第5話「ひなたの光、僕の影」
契約の翌朝、目覚めたとき、世界が違って見えた。
まず気づいたのは、呼吸だった。
深く吸える。肺の奥まで、空気が満ちる。酸素が血液に溶け込み、全身に行き渡る感覚。
あの、続かない感覚がない。息と息の間に空いていた穴が、埋まっている。呼吸が、生きることが、苦痛ではなくなった。
心臓も、安定している。
鼓動が規則正しく、力強く、途切れる不安がない。まるで、止まっていた時計が再び動き出したように。生きていることが、ようやく"普通"になった。当たり前が、当たり前として感じられる。
起き上がる。足に力が入る。
震えない。ふらつかない。床を踏む感覚が、確かで、安定している。
「……これが」
呟く。声が、驚きに震える。
これが、契約の効果なのか。
日向の魂と繋がったことで、自分の欠けた部分が補われた。半分だった魂が、完全になった――いや、日向と一つになった。
胸の刻印を見る。
金色の紋様が、淡く光っている。その中心の小さな太陽が、脈打つように明滅している。心臓のリズムと同期して、光と闇を繰り返す。
そして――見えた。
自分の胸から、細い光の糸が伸びている。
透明に近い、淡い金色。まるで蜘蛛の糸のように繊細で、けれど切れない強さを持っている。それは空中を漂い、ゆらゆらと波打ちながら、隣のベッドへと繋がっている。
日向の胸にも、同じ刻印がある。
そこから、同じ光の糸がこちらへ伸びている。彼女からの糸は、より明るく、より太く見える。
二つの糸は、途中で絡み合い、螺旋を描き、一つになっている。
紐のように、柔らかく光を放ちながら。それは呼吸に合わせて脈動し、生きている。
「……これが、契約の光」
手を伸ばす。触れようとする。指先が、光に近づく。
けれど、指は光を通り抜けた。実体はない。温度もない。けれど、確かに見える。確かに、存在している。魂の次元で。
そのとき、日向が目を覚ました。
「……ん」
小さく呻いて、体を起こす。
その動きが――遅い。まるで重い鉛を背負っているように、ぎこちない。
「日向?」
声をかけると、彼女はこちらを見て、小さく笑った。けれど、その笑顔には力がない。
「おはよう、蒼真」
その声は掠れていて、喉が渇いているのが分かる。
「おはよう。……大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
そう言ったが、顔色が悪い。
唇の色が薄く、血の気が失せている。目の下に濃い隈ができている。頬がこけて見え、肌は蝋のように白い。まるで、一晩で何年も歳を取ったように。
「嘘だろ。顔色、悪いぞ」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「ちょっと、疲れてるだけ」
日向は、ベッドの縁に手をついて立ち上がろうとした。その手が、わずかに震えている。
――その瞬間、足がもつれた。
「日向!」
咄嗟に駆け寄り、体を支える。
彼女の体が、驚くほど軽い。骨と皮だけになったように、重みがない。抱きしめると、折れてしまいそうなほど脆く感じる。
「ごめん……ちょっと、ふらっとしちゃった」
日向は、申し訳なさそうに笑う。
けれど、その額に冷や汗が滲んでいる。呼吸が浅く、速い。体が震えている。
「無理するな。座れ」
ベッドに座らせる。日向は、素直に従った。抵抗する力すら、残っていないようだ。
それだけで、彼女がどれだけ消耗しているかが分かる。光を与えすぎて、自分の命を削っているのだと。
「……やっぱり、契約の影響か」
「たぶんね」
日向は、自分の胸の刻印を見た。
「昨日の儀式、すごく力を使ったから。今日は、少しゆっくりすれば戻ると思う」
「本当か?」
「うん」
答えたが、その声には確信がない。
胸が締め付けられる。
自分は、こんなに元気になったのに。
日向は、こんなに弱っている。
「……俺のせいだ」
「違うよ」
日向は、首を振った。
「これは、契約の一部。最初から分かってたこと」
「でも――」
「蒼真」
彼女は、こちらを見た。
「謝らないで。私が選んだことだから」
その目は、優しい。
けれど、その優しさが痛い。
そのとき、扉が開いた。
司祭が入ってくる。
「起きたか」
彼は二人を見て、すぐに日向へ歩み寄った。
「日向、顔色が悪いな」
「少し、疲れてるだけです」
「……そうか」
司祭は、彼女の額に手を当てた。
数秒、黙って確かめる。
「熱はない。だが、魂の消耗が激しい」
「大丈夫です。すぐ戻ります」
「無理をするな」
司祭は厳しく言った。それから、蒼真を見る。
「蒼真。お前の体調はどうだ」
「……良いです。すごく」
答えると、司祭は頷いた。
「契約が成功した証拠だ。お前の魂は、日向の光によって安定している」
「でも、日向が――」
「それも、契約の一部だ」
司祭は、二人の間に視線を巡らせた。その目が、光の糸を追っている。
「見えるか。光の糸が」
「……はい」
蒼真は、空中に漂う金色の糸を見つめる。
「あれが、お前たちを繋ぐ魂の経路だ」
司祭は、杖で光の糸を示した。杖の先が、糸に近づくと、かすかに光が揺れる。
「蒼真の欠けた魂を、日向の光が補っている。だから、蒼真は安定する」
その言葉が、重く響く。
「……やっぱり、日向が一方的に支えてるんじゃないですか」
声が、苦しい。罪悪感が、喉に詰まる。
「違う」
司祭は、首を振った。その動作には、確信がある。
「これは、片方が片方を支える構造ではない。互いの不足を補う、循環だ」
「循環……?」
聞き慣れない概念。けれど、その響きに何か重要なものを感じる。
「そうだ」
司祭は、ゆっくりと説明を始めた。その声には、教師のような、導くような響きがある。
「日向の魂は、光を生む力が強い。泉のように、湧き出る。しかし、その光を留める"器"が弱い」
「器……」
その言葉を反芻する。
「魂の安定性だ。日向は、生まれつき魂が揺らぎやすい。波のように、常に動いている。だから、光を放出し続けてしまう」
司祭は、日向を見た。その目には、憐れみと、理解が滲んでいる。
「お前が疲れやすいのは、そのせいだ。光を生み出しても、自分の中に留められず、外へ漏れ出してしまう。まるで、底の抜けた桶のように」
日向は、小さく頷いた。
知っていたのだろう。自分の体質を。何年も、この身体と付き合ってきたのだから。
「一方、蒼真の魂は、光を生む力が弱い。半分しか定着していないからだ」
司祭は、こちらを見る。その目が、今度は希望を含んでいる。
「だが、お前の魂には"器"がある。光を受け止め、循環させる力がある。桶ではなく、井戸のように。深く、安定している」
「……つまり」
理解が、ゆっくりと染み込んでくる。
「お前たちは、互いの不足を補い合っている」
司祭は、光の糸を指差した。その糸が、脈動するように明滅している。
「日向の光が、蒼真を満たす。蒼真の器が、日向の光を安定させる。水が循環するように、光が巡る。それが、真の契約だ」
言葉が、胸に沈む。理解が、深まる。
「でも、今は――」
「今は、まだバランスが取れていない」
司祭は、静かに続けた。その声には、警告が滲んでいる。
「契約直後は、日向の負担が大きい。お前の魂が、まだ光を受け止める準備が整っていないからだ。器が、まだ光に慣れていない」
「じゃあ、どうすれば――」
「時間をかけろ。お前の魂が、日向の光に慣れていけば、循環は安定する。器が深くなり、光を蓄え、循環させられるようになる」
司祭は、杖を床に突いた。その音が、決意を促すように響く。
「そして、蒼真。お前も、日向に何かを返さなければならん」
「返す……?」
その言葉に、希望を感じる。
「そうだ。日向は光を与えている。ならば、お前は"安定"を返せ」
司祭の目が、鋭くなる。その視線が、魂を見透かしているようだ。
「お前の器が、日向の光を受け止める。それだけでは足りん。お前自身も、日向の揺らぎを支えなければ、循環は完成しない。受け取るだけではなく、与えなければならない」
「……どうやって」
切実な問い。方法が見えない。
「それは、お前が見つけろ」
司祭は、それだけ言って部屋を出ていった。ローブの裾が床を擦る音が、廊下に消えていく。
残された二人。
沈黙が降りる。
蒼真は、光の糸を見た。
自分と日向を繋ぐ、淡い金色。それは呼吸に合わせて揺れ、脈打ち、生きている。
日向の光が、自分を満たしている。
けれど、自分は何も返せていない。
ただ、受け取るだけ。吸い取るだけ。彼女から奪うだけ。
「……蒼真」
日向が、声をかけた。その声は優しく、心配そうだ。
「考えすぎ」
「え?」
「顔に出てる」
彼女は、小さく笑った。疲労の中にも、温かさがある笑み。
「今は、まだいいの。司祭さまも言ってたでしょ。時間をかけろって」
「でも――」
言いかけて、言葉が詰まる。彼女の顔色が、また悪くなったように見える。
「私、大丈夫だから」
日向は、胸の刻印に手を当てた。その手が、わずかに震えている。
「確かに、ちょっと疲れてる。でも、すごく嬉しいんだ」
「……嬉しい?」
その言葉が、意外で、胸に刺さる。
「うん」
彼女は、こちらを見た。その目には、本当の喜びが宿っている。
「蒼真が元気になってる。それだけで、嬉しい」
その笑顔が、眩しかった。痛いほどに。
「だから、焦らないで。ゆっくり、一緒に慣れていこう」
蒼真は、拳を握った。爪が掌に食い込む。
焦るな、と言われても、焦らずにいられない。
彼女が弱っているのに、自分だけが元気でいることが、どうしても受け入れられない。
この不均衡が、罪悪感となって胸を締め付ける。
けれど――。
「……分かった」
頷く。深く、決意を込めて。
「焦らない。でも、日向」
「ん?」
彼女が、少し不思議そうに首を傾げる。
「俺も、何かする」
日向が、不思議そうに首を傾げる。その動作にも、疲労が滲んでいる。
「何かって?」
「まだ分からない。でも――」
蒼真は、光の糸を見た。それは、日向から自分へ、明るく、太く伸びている。逆方向は、まだ細く、弱々しい。
「お前が光を与えてくれるなら、俺は"安定"を返す。司祭さまが言ったように」
「蒼真……」
日向の目が、揺れる。驚きと、感動が混じった目。
「だから、教えてくれ」
蒼真は、日向を見た。真っ直ぐ、その目を見つめる。
「お前が揺らぐとき、何が起きてる? どんなときに、疲れる?」
日向は、少し考えた。
「……光を、使いすぎたとき」
「光を使う?」
「うん。転生者を助けたり、誰かを癒したりするとき、私の光が流れ出る」
彼女は、自分の手を見た。
「それが、止められないの。必要以上に出ちゃう」
「止められない……」
「魂が、揺らいでるから。制御ができない」
日向は、少し寂しそうに笑った。
「だから、いつも疲れちゃう」
蒼真は、その言葉を反芻した。
光が漏れ出す。制御ができない。
それが、日向の"揺らぎ"。
ならば、自分がすべきことは――。
「……日向」
「ん?」
「俺が、お前の光を受け止める」
日向が、目を見開く。
「受け止めるって……」
「お前の光が漏れ出すなら、俺がそれを受け取る。そして、循環させて返す」
蒼真は、自分の胸の刻印を見た。
「司祭さまは言った。俺の器が、お前の光を安定させるって」
「でも、それって――」
「まだ、やり方は分からない」
蒼真は、日向の手を取った。
「でも、必ず見つける。お前が一方的に削られるだけの関係じゃなくする」
日向は、驚いたように蒼真を見ていた。
それから――泣きそうな顔で、笑った。
「……ありがとう」
その声が、震えている。
「でも、無理しないでね。蒼真も、まだ体が――」
「大丈夫」
蒼真は、立ち上がった。
足に力がある。呼吸が安定している。
これは、日向の光のおかげだ。
「お前の光が、俺を支えてる。なら、その光を無駄にしない」
日向は、涙を拭いて、頷いた。
「……うん」
蒼真は、窓の外を見た。
朝の光が、村を照らしている。
これから、どうやって日向の揺らぎを支えるのか。
どうやって、循環を完成させるのか。
答えは、まだない。
けれど、一つだけ分かったことがある。
自分は、ただ守られるだけの存在ではない。
日向の光を受け取るだけではなく、何かを返さなければならない。
それが、契約の意味だ。
光の糸を見る。
今は、日向から自分への流れが強い。
けれど、いつか――自分から日向へも、何かが流れるはずだ。
それが、"安定"なのか、別の何かなのかは分からない。
ただ、見つける。
必ず。
「日向」
「ん?」
「今日は、ゆっくり休め。俺が、できることをやってくる」
「……どこ行くの?」
「村の仕事を手伝う」
蒼真は、ドアへ向かった。
「お前が休んでる間、俺が動く。それが、今できることだ」
日向は、少し驚いた顔をして――それから、温かく笑った。
「……頑張ってね」
「ああ」
部屋を出る。
聖堂の廊下を歩く。
胸の刻印が、温かい。
光の糸が、背後へ伸びている。
日向と、繋がっている。
その事実が、今は重荷ではなく――力になっている。
彼女の光が、自分を満たしている。
ならば、自分は彼女に何かを返す。
まだ形は見えない。
けれど、必ず見つける。
それが、自分の役目だ。
外へ出ると、朝の風が頬を撫でた。
清涼な空気が肺を満たす。村の匂い――土と、草と、薪の煙と、生活の匂い。
村人たちが、畑で働いている。鍬を振る音、水を撒く音、会話の声。
その中へ、踏み出す。一歩、また一歩。足が、しっかりと地面を踏みしめる。
「すみません、何か手伝えることはありますか」
声をかけると、村人が驚いたように振り返った。鍬を持ったまま、こちらを見る。その目には、驚きと、疑問が混じっている。
「あんた、日向ちゃんが連れてきた……」
「はい。蒼真と言います」
蒼真は、頭を下げた。深く、敬意を込めて。
「まだ慣れてませんが、働かせてください」
村人は、少し戸惑った顔をして――蒼真の目を見た。その目に宿る決意を確かめるように。やがて、頷いた。
「……なら、畑の草取りを頼めるか」
「はい」
蒼真は、畑へ入った。土が、靴の下で柔らかく沈む。
土の匂い。湿った、生命の匂い。草の感触。根が張る力強さ。
初めての作業。けれど、体は動く。日向の光が、力となって手足を動かす。
日向の光が、自分を支えている。
その光を、無駄にしない。無駄にできない。
胸の刻印が、脈打つ。温かな鼓動。
光の糸が、遠くの日向と繋がっている。その糸を辿れば、彼女がいる。
――待ってろ、日向。
心の中で、呟いた。声にならない誓い。
――お前が光なら、俺は器になる。
――お前が揺らぐなら、俺が支える。
それが、循環の意味だ。
それが、契約の完成だ。
まだ、やり方は分からない。
けれど、必ず見つける。この手で、この足で、この体で。
二人で、一つの生命。
ならば、二人で、完成させる。互いに補い合い、支え合い、循環を作る。
朝の光の中、蒼真は土に手をつけた。草を引き抜く。土を耕す。汗が、額を伝う。
これが、始まりだ。
ひなたの光と、僕の影。
それが重なり、循環が生まれる。光が巡り、安定が戻り、二人が一つになる。
その日を信じて――。
蒼真は、黙々と手を動かし続けた。太陽が昇り、影が短くなる。胸の刻印が温かく、光の糸が揺れる。日向と、繋がっている。その事実が、力となって、体を動かし続ける。




