第4話「契約の刻印」
異変に気づいたのは、三日目の朝だった。
目が覚めると、胸の中心に違和感があった。
痛みではない。熱でもない。何かが、そこにあるような感覚。皮膚の下で、微かに脈打っている。心臓とは別のリズムで。まるで、もう一つの生命が宿ったように。
服をめくると――。
「……なんだ、これ」
息が止まった。
胸の中央に、紋様があった。
黒い線で描かれた、複雑な幾何学模様。円と三角が幾重にも重なり、その中心に何かの文字のようなものが刻まれている。見たことのない文字。古代の言語か、それとも異世界の呪文か。けれど、それは確かにそこに存在していた。まるで、皮膚に直接刻印されたように。
触れると、冷たい。氷よりも冷たく、生命を拒絶するような冷気。まるで、氷を埋め込まれたような、死が触れているような感触。指先が凍える。
「日向」
声が震える。恐怖が、喉の奥に張り付いている。
隣のベッドで眠っていた日向を起こす。彼女は眠そうに目をこすり、こちらを見た。まだ半分夢の中にいるような、ぼんやりとした顔。
「……どうしたの?」
「これ」
胸の紋様を見せると、日向の表情が一瞬で変わった。
目が見開かれる。息を呑む音。顔から、血の気が一気に引いていく。
「――司祭さまを、呼ぶ」
彼女は即座に立ち上がり、部屋を飛び出していった。裸足のまま。その足音が、廊下に響いて消えていく。
数分後、司祭が駆けつけてきた。
普段は落ち着いている老人の顔が、明らかに緊張している。額に汗が滲んでいる。呼吸が荒い。
「見せろ」
有無を言わさぬ口調。命令ではなく、懇願に近い響き。
蒼真は服をめくり、胸の紋様を晒した。その黒い刻印を、光に晒す。
司祭は、それを一目見て――青ざめた。
血の気が引く。唇が震える。目が、恐怖と、何か別の感情に揺れる。
杖を握る手が、わずかに揺れた。その揺れが、老人の動揺を物語っている。
「……まさか」
呟くような声。その声には、長年の経験が覆される衝撃が滲んでいる。
「司祭さま、これ……」
日向が不安そうに尋ねる。その声は細く、震えている。
「"半魂"だ」
司祭は、低く呟いた。その声には、重い宣告の響きがある。
「半魂……?」
聞き慣れない言葉。けれど、その響きが不吉だと本能が告げる。
「魂が、半分しか定着していない転生者の兆候」
司祭は杖を床に突き、深く息を吐いた。その息には、諦めと、怒りと、悲しみが混じっている。
「転生の際、魂が完全に移行できなかった者に現れる。欠けているのではない。最初から、半分しか来ていないのだ」
胸が冷える。心臓が、氷を掴まれたように収縮する。
「それって……」
「このままでは、三十日で魂が霧散する」
断言された。
その言葉が、死刑宣告のように空気を切り裂く。
「半分の魂では、肉体を維持できん。時間が経つほど、魂と肉体の乖離が進む。やがて、呼吸も止まり、心臓も止まる。静かに、しかし確実に」
視界が揺れた。床が傾いたように感じる。
「……助かる方法は」
声が震える。縋るような、必死な声。
「一つだけ、ある」
司祭は、日向を見た。その目には、重い決断を迫る覚悟が宿っている。
「日向。お前の光と結び、循環を作る契約だ」
「契約……」
日向が、小さく繰り返す。その声は、恐れと、何か別の感情が混じっている。
「そうだ。お前の魂の一部を蒼真に"貸し与える"のではなく、"結びつける"」
司祭は、二人の間に視線を巡らせた。その目が、重い真実を告げようとしている。
「蒼真の半分の魂と、日向の魂の一部を、完全に接続する。循環を作り、二人で一つの生命体として機能させる」
「……それって」
蒼真の喉が、乾く。唾を飲み込もうとしても、喉が張り付いている。
「俺と、日向が……」
「魂のレベルで、繋がる」
司祭は静かに言った。その言葉には、神聖さと、恐ろしさが同居している。
「感情が共鳴する。痛みが伝わる。生命が、文字通り共有される。境界が曖昧になり、互いの存在が溶け合う」
日向が、息を呑んだ。その顔が、蒼白になる。
「ただし――」
司祭は、厳しい表情で続ける。その目が、警告を発している。
「契約には、代償がある」
「代償……」
その言葉が、呪いのように響く。
「日向、お前は蒼真の魂を支え続けることになる。疲労は倍になり、感覚は鈍る。痛みは分かち合い、傷も共有する。そして、契約を結んだ相手が死ねば――」
司祭は、一拍置いた。その沈黙が、恐ろしいほど重い。
「お前も、死ぬ」
空気が、凍りついた。
時間が止まったように、誰も動かない。呼吸すら、憚られる。
日向の顔から、血の気が引く。
けれど、彼女は震えなかった。じっと、司祭を見つめている。
「……蒼真が死んだら、私も死ぬ?」
その声は、意外なほど冷静だった。
「そうだ。魂が結びついている以上、片方だけが生き残ることはできん。一蓮托生。運命共同体だ」
司祭は、杖を握りしめた。その手が、わずかに震えている。
「それだけではない。契約を結べば、日向の寿命は確実に縮む。最悪の場合、半分になる」
「半分……」
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
蒼真は、立ち上がりかけた。けれど、足に力が入らず、その場に座り込む。膝が、床に崩れ落ちる。
「冗談じゃない。そんなの――」
声が裂ける。拒絶と、絶望が混じった声。
「他に方法はない」
司祭は、冷たく言い切った。その声には、容赦がない。
「契約を結ばなければ、蒼真は三十日で死ぬ。契約を結べば、二人とも生き延びられる。ただし、日向の犠牲の上に」
言葉が、刃のように胸に突き刺さる。一つ一つが、心臓を貫く。
蒼真は、日向を見た。
彼女は、俯いている。肩が、わずかに震えている。拳を握りしめて、何かを堪えている。
「……日向」
「……」
返事がない。その沈黙が、恐ろしい。
「俺は――」
言いかけて、言葉が詰まった。喉が、何かで塞がれたように声が出ない。
何を言えばいい。
断れというのか。お前の命を削ってまで、俺を生かすなと。
それとも、頼むのか。
お前の寿命を半分にしてでも、俺を助けてくれと。
どちらも、言えなかった。どちらも、あまりにも残酷だ。
沈黙が、部屋を満たす。
窓の外で、鳥が鳴いている。風が吹いている。遠くで誰かが笑っている。
世界は、何事もなく続いている。
けれど、この部屋の中だけ、時間が止まっている。息苦しいほどの静寂。
やがて、日向が顔を上げた。
「……私、やる」
その声は、震えていない。驚くほど、落ち着いていた。
「日向、お前――」
「やるよ」
彼女は、真っ直ぐこちらを見た。その目には、揺るがない決意が宿っている。
「蒼真が死ぬのは、嫌だ」
その目に、迷いはなかった。恐怖も、後悔も、ない。ただ、まっすぐな意志だけがある。
「私の寿命が半分になっても、蒼真と一緒にいられるなら――」
彼女は、小さく笑った。その笑顔は、悲しくも、美しくもあった。
「それでいい」
胸が、締め付けられた。
まるで、心臓を握り潰されるような痛み。
「……ダメだ」
蒼真は、首を振った。激しく、何度も。
「そんなの、受け入れられない。お前の命を削って、俺が生きるなんて――」
「じゃあ、蒼真はどうするの?」
日向が、問い返す。その声には、静かな力がある。
「このまま死ぬの? 三十日後に、消えるの?」
「それは……」
言葉が出ない。答えが、見つからない。
「私は嫌だよ」
彼女の声が、少しだけ震えた。その震えに、感情が溢れている。
「せっかく出会えたのに。せっかく、一緒にいられるようになったのに」
日向は、握った手に力を込める。その手が、震えている。
「蒼真がいなくなるのは、嫌だ」
その言葉が、温かくて、痛かった。愛情と、犠牲が、同じ重さで心に沈む。
蒼真は、俯いた。
拳を握る。歯を食いしばる。唇が切れるほど、強く。
――自分は、何様のつもりだ。
生きるために、日向に縋っているくせに。
彼女の手がなければ、一日も生きられないくせに。
それなのに、今さら拒否するのか。
彼女の覚悟を、踏みにじるのか。
偽善者のように、綺麗事を言って、彼女の決意を否定するのか。
「……ごめん」
声が、震えた。涙が、喉の奥で詰まる。
「俺、何も……何もできない」
涙が、滲む。視界が、歪む。
情けなくて、悔しくて、どうしようもなくて。自分の無力さが、胸を締め付ける。
日向は、そっと手を伸ばした。
頬に触れる。温かい掌。その温度が、涙を拭う。
「蒼真」
優しい声。まるで、子供をあやすような、包み込むような声。
「謝らないで。これは、私が選んだことだから」
彼女は、微笑んだ。その笑顔には、悲しみも、後悔も、ない。
「一緒に、生きよう。それだけでいい」
その笑顔が、眩しすぎた。直視できないほどに。
司祭が、重い声で言った。
「……本当に、いいのだな。日向」
「はい」
即答だった。
「後悔しても、契約は解けん。死ぬまで、蒼真と繋がり続ける」
「分かってます」
「お前の人生は、これから大きく変わる。自由も、未来も、すべて蒼真と共有することになる」
「……それでも」
日向は、こちらを見た。
「私は、蒼真と一緒にいたい」
その言葉に、もう何も言えなかった。
司祭は、深く息を吐いた。
「……分かった。ならば、今夜、契約の儀を行う」
彼は、杖を突いて立ち上がった。
「準備が必要だ。二人とも、それまで休んでおけ」
司祭は、部屋を出ていった。
残された二人。
沈黙が、また降りてくる。
蒼真は、握られた手を見た。
この手が、自分の命を繋いでいる。
そして、これから――魂のレベルで、結ばれる。
「……日向」
「ん?」
「本当に、いいのか」
「うん」
即答。
「後悔、しない?」
「しないよ」
日向は、笑った。
「だって、蒼真は私の最初の友達だから」
友達。
その言葉が、胸に響いた。
「村のみんなは、私を"祝福の子"として見る。でも、蒼真は違う」
日向は、握った手を少し揺らした。
「蒼真は、私を"日向"として見てくれる。対等に、話してくれる」
その声が、少しだけ震える。
「だから、嬉しいんだ。一緒にいられるのが」
蒼真は、唇を噛んだ。
「……ありがとう」
それしか、言えなかった。
「うん」
日向は、また笑った。
「じゃあ、今夜まで休もう。きっと、儀式は疲れると思うから」
彼女は、ベッドへ戻る。
手は、繋いだまま。
蒼真も、ベッドに横になった。
天井を見上げる。
今夜、契約を結ぶ。
日向と、魂で繋がる。
それは、救いであり、呪いでもある。
彼女の命を削り、寿命を縮め、自由を奪う。
それでも、彼女は笑う。
友達だから、と。
――ならば、自分は何をすべきか。
答えは、一つしかない。
彼女を守る。
彼女が削られる分、自分が補う。
彼女の寿命が縮む分、自分がその時間を価値あるものにする。
それが、今の自分にできる唯一のことだ。
目を閉じる。
手の中の温度が、脈打っている。
今夜から、この温度は永遠に続く。
死ぬまで、離れることはない。
――怖いか、と自分に問う。
答えは――怖い。
けれど、それ以上に、失いたくない。
日向を。
この温度を。
夜が来る。
契約の刻印が、刻まれる。
それまで、せめて――。
蒼真は、握った手を少し強く握った。
日向も、同じように力を返してくれた。
二人の鼓動が、重なっている。
それが、今できる唯一の確認だった。
* * *
夜になった。
司祭が部屋に来て、二人を聖堂の祭壇へと導いた。その足音は重く、まるで処刑場へ向かうような、厳粛な響きを持っていた。
聖堂の中は、蝋燭の光だけが揺れている。何十本もの蝋燭が、闇の中で小さな炎を灯している。影が壁に長く、歪んで伸び、まるで亡霊が見守っているようだ。祭壇の上には見慣れない道具が並んでいた。
円形に並べられた石。黒曜石のように光を吸い込む、不気味な輝き。
銀の杯。古びて、表面に無数の文字が刻まれている。
古い書物。皮で装丁され、ページは黄ばみ、異臭すら漂う。
そして、中央に描かれた魔法陣。白いチョークで描かれた、複雑な幾何学模様。それは生きているように、蝋燭の光を受けて揺れている。
「そこに立て。二人とも」
司祭が指示を出す。その声には、緊張が滲んでいる。
蒼真と日向は、魔法陣の中心へ。
手は、握ったまま。その手が、汗で湿っている。
司祭は、書物を開き、何かを読み始めた。
聞いたことのない言語。抑揚のある、祈りのような、呪文のような響き。言葉一つ一つが、空気を震わせる。
すると、魔法陣が光り始めた。
淡い青白い光。足元から立ち上り、二人を包む。
温度はない。けれど、空気が変わる。重く、濃密になる。呼吸が、困難になる。
胸の紋様が、熱くなった。
「……っ」
痛い。焼けるような痛み。皮膚が裂けるような、内側から燃えるような痛み。
けれど、日向の手を握る力は緩めない。離したら、失ってしまう。
日向も、苦痛に顔を歪めている。汗が、額を伝う。
それでも、手を離さない。その手が、唯一の繋がり。
司祭の声が、高まる。
祈りが、聖堂に響く。天井に反響し、壁を震わせる。
光が、強くなる。眩しさが増す。
二人の間に、糸のようなものが見えた。
透明な、けれど確かに存在する糸。光の糸。魂の糸。
それが、胸の紋様から伸びている。
蒼真の胸から、日向の胸へ。
日向の胸から、蒼真の胸へ。
二つの糸が、空中でゆっくりと絡み合い、螺旋を描き、一つになる。
瞬間――。
世界が、反転した。
視界が白く染まる。音が消える。重力が消える。
ただ、温度だけが残る。日向の温度が、全てを包む。
そして――感じた。
日向の、心臓の音。自分の鼓動と重なり、一つになる。
日向の、呼吸のリズム。吸って、吐いて、その全てが伝わる。
日向の、痛みと、温もりと、恐怖と、安堵と、すべて。
それが、濁流のように自分の中に流れ込んでくる。境界が崩れる。
同時に、自分の感覚が日向へ流れていく。
境界が、曖昧になる。溶け合う。混ざり合う。
どこまでが自分で、どこからが日向なのか。
分からなくなる。自己が拡散し、二つで一つになる。
けれど、怖くはなかった。
ただ、繋がっている。
確かに、そこにいる。孤独ではない。もう、一人じゃない。
光が、収束する。
世界が、音を取り戻す。重力が戻る。
体が、再び自分のものになる。
気づくと、二人とも床に座り込んでいた。息が荒い。全身が汗で濡れている。
手は、まだ繋いだまま。その手が、命を繋いでいる。
司祭が、静かに言った。
「……終わった」
その声には、安堵と、疲労と、何か複雑な感情が滲んでいる。
蒼真は、胸を見た。
紋様が、変わっていた。
さっきまでの黒い線が、今は淡い金色に光っている。生命の光。温かな光。
そして、その中心に――小さな太陽のような印が、刻まれていた。その光は、脈打つように明滅している。
日向の胸にも、同じ印がある。二つの太陽が、呼応するように光っている。
「これが、契約の刻印だ」
司祭は、杖を床に突いた。その音が、聖堂に響く。
「お前たちは、今日から魂で繋がった。離れても、命は保たれる。距離を置いても、生きていける。ただし――」
彼は、厳しい目で二人を見た。その目には、警告と、祈りが宿っている。
「互いの痛みを感じ、互いの死を共有する。片方が傷つけば、もう片方も痛む。片方が死ねば、もう片方も死ぬ。それを、忘れるな」
「……はい」
蒼真は、頷いた。その重みを、全身で受け止める。
日向も、小さく頷く。その顔には、覚悟が浮かんでいる。
司祭は、それ以上何も言わず、聖堂を出ていった。ローブの裾が床を擦る音だけが残り、やがて消える。
残された二人。
蝋燭の光だけが、揺れている。炎が影を作り、二人を包む。
蒼真は、日向を見た。
彼女は、疲れた顔をしている。頬が蒼白で、額に汗が滲んでいる。けれど、笑っていた。その笑顔は、疲労の中にある安堵の色。
「……終わったね」
「ああ」
声が、掠れる。喉が渇いている。
「これで、蒼真は死なない」
その言葉に、安心が滲んでいる。
「……お前のおかげで」
日向は、首を振った。髪が揺れる。
「二人で、だよ」
彼女は、握った手を見た。その手には、汗と、温もりと、命が宿っている。
「これから、ずっと一緒」
その言葉が、温かかった。永遠の約束のように、胸に響く。
蒼真は、刻印を見た。
金色に光る、小さな太陽。それは、脈打つように明滅している。
それは、日向の光だ。
彼女の魂の一部が、自分の中にある。今も、鼓動と共に生きている。
そして、自分の魂の一部も、彼女の中にある。
――もう、一人じゃない。
そう思った。孤独は、もうない。
「日向」
「ん?」
彼女が顔を上げる。その目には、疲労と、安堵と、何か別の感情が混じっている。
「ありがとう。そして――」
蒼真は、握った手を強く握った。その手に、全ての決意を込める。
「絶対に、守る」
日向は、目を見開いた。驚きと、喜びが混じった表情。
それから、ふわりと笑った。花が開くような、柔らかな笑み。
「うん。私も、蒼真を守る」
二人の誓いが、聖堂に響いた。蝋燭の炎が揺れ、影が踊る。
蝋燭の火が、静かに揺れる。
刻印が、淡く光を放つ。二つの太陽が、互いを照らし合う。
契約は、結ばれた。
これから先、二人は魂で繋がり、共に生きる。運命共同体として、この世界を歩む。
それが、救いなのか、呪いなのかは――まだ、分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
もう、一人じゃない。
その事実が、胸の奥を温めていた。刻印が、温もりを放ち続けている。




