第9話「街オルディア、偽りの住処」
街の名は、オルディアといった。
村の三倍以上の規模。石畳の道が碁盤目状に伸び、整然と街を区切っている。広場には噴水がある。水が高く噴き上がり、陽光を浴びて虹色に輝いている。商店が並び、看板が風に揺れ、行商人が声を上げ、人々が行き交う。賑やかな声、笑い声、商品を売り込む声。
活気がある。生命力に満ちている。
けれど、その活気の中に紛れるのは――思ったより難しかった。想像以上に、困難だった。
「……また、見られてる」
蒼真は、小声で呟いた。唇をほとんど動かさずに。
市場を歩いていると、視線を感じる。皮膚が、ちくりと痛む。
野菜を売る老婆。肉を運ぶ男。通りすがりの女性。買い物中の母親。
皆、一瞬だけこちらを見て――すぐに目を逸らす。けれど、その視線には好奇心が混じっている。
日向が、そっと手を引いた。その手が、優しく引く。
「気にしちゃだめ」
その声が、小さい。
「……でも」
「大丈夫。まだ、怪しまれてるわけじゃない」
日向の声は、落ち着いている。冷静さを保っている。
けれど、その手が少し冷たい。緊張が、手のひらに滲んでいる。
理由は、分かっている。はっきりと。
二人は、常に一緒だ。
市場を歩くときも、宿を探すときも、食事をするときも。片時も離れない。
三十歩以上離れられない。
だから、片時も離れない。いつも、すぐそばにいる。
それが――目立つ。異様なほどに。
恋人同士に見えるのか、と最初は思った。
けれど、違う。何かが、違う。
恋人なら、もっと自然だ。もっと、距離の取り方が自然だ。
自分たちは――不自然だ。まるで、何かに縛られているように。
常に手を繋いでいる。指が、絡み合っている。
離れるときも、互いを目で追う。視線が、常に相手を探している。
まるで、鎖で繋がれているように。見えない鎖に、縛られているように。
「……このままじゃ、まずいな」
蒼真は、日向を見た。その目が、心配そうだ。
「俺たち、目立ちすぎてる」
「うん……」
日向も、頷いた。その顔が、少し曇る。
「どうすればいいかな」
二人は、市場の隅に移動した。人混みを避けて、静かな場所へ。
噴水のそばのベンチに座る。三十歩以内。水の音が、優しく響いている。
蒼真は、考えた。頭を働かせる。
常に一緒にいることを、自然に見せる方法。
怪しまれない理由。説得力のある物語。
「……日向」
「ん?」
日向が、こちらを見る。
「俺たち、兄妹ってことにしないか」
日向が、目を丸くした。その瞳が、驚きで大きく開かれる。
「兄妹……?」
「ああ。兄と妹」
蒼真は、周りを見回した。噴水の向こうで、家族連れが笑っている。
「兄妹なら、一緒にいても不自然じゃない。常に近くにいても、おかしくない」
日向は、少し考えた。眉を寄せて、真剣に。
「……確かに」
その声に、納得が滲む。
「旅をしている兄妹。親を亡くして、二人で生きている」
蒼真は、設定を組み立てていく。一つ一つ、物語を作っていく。
「妹が病弱で、兄が面倒を見てる。だから、離れられない」
「病弱……」
日向は、自分を見た。自分の手を、じっと見つめる。
「私、そんなに弱そう?」
その声に、少し不満が混じっている。
「……いや、そうじゃなくて」
蒼真は、少し焦った。手を振って、否定する。
「ただ、理由が必要だろ。なんで常に一緒にいるのか」
「ああ、なるほど」
日向は、頷いた。理解したように。
それから――少し笑った。いたずらっぽく。
「じゃあ、私が姉で、蒼真が弟でもいい?」
「は?」
蒼真が、固まる。
「だって、蒼真の方が頼りないし」
その言葉が、にっこりと投げられる。
「……それは」
言い返せなかった。ぐうの音も出ない。
確かに、この世界のことは日向の方がよく知っている。道も、常識も、危険も。
「冗談だよ」
日向は、笑った。声を立てて、楽しそうに。
その笑顔が、久しぶりに明るい。心から、笑っている。
「蒼真が兄で、私が妹。それでいい」
「……ありがとう」
蒼真は、ほっとして答える。
「うん」
日向は、立ち上がった。その動きが、軽い。
「じゃあ、これから私たちは兄妹。名前も――」
日向は、少し考えた。指を顎に当てて。
「蒼真は、ソウでいい?」
「ソウ……」
その響きを、口の中で転がす。
「うん。短い方が、覚えやすい」
「分かった。じゃあ、お前は?」
「ヒナでいい」
日向――ヒナは、笑った。その笑顔が、明るい。
「ヒナとソウ、兄妹。よろしくね、お兄ちゃん」
その言葉に、胸が――痛んだ。鋭く、深く。
兄妹。
偽りの関係。作られた物語。
本当は、もっと深く繋がっている。
魂で。命で。鼓動で。
けれど、それを隠す。真実を、覆い隠す。
普通の兄妹を、演じる。何も知らない人々の前で。
「……ああ。よろしく、ヒナ」
言葉が、喉に引っかかった。声が、掠れる。
けれど、これが必要なことだ。
生き延びるために。二人で、生きていくために。
* * *
その日から、二人は兄妹として過ごし始めた。
宿を見つけた。小さな安宿。看板には「旅人の宿・羊飼いの星」とある。部屋は狭いが、二人なら十分だ。窓も小さいが、光は入る。
「兄妹なんです。部屋、一つでいいですか?」
ヒナが、宿の主人に言った。その声が、少し緊張している。
「兄さんが面倒見てくれるから、一緒の方が安心で」
主人は、特に疑うこともなく頷いた。太った、人の良さそうな男だ。
「分かった。二階の奥だ」
鍵を渡してくれる。古びた真鍮の鍵が、手のひらに重い。
部屋に入ると、ベッドが一つだけあった。木製の、きしみそうなベッド。毛布が一枚、畳まれて置いてある。
「……一つしかない」
ソウが呟くと、ヒナは笑った。肩をすくめて。
「仕方ないよ。安い宿だから」
その声が、明るい。気にしていない様子だ。
「でも――」
「大丈夫。村でも、一緒に寝てたでしょ」
確かに。
司祭の部屋でも、ベッドは二つあったが、手は繋いでいた。離れられなかった。
今さら、恥ずかしがることでもない。そう、自分に言い聞かせる。
「……そうだな」
ソウは、荷物を置いた。床に、ゴトリと音を立てる。
といっても、荷物はほとんどない。着の身着のままで逃げてきたから。持っているのは、体一つだけだ。
「明日から、仕事を探さないと」
ヒナが、窓の外を見ながら言った。夕日が、街を染め始めている。オレンジ色の光が、部屋に差し込む。
「私の治療で、少しは稼げるはず」
「無理するなよ」
ソウが、心配そうに言う。
「分かってる」
ヒナは、振り返って笑った。その笑顔が、自信に満ちている。
「お兄ちゃんも、何か探してね」
お兄ちゃん。
その呼び方が、胸に刺さる。針のように、細く鋭く。
「……ああ」
ソウは、頷いた。その言葉を、飲み込むように。
* * *
翌日から、二人は街で働き始めた。
ヒナは、広場で治療を行った。噴水のそば、人通りの多い場所に。
簡素な看板を立て、「傷や病気を治します」と書いた。木の板に、黒い墨で。
最初は、誰も来なかった。人々は、怪訝な目でこちらを見るだけ。疑いの視線が、痛い。
けれど、一人の老人が足を引きずって近づいてきた。杖を突きながら、ゆっくりと。
「……本当に、治せるのかい?」
その声が、疑い半分、期待半分だ。
「はい。試してみてください」
ヒナは、優しく笑った。その笑顔が、太陽のように明るい。
老人が座る。ヒナは、その足に手を当てた。そっと、優しく。
淡い光が、掌から溢れる。
金色の、温かい光。まるで、朝日のような柔らかさだ。
それが、老人の足を包む。光が、傷口に染み込んでいく。
数秒後――。
「……あ」
老人が、驚いた声を上げた。目が、見開かれる。
「痛みが、ない」
その声が、震えている。信じられないという顔だ。
「良かった」
ヒナは、手を離した。その顔に、安堵が浮かぶ。
老人は、立ち上がって足を動かした。恐る恐る、体重をかけてみる。
スムーズに動く。さっきまでの痛みが、嘘のように消えている。何年も悩まされていた痛みが。
「すごい……本当に治った」
老人は、感動した顔で銅貨を数枚差し出した。手が、震えている。
「ありがとう、お嬢さん」
その目が、潤んでいる。
「いえ。お大事に」
ヒナは、笑顔で見送った。その背中を、優しく見つめる。
その後、噂が広まった。口コミで、あっという間に。
「広場に、凄腕の治療師がいる」と。「少女の手から光が出る」と。「奇跡の治療師だ」と。
次々に、人が訪れるようになった。
怪我をした子供。泣きながら、母親に連れられて。
腰が痛い女性。顔を歪めながら、杖を突いて。
咳が止まらない男性。ゴホゴホと、苦しそうに。
ヒナは、一人ひとりを丁寧に治療した。笑顔で、優しく。
ソウは、その隣で見守っていた。
三十歩以内。常に、そばにいる。離れられない。
人々は、時々こちらを見る。
「あれ、兄さん?」
「そうみたい。妹さんを守ってるのね」
「優しい兄妹だわ」
そんな声が、聞こえてくる。ひそひそと、囁き合う声が。
優しい兄妹。
その言葉が、胸に重い。石のように、ずしりと。
ソウは、ヒナを見た。
ヒナは、笑顔で患者に接している。光を放ち、傷を癒している。
けれど、その額に汗が滲んでいる。細かい汗の粒が、光っている。
光を使うたび、少しずつ疲労が溜まっている。体力が、削られていく。
――無理をしている。
分かる。鼓動が、少しずつ乱れている。
自分の胸の中で、ヒナの心臓の音が――速くなっている。ドクドクと、速く、不規則に。
「ヒナ」
ソウは、声をかけた。心配が、滲む。
「そろそろ、休もう」
「え? でも、まだ――」
ヒナが、振り返る。その顔が、疲れている。
「いいから」
ソウは、看板を片付け始めた。木の板を、倒す。
「今日は、これで終わり」
ヒナは、少し不満そうな顔をしたが――やがて頷いた。抵抗する力も、もうない。
「……うん」
ヒナも、限界だと分かっているのだろう。体が、悲鳴を上げている。
二人は、広場を後にした。ゆっくりと、支え合いながら。
* * *
夕方、宿に戻る。石段を登り、部屋のドアを開ける。
ヒナは、ベッドに倒れ込んだ。ドサッと、音を立てて。体が、鉛のように重い。
「疲れた……」
その声が、弱々しい。息も、荒い。
「無理しすぎだ」
ソウは、水を汲んできて渡した。木のコップに、冷たい水が満ちている。
ヒナは、ゆっくり飲む。喉を鳴らして、一口、また一口。水が、乾いた体に染み込んでいく。
「でも、稼げたよ。今日だけで、銀貨一枚」
その声に、達成感が滲む。疲れているけれど、嬉しそうだ。
「……それは、良かったけど」
ソウは、ヒナの隣に座った。ベッドが、きしむ音を立てる。
「お前の体が、心配だ」
その声が、真剣だ。
「大丈夫だよ。これくらい」
ヒナは、笑った。強がるように、明るく。
けれど、その笑顔が疲れている。目の下に、クマができている。顔色が、少し悪い。
ソウは、拳を握った。爪が、手のひらに食い込む。
自分は、何をしている?
ヒナに働かせて、自分は見ているだけ。ただ、そばにいるだけ。
守ると言ったのに。
何も、できていない。役に立っていない。
「……ソウ」
ヒナが、呼んだ。その声が、優しい。
「ん?」
ソウが、顔を上げる。
「ありがとう」
「……何が」
ソウは、首を傾げる。何も、していないのに。
「心配してくれて」
ヒナは、こちらを見た。その目が、温かい。
「ソウがいるから、頑張れる」
その言葉が、温かくて――痛かった。胸に、突き刺さる。
「……俺、何もしてない」
声が、掠れる。自己嫌悪が、滲む。
「そんなことない」
ヒナは、首を振った。強く、きっぱりと。
「そばにいてくれるだけで、嬉しい」
ヒナは、ソウの手を取った。その手が、温かい。疲れているのに、温もりがある。
「兄妹、って嘘だけど――」
少し、笑う。その笑顔が、切ない。
「でも、本当の家族みたいで、嬉しい」
胸が、締め付けられた。息が、詰まる。
家族。
本当は、もっと深い繋がりなのに。
魂で結ばれているのに。鼓動が重なっているのに。
けれど、それを隠して――兄妹を演じる。
穏やかな日常の、真似事。偽りの関係を、演じ続ける。
「……ヒナ」
「ん?」
「俺たち、いつまでこうしてるんだろうな」
言葉が、漏れた。
「教会は、まだ探してる。いつか、見つかる」
「……うん」
「見つかったら、また逃げる。ずっと、逃げ続ける」
ソウは、窓の外を見た。
夕日が、街を赤く染めている。
「こんな生活、いつまで続けられるんだろう」
沈黙が、降りた。
ヒナは、しばらく黙っていた。
やがて――。
「……分からない」
小さな声。
「でも、今は――ここにいる」
ヒナは、握った手を強くした。
「ソウと、一緒に」
その温度が、胸に沁みた。
「……そうだな」
ソウは、頷いた。
今は、ここにいる。
オルディアという街で、兄妹を装って、生きている。
それが、偽りだとしても。
いつか終わるとしても。
今は――。
「一緒に、いよう」
ソウは、ヒナの手を握り返した。
ヒナは、目を閉じて――微笑んだ。
「うん」
窓の外で、鐘が鳴る。
街の、夕暮れの鐘。
人々が家路につく時間。
けれど、自分たちには帰る家はない。
この宿も、一時的な住処に過ぎない。
それでも――。
今は、ここにいる。
二人で。
ソウは、ヒナの隣に横になった。
ヒナも、体を寄せてくる。
三十歩以内。
けれど、今は――もっと近い。
鼓動が、重なる。
温度が、伝わる。
兄妹、という嘘。
けれど、その嘘の中に――本当の温もりがある。
それが、救いなのか、呪いなのか。
まだ、分からない。
ただ――。
ソウは、目を閉じた。
明日も、この街で生きる。
ヒナと、一緒に。
偽りの住処で。
けれど、確かな繋がりを胸に。
それが、今の生き方だった。
* * *
数日が過ぎた。
ヒナの治療は、評判になった。
「奇跡の治療師」と呼ばれ始め、遠くから訪れる者もいた。
稼ぎは増えた。
けれど、ヒナの疲労も増えた。
ソウは、できるだけヒナの負担を減らそうとした。
荷物を運ぶ仕事を見つけ、昼間は働いた。ヒナの治療の合間に。三十歩以内で。
街の人々は、二人を「仲の良い兄妹」と認識した。
けれど――。
ある日、市場で声をかけられた。
「ヒナちゃん、ソウくん」
振り返ると、八百屋の女性が笑っていた。
「いつも仲良しだね。本当に、素敵な兄妹だわ」
「ありがとうございます」
ヒナが、笑顔で答える。
「でも、ちょっと心配なのよ」
「心配……?」
「ヒナちゃん、働きすぎじゃない? もっと休んだ方がいいわ」
女性は、優しく言った。
「若いんだから、もっと楽しまないと」
「はい、気をつけます」
ヒナは、頭を下げた。
女性は、それ以上何も言わず、野菜を袋に入れてくれた。
二人が去った後――。
ソウは、呟いた。
「……楽しむ、か」
「ん?」
「俺たち、楽しんでる暇なんて、ないよな」
ヒナは、少し黙って――それから笑った。
「でも、今――楽しいよ」
「え?」
「ソウと一緒にいるの、楽しい」
ヒナは、握った手を揺らした。
「確かに、逃げてる。追われてる。でも――」
その目が、こちらを見る。
「毎日、ソウがいる。それだけで、楽しい」
胸が、温かくなった。
そして――痛くなった。
ヒナは、こんな状況でも笑える。
前を向ける。
それが、嬉しくて。
同時に、申し訳なくて。
「……ありがとう」
それしか、言えなかった。
ヒナは、笑った。
「どういたしまして、お兄ちゃん」
その言葉が、また胸に刺さる。
お兄ちゃん。
偽りの呼び方。
けれど、その響きが――少しずつ、馴染んでいく。
それが、怖かった。
この嘘が、本当になっていくような気がして。
いや、違う。
本当は、もっと深い繋がりがある。
兄妹なんかじゃない。
魂で結ばれた、運命共同体だ。
けれど――それを隠して、生きる。
偽りの住処で。
穏やかな日常の真似事をして。
ソウは、空を見上げた。
青い空。白い雲。
平和な、街の午後。
けれど、この平和は――いつまで続くのか。
答えは、出ない。
ただ、ヒナの手を握りしめた。
ヒナも、同じように握り返してくれた。
二人の影が、石畳に重なって伸びている。
兄妹として。
けれど、本当は――。
もっと深い、何かとして。
その真実を胸に、ソウは歩き続けた。
偽りの住処、オルディアで。
いつか来る終わりまで。




