第7話「追手は"教会"から来る」
それは、契約から十日目の朝に起きた。
いつものように、蒼真は村の畑で働いていた。鍬を握り、土を耕す。汗が額に滲み、背中を伝う。けれど、体は軽い。もう息切れもしない。
日向は、その近くで洗濯物を干している。白いシーツが、風に揺れる。三十歩以内。いつも通りの距離。彼女の笑顔が、太陽の光を受けて輝いている。
空は晴れていて、風が穏やかだった。青い空に、白い雲がゆっくりと流れている。
村人たちの話し声。鳥の鳴き声。鍬で土を打つ音。日常の音が、穏やかに満ちている。
けれど――その日常は、突然断ち切られた。
「……馬の音?」
日向が、手を止めた。洗濯物を持ったまま、遠くを見る。
遠くから、蹄の音が聞こえてくる。
複数。規則正しいリズム。地面を打つ、重い音。
村に、馬で来る者は珍しい。
旅人は徒歩が多い。馬を使うのは、商人か――それとも。
「騎士……?」
村人の一人が、呟いた。その声に、緊張が滲む。
蒼真は、道の方を見た。鍬を持つ手が、自然と強く握られる。
土埃を上げながら、三頭の馬が近づいてくる。蹄が地面を叩く音が、だんだん大きくなる。ドッドッドッ、と規則正しく、まるで太鼓のように。
その背に乗っているのは、白い外套を纏った人物たち。外套が風に翻り、埃を払っている。
胸に、紋章が刻まれている。金糸で縫い取られた、輝く紋章。
十字と、その周りを囲む光輪。
「教会の騎士だ……」
村人たちが、ざわめいた。ひそひそと囁き合う声。不安が、波のように広がる。
恐れ、ではない。けれど、緊張が走る。空気が、一瞬で重くなる。
畑仕事をしていた者たちが、作業を止める。鍬を手に、立ち尽くす。
馬が、村の広場で止まった。ヒヒーン、と馬が鳴く。
三人の騎士が、降りる。革のブーツが、地面に着地する音。ドサッ、ドサッ、ドサッ。
全員、剣を腰に下げている。鞘が、鈍い光を放つ。表情は険しく、目的を持った者の顔だ。戦士の顔だ。
一人が、前に出た。
年は四十ほど。顎に古い傷がある。目が鋭く、光を宿している。声は低く、通る。威圧感がある。
「この村の司祭を呼べ」
命令口調。問いではなく、命令だ。
村人の一人が、慌てて聖堂へ走った。足音が、急いでいる。
蒼真は、日向の近くへ移動した。鍬を置き、彼女の隣へ。
彼女も、不安そうにこちらを見ている。目が、大きく開かれている。洗濯物を持つ手が、震えている。
「大丈夫か?」
「……うん」
けれど、その顔は強張っている。唇が、白くなっている。呼吸が、浅い。
数分後、司祭が現れた。コツン、コツンと杖を突く音。
いつもの落ち着いた足取り。けれど、その目は鋭い。騎士たちを、鋭く見据えている。
「教会の騎士が、何の用だ」
司祭は、杖を突いて立ち止まった。その背筋が、真っ直ぐだ。
騎士は、司祭を一瞥し――それから、周囲を見回した。村人たちを、畑を、家々を見る。
その視線が、日向で止まる。ピタリと。
「……あれが、"祝福の子"か」
騎士の声が、低く響いた。まるで、獲物を見つけたかのように。
司祭は、何も答えなかった。
けれど、その沈黙が、肯定だった。空気が、重くなる。
騎士は、日向へ近づいてくる。一歩、また一歩。ブーツが地面を踏む音。
蒼真は、咄嗟に日向の前に立った。体が、自然と動く。
「……何の用だ」
声が、震える。けれど、退かない。足が、地面に根を張ったように動かない。
騎士は、蒼真を見下ろした。身長差がある。見上げる形になる。
その目に、敵意はない。けれど、容赦もない。冷たく、事務的だ。障害物を見る目だ。
「お前は関係ない。退け」
「……嫌だ」
「退け、と言っている」
騎士の手が、剣の柄に触れた。革の手袋が、柄を包む。
背筋が凍る。冷たい何かが、背中を這い上がる。
けれど、足は動かなかった。動かせなかった。恐怖と、意志が、拮抗している。
「待て」
司祭が、声を上げた。その声が、村の広場に響く。
「騎士殿。その子に何の用だ」
騎士は、司祭を見た。ゆっくりと視線を移す。
「教会の命令だ。"祝福の子"を保護する」
「保護、だと?」
司祭の声が、鋭くなる。
「そうだ」
騎士は、懐から一枚の書状を取り出した。羊皮紙が、カサリと音を立てる。赤い封蝋が、教会の紋章を刻んでいる。
「中央教会より。"祝福の子"の力は、教会の管理下に置かれるべきとの判断だ」
司祭の顔が、険しくなる。眉間に深い皺が刻まれる。
「……いつから、そんな決定が」
「三日前に通達があった。各地の"祝福の子"を、中央へ集めるとのことだ」
騎士は、書状を仕舞った。外套の内側へ、丁寧に。
「我々は、命令に従っているだけだ」
その声に、感情はない。ただ、任務を遂行する者の声だ。
「日向は、この村で生まれた。この村で育った」
司祭は、杖を強く突いた。ドン、と地面に響く音。
「勝手に連れて行くことは許さん」
「許さん、と?」
騎士は、冷たく笑った。その笑みには、温もりがない。嘲笑だ。
「司祭殿、あなたに拒否権はない。これは、教会の決定だ」
「教会の決定が、すべて正しいわけではない」
司祭の声が、震える。怒りが、滲んでいる。
「それは、神への冒涜と取られかねん発言だぞ」
騎士の声が、低くなる。危険な響きが、宿る。
空気が、張り詰める。まるで、糸が引っ張られて今にも切れそうな――そんな緊張が、広場を満たす。村人たちが、息を殺している。
蒼真は、日向を見た。
彼女は、震えている。唇が白い。目が、恐怖で大きく開かれている。
「……日向」
「……」
彼女は、何も言えないでいた。声が、出ない。喉が、塞がれているように。
騎士は、司祭を無視して、再び日向へ近づいた。ゆっくりと、確実に。一歩、また一歩。
「"祝福の子"。あなたには、教会で果たすべき役目がある」
「……役目」
日向が、小さく呟いた。その声は、か細い。風に消えそうなほど。
「そうだ。あなたの力は、多くの人を救える。転生者だけではない。病人、傷ついた者、すべてを」
騎士の声は、穏やかになった。優しささえ感じさせる――けれど、それは偽りの優しさだ。飴と鞭の、飴だ。
「教会で、その力を正しく使うのだ。それが、神から与えられた使命だ」
日向は、俯いた。髪が、顔を覆う。
その肩が、震えている。小さく、細かく。
蒼真の胸に、怒りが湧いた。熱い何かが、胸の奥から込み上げてくる。
「……ふざけるな」
声が、出た。自分でも驚くほど、強い声が。
「日向は、道具じゃない」
騎士が、こちらを見る。眉をひそめる。
「道具、とは何だ」
「あんたらの言ってることは、そういうことだろ」
蒼真は、一歩前に出た。足が、勝手に動く。恐怖より、怒りが勝っている。
「日向の力を使う。多くの人を救う。聞こえはいい。でも、日向自身の意思は? 彼女が望んでいるかどうかは、関係ないのか?」
「それは――」
「日向は、ずっとこの村で"祝福の子"として扱われてきた。対等に見られず、友達もできず、孤独だった」
言葉が、次々に溢れた。堰を切ったように。止められない。
「それなのに、また同じことをさせるのか? 教会で、また"道具"として使われろと?」
騎士の表情が、険しくなる。目が、細くなる。
「……お前、何者だ」
その声が、冷たい。
「蒼真。転生者だ」
蒼真は、名乗った。胸を張って。怖くない――嘘だ。怖い。けれど、退かない。
「そして――」
日向の手を取る。その手が、冷たく震えている。
「日向と、契約を結んだ」
騎士の目が、鋭くなった。刃のように。
「契約……?」
「そうだ。俺たちは、魂で繋がっている」
蒼真は、胸の刻印を見せた。シャツの襟を引き下げる。
服をめくると、金色の紋様が光っている。淡く、けれど確かに。魂の証が、胸に刻まれている。
日向も、同じように刻印を見せる。彼女の胸にも、同じ紋様が。
騎士は、それを見て――顔色を変えた。目が、見開かれる。
「……まさか、魂の契約を結んだのか」
その声に、驚きが滲む。
「そうだ。だから、日向を連れて行くなら――」
蒼真は、騎士を睨んだ。恐怖を押し殺して、真っ直ぐに。
「俺も一緒に連れて行け」
騎士は、眉をひそめた。不快そうに。
「……転生者を、教会に連れて行くことはできん」
「なら、日向も連れて行けない」
蒼真は、言い切った。
「何を――」
「俺たちは、三十歩以上離れられない。離れれば、二人とも死ぬ」
蒼真は、断言した。その声に、迷いはない。
「日向だけ連れて行ったら、俺は死ぬ。日向も、暴走して燃え尽きる」
騎士は、司祭を見た。確認するように。
「……本当か」
「本当だ」
司祭は、静かに答えた。その声が、重い。
「この二人は、魂の契約を結んだ。離すことは、できん」
騎士は、舌打ちした。チッ、と短く、苛立ちを露わに。
「……厄介な」
彼は、部下と何か話し合った。
低い声。ひそひそと。聞き取れない。けれど、不吉な空気が漂う。
やがて、騎士は振り返った。その顔に、決意が浮かんでいる。
「……ならば、二人とも連れて行く」
蒼真の背筋が、凍った。血の気が、引く。
「転生者であろうと、"祝福の子"と契約している以上、放置はできん」
騎士は、剣の柄に手を置いた。ゆっくりと、確実に。
「教会で、お前たち二人を管理する」
「……管理?」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「そうだ。教会の監視下で、"祝福の子"の力を使わせる。お前は、その付き添いだ」
それは――。
日向を、檻に入れるということだ。
そして、自分も一緒に。
自由を奪い、力を搾取し、道具として使う。
「……冗談じゃない」
蒼真は、日向の手を強く握った。その手が、震えている。
「絶対に、行かない」
「拒否権はない」
騎士が、一歩踏み出す。ブーツが、地面を踏む。ドス、と重い音。
「これは、命令だ。従わなければ――」
剣が、鞘から抜かれかけた。金属の擦れる音。シャリ、と。
その瞬間――。
蒼真は、決めた。頭ではなく、心が決めた。
「日向、走れ」
「え……?」
日向が、驚いたようにこちらを見る。
「逃げるぞ」
蒼真は、日向の手を引いた。強く、確実に。
「待て!」
騎士の声が、背後から響く。怒号が、空気を震わせる。
けれど、振り返らない。前だけを見る。
村の外へ。森へ。
どこでもいい。
ただ、ここから離れる。逃げる。
「蒼真……!」
日向が、驚いた声を上げる。息が、荒い。
「大丈夫、ついてこい」
蒼真は、全力で走った。
足が、地面を蹴る。土が跳ね上がる。
風が、顔を叩く。目が、涙で滲む。
背後で、騎士たちが追ってくる気配。
蹄の音。馬の嘶き。怒号。金属の鳴る音。
けれど、止まらない。止まれない。
村の外れ。森の入り口。
木々の間に、飛び込む。暗闇が、二人を飲み込む。
枝が、頬を掠める。痛い。血が滲む。
根が、足を引っかける。つまずきそうになる。
けれど、走り続ける。必死に。死に物狂いで。
日向の手を、離さない。絶対に。
――逃げる。
それが、今できる唯一のことだ。唯一の選択肢だ。
教会に連れて行かれれば、日向は道具にされる。
自由を奪われ、力を搾取され、死ぬまで使われる。
笑顔を失い、心を壊され、ただの器にされる。
それだけは、させない。絶対に。
たとえ、教会全体を敵に回しても。
たとえ、世界中を敵に回しても。
蒼真は、歯を食いしばった。歯が軋む音。
森の奥へ。
光が届かない場所へ。
追手が来られない場所へ。
二人で、逃げる。
それが、今の答えだった。唯一の、正しい答えだった。
* * *
どれだけ走っただろう。時間の感覚が、ない。
足が痛い。太ももが焼けるように熱い。息が切れる。肺が、悲鳴を上げている。
けれど、まだ追手の気配がする。遠くで、まだ馬の音が。
「蒼真……もう、無理……」
日向が、息を切らして言った。その声が、途切れ途切れだ。
「もう少し、頑張れ」
「でも……」
彼女の足が、もつれる。倒れそうになる。
「大丈夫。もう少しだけ」
蒼真は、日向を支えながら走り続けた。腕に力を込める。彼女の体重が、腕にかかる。
やがて、森の奥に小さな洞窟が見えた。岩の影に、黒い口が開いている。
「あそこだ」
二人は、洞窟に飛び込んだ。足が、もつれながら。
暗い。目が、何も見えない。湿っている。冷たい空気が、肌に触れる。
けれど、隠れるには十分だ。追手から、身を隠せる。
蒼真は、日向と一緒に奥へ進んだ。手探りで、壁を触りながら。
そして、岩陰に身を潜める。冷たい岩が、背中に触れる。
息を殺す。口を手で覆う。
心臓の音だけが、耳の中で大きく響く。ドクン、ドクン、ドクン。うるさいほどに。
外から、蹄の音が聞こえてくる。
近づいてくる。だんだんと、大きくなる。
「……この辺りか?」
騎士の声。低く、鋭い。
「足跡が、途切れている」
別の声。若い。焦りが滲んでいる。
「森の中だ。見つけにくい」
「探せ。そう遠くへは行けないはずだ」
足音が、洞窟の前を通り過ぎる。ザッ、ザッ、ザッ。枯れ葉を踏む音。
やがて、遠ざかっていく。音が、小さくなる。消えていく。
――助かった。
蒼真は、小さく息を吐いた。肩の力が、抜ける。全身が、震える。
日向が、震えている。全身が、小さく震えている。
手が、冷たい。氷のように。
「……大丈夫か?」
「……うん」
けれど、その声は震えている。歯が、カチカチと鳴っている。
「怖かった……」
その声が、か細い。今にも消えそうなほど。
「ごめん。でも、他に方法が――」
「ううん」
日向は、首を振った。髪が、暗闇の中で揺れる。
「蒼真が、守ってくれた」
その声が、少しだけ温かい。震えの中に、確かな温もりがある。
蒼真は、日向の手を握った。冷たい手を、温めるように。
「これから、どうするか……分からない」
「……」
沈黙が、降りる。冷たく、重い沈黙が。
「でも、お前を教会には渡さない」
日向は、こちらを見た。暗闇の中、顔を上げる。
暗闇の中でも、その目が光っている。瞳が、微かな光を宿している。
「……ありがとう」
小さな声。けれど、心からの声だ。
「でも、蒼真。これから、私たち――」
「追われる」
蒼真は、頷いた。その現実を、受け入れる。
「教会を敵に回した。もう、村には戻れない」
その言葉の重さが、胸に沈む。鉛のように、ずしりと。
司祭も、村人も、すべてを置いてきた。
これから先、どこへ行けばいいのかも分からない。
食べ物も、寝る場所も、何もない。
けれど――。
「それでも、逃げる」
蒼真は、決意を込めて言った。その声が、暗闇に響く。
「お前の自由のために」
日向は、涙を浮かべて――笑った。涙が、頬を伝う。けれど、笑顔だ。
「……うん」
その返事が、温かい。
二人は、洞窟の奥で身を寄せ合った。互いの体温を、感じながら。
外では、騎士たちが探し続けている。馬の音が、遠くに聞こえる。
いつまで隠れられるか、分からない。いつ見つかるか、分からない。
けれど、今は――ここにいる。
二人で。生きている。
逃げることを、選んだ。
それが、正しいのか間違っているのか、分からない。
けれど、後悔はしていない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
日向を、道具にはさせない。
そのためなら、どこまでも逃げる。どこまでも走る。
蒼真は、日向の手を握りしめた。その手が、少しずつ温かくなる。
彼女も、同じように握り返してくれた。力強く、確かに。
暗闇の中で、二人の刻印が淡く光っている。金色の光が、胸から漏れ出している。
追手は、教会から来た。
これから先、安息の地はないかもしれない。
世界中が、敵になるかもしれない。
けれど――。
二人で逃げれば、まだ道はある。希望はある。
そう信じて、蒼真は目を閉じた。疲労が、どっと押し寄せる。
次に動くのは、夜になってからだ。
それまで、息を潜める。静かに、じっと。
生き延びるために。
日向の自由のために。
二人の未来のために。
逃げる道が、始まった。長い、険しい道が。




