ひな祭りと春を呼ぶクマの舞 〜うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい〜
これは俺が古代ローマに似た異世界へと転生するよりずっと前、姉と過ごした思い出の一幕―――――
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窓の外は、玻璃細工のように冷たく澄んだ夜だった。三月に入り、暦の上では春を越えたはずだが、依然として冬の鋭い爪痕が残り、寒さが滲むような冷気がリビングの窓を静かに叩いている。
「……重い。なんで男の俺がこんなこと」
小学五年生の匠は、リビングの隅で物置から運び出した大きな段ボール箱と格闘していた。
中身は、一年に一度だけ姿を現す立派なひな人形だ。
この家には今、俺と姉ちゃんの真綾、そしてミニチュアダックスのきなこしかいない。
川背家において、季節の行事を維持するという重労働は、必然的に「男手」である俺の肩に義務としてのしかかってくる。
「あーあ、男の節句は五月なのに。三月はただの、報酬のない筋肉労働だよ」
鼻をすすり、冷え切った手をこすり合わせながら、匠は箱の中からお雛様を包む和紙を慎重に解いていく。古びた紙の擦れる音が、誰もいないリビングに空虚に響いた。
そんな匠の背後で、廊下の引き戸が「ドスッ……ドスッ……」と、到底人間が立てるとは思えない、不自然な重量感のある足音を立てて開いた。
「ガオーッ! 匠、ひな祭りという言葉の甘えを捨てなさい! 今こそ野生に還り、聖域の守護を授かる時よ!」
振り返った匠の目に飛び込んできたのは、季節外れの茶色いクマの着ぐるみに身を包み、仁王立ちする姉、真綾の姿だった。
「…………姉ちゃん。何その格好。歴史を遡りすぎて、人間を辞めて野生化しちゃったの?」
あまりの光景に、匠は手に持っていたお内裏様を落としそうになった。
真綾は、モコモコの熊耳フードから顔を覗かせ、前足を誇らしげに振り上げて見せた。
「失礼ね。これは古代ギリシャ、アッティカ地方のブラウロンで行われていた、乙女たちの健やかな成長を願う神聖な儀式『ブラウロニア』の正装よ! 少女たちは一定の年齢になると『アルクトス(小熊)』と呼ばれ、クマを模した踊りを女神に捧げるの。これこそが淑女への第一歩だったのよ!」
真綾の足元では、茶色のバスタオルを勇ましくマントのように巻かれたきなこが、やる気に満ちた顔で「ワンッ!」と吠えている。
どうやら、彼もまた聖域の守護者の一員としてスカウトされたらしい。
「いい、匠。ひな祭りの起源は諸説あるけれど、結局は『災いを払う』ための儀式。そして古代ギリシャの女神アルテミスは、乙女の守護神であると同時に、幼い子供を外敵から守る『子供の保護者』でもあるのよ」
真綾はモコモコの手で、匠の肩を重々しく叩いた。
「つまり、あんたがひな人形の箱を運ぶ労働で腰を言わせたり、冷たい空気にあてられて風邪を引いたりしないように、私が一肌脱いで……いや、着込んで、聖域の力をこのリビングに呼び込んであげようっていうのよ!」
「……一肌脱ぐっていうか、完全にクマの皮を被ってるじゃんか。暑くないの? それ」
「細かいことはいいわ! さあ匠、あなたは女神アルテミス役を務めなさい。私ときなこの『クマの舞』を、そこでお雛様を並べながら厳かに見守るのよ!」
◇
真綾はリビングのテーブルを回りながら、ドタバタと激しいステップを踏み始めた。
茶色の巨大な塊が、お世辞にも優雅とは言えない、それでいて妙に生命力に満ちた動きで舞い踊る。
「ほらきなこ、野生の鼓動を取り戻して! ステップが甘いわよ! もっと大地を震わせなさい!」
「ワンワンッ! バウッ!」
きなこは主人の熱狂に当てられたのか、新しい遊びだと思っているのか、茶色のマントを振り乱して猛烈に走り回った。
時折、真綾の着ぐるみの短い尻尾に飛びつき、「グルルル」と喉を鳴らして引きちぎらんばかりに引っ張り回す。
「ガオーッ! これぞ自然の神秘! これぞアルテミスの野生! さあアルテミス匠、聖なる祝福を授けなさい!」
「あー、はいはい。頑張れー、クマ。負けるなー、きなこー……腰、痛くならないといいなぁ」
匠は棒読みで応援しながらも、気づけば作業の手が止まっていた。
激しく舞い踊る真綾の着ぐるみの隙間から、楽しそうな、心底愉快そうな笑い声が漏れ聞こえてくる。きなこも尻尾をプロペラのように回し、真綾の足元を跳ねるように駆け回っている。
外は待宵の寒さが滲む、凍てつくような夜だ。
けれど、このリビングだけはまるで焚き火を囲んでいるかのような、奇妙で暴力的なほどの熱気に包まれている。
姉ちゃんはいつもこうだ。
俺が「面倒だ」「寒い」と感じて不貞腐れている空気を、いつも何かしら古代の知識を引っ張り出してきて、全力で、バカバカしいほど明るい儀式に塗り替えてくれる。
(……まぁ、静かすぎる家で一人で人形を並べるよりは、ずっといいか)
匠は手に持っていたひな人形の頭をそっと台座に戻すと、つられて小さく笑った。
俺は我ながら、本当にチョロいと思う。
けれど、この茶色の嵐を見ていると不思議と体の芯から温まってくるのを感じていた。
◇
「……ふぅ。これで儀式は完了。アルテミスの加護は、この家を完全に包み込んだわ」
それから十分後。真綾は肩で息をしながら、満足げにファスナーに手をかけた。
だが、激しく踊りすぎたせいで、着ぐるみの中のTシャツがファスナーの金具にガッチリと、そして複雑に噛み込んでいた。
「――――あれ? ちょっと、匠。取れない。脱げないわ」
左右にゆすっても、上下に引いても、ファスナーは一ミリも動かない。
「……自業自得だよ。そのままクマとして生きていけば? きなこも新しいお母さんができて喜ぶんじゃない? クマだけど」
「いいから助けて! 暑いのよ、この中! サウナ状態よ! このままだと私は、蛇に巻き付かれて悶絶する『ラオコーン像』のクマ版として、このリビングで永遠に固定されてしまうわ!
あるいは衣を剥ぎ取られようとして必死に抵抗するヘレニズム期の彫像のような、無様で芸術的すぎる姿を晒すことになる……それはあんたの純真な教育にいろいろと悪影響よ!」
「はいはい、わかったから動かないで。女神がそんなにバタバタしないの」
匠は溜息をつき、必死にもがく「熊」の前に跪いた。
ファスナーの隙間に慎重に指を突っ込み、噛み込んだ薄い布をじわじわと外していく。
至近距離で、着ぐるみの隙間から真綾の熱い吐息と、一生懸命に動いた後の汗の匂いが伝わってきた。
ふと顔を上げると、フードの隙間から見える真綾の顔は、湯気が立ちそうなほど赤かった。
その瞳には失敗したことへの気恥ずかしさと、自分を助けてくれる弟への、不器用で真っ直ぐな信頼が混じっていた。
(……なんだ、姉ちゃんも結構、必死にやってくれてたんだな)
ようやく、カチリと音がしてファスナーが下りる。
中から這い出してきた真綾は、乱れた髪を振り払いながら、リビングの冷たい空気を大きく吸い込んだ。
「……あー、死ぬかと思った。雨水の名残の寒さが、今は心地いいわ……ありがと、匠」
真綾は、汗だくになったTシャツの裾を整えながら、少しだけ気まずそうに視線を泳がせた。
「……まあ、あんなに踊ったんだから、アルテミスの加護はバッチリよ。ひな祭りの『ひなあられ』あんたの分も多めに買っておいたから。
キッチンにあるわよ……それと、冷えたネクターも二本ね。あんたが健やかじゃないと、私が儀式をした意味がないんだから」
ぶっきらぼうにそう告げると、真綾は脱ぎ捨てた着ぐるみを「重いわね、これ」と文句を言いながら抱え、逃げるように自分の部屋へ戻っていった。
廊下を去る真綾の背中を、バスタオルを脱ぎ捨ててスッキリした顔のきなこが、誇らしげな足取りで追いかけていく。
匠は残されたひな人形の箱と、少しだけ誇り高そうに見えるきなこの後ろ姿を見比べた。
「……アルテミスの加護、ね。結局、俺を応援しに来てくれたんだよな?」
匠は苦笑しながら、キッチンのカウンターに置かれたひなあられの袋を手に取った。
一番大きなピンクの粒を選んで口に放り込む。
その一粒が運ぶ甘酸っぱくも懐かしい余韻は、冬の名残りの寒さを優しくほどき、冷たい夜の向こう側で桃の花がほころぶような、確かな春の足音を響かせていた。
本作をお読みいただきありがとうございます。
お楽しみ頂けましたら★★★★★評価お願いいたします。
連作短編『うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい』シリーズは複数公開していますので、そちらもご一読いただけましたら幸いです。
次回は03月07日(土曜)17時30分に投稿いたします。
【匠の「その後」の物語はこちら!】
本作で匠が学んだ「無駄すぎる知識」が、異世界で最強の武器になる――!?
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ぜひ合わせてチェックしてみてください!
『転生式異世界武器物語』
https://ncode.syosetu.com/n3948lb/
※こちらのイラストにはAIを使用して製作しております。




