第3話「村の祈りと、少女の居場所」
聖堂で一晩を過ごした。
司祭が用意してくれた小部屋には、簡素なベッドが二つ並んでいた。窓は小さく、外から月明かりが細く、刃のように差し込んでいる。壁は石造りで、指先で触れるとひんやりと冷たく、湿気を含んだ冷気が肌に纏わりつく。部屋の空気は静かで、重く、まるで水底に沈んでいるようだった。
けれど、眠れなかった。
横になっても、胸の奥の不安が消えない。呼吸は安定している。心臓も、確かに打っている。それなのに、生きている実感が恐ろしいほど薄い。まるで、借り物の体で息をしているような、この肉体が本当に自分のものなのか分からないような、浮遊する感覚。
隣のベッドに、日向がいる。
寝息が聞こえる。規則的で、穏やかな呼吸。その音だけが、この静寂の中で生きている証のように響く。
手は、繋いだままだ。
ベッドの間に手を伸ばし、互いの指を絡めている。離せば死ぬ。だから、眠る間も離せない。彼女の体温が、細い腕を伝って、自分の中へ流れ込んでくる。それが命を繋いでいる。
日向は何も言わなかった。当たり前のように手を差し出し、「おやすみ」と言って目を閉じた。躊躇も、嫌悪も、その顔には浮かばなかった。
その自然さが、逆に痛い。
彼女は、こうして誰かの命を繋ぐことに、慣れているのだろうか。何度、この手を差し出してきたのだろうか。
――転生者は、時々来る。
――そういう人を、助けてきた。
司祭の言葉が、暗闇の中で反響する。
日向は、何人もの転生者に手を差し伸べてきたのだろう。そして、その代償を払い続けてきたのだろう。彼女の手には、見えない傷跡が刻まれている。
彼女の寿命は、どれだけ削られているのか。
その痛みを、彼女はどこまで感じているのか。
彼女が失ったものを、誰が数えたのか。
考えれば考えるほど、胸が締め付けられる。罪悪感が、喉の奥から這い上がってくる。
けれど、手は離せない。離せば自分は死ぬ。その事実が、全てを支配している。
それが、今の自分の限界だった。その限界が、情けなくて、痛くて、どうしようもなかった。
朝になった。
窓から差し込む光が、壁を白く染めている。昨夜の月明かりとは違う、温かな光。鳥の声が聞こえる。村が動き始める気配。遠くで誰かが薪を割る音。井戸の滑車が軋む音。生活の音が、静かに重なっていく。
日向が目を覚ました。
「……おはよう」
眠そうな声。目をこすり、小さく伸びをする。
その仕草が、年相応に幼く見えた。まるで、重い運命を背負っていることを忘れたような、無防備な姿だった。
「おはよう」
答えると、日向はこちらを見て、少し笑った。その笑顔には、まだ眠気が残っている。
「ちゃんと眠れた?」
優しい問いかけ。その優しさが、逆に胸に刺さる。
「……まあ」
嘘をついた。眠れていない。一睡もできなかった。けれど、それを言えば彼女は自分を責めるだろう。だから、心配をかけたくなかった。
日向は、握られた手を見て、そっと力を込めた。その温度が、朝の光と一緒に伝わってくる。
「無理しないでね。疲れたら言って」
その優しさが、また胸に刺さる。針のように、深く。
「……ありがとう」
それしか言えない自分が、情けなかった。語彙が足りない。感謝の言葉が、こんなにも貧しい。
司祭が朝食を用意してくれた。
黒パン、スープ、乾燥した果物。質素だが、温かい。パンは硬く、噛むと小麦の香りが口の中に広がる。スープは野菜の甘みが溶け込んでいて、体の芯から温まる。
食事の間も、手は繋いだまま。
片手で器を持ち、スプーンを使う。不器用で、何度かスープをこぼしそうになる。それでも、それしかない。これが、これからの生活だ。
司祭は黙って見ていたが、その目には複雑な感情が宿っている。やがて、深く息を吐いて口を開いた。
「蒼真。お前、これからどうする」
その声は、穏やかだが重い。
「……どう、って」
「この村にいるのか。それとも、別の場所へ行くのか」
考えていなかった。
昨日まで、生きることで精一杯だった。未来のことなど、頭に浮かばなかった。明日が来ることすら、確信できなかった。
「……分かりません」
「ならば、しばらくここにいろ」
司祭は淡々と言った。その口調には、長年の経験から来る諦観が滲んでいる。
「この村には、転生者を受け入れる土壌がある。お前が初めてではない。働けるようになれば、手伝える仕事もあるだろう」
「……はい」
頷くしかなかった。他に行く場所もない。この村以外の世界を、まだ知らない。
「ただし」
司祭は、視線を日向へ向けた。その目に、警告が宿る。
「日向を巻き込みすぎるな。彼女には、彼女の役目がある」
役目。
その言葉が、胸に引っかかった。何か重いものが、その単語に込められている。
「役目、って……」
「後で分かる」
司祭はそれ以上語らず、食事を続けた。その沈黙が、答えを拒絶していた。
日向は、黙ったままスープを飲んでいた。
その横顔に、何かを隠しているような翳りがあった。知っているけれど、言えない秘密を抱えているような、痛みを含んだ表情。
食事を終えると、日向が言った。
「蒼真、村を案内する。みんなに紹介しないと」
その声は明るいが、どこか義務的に聞こえた。
「……いいのか?」
「うん。いつものことだから」
いつものこと。
また、その言葉。まるで、何度も繰り返されてきた儀式のように。
日向は手を引いて、聖堂の外へ出た。
朝の村は、昨日より活気があった。
畑で作業をする人々。鍬が土を掘り返す音。井戸で水を汲む女性たちの話し声。薪を運ぶ子供たちの足音。皆、それぞれの日常を生きている。生活のリズムが、村全体に満ちている。
日向が歩くと、視線が集まった。
それは一斉に、そして瞬時に。まるで、彼女の存在が空気を変えるかのように。
「おはよう、日向」
「日向ちゃん、今日もいい天気だね」
声をかけられる。日向は笑顔で応える。その笑顔は完璧だ。
「おはようございます」
「はい、いい天気ですね」
その声は明るい。親しみやすい。礼儀正しい。けれど――。
違和感があった。
村人たちは、日向に声をかける。けれど、近づかない。
数歩の距離を保ったまま、挨拶を交わすだけ。触れようとしない。踏み込もうとしない。まるで、見えない境界線が、日向の周囲に引かれているかのように。
そして、日向を見る目に、敬意と――畏れが混じっている。祈りを捧げる対象を見るような、神聖なものに触れてはいけないという、本能的な距離感。
「あの子が?」
誰かが小声で囁いた。その声は、風に混じって届く。
「また、転生者か」
「日向ちゃんが拾ったのね」
「祝福の子だから、仕方ないわ」
祝福の子。
その言葉が、何度か聞こえた。畑から、井戸端から、家の影から。囁きが、村の空気に溶けている。
日向は、何も言わずに歩き続ける。笑顔を崩さない。けれど、その背中が少しだけ小さく見えた。肩に、見えない重みが乗っているようだった。
広場の井戸まで来たとき、一人の中年女性が近づいてきた。エプロンをつけて、手には洗い物の籠を持っている。
「日向。また、連れてきたのね」
声に、非難はない。けれど、諦めのような、繰り返しを見てきた者の疲労が滲んでいる。
「はい。蒼真って言います」
日向は、こちらを紹介した。その声には、何度も練習したような滑らかさがある。
「蒼真さん、この村へようこそ。大変だったでしょう」
女性は穏やかに微笑んだ。けれど、その目はこちらではなく、日向を見ている。心配と、憐れみが混じった視線。
「日向ちゃん、無理しないでね。あなたは大切な子なんだから」
その言葉には、温かさがある。けれど、対等さがない。まるで、壊れやすい宝物を扱うような、慎重な優しさ。
「大丈夫です。ありがとうございます」
日向は礼儀正しく頭を下げた。その動作が、あまりにも完璧で、痛々しい。
女性は、それ以上何も言わず、去っていった。その背中に、言葉にできない複雑な感情が宿っている。
その後も、何人かの村人と言葉を交わした。
皆、優しい。礼儀正しい。けれど、距離がある。触れられない透明な壁が、日向の周囲を取り囲んでいる。
日向を"特別な存在"として扱っている。
近づきすぎないように、触れすぎないように、まるで聖域を守るように。尊重ではなく、畏怖。愛情ではなく、遠慮。
そして、転生者である自分を見る目は――同情と、少しの厄介さが滲んでいた。また日向の負担が増えた、という無言のため息が、視線の奥に隠れている。
村を一通り回り、日向は丘の上へ向かった。
そこには一本の大きな木があり、その下に石のベンチが置かれている。木は古く、幹には深い皺が刻まれ、枝は村全体を覆うように広がっている。
「ここ、私の好きな場所」
日向はベンチに座り、村を見下ろした。その声には、ようやく緊張が解けたような、安堵が滲んでいる。
風が吹く。髪が揺れる。木の葉がさざめく。
その横顔に、笑顔はなかった。素の表情。疲れと、孤独が浮かんでいる。
「……日向」
「ん?」
彼女はこちらを見る。その目には、何か言われることを予感している光が宿っている。
「お前、村で……孤独なのか」
日向は、少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。その笑いには、諦めと、少しの安心が混じっている。
「……バレた?」
「分かる」
蒼真も隣に座った。手は、まだ繋いだまま。その繋がれた手が、二人の唯一の共通点のように感じられる。
「みんな、優しいよ。ちゃんと話してくれる」
日向は、村を見つめたまま言った。その目は遠くを見ている。
「でも、それだけ」
風が、また吹いた。草が揺れる。遠くで鐘の音がする。
「私は"祝福の子"だから。特別だから。だから、普通に接してもらえない」
その声は、諦めに近い。長い年月をかけて培われた、受け入れの響き。
「転生者を助けるのが、私の役目。それは、生まれたときから決まってた」
「……決まってた?」
「うん」
日向は、握った手を見た。その手は小さく、華奢で、けれどこの手が命を繋いでいる。
「私の魂は、他の人より少しだけ強いらしい。だから、欠けた魂を補える。だから、転生者が来たら、私が助ける」
淡々とした口調。けれど、その奥に痛みがある。何年も、何人もの転生者に向き合ってきた痛み。
「みんな、それを知ってる。だから、感謝してる。大切にしてくれる。でも――」
彼女は、唇を噛んだ。その動作に、言葉にできない感情が詰まっている。
「友達として、じゃない。"祝福の子"として」
胸が、締め付けられた。
まるで拳で掴まれたように、内側から圧迫される。
日向は、生まれたときから役目を背負っていた。
転生者を助けるために、自分を削ることを求められていた。
そして、それを当たり前のように受け入れて、疑問も持たず、生きてきた。
村人たちは、彼女を敬う。感謝する。
けれど、対等には見ない。人として見ない。道具として、象徴として、"祝福の子"として見る。
それは、どれだけ孤独だっただろう。
どれだけ、普通に話しかけられることを望んだだろう。
「……ごめん」
言葉が、自然に出た。喉の奥から、絞り出されるように。
「俺も、お前を利用してる」
「違うよ」
日向は首を振った。その動作は穏やかで、非難の色がない。
「蒼真は、謝ってくれる。ありがとうって言ってくれる。それだけで――」
彼女は、少しだけ笑った。その笑顔は、今まで見た中で一番弱々しく、けれど一番本物に近かった。
「嬉しい」
その笑顔が、痛々しかった。あまりにも小さな幸せに、彼女がどれだけ飢えていたのかが分かる。
蒼真は、握った手を見た。
この手が、彼女の命を削っている。
この手が、彼女を縛っている。
この手が、彼女の自由を奪っている。
それでも、彼女は笑う。感謝されただけで、嬉しいと言う。
――それは、間違っている。
そう思った。この状況は、絶対に間違っている。
「日向」
「ん?」
彼女が顔を上げる。その目は、無防備だ。
「俺、決めた」
日向が、こちらを見る。風が止み、世界が静かになる。
「お前を、守る」
日向の目が、わずかに見開かれた。驚きと、戸惑いと、何か別の感情が混じっている。
「守る、って……」
「お前の手が、俺の命綱だ。それは、変えられない」
蒼真は、握った手に力を込めた。その温度が、自分の決意を固めてくれる。
「でも、だからこそ――お前を守らなきゃいけない」
日向は、黙って聞いている。その目が、揺れている。
「お前が削られる分、俺が何かできることをする。お前が孤独なら、俺が隣にいる」
言葉が、次々に溢れた。堰を切ったように、胸の奥から湧き上がってくる。
「お前がいなきゃ、俺は生きられない。なら、お前が生きやすくなるために、俺ができることをする」
それは、感謝でもあり、罪滅ぼしでもあり、そして――。
「お前を、一人にしない」
決意だった。この世界で初めて、自分の意志で選んだ、揺るがない決意。
日向は、しばらく黙っていた。
風が吹く。木の葉が揺れる。鳥の声が遠くで鳴く。
その沈黙が、永遠のように長く感じられた。
やがて、彼女は小さく笑った。
今度は、痛みのない笑みだった。純粋な、何かが解けたような、安堵の笑み。
「……ありがとう」
その声は、少しだけ震えていた。涙を堪えているような、感情が溢れそうな震え。
「でも、蒼真」
「何だ」
「無理しないでね。あなたも、まだ体が弱いから」
その言葉には、心配が滲んでいる。
「分かってる」
「ほんとに?」
日向の声に、疑いが混じる。何度も、人に裏切られてきたような、信じきれない響き。
「ああ」
蒼真は、真っ直ぐ答えた。その目を見て、嘘をつかないと誓った。
日向は、握った手を少し強く握り返した。その力加減に、信じようとする意志が込められている。
「じゃあ、約束」
「約束?」
「お互い、無理しない。ちゃんと、言葉にする」
日向は、真っ直ぐこちらを見た。その目には、決意と、希望と、わずかな不安が混じっている。
「それができるなら――一緒にいよう」
その言葉が、温かかった。初めて、対等な約束を交わせたような気がした。
「……ああ」
蒼真は頷いた。その頷きには、全ての覚悟が込められている。
二人で座ったまま、しばらく村を眺めた。
畑で働く人々。鍬を振る規則的な動き。煙突から上がる煙が、風に流されて消えていく。遠くに見える森は、深い緑の壁のように静かに立っている。
この世界は、まだ知らないことだらけだ。
自分が何者で、何をすべきかも、まだ分からない。未来が見えない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
隣にいる少女を、失ってはいけない。
彼女の手が、自分の命だから。
そして――彼女の孤独を、放っておけないから。
「なあ、日向」
「ん?」
彼女が振り向く。その目には、穏やかさが戻っている。
「この村で、何か手伝えることあるか?」
日向は、少し考えて、答えた。その表情に驚きが浮かんでいる。
「……畑仕事とか、薪割りとか。でも、まだ体が――」
「できることから、やる」
蒼真は立ち上がった。足は、まだ少し震える。けれど、立てる。この足で、立って、歩いて、働ける。
「俺、ただ守られてるだけじゃ嫌だ」
日向は、驚いたように見上げた。その目が、大きく見開かれる。
「蒼真……」
「お前が削られるなら、その分、俺が働く。村の役に立つ。そうすれば――」
蒼真は、彼女の手を握り直した。その手に、自分の意志を込める。
「お前も、少しは楽になるだろ」
日向は、目を伏せた。
その肩が、小さく震えている。感情が、溢れそうになっている。
――泣いているのか、と思った瞬間。
彼女は顔を上げて、笑った。
今まで見た中で、一番明るい笑顔だった。太陽のような、眩しくて、温かい笑顔。
「うん。一緒に、頑張ろう」
その笑顔が、眩しかった。目が痛いほどに。
丘の上から、二人で村へ下りる。
手を繋いだまま、石畳の道を歩く。足音が重なって響く。
村人たちの視線は、まだ距離を保っている。
けれど、それでもいい。今はまだ、それでいい。
少しずつ、変えていけばいい。
日向が孤独でなくなるように。
自分が、ただ守られるだけの存在ではなくなるように。
これから先、どんな困難が待っているのか分からない。
転生者として、欠けた魂を持つ者として、生きていく道は険しいだろう。痛みも、苦しみも、まだ見ぬ試練が待っているだろう。
けれど、隣には日向がいる。
その手の温度が、消えない限り――。
まだ、諦めない。諦められない。
蒼真は、握った手を少し強く握り返した。
日向も、同じように力を込めてくれた。その温度が、二人を繋いでいる。
二人の影が、石畳に重なって伸びている。光と影が、一つになって地面に映る。
午後の光が、村を優しく照らしていた。温かな、生命を包む光。
――これが、始まりだ。
日向と共に生きる、この世界での始まり。
そう思いながら、蒼真は前を向いた。
未来は見えない。けれど、この手を離さなければ、歩いていける。そう信じて、一歩を踏み出す。




