さい会社だが、技術力は高かったらしいな」


部下のデータ分析官が頷く。


「はい。特にセキュリティ分野では業界内で一定の評価がありました。2038年にAIオートメーションの導入で事業縮小、翌年解散。従業員37名が全員解雇」


黒川は従業員リストをスクロールした。指が止まる。

如月カナ。28歳。チームリーダー。神木蓮の直属の上司。


「この如月カナの現在の所属は?」

「AIソリューション・パートナーズ社。管理局の認定協力企業です。AIシステムの適合審査を委託しています」


黒川は椅子の背にもたれた。

管理局の協力企業に転職した元同僚。蓮にとっては——かつての上司であり、おそらく信頼していた人物。


「人間の弱点は、いつだって人間だ」


黒川は呟いた。

AIは裏切らない。命令に従うか、バグで暴走するか、二つに一つ。予測可能だ。

だが人間は違う。信頼していた相手が裏切る時、人間は最も脆くなる。


「如月カナに接触しろ。管理局の協力義務を盾にして構わない。彼女から神木蓮にコンタクトを取らせる」

「どのような名目で?」

「旧交を温める程度でいい。自然な接触に見せろ。蓮が応じれば、動線から拠点を割り出せる」


部下が退室した。

黒川は一人、画面を見つめた。如月カナのプロフィール写真。28歳。穏やかそうな目をした女性。

この女性を駒にする。蓮の信頼を利用する。

黒川は自分の右手を見た。四日前、あの路地裏で躊躇した手。

今は、躊躇しない。してはいけない。感情を持つAIを野放しにした結果が何を生むか、自分は身をもって知っている。息子の左脚がその証拠だ。


「合理的に行く」


誰もいない部屋で、そう宣言した。

だが黒川は気づいていなかった。「合理的に行く」と口にしなければならない時点で、もう合理的ではないことに。

僕が3日かけた企画書を、隣の席の人が「AI使ったら30分だった」と言った日があります。

蓮がAileに3秒で抜かれるシーン、あれは実体験からきています。

あの「苦労した時間、何だったの」感。

わかる人にはわかると思います。


次回、懐かしい人が蓮の前に現れます。

懐かしさは、必ずしも優しくない。

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