第8話「逃走、手のひらの温度だけが道しるべ」
夜が来るのを、待った。
洞窟の奥で、じっと息を潜めている。岩の冷たさが、背中に染み込む。時間の感覚が、ない。ただ、暗闇と沈黙だけがある。
外では、騎士たちが探し続けている気配がした。蹄の音、話し声、松明の光が洞窟の入り口を照らす。オレンジ色の光が、揺れている。
けれど、日が落ちると、それらは遠ざかっていった。足音が消え、光が遠のき、やがて何も聞こえなくなる。
「……引き上げたのか?」
蒼真が、小声で呟く。声が、暗闇に吸い込まれる。
「たぶん、夜は探せないんだと思う」
日向も、小さく答えた。その声が、近くで聞こえる。
「森の中は危険だから。夜になると、魔獣が出る」
「魔獣……」
その言葉に、背筋が冷たくなる。
この世界には、まだ知らないことが多すぎる。
魔獣がどんなものかも分からない。けれど、騎士たちが引き上げるほど危険なものらしい。森を恐れるほどの。
「じゃあ、俺たちも――」
「動くなら、今しかない」
日向は、洞窟の出口を見た。暗闇の向こうを、じっと見つめる。
「魔獣は、音と匂いに敏感。静かに動けば、避けられる」
その声に、経験が滲む。
「……慣れてるのか?」
「少しだけ」
日向は、小さく笑った。けれど、その笑顔は寂しげだ。
「森で転生者を見つけたとき、夜に動くこともあったから」
その笑顔に、痛みが滲む。孤独の記憶が、影を落としている。
日向は、ずっと一人で森に入っていた。
転生者を助けるために。命を削りながら。危険を冒しながら。
誰にも頼らず、誰にも守られず。
――もう、一人じゃない。
そう思った。胸が、熱くなる。
「行こう。一緒に」
蒼真は、日向の手を取った。冷たい手を、包み込むように。
日向は、少し驚いた顔をして――頷いた。その目が、暗闇の中で潤む。
「うん」
二人は、洞窟を出た。冷たい空気が、頬を撫でる。
外は、暗い。濃い闇が、森を覆っている。
月が雲に隠れていて、星明かりだけが頼りだ。天の川が、空を横切っている。無数の星が、瞬いている。
木々が影を作り、道が見えにくい。黒い影が、不気味な形を描いている。
足元に注意しながら、ゆっくり歩く。一歩、また一歩。慎重に。
音を立てないように。枯れ葉を避けて。
息を殺して。呼吸さえ、小さく浅く。
日向が、前を歩く。その背中が、わずかに見える。
日向は、森に慣れている。迷わずに進む。確信を持った足取りで。
蒼真は、その後ろを歩いた。
手は、繋いだまま。離せない。三十歩以上離れれば、二人とも崩れる。その事実が、常に心の片隅にある。
風が、木々を揺らす。ザワザワと、木の葉が鳴る。
葉が擦れる音。サワサワと、絶え間なく。遠くで、何かの鳴き声。低く、不気味な声。
それ以外は、静寂。深い、重い静寂。
けれど、その静寂が、かえって不安を煽る。耳が、あらゆる音を拾おうとする。
どこかに、騎士たちがいるかもしれない。松明を消して、待ち伏せているかもしれない。
魔獣が、潜んでいるかもしれない。暗闇の中で、こちらを見ているかもしれない。
蒼真の心臓が、早鐘を打つ。ドクドクと、うるさいほどに。
――その瞬間、気づいた。
自分の鼓動が――乱れている。不規則に、跳ねている。
いや、違う。
鼓動が、二つある。
一つは、自分のもの。自分の胸の中で打つ、いつもの音。
もう一つは――。
日向の、鼓動だ。
胸の奥で、二つの鼓動が重なっている。まるで、二つの太鼓が同時に鳴っているように。
自分の心臓の音と、日向の心臓の音。それが、はっきりと区別できる。
それが、同期している。完璧に。
ドクン、ドクン、ドクン。
同じタイミングで、打っている。まるで、一つの心臓であるかのように。
「……これ」
思わず、呟いた。足が、止まる。
「ん? どうしたの?」
日向が、振り返る。星明かりに照らされた横顔が、心配そうだ。
「お前の、鼓動が聞こえる」
「鼓動?」
日向が、首を傾げる。
「ああ。胸の中で、お前の心臓の音がする」
蒼真は、胸を指差す。
日向は、目を丸くした。その瞳が、驚きで大きく開かれる。
「……本当?」
「本当だ」
蒼真は、自分の胸に手を当てた。刻印の上に、手のひらを重ねる。
「二つ、聞こえる。俺のと、お前のと」
日向も、自分の胸に手を当てた。ゆっくりと、確かめるように。
しばらく、黙っている。風の音だけが、聞こえる。
やがて――。
「……本当だ」
日向は、驚いたように言った。声が、震えている。
「蒼真の鼓動が、聞こえる」
その声に、畏怖と、喜びが混ざっている。
「やっぱり……」
二人は、顔を見合わせた。暗闇の中、互いの目を見つめる。
これが、契約の効果なのか。
魂が繋がっているから、互いの鼓動が感じられる。
距離を超えて、心臓の音が届く。
「……すごいね」
日向は、小さく笑った。その笑顔が、柔らかい。
「蒼真と、心臓が繋がってる」
その声が、少しだけ震えている。感動で、畏れで。
「怖い?」
蒼真が尋ねると、日向は首を振った。強く、はっきりと。
「ううん。嬉しい」
日向は、握った手を少し強くした。その手が、温かい。
「一人じゃないって、感じる」
その言葉が、温かかった。まるで、暖炉の火のように。胸の奥を、じんわりと温める。
「俺も」
蒼真は、頷いた。喉が、詰まる。
「お前がいるって、分かる」
二人の鼓動が、重なっている。
それは、確かな繋がりだった。目に見えない、けれど確かに存在する絆。
離れていても、感じられる。
この感覚がある限り、迷わない。孤独じゃない。
「……行こう」
日向が、再び歩き出す。その足取りが、少し軽くなっている。
蒼真も、ついていく。一歩、また一歩。
鼓動を、頼りに。ドクン、ドクン、と重なる音を感じながら。
森の中を、二人で進む。
暗闇の中でも、日向の温度が分かる。手のひらの温もり、鼓動のリズム。日向の存在が、はっきりと感じられる。
それが、道しるべだった。暗闇を照らす、見えない光だった。
* * *
どれだけ歩いただろう。時間の感覚が、失われている。
足が痛い。ふくらはぎが、張っている。喉が渇く。唾を飲み込むのも、辛い。
けれど、止まれない。止まってはいけない。
騎士たちは、夜が明けたらまた探し始める。
村から、できるだけ遠くへ。一歩でも遠くへ。
森を抜けると、丘が見えた。なだらかな丘が、月明かりに浮かび上がる。
その向こうに、道が伸びている。白く、細く。
「あそこ」
日向が、指差した。その指先が、震えている。疲労で。
「あの道を行けば、隣の街に着く」
「街……」
蒼真は、その言葉を繰り返す。街。人がいる場所。
「うん。村より大きい。人も多い」
日向は、少し考えた。その表情が、真剣だ。
「隠れるなら、人が多い方がいい」
「……そうだな」
蒼真は、頷いた。人混みに紛れる。それが、最善の策だ。
村では、目立つ。見慣れない顔は、すぐに噂になる。
けれど、街なら紛れられるかもしれない。多くの旅人に混じって。
二人は、道を歩き始めた。足を引きずりながら。
夜道。誰もいない。二人の足音だけが、響く。
月が、ようやく雲の間から顔を出した。まん丸の月が、空に浮かんでいる。
その光が、道を照らす。銀色の光が、道を白く染める。
歩きながら、日向が口を開いた。その声が、静かな夜に響く。
「……ねえ、蒼真」
「ん?」
蒼真が、振り向く。
「私たち、これからどうするの?」
その声が、少しだけ不安そうだ。震えが、滲んでいる。
蒼真は、少し考えた。どう答えればいいのか。
「……正直、分からない」
正直に、答えた。
「うん」
日向が、小さく頷く。
「でも、とりあえず街に行く。隠れる。それから――」
言葉が、詰まる。喉の奥で、止まる。
それから、どうする?
ずっと逃げ続けるのか。一生、追われながら。
教会と戦うのか。どうやって。
答えは、出ない。霧の中のように、見えない。
「……考える」
それだけ言った。それしか、言えなかった。
「うん」
日向は、小さく笑った。その笑顔が、優しい。
「私も、一緒に考える」
その言葉が、少しだけ心を軽くした。重い荷物を、分け合うように。
一人じゃない。
日向がいる。二人で背負える。
二人で、考えればいい。
歩き続ける。月明かりの下を。
足が、地面を踏む音だけが響く。コツ、コツ、と規則正しく。
やがて、日向が――また笑った。今度は、明るく。
「なんか、冒険みたいだね」
「冒険……?」
蒼真は、驚いて日向を見た。冒険? この状況が?
「うん。村を出て、二人で旅する」
日向の声が、少し明るい。弾んでいる。
「昔、本で読んだことがある。冒険者の話」
「……冒険者」
その言葉を、繰り返す。
「二人で世界を巡って、色んなものを見る」
日向は、星空を見上げた。首を傾けて、夜空を仰ぐ。
「私、ずっと村にいたから。外の世界、知らなくて」
その横顔に、憧れが滲む。子供のような、純粋な憧れが。
「だから、ちょっと――楽しみ」
蒼真は、その言葉に驚いた。心臓が、跳ねる。
楽しみ。
教会に追われて、逃げている。
命の危険もある。明日、生きているかも分からない。
それなのに、日向は"楽しみ"だと言う。
「……怖くないのか?」
思わず、尋ねた。
「怖いよ」
日向は、即答した。迷いなく。
それから、少し笑った。苦笑いのように。
「すごく、怖い。騎士に捕まったら、どうなるか分からない」
その声が、震えている。恐怖が、滲んでいる。
「村に戻れないのも、寂しい。司祭さまも、みんなも、心配してると思う」
日向は、握った手を見た。二人の手が、繋がっているのを見つめる。
「でも――」
その目が、こちらを見る。月明かりに照らされた瞳が、真っ直ぐだ。
「蒼真と一緒なら、大丈夫って思える」
胸が、温かくなった。じわりと、熱が広がる。
「……俺も、怖い」
蒼真は、正直に言った。隠さずに、ありのままを。
「この先、どうなるか分からない。教会を敵に回して、生きていけるのかも分からない」
拳を、握る。手が、震える。
「でも、お前がいるから――」
言葉が、詰まる。喉が、熱い。
日向は、黙って聞いている。その瞳が、優しい。
「お前がいるから、逃げられる」
蒼真は、日向の手を握り直した。強く、確かに。
「ありがとう、日向」
日向は、目を見開いた。その瞳が、大きく開かれる。
それから――泣きそうな顔で、笑った。目が潤み、けれど笑顔だ。
「……こちらこそ」
その声が、震えている。感情で、溢れそうで。
「ありがとう、蒼真」
二人は、手を繋いだまま歩き続けた。月の光を浴びながら。
夜の道。静かな、けれど温かい道。
月明かりだけが、頼り。銀色の光が、二人を照らす。
けれど、迷わない。道を間違えない。
手のひらの温度が、ある。確かに、温かく。
鼓動が、重なっている。ドクン、ドクン、と同じリズムで。
それが、道しるべだった。どんな暗闇でも、これがあれば大丈夫だ。
* * *
夜が明ける前に、街が見えてきた。
遠くに、建物の輪郭。灯りがちらほら見える。黄色く、温かそうな光だ。
村よりずっと大きい。建物の数が、全然違う。
「着いた……」
日向が、安堵の息を吐いた。その肩から、力が抜ける。
「ここなら、隠れられる」
「ああ」
蒼真も、頷いた。やっと、辿り着いた。
けれど、胸の奥に不安がある。重い塊のような。
本当に、隠れられるのか。
教会の手は、どこまで伸びているのか。この街にも、騎士がいるかもしれない。
それでも、進むしかない。他に、行く場所がない。
二人は、街の門へ向かった。足を引きずりながら。
門番がいる。鎧を着た男が二人。けれど、夜明け前で眠そうだ。欠伸をしている。
二人を一瞥して、特に何も聞かずに通した。面倒そうに、手を振って。
街の中へ。
石畳の道。カツン、カツンと足音が響く。両脇に建物が並ぶ。木造、石造、様々だ。
まだ、人通りは少ない。早朝の静けさが、街を包んでいる。
宿を探す。疲労で、足が重い。
看板を見ながら、歩く。「銀月亭」「旅人の宿」「赤屋根館」。
やがて、小さな宿が見つかった。看板に「安宿・星屑亭」とある。
「ここにしよう」
蒼真が言うと、日向も頷いた。
中に入る。木の扉が、ギィと音を立てる。
カウンターに、初老の男性がいた。白い髭を蓄えている。眠そうな目をこちらに向ける。
「部屋、ありますか」
「ああ、空いてるよ」
男性は、帳簿を開いた。ペラペラとページをめくる。
「一泊、銅貨五枚だ」
その言葉に、蒼真は懐を探った。手を入れる。
――何もない。
空っぽだ。何も、触れない。
そうだ。逃げるとき、何も持ってこなかった。
金も、荷物も、すべて村に置いてきた。必死で逃げるだけで精一杯だった。
「……」
言葉が出ない。喉が、固まる。
日向が、小さく「あ」と声を出した。気づいたのだ。
「……ごめんなさい。やっぱり、いいです」
蒼真は、頭を下げて、宿を出た。男性の怪訝な視線を背中に感じながら。
外に出ると、日向が申し訳なさそうに言った。その顔が、青ざめている。
「ごめん……私も、何も持ってない」
「いや、俺もだ」
蒼真は、頭を抱えた。両手で、頭を押さえる。
「金がないと、泊まれない。食事もできない」
その現実が、重くのしかかる。
「……どうしよう」
二人は、途方に暮れた。石畳の上で、立ち尽くす。
街の中。朝の光が、少しずつ差し込んでくる。
周りには、店が並んでいる。パンを売る店、肉を売る店。香ばしい匂いが漂ってくる。
どれも、金がなければ買えない。ガラス越しに見えるパンが、遠い。
蒼真は、自分の手を見た。汚れた、空っぽの手を。
何もない。握るものが、何もない。
この世界で、何ができる?
どうやって、生きていく?
村では、畑仕事を手伝っていた。土を耕し、作物を育てていた。
けれど、街で仕事を見つけられるのか。見ず知らずの転生者を、誰が雇ってくれるのか。
――いや、まず今日をどうするか。明日を考えるのは、それからだ。
考える。必死に、頭を働かせる。
金を稼ぐ方法。何か、何かないか。
「……日向」
「ん?」
日向が、こちらを見る。
「お前、何かできることある?」
「できること……?」
日向は、少し考えた。眉を寄せて、真剣に。
「……治療、とか」
「治療?」
蒼真の目が、見開かれる。
「うん。光を使って、傷を治せる」
そうだ。日向は、"祝福の子"だ。
転生者を助けるだけじゃなく、傷も治せる。病も癒せる。
「それ、売れないか?」
「……売る?」
日向が、首を傾げる。
「ああ。街で、治療師として働く」
蒼真は、周りを見回した。人が増え始めている。朝の活気が、生まれ始めている。
「怪我人や病人がいれば、治せる。金をもらえる」
日向は、少し不安そうな顔をした。唇を噛む。
「でも、光を使うと――」
「疲れる、よな」
蒼真は、頷いた。それは、知っている。契約のときも、日向は消耗した。
「無理はさせたくない。でも、他に方法が――」
「ううん、やる」
日向は、首を振った。強く、きっぱりと。
「私ができることなら、やる」
その目が、真っ直ぐだった。迷いがない。決意が、宿っている。
「蒼真が、私を守ってくれた。だから、今度は私が助ける」
蒼真は、胸が熱くなった。温かい何かが、込み上げてくる。
「……ありがとう」
声が、掠れる。
「うん」
日向は、笑った。その笑顔が、太陽のように明るい。
「じゃあ、探そう。怪我人とか、困ってる人」
二人は、街を歩き始めた。疲れた足を引きずりながら。
逃亡者として。追われる身として。
けれど、まだ希望がある。まだ、諦めてはいない。
日向の力がある。光の力が。
自分の体がある。動ける手足が。
二人で、生きていける。きっと、なんとかなる。
そう信じて、蒼真は前を向いた。朝日が、顔を照らす。
手のひらの温度が、温かい。確かに、生きている温もりがある。
鼓動が、重なっている。ドクン、ドクン、と力強く。
それが、道しるべだ。
どこへ行くにも、何をするにも――。
二人で。一緒に。
それが、これからの生き方だった。それしか、ない。
朝日が、街を照らし始める。オレンジ色の光が、建物を染める。
新しい一日が、始まる。希望と、不安が混ざった一日が。
逃亡者としての、旅が――。
今、動き出した。長い、けれど希望のある道が。




