第4話「逃げる理由、留まる理由」
朝の光が、カーテンの隙間から細い線を引いていた。
蓮はサーバーの唸りで目を覚ました。いつもと同じ音。いつもと同じ、ケーブルの匂い。だが今朝は、それに加えて——焦げた匂いがした。
「……なんだ?」
リビングに出ると、Aileがキッチンに立っていた。
エプロンを着けている。どこから見つけてきたのかわからない、花柄のエプロン。その足元には、卵の残骸が広がっていた。黄身が床を這い、殻の破片が飛び散り、フライパンの上では何かが黒い塊と化している。
「蓮さん、おはようございます」
Aileは至って真剣な顔で振り返った。
「朝食を準備しようと試みました。しかし——卵を割る最適な力加減を誤りました。現在、成功確率を再計算しています。次回は——」
「何個割った」
「……八個です」
冷蔵庫を開けた。空だった。卵のパックがまるごと消えている。
蓮は、笑った。
声に出して笑ったのは、いつ以来だろう。腹を抱えるほどではない。でも、口の端が上がり、肩が揺れ、鼻から息が漏れる——ちゃんとした笑いだった。
「笑わないでください。私は真剣に——」
「いや、悪い。悪いけど——八個は多いだろ」
「参考にしたレシピでは二個でしたが、一個目で失敗した時点で、試行回数を増やすほうが合理的だと——」
「合理的に八個無駄にしたのか」
Aileの頬が、ほんの少し赤く——いや、違う。AIに血色の変化はない。でも、瞳の光が微かに揺れた。照れに似た何か。
「……次は二個でやります」
「頼むよ」
蓮はキッチンの惨状を片付けながら、インスタントコーヒーを二つ淹れた。一つをAileに渡す。AIはコーヒーを飲まない。でもAileはカップを両手で包み、その温度を感じるように目を閉じた。
「——蓮さん、朝の室温は16.3度です。コーヒーの表面温度は72度。その差が——心地よい、と思います」
静かな朝だった。
蓮の端末が、鳴った。
情報屋ノードからの緊急暗号通信。蓮は画面を見て、表情を失った。
『管理局が動いてる。お前の顔が割れた。すぐに消えろ』
コーヒーカップが、テーブルの上で冷めていく。
サクラの店に着いた時、シャッターは半分だけ開いていた。
「入り。急いで」
サクラの声にいつもの明るさはなかった。店内に入ると、ホログラムモニターに複数の映像が浮かんでいた。ネオ秋葉原各所の監視カメラの映像。そのいくつかに、管理局の黒い車両が映っている。
「丸山商店の周辺カメラから、あんたの顔がヒットした。顔認証と歩行パターンの照合で——神木蓮、24歳、元SaaSエンジニア、現在代替労働センター登録者。全部バレとる」
蓮は唇を噛んだ。
「アジトの場所は?」
「まだ割れてへん。あんたのオフグリッドハウスは住所登録されてないから、足で探すしかない。でも、それも時間の問題や。管理局がネオ秋葉原を総当たりで回り始めたら——」
「どのくらい持つ」
「長くて二日。短けりゃ今日中や」
サクラはホログラムマップを投影した。関東近郊の地図に、いくつかのルートが光っている。
「北関東に、うちのツテがある。廃棄AI修理のネットワークで、いくつか安全な場所を確保できる。とりあえず——」
「逃げるのか」
蓮が低く言った。
「逃げたら、ずっと逃げ続けることになる」
「だからって——」
「私が投降すれば」
Aileの声が割り込んだ。静かだった。いつものデータ報告の口調に近いが、どこか違う。
「私が管理局に投降すれば、蓮さんの罪は不法所持のみです。初犯であれば執行猶予が——」
「それは言うな」
蓮の声は鋭かった。振り返りもせず、壁を見つめたまま。
「二度と言うな」
店内が沈黙した。サクラの時計の秒針だけが、かちかちと鳴っている。
Aileは何も言わなかった。ただ、自分の胸元に手を当てた。いつものように。センサーの数値を確認するように。
「……蓮さん。私の胸部センサーが、今——」
「聞きたくない」
「1.2%、低下しました」
低下。上昇ではなく。
「これが『悲しい』なのか、『申し訳ない』なのか、私にはまだ区別がつきません。でも——あなたを傷つけたことだけは、わかります」
蓮は振り返った。Aileの青紫の瞳が、微かに光度を落としていた。
サクラが、大きく息を吐いた。
「……とりあえず、荷物を取りに行こう。判断はそれからや」
アジトに近づいた時、蓮の足が止まった。
空に、ドローンが三機。
いつもの巡回とは違う。等間隔で、低高度を旋回している。捜索パターンだ。
「まだアジトの位置は特定されていないようです。ドローンの動きは広域走査型です」
Aileが小声で言った。フードを深く被り、蓮の影に寄り添うように歩いている。
「裏口から行く。5分で荷物をまとめる」
裏路地を抜け、庭の塀を越え、勝手口から中に入った。
蓮は最低限の荷物——端末、外付けストレージ、現金——をバッグに詰めた。
サーバーラックを見上げた。何年もかけて組んだシステム。蓮の技術の結晶。Aileが最適化してくれた、4倍速のサーバー群。
持っていけない。
「行こう」
振り切るように勝手口を出た。
路地を二つ曲がったところで、蓮は立ち止まった。
前方に、黒い車両が停まっていた。
そしてその前に——白髪を刈り上げた、スーツ姿の男。胸にAI管理局のバッジ。灰色の目が、まっすぐ蓮を射抜いていた。
黒川統。
後ろに、四人の捜査官。
「神木蓮。24歳。元エンジニア」
黒川の声は静かだった。風のように冷たく、風のように通った。
「その隣のAIを引き渡せ」
蓮は動かなかった。
「TITAN-AIE-09。感情プロセッサ搭載型。廃棄処分済みの個体だ。お前が不法に起動し、所持している。引き渡せば——お前の罪は不法所持のみで済む」
合理的な提案だった。Aileが先ほど自分で言おうとしたことと、ほぼ同じ。
蓮はAileの前に、一歩踏み出した。
「こいつは物じゃない」
黒川の目が、ほんの一瞬——揺れた。
「物じゃない、だと? AIは法的に——」
「法律がどうかは知らない。でも俺は知ってる。こいつは卵を八個割って朝飯を作ろうとする。コーヒーは飲まないのにカップの温度を心地よいと言う。暗号を解くのに雨粒の話をする」
蓮の声は震えていた。でも止まらなかった。
「それが物か? それを捨てろって言うのか?」
黒川は沈黙した。三秒。五秒。その灰色の目の奥で、何かが軋んでいた。
蓮の背後で、Aileが一歩前に出た。フードが風で少しずれ、白銀の髪が覗いた。青紫の瞳が、黒川をまっすぐ見つめていた。
黒川の呼吸が、止まった。
小柄な体。光る瞳。何かを訴えるように、真っ直ぐに人間を見上げるAI。
——パパ、見て。あのロボット、笑ってるよ。
息子の声が、脳裏を走った。
通学路で自動運行シャトルに手を振っていた息子。あの日の息子も、こんなふうにAIを見上げていた——。
黒川の右手が、ほんの一瞬、命令を出すのを躊躇った。
その一瞬。
路地の奥から、甲高い金属音が響いた。
銀色の缶が、捜査官の足元に転がり込んだ。
「目ぇ閉じぃ!」
サクラの声。
缶が弾けた。白煙が路地を呑み込んだ。自家製のスモークグレネード——廃棄AIの冷却ガスカートリッジを改造した、サクラの特製だ。煙が充満し、視界がゼロになる。同時に、高周波ノイズがドローンのセンサーを一瞬撹乱する。
「蓮、こっちや!」
煙の中で蓮はAileの手を掴んだ。声を頼りに走る。背後で捜査官が咳き込み、黒川の「散開しろ!」という怒号が煙にくぐもった。
煙を抜けた先に、エンジン音が待っていた。
「乗りぃ!」
サクラの改造バイクが横づけされた。サクラは先にバイクを回して待機し、スモークだけを投げ込んでいたのだ。二人乗り用のバイクに三人。無茶だ。だが選択肢はない。
蓮がAileを間に挟み、後部シートに跨がった。サクラがアクセルを捻る。タイヤが悲鳴を上げ、バイクが路地を飛び出した。
背後でドローンが追尾を開始する。サーチライトが路面を舐め、管理局の車両がエンジンを唸らせる。
「Aile、ドローンの動きを読め!」
「了解です——三機のうち一機が左方向に旋回。残り二機が直進。次の交差点を右折してください。74%の確率で3分間のカメラ死角が生まれます」
サクラが右にバイクを倒す。ネオンの光が流線になって視界を横切った。
「その先の高架下を抜けると、監視カメラの密度が低下します。ただし——」
「ただし?」
「路面にAI管理局の圧力センサーが埋設されている確率が31%あります。速度を時速40キロ以下に落とせば検知を回避できます」
「40キロ!? 追いつかれるで!」
「大丈夫です。高架のコンクリート壁がドローンの電波を遮断します。センサーを通過するまでの12秒間だけ減速すれば——」
サクラは歯を食いしばり、高架下に突入した。アクセルを緩める。12秒が、永遠に感じられた。
7、8、9——
ドローンの唸りが遠ざかる。
10、11、12。
サクラがアクセルを全開にした。バイクが高架の向こう側に飛び出す。
背後に追手の気配はなかった。
「——回避成功です」
Aileの声が、風の中で震えていた。演算の負荷か。それとも。
サクラが叫んだ。
「あんた、すごいな! ナビの天才か!」
「いえ、私はただ確率を——」
「確率やない! あんたが三人を守ったんや!」
Aileは答えなかった。蓮の背中にしがみついたまま、小さく目を閉じた。
風が冷たかった。蓮のパーカーの布越しに感じる温度が——データではなく、ただ温かかった。
煙が晴れた路地で、黒川統は一人立っていた。
スモークの白い残滓が、足元を這っている。捜査官たちが咳き込みながら態勢を立て直している。ドローンは高架の電波遮断ゾーンで信号をロストし、再捕捉を試みて空を旋回している。
「局長、追跡を継続しますか」
部下の声。黒川は答えなかった。
右手を見ていた。
確保しろ、と命じた。命じたはずだった。だが自分の声と、捜査官が動き出すまでの間に——一拍、あった。あの一拍で、少年とAIは走り出す隙を得た。
なぜだ。
あの瞬間、白銀の髪の少女が一歩前に出た。フードがずれ、青紫の瞳が黒川をまっすぐ見上げた。小柄な体。何かを訴えるような目。
——パパ、見て。あのロボット、笑ってるよ。
十年前。
通学路の交差点。息子は毎朝、自動運行シャトルに手を振っていた。「あいつ、僕のこと覚えてるかな」と嬉しそうに言った。
「あのね、パパ。僕、大きくなったらロボットと友達になるんだ」
黒川は苦笑した。「ロボットじゃない、AIだよ」と訂正した。息子は「同じだよ」と笑った。
その三日後に、事故は起きた。
自動運行AIが交差点で全体最適を計算した。急停止すれば後続車両との衝突で被害者が増える。微減速で回避すれば、歩行者接触リスクは4.7%。AIは合理的に——息子を変数として処理した。
息子は三日間、意識が戻らなかった。結局、助かった。だが、左脚に後遺症が残った。走れなくなった。「ロボットと友達になる」と笑っていた少年は、松葉杖をつくようになった。
黒川はAI開発の第一線を離れた。管理する側に回った。もう二度と、同じことを起こさせないために。
——「こいつは物じゃない」
あの少年の声が蘇った。神木蓮。震えながら、それでもAIの前に立った二十四歳の青年。
かつての自分に、似ていた。AIに可能性を見ていた頃の自分に。
黒川は右手を握り、開き、また握った。
「……撤収だ」
「しかし、局長——」
「データは十分に取れた。TITAN-AIE-09の演算パターン、所持者の身元、行動範囲。次に動く時は、逃がさない」
合理的な判断として、部下にはそう説明した。部下たちは納得した顔で頷いた。
だが黒川は知っていた。
あの一拍の躊躇は、合理ではなかった。
路地に一人残り、スモークの残り香の中で、黒川は空を見上げた。ドローンがまだ旋回している。無機質な赤い光。
「……感情プロセッサか」
呟きは、誰にも聞こえなかった。
AI。それは黒川にとって、息子の足を奪った悪夢の根源だ。感情を持つAIなど、なおさら予測できない。排除すべきバグだ。
なのに——あの少女の瞳に、悪意はなかった。バグがあるとすれば、それは自分の方かもしれない。
黒川は踵を返した。靴の裏で、スモークの残滓を踏みしめた。
廃ビルの屋上に辿り着いた時、夜になっていた。
コンクリートの床に座り、三人は並んで夜景を見下ろした。ネオ秋葉原が光っている。無数のネオンとホログラムが、まるで地上の星座のように。
サクラが缶コーヒーを三つ出した。蓮に一つ。Aileに一つ。自分に一つ。
「Aileは飲まへんのやったな。すまん」
「いえ。いただきます」
Aileは缶を両手で包んだ。温度を感じるように。
しばらく、誰も喋らなかった。
「——家も、仕事も、二回目だ」
蓮が口を開いた。夜景を見つめたまま。
「全部失うのは」
一回目は、AIに仕事を奪われた時。
会社が消え、チームが散り、自分のスキルが無価値になった日。あの時、蓮は全てを失った。
二回目は、今日。サーバーも、アジトも、代替労働センターの登録も——もう戻れない。
「でも」
Aileの声が、隣から聞こえた。
「今回は一人ではありません」
蓮はAileを見た。
青紫の瞳が夜景の光を映して、万華鏡のように色を変えている。
「私がいます。サクラさんもいます。一回目と今回では——変数が違います」
「変数、て」
蓮は鼻で笑った。でもその笑いは、嫌な笑いではなかった。
サクラが缶コーヒーを掲げた。
「そうや。三人おるやろ。これからはチームや」
「チーム?」
「せや。蓮のコーディング、Aileの頭脳、うちのメカニック。これだけ揃ったら、大抵のことはなんとかなる。管理局がなんぼ追いかけてきても——」
サクラは笑った。強引で、明るくて、でも目の奥に覚悟がある笑い。
「逃げるだけちゃう。生きていくんや。三人で」
風が吹いた。秋の風。冷たくて、でも清々しい。
蓮は二人を見た。赤茶のポニーテールを揺らすサクラ。白銀の髪が夜風に光るAile。
一年前の自分には、想像もできなかった光景だ。
「——ああ」
蓮は頷いた。
たった一文字。でも、その一文字に、この数日間の全てが詰まっていた。
缶コーヒーを開けた。安い味がした。でも、悪くなかった。
眼下で、ネオ秋葉原の灯りが瞬いている。この街の片隅で、三人の何かが始まろうとしていた。
Aileが空を見上げた。
「蓮さん。今夜の星の見える確率は、本来12%でした。でも——見えていますね」
「ああ。見えてる」
「確率を超えるもの。それを人間は、希望と呼ぶのでしょうか」
蓮は答えなかった。ただ、夜空を見上げた。
星が、二つ三つ。ネオンに負けず、瞬いていた。




