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僕はひなたで生きていく  作者: とま


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第6話「離れて三十歩、崩れる世界」

 契約から五日が経った。


 蒼真の体調は、日に日に良くなっていた。

 呼吸は安定し、深く吸えるようになった。歩くのに支障はなく、走ることすらできる。畑仕事も、少しずつこなせるようになった。体が、自分のものとして機能している。


 日向の体調も、戻ってきた。

 顔色が良くなり、頬に血色が戻った。笑顔も増え、声に張りが出てきた。ふらつくこともなくなり、朝の目覚めも良い。


 司祭の言った通り、時間が解決してくれたのだろう。

 魂が、契約に慣れてきた。循環が安定し、バランスが取れ始めている。


 けれど、まだ分からないことがあった。


 それは――どこまで離れられるのか。


 契約後、二人は常に近くにいた。

 同じ部屋で寝て、一緒に食事をして、村の中を歩くときも隣にいた。視界の中に、常に相手がいた。


 手を繋がなくても、呼吸は続く。

 数歩離れても、大丈夫――そう思っていた。


 けれど、実際にどこまで離れられるのかは、試していなかった。恐怖があった。限界を知ることへの、漠然とした恐怖。


「なあ、日向」


 朝食を終えた後、蒼真は切り出した。声が、少し震えている。


「ちょっと、試してみないか」


「試す?」


 日向が、首を傾げる。その目に、予感が宿る。


「どこまで離れられるか」


 その言葉に、日向の表情が少し曇った。笑顔が、消える。


「……怖い?」


「少し」


 蒼真は正直に答えた。嘘をつく意味がない。


「でも、知っておかないと。いつまでも、どこまで大丈夫か分からないままじゃ、動けない。緊急の時、判断できない」


 日向は、少し考えて――ゆっくりと頷いた。


「……うん。じゃあ、やってみよう」


 その声には、覚悟が滲んでいる。


 二人は、村の外れへ向かった。


 広い草原。地平線まで続く緑。周りに障害物はない。空が広く、風が吹き抜ける。

 ここなら、距離を測りやすい。正確に、限界を知ることができる。


 司祭にも声をかけた。彼は渋い顔をしたが、黙ってついてきてくれた。その表情には、心配と、諦めが混じっている。


「無茶はするな」


 それだけ言って、少し離れた場所に立つ。杖を握りしめて、二人を見守る。


 蒼真と日向は、向かい合った。

 風が、二人の間を吹き抜ける。


「じゃあ、少しずつ離れてみる」


「うん」


 日向の声が、小さい。


 蒼真は、深呼吸をして――一歩下がった。


 何も起きない。呼吸は続いている。心臓も打っている。


 もう一歩。

 また一歩。


 五歩離れた。

 まだ、大丈夫。問題ない。


 呼吸は安定している。胸の刻印も、穏やかに光っている。脈打つリズムも、変わらない。


 十歩。


 ここまでは、問題ない。けれど、わずかに不安が芽生える。


「日向、大丈夫か?」


「うん、平気」


 彼女も、特に変化はないようだ。けれど、その声が少し緊張している。


 蒼真は、さらに歩を進めた。一歩、また一歩。慎重に、後ろへ下がる。


 十五歩。

 二十歩。


 まだ、大丈夫。呼吸は続いている。

 けれど――胸の奥に、かすかな違和感が生まれた。


 何かが、引っ張られているような感覚。ゴムが伸びきる直前のような、張力。


 光の糸を見る。

 自分と日向を繋ぐ、淡い金色の糸。


 それが、ピンと張っている。まっすぐに、張り詰めて、今にも切れそうに見える。


「……蒼真?」


 日向の声が、少し不安そうだ。遠くから、風に乗って届く。


「大丈夫。まだいける」


 そう答えたが、声が掠れている。


 二十五歩。


 違和感が、強くなる。

 胸が、締め付けられる。まるで、見えない手が心臓を掴んでいるように。


 けれど、まだ耐えられる。まだ、崩れない。


 あと五歩。限界が、どこにあるのか知りたい。


 三十歩――。


 その瞬間だった。


 世界が、傾いた。


「……っ」


 足に力が入らない。筋肉が、一瞬で機能を失う。

 膝が折れる。体が、前のめりに崩れる。


 視界が、暗く縁取られる。周辺視野が消え、世界が狭くなる。

 呼吸が、浅くなる。空気が入らない。肺が、石のように重い。


 あの感覚だ。

 森で倒れていたときの、あの"続かない"感覚。生命が漏れ出していく感覚。


 心臓が、不規則に跳ねる。止まりそうになる。


 胸の刻印が、痛い。焼けるように、裂けるように痛い。


「蒼真!」


 日向の声が、遠くに聞こえる。水の中から聞こえるような、歪んだ声。


 彼女が走ってくる足音。地面を蹴る音。

 けれど、体が動かない。指一本、動かせない。


 手を伸ばそうとするが、腕が鉛のように重い。

 声を出そうとするが、喉が塞がる。空気が通らない。


 視界が、どんどん狭くなる。トンネルビジョン。世界が、針の穴ほどに小さくなる。


 ――離れすぎた。


 そう理解した瞬間、日向が駆け寄ってきた。その姿が、ぼやけて見える。


「蒼真、大丈夫!?」


 彼女が手を取る。その手が、温かい。

 その瞬間――世界が、戻った。


 空気が、一気に流れ込む。肺が膨らむ。酸素が血液に溶け込む。

 視界が開ける。色が戻る。音が戻る。


 心臓が、再び力強く打ち始める。規則正しく、確かに。


「……は、ぁ……」


 息を吐く。肺が、ちゃんと動く。生きている。生きていられる。


「蒼真……!」


 日向が、泣きそうな顔でこちらを見ている。目が赤く、涙が滲んでいる。


「ごめん……ちょっと、やりすぎた」


 声が震える。恐怖が、まだ体の中に残っている。


「無茶しすぎ!」


 彼女の声が、震えている。怒りと、安堵と、恐怖が混じっている。


 司祭が、近づいてきた。杖を突きながら、ゆっくりと。その顔には、予想通りだという諦めが浮かんでいる。


「……三十歩、か」


 彼は、二人の距離を見て呟いた。その声には、重みがある。


「それが、お前たちの限界だ」


「三十歩……」


 蒼真は、繰り返した。その数字が、呪いのように響く。


 たった、三十歩。

 それ以上離れると、自分は崩れる。死にかける。


「日向、お前はどうだった」


 司祭が尋ねる。その目が、心配そうに日向を見る。


 日向は、少し俯いた。その肩が、わずかに震えている。


「……体が、熱くなりました」


 その声は小さく、辛そうだ。


「熱く?」


「はい。蒼真が離れて、二十歩くらいから」


 彼女は、自分の腕をさすった。その肌が、赤くなっている。火照っているのが見える。


「体温が、上がって。息が苦しくなって。心臓が、早く打って」


 その呼吸が、今も少し荒い。


「他には」


 司祭の声が、厳しい。全ての症状を知る必要がある。


「目が……痛かったです」


 日向は、目を押さえた。その目が、赤く充血している。


「光が、眩しくて。涙が止まらなくて。世界が、白く見えて」


 その声が、震える。恐怖が、滲んでいる。


 その言葉に、胸が痛んだ。刃で刺されたように、鋭く。


 自分が苦しんでいる間、日向も苦しんでいた。別の形で、別の痛みで。


「……ごめん、日向」


「ううん、いいよ。試さなきゃ、分からなかったから」


 彼女は、無理に笑った。その笑顔は、ガラス細工のように脆く見える。今にも割れて、砕け散りそうな――そんな危うさを孕んでいる。


 けれど、その目が少し赤い。涙の跡が、頬に薄く残っている。


 司祭は、深く息を吐いた。その吐息には、諦めと、悲しみと、憐れみが混じっている。彼の肩が、わずかに落ちた。


「……やはり、そうか」


「司祭さま、これって……」


「契約の制約だ」


 彼は、杖を地面に突いた。ゴツン、と鈍い音が響く。杖の先が土に沈み込む。その音が、宣告のように重い。


「お前たちの魂は、繋がっている。循環している。だが、その循環には"距離の限界"がある」


「三十歩が、限界……」


 蒼真は、その数字を反芻する。口の中で転がす。けれど、何度繰り返しても、重さは変わらない。


「そうだ。それ以上離れると、循環が断たれる」


 司祭は、二人を見た。その目には、深い憐憫が宿っている。


「蒼真は、日向の光を受け取れなくなる。だから、崩れる」


「じゃあ、日向が熱くなったのは……」


「光の行き場がなくなるからだ」


 司祭は、日向を見た。その視線が、痛ましげだ。


「お前の光は、蒼真に流れることで循環している。それが断たれると、光が内側に溜まる」


「溜まる……」


 日向の声が、小さく震える。


「そうだ。体温が上がり、感覚が過敏になる。最悪の場合、魂が暴走する」


 日向の顔が、青ざめた。血の気が引き、唇の色が失われる。まるで、冬の雪のように白く。


「……どうなるんですか」


 その声は、か細い。風に消えそうなほど、弱々しい。


「光が制御できなくなる。周囲を焼き、お前自身も燃え尽きる」


 司祭の言葉が、冷たく響いた。それは、氷の刃のように鋭く、容赦なく心に突き刺さる。


「だから、離れるな。三十歩以上は、絶対に離れるな」


 沈黙が、降りた。まるで、世界が音を失ったかのように。


 風が吹く。草が揺れる。

 けれど、その音さえ遠い。まるで、別の世界の出来事のように。二人の周りだけが、真空の中に閉じ込められたように静かだ。


 蒼真は、立ち上がった。

 足が震える。膝が、まだ不安定だ。けれど、立てる。大地の感触が、足裏に戻ってきている。


「……三十歩」


 呟く。その言葉が、唇から零れ落ちる。重い石のように、地面に落ちていく。


 それが、自分たちの世界の限界。

 それ以上離れれば、二人とも壊れる。崩れる。消える。


「つまり、俺たちは――」


「一生、三十歩以内にいなければならない」


 司祭は、断言した。その声には、一切の迷いがない。事実を、ただ突きつける。


「食事も、睡眠も、仕事も、すべて」


 胸が、重くなる。まるで、鉛を飲み込んだように。胃の奥が、ずしりと沈む。呼吸が、浅くなる。


 契約を結んだとき、覚悟はしていた。

 日向と離れられないことは、分かっていた。頭では、理解していた。


 けれど――。


 こんなにも、具体的に、物理的に、制限されるとは。

 三十歩という数字で、世界が区切られるとは。

 まるで、見えない檻の中に閉じ込められたような――そんな窒息感が、喉を締め付ける。


「……日向」


 蒼真は、彼女を見た。声が、掠れている。


 日向は、俯いている。

 その肩が、小さく震えている。風が吹くたびに、髪が揺れる。けれど、彼女は動かない。まるで、石像のように。


「日向、お前……」


「……平気」


 彼女は、顔を上げた。ゆっくりと、まるで重いものを持ち上げるように。


 目が、少し赤い。涙の名残が、まぶたに残っている。けれど、笑っている。唇が、無理に持ち上げられている。


「平気だよ。分かってたことだから」


 その声は、明るすぎる。不自然なほど、軽すぎる。演技のように。


「でも――」


「三十歩もあれば、結構動けるよ」


 日向は、無理に明るく言った。その笑顔が、まるで仮面のように張り付いている。


「部屋の中も歩けるし、村の中も一緒に回れる」


「……」


 蒼真は、何も言えなかった。その嘘が、あまりにも痛々しくて。


「だから、大丈夫」


 その笑顔が、痛々しかった。ガラスの破片を飲み込んだように、喉が痛む。胸が、締め付けられる。


 蒼真は、拳を握った。爪が、手のひらに食い込む。痛い。けれど、それすらも生ぬるい。


 大丈夫なはずがない。

 一生、三十歩以内。


 それは、日向の自由を奪うことだ。

 彼女の人生を、自分に縛り付けることだ。

 彼女の未来を、この制約の中に閉じ込めることだ。


「……俺のせいだ」


 言葉が、漏れた。声が、震える。自分の喉から出たとは思えないほど、弱々しい。


「俺が、お前を――」


「違う」


 日向は、首を振った。強く、はっきりと。髪が、激しく揺れる。


「これは、私が選んだこと。蒼真のせいじゃない」


「でも――」


「蒼真」


 彼女は、こちらへ歩み寄った。草を踏む音。一歩、また一歩。


 そして、手を取った。その手が、温かい。柔らかい。生きている。


「私は、後悔してない」


 その目が、真っ直ぐだった。迷いがない。嘘がない。ただ、真実だけがある。


「確かに、自由じゃなくなった。でも――」


 彼女は、小さく笑った。その笑顔は、先ほどの仮面とは違う。本物の、心からの笑顔だ。


「一人じゃなくなった」


 胸が、詰まった。空気が、入らない。言葉が、出ない。ただ、彼女の声だけが、心に染み込んでくる。


「村では、いつも一人だった。誰も、近づいてこなかった」


 日向は、握った手を見た。その目が、優しい。悲しくも、嬉しくもある――複雑な感情が、滲んでいる。


「でも、蒼真は違う。隣にいてくれる。一緒にいてくれる」


 その声が、少しだけ震える。喜びと、安堵と、まだ消えない不安が、混ざり合っている。


「三十歩しか離れられないって、確かに不自由。でも――」


 彼女は、顔を上げた。その目が、光を宿している。希望の光が。


「三十歩も、一緒にいられるってことでしょ?」


 その言葉が、温かかった。まるで、冬の日差しのように。凍えた心に、そっと触れてくる。


 蒼真は、何も言えなくなった。言葉が、喉の奥で詰まる。何を言っても、この温かさには敵わない。


 日向は、自分の境遇を――肯定している。

 制約を、受け入れている。


 それは、諦めではない。

 選択だ。彼女が、自分の意志で選んだ道だ。


「……ありがとう」


 それしか、言えなかった。けれど、その言葉には、全ての感謝が込められている。


 日向は、笑った。その笑顔が、太陽のように明るい。


「うん」


 その返事が、シンプルで、確かで、温かい。


 司祭が、二人を見て呟いた。その声が、遠くから聞こえる。


「……お前たちは、これから様々な困難に直面するだろう」


「……はい」


 蒼真は、答えた。声が、少し震える。けれど、逃げない。


「だが、忘れるな」


 彼は、杖を握りしめた。その手が、白くなるほど強く。


「制約は、呪いではない。お前たちを守るための、境界線だ」


「境界線……」


 その言葉を、繰り返す。境界線。限界ではなく、守るための線。


「そうだ。三十歩を超えれば、二人とも壊れる。だが、三十歩以内なら、二人とも生きられる」


 司祭は、空を見上げた。その目が、遠くを見ている。まるで、過去か、未来か、見えない何かを見つめているように。


「それを、忘れるな」


 彼はそれだけ言って、村へ戻っていった。杖を突く音が、遠ざかっていく。コツン、コツンと、一定のリズムで。やがて、その音も消えた。


 残された二人。


 草原に、風が吹く。草が波打ち、緑の海のように揺れる。

 雲が流れる。白い塊が、ゆっくりと空を横切っていく。


 蒼真は、日向の手を握ったまま、周りを見渡した。地平線が、遠くに見える。広い世界。けれど、自分たちには――。


 三十歩。


 それが、自分たちの世界。

 その中で、生きていく。それ以外に、道はない。


「……日向」


「ん?」


 彼女が、こちらを向く。その顔が、穏やかだ。


「俺、絶対に三十歩以上離れない」


 日向が、驚いたように見る。目が、少し大きくなる。


「お前を苦しませたくない。だから――」


 蒼真は、彼女の手を強く握った。その手の温もりを、確かめるように。


「どこへ行くにも、一緒だ」


 日向は、目を見開いた。その瞳が、潤む。


 それから――泣きそうな顔で、笑った。涙が、こぼれそうになる。けれど、こぼれない。ぎりぎりで、堪えている。


「……うん」


 その声が、震えている。嬉しさと、安堵と、少しの悲しみが、混ざり合っている。


「一緒に、行こう」


 二人は、手を繋いだまま、村へ戻り始めた。草を踏む音。靴が、土を踏みしめる音。


 三十歩以内。

 それが、自分たちの距離。


 離れれば、崩れる。

 けれど、近くにいれば、生きられる。


 それは、制約であり――同時に、絆でもある。鎖であり、命綱でもある。


 蒼真は、隣を歩く日向を見た。

 彼女も、こちらを見て、微笑んだ。その笑顔が、柔らかい。本物の笑顔だ。


 光の糸が、二人を繋いでいる。淡い金色の糸が、胸から胸へ伸びている。

 それは、鎖でもあり、命綱でもある。


 どちらとして受け取るかは――自分たち次第だ。

 制約か、絆か。呪いか、祝福か。


 蒼真は、前を向いた。村が、遠くに見える。


 三十歩の世界。

 その中で、どう生きるか。


 それを、これから見つけていく。

 答えは、まだ出ない。けれど、探していく。


 日向と、共に。


 草原を抜け、村の入り口が見えてくる。木の柵が、風景の中に浮かび上がる。

 二人の影が、地面に重なって伸びている。太陽の光が、背中から二人を照らす。影が、一つに溶け合っている。


 離れられない。

 けれど、それでいい。


 そう思えるまで、まだ時間がかかるかもしれない。心から、そう信じられるまで。

 けれど、いつか――。


 蒼真は、日向の手を少し強く握った。その手の感触が、確かだ。

 彼女も、同じように握り返してくれた。温かい力が、手のひらに伝わる。


 三十歩の世界が、始まる。


 それは、制約の中の自由だ。

 狭いようで、広い。限られているようで、無限だ。


 二人で歩めば、その世界は――。


 きっと、悪くない。


 そう信じて、蒼真は前へ進んだ。日向と、手を繋いだまま。一歩、また一歩。確かな足取りで。


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