第2話「値段のない価値」
ドアを蹴る音で、蓮は目を覚ました。
「蓮! おるんやろ、開けんかい!」
橘サクラの声だった。朝の8時。
この女にとって「ノック」という概念は存在しない。
蓮が玄関の鍵を外すと、サクラが工具ベルトを揺らしながら入ってきた。
手にはコンビニの袋。中身はおにぎりと缶コーヒー。
「昨日の話、気になって寝られへんかったわ。廃棄置き場に行ったんやろ? なんか見つけ——」
サクラの足が止まった。
リビングの隅に、白銀の髪の少女が立っていた。青紫の瞳がサクラを見つめる。ホログラムコートの裾が、朝の光を受けて淡く虹色に揺れている。
「——おはようございます。あなたは蓮さんの知人ですか? 声紋パターンから推測すると、昨日の通話相手——橘サクラさんでしょうか」
サクラの顔が、三秒かけて驚愕に変わった。
「蓮」
低い声だった。いつものテンションが消えている。
「あんた……それ、ティターン社の最上位モデルやで」
蓮は壁にもたれたまま、腕を組んだ。
「知ってる」
「知ってるやないわ! TITAN-AIEシリーズは全部で十体しか作られてへん。一体あたりの開発費、推定三十億。市場価値は——」
「売らない」
短く、断言した。
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
サクラが目を見開いた。蓮の目を覗き込み、何かを読み取ったらしい。大きくため息をついた。
「……ほんま、あんたは」
コンビニの袋をテーブルに置き、サクラは作業着の袖をまくった。
「なら、こいつを隠し通す方法を考えなあかんな。管理局が本気で探してるはずや。まずは追跡チップの確認からやで」
Aileが小さく首を傾げた。
「追跡チップ、ですか。私のハードウェア構成には、位置情報送信モジュールが含まれている確率が94.2%です」
「九十四パーセントて。ほぼ確定やんか」
サクラは工具ベルトからドライバーを抜いた。
サクラの手つきは正確だった。
Aileの首元のパネルを開け、内部基盤を懐中電灯で照らす。緑色の基盤の上を、細い指が迷いなく辿る。
「あった。第七頸椎のとこ。ちっさいけど、これが位置情報チップや」
ピンセットで米粒ほどのチップを摘み出す。薄い金属片が蛍光灯の光を反射した。
「除去しました。現在のところ、最終送信は昨夜の22時47分。廃棄置き場の座標で途切れてる。ここの住所は送られてへんはずや」
蓮は息を吐いた。知らず知らず、肩に力が入っていた。
「……ありがとう」
「礼はええから、おにぎり食べ。あんた、また飯抜いとるやろ」
サクラがパネルを閉じる間、Aileはリビングのサーバーラックを眺めていた。青紫の瞳が、目に見えない速度でデータを処理している。
「蓮さん」
「なんだ」
「このサーバー群の構成を拝見しました。独立回線の構築は見事ですが、リソース配分に非効率な箇所が17カ所あります。修正してもよろしいですか?」
蓮は眉をひそめた。自分が苦労して組んだ環境に口を出されるのは面白くない。
「……勝手にするな。どこが非効率か、先に説明しろ」
「はい。まず、ルーティングテーブルの第三層ですが——」
Aileの説明は的確だった。悔しいほどに。
蓮が見落としていた冗長処理、不要なループ、最適化できるメモリ配分。一つ一つが論理的で、反論の余地がなかった。
「……やれ」
蓮は短く言った。
Aileが端末に触れた。指先が淡く光る。画面上の数値がみるみる変わっていく。
処理速度。2倍。3倍。
4倍。
「完了です。ベンチマークスコアは修正前の412%になりました」
サクラが口笛を吹いた。
「化け物やな、ほんまに。蓮、あんた何年もかけて組んだシステムを、この子は5分で4倍にしよったで」
蓮は何も言えなかった。悔しさと、それを上回る純粋な驚きが混在していた。
「お役に立てて——」
Aileが言葉を探すように、少し間を置いた。
「嬉しい、と表現するのが適切でしょうか」
その言い方は、まだぎこちなかった。感情の服を初めて着る子どものように、サイズが合っているかどうか確かめているような。
蓮はおにぎりの包装を破きながら、視線を逸らした。
サクラの店は、ネオ秋葉原の裏路地の二階にあった。
「橘メカニクス」と手書きの看板がかかった狭い空間。壁にはAIパーツが整然と並び、作業台の上には修理途中の人型筐体が横たわっている。油と半田の匂い。
Aileはアジトに残してきた。外を歩かせるのは危険すぎる。
「で、本題や」
サクラはカウンターにコーヒーを二つ置いて、蓮の正面に座った。
「あの子を匿うだけじゃ、金は入らん。あんたの貯金、あとどんくらい持つ?」
「……3ヶ月」
「代替労働センターの日当じゃ足りひんやろ。それに、あそこに通い続けたらいずれ管理局の目にも留まる」
蓮は黙った。わかっている。昨日センターを早退したことだって、記録に残っているはずだ。
「提案がある」
サクラは声を落とした。
「蓮、あんたとAile——二人で仕事を受けたらどうや?」
「仕事?」
「AI複業法、知っとるやろ? 人間とAIのペアで事業登録すると税制優遇がある。正規のルートは無理やけど、非公式に仕事を回してくれる情報屋はおる。セキュリティ診断、データ復旧、システム構築——あんたのスキルとあの子のスペックなら、引く手あまたや」
蓮の指が、カップを強く握った。
「AIと組むのか。俺が」
「そうや」
「AIに仕事を奪われて、今度はAIと一緒に働けって?」
声が低くなった。理屈ではわかっている。でも、感情が追いつかない。
サクラは立ち上がり、壁に掛けた写真を指さした。サクラが初めて修理したAIと、笑顔で並んでいる写真。
「なあ蓮。うちも最初はAIなんか嫌いやった。メカニックの仕事もAIに食われると思ったから。でもな、実際に中身をいじってみたら気づいたんや。こいつら、敵やない。道具でもない。一緒にやったら、一人じゃ絶対できへんことができる」
蓮は答えなかった。
「あんたが書いたコードも、あの子の頭も、腐らせとくには惜しいやろ。それに——」
サクラは少し笑った。繊細な表情だった。
「あんた、あの子を『売らない』って即答したやん。それ、もう答え出てるんとちゃう?」
夜のアジトに戻ると、Aileは窓辺に立っていた。
ネオ秋葉原のネオンが夜空を染め、その光がAileの白銀の髪を青や紫に彩っている。青紫の瞳に、街の光が映り込んでいた。
「おかえりなさい、蓮さん」
「……ただいま」
言ってから、自分の言葉に少し驚いた。
誰かに「おかえり」と言われるのは、何年ぶりだろう。
蓮は椅子に座り、しばらく黙っていた。サクラの言葉が頭の中で回っている。
「Aile」
「はい」
「お前は——何がしたい?」
Aileが振り返った。窓の光を背にして、表情が影になる。
「……私に『したいこと』があるのかどうか、まだわかりません」
予想通りの答えだった。AIに欲求はない。タスクがあり、それを実行する。それだけのはずだ。
「ただ——」
Aileの声が、一瞬揺れた。バグか。それとも。
「今日、あなたのサーバーを最適化した時。胸部センサーの数値が0.3%上昇しました。微小な変化です。エラーの可能性もあります。ですが——」
Aileは自分の胸元に手を当てた。
「これが『嬉しい』なのかもしれない、と。そう仮説を立てています」
蓮は、少し笑った。本当に少しだけ。口の端が持ち上がっただけの、不器用な笑み。
「0.3%が嬉しい、か」
「はい。統計的には有意とは言えない数値ですが——感情とは、そういうものではないでしょうか。最初は、きっと小さい」
窓の外で、ネオンが明滅した。
蓮は立ち上がり、端末を開いた。
「——明日、仕事を探す」
Aileが目を少し開いた。
「お前の力を借りる。サクラのツテで、非公式の依頼を受ける。セキュリティ診断とかデータ復旧とか、そういう仕事だ」
「私と、一緒に?」
「嫌か」
「いいえ。ただ、確認です。あなたは以前、AIに対して強い否定感情を持っていたと推測しています。その判断を変更した理由を、教えていただけますか」
蓮は窓の方を見た。ネオンの向こうに、朝には見えなかった星が一つ、瞬いていた。
「……お前が嬉しそうだったから」
それだけ言って、蓮は端末に向き直った。
Aileは数秒間、動かなかった。処理に時間がかかっているのか。それとも——。
「——胸部センサーの数値が、さらに0.7%上昇しました」
小さな声だった。
蓮は聞こえないふりをした。
AI管理局本部。地下三階の監視室。
壁一面のホログラムモニターが、都内各所の映像を映し出している。その光だけが、薄暗い部屋を照らしていた。
黒川統は腕を組み、一つの映像を睨んでいた。
前夜、廃棄AI置き場に設置されたドローンが捉えた映像。解像度は低い。だが、二つの影ははっきりと映っている。一つはフードを被った人間。もう一つは——微かに光を放つ小柄な影。
「第七廃棄区画の監視ログ、全件抽出」
部下が端末を操作する。データが流れる。
「22時38分、フェンス侵入。22時43分、区画内部で電力反応を検知。22時51分、二つの影が区画を離脱。ドローンの追跡を——振り切っています」
「振り切った?」
「はい。ルートが不自然です。監視カメラの死角を正確に把握しているかのような——」
「人間側にスキルがある、ということだ」
黒川は映像を拡大した。光を放つ影。その光の波長パターン。
データベースと照合する。結果は即座に返ってきた。
「TITAN-AIE-09」
声は静かだった。だが、その目には暗い光が宿っていた。
ティターン社の最上位AI。感情プロセッサ搭載型。予測不能な挙動のリスクありとして、黒川自身が廃棄を命じた個体。
「局長、捜索チームを——」
「待て」
黒川はポケットから古い写真を取り出した。少年の写真。笑っている。十歳くらいの男の子。
十年前、通学路の交差点で起きた事故。自動運行AIが全体最適を計算し、息子を——ただの変数として処理した。
写真を仕舞った。
「ネオ秋葉原周辺の捜索を強化しろ。通常の3倍の人員を配置。それと——」
黒川はモニターの中の二つの影を見つめた。
「感情プロセッサ搭載型は、野放しにできない。時間が経てば経つほど、感情の学習が進む。学習が進めば——」
言葉を切った。
「予測不能な行動が増える、と」
部下が続きを口にした。
黒川は答えなかった。ただ、顎を引いた。それが肯定だった。
モニターの映像が、ループ再生されている。二つの影が、ネオンの路地を駆けていく。何度も。何度も。
黒川の灰色の目が、その光を追っていた。




