第26話「塔の最終試練:手を離す一歩」
翌朝――蒼真は、まぶたの裏が白いことに気づいて目を開けた。
白。
眩しい白ではない。色の概念そのものが剥ぎ取られたような、均一で、逃げ場のない白。
「……また、か」
声が空間に吸われ、反響すらしない。足裏の感覚も薄い。草の湿りも土の匂いもない。あるのは、ただ“ここに立っている”という事実だけ。
視線を動かすと、すぐ隣に日向がいた。彼女も同じように瞬きを繰り返し、白い虚無を見回している。
「ここ……」
日向の声が震える。「また、あの場所?」
「ああ」
蒼真は頷いた。
意志の契約を結び直したとき、二人が引き込まれた白い空間。
塔が――正確には“塔の意志”が、言葉ではなく現象として語りかけてくる場所。
そして、案の定。
「――よく来た」
声が響いた。
上でも下でもない、距離の概念を無視して胸の内側へ直接届くような声。
白の中から、光が滲む。人の形を取った光の存在。輪郭は柔らかく、しかし視線だけは鋭い。温かいのに、容赦がない――そんな気配。
塔の意志。
「……また呼んだのか」
蒼真が言うと、光は静かに頷いた。
「そうだ。お前たちには――最後の試練がある」
日向が息を呑む。
“最後”という言葉が、希望にも刃にもなるのを知っている顔だ。
「最後の、試練……?」
「ああ」
光は二人へ近づいた。足音はない。ただ、距離が縮むだけで空気が変わる。
「お前たちは、意志の契約を選んだ。循環を学び、弱さを共有した。所有ではなく、対等を選び直した」
その声は、どこか優しい。
だが次の言葉で、優しさは試練に変わる。
「――だが、まだ足りない」
蒼真は拳を握った。
これ以上、何を求めるというのか。
「何が足りない?」
光は即答した。
「距離だ」
「距離……?」
日向が首を傾げる。蒼真も遅れて気づく。
自分たちは――いつからだろう。常に触れ合っている。
街でも森でも、握った手をほどかなかった。
ほどけなかった、と言うべきか。
手を離すことは、まだ“恐怖”の領域にあった。
光は静かに言葉を重ねる。
「お前たちは今、常に触れ合っている。手を繋ぎ、寄り添い、離れない」
蒼真の喉が、ひゅ、と鳴った。
指先に日向の温もりがないだけで、胸の奥がざわつく。
それは生理ではなく、もっと深い反射――昨夜、言葉にした“孤独の恐怖”と同じ種類のものだ。
「それは悪いことではない」
光は言った。
否定されるのが怖かった分だけ、その一言に救われる。
だが――続く。
「だが、本当の絆は距離を超える」
日向の肩が小さく跳ねた。
「距離を……超える?」
「触れていなくても、離れていても、絆は繋がっている。――それを証明しろ」
蒼真の胸が、冷たく凍った。
嫌な予感は、ほとんど確信だった。
「……まさか」
光が頷く。
「手を、離せ」
その言葉が落ちた瞬間、日向が反射で蒼真の手を強く握った。
握力というより、命綱を手繰り寄せる力だった。
「で、でも……」
日向の声が震える。
昨夜の告白が、まだ火の匂いを帯びている。
「離れたら……倒れるかもしれない」
光は淡々と答えた。
「以前は、そうだった。三十歩離れれば死んだ」
三十歩。
蒼真の脳裏に、あの日の感覚が蘇る。肺が空気を拒み、心臓が鈍り、視界が暗く閉じていくあの“続かない生命”。
だが、光は続けた。
「今は違う。お前たちは契約を変えた。循環を学んだ。ならば、距離も超えられるはずだ」
「でも……もし倒れたら……!」
日向が言う。涙が滲む。
恐怖が、過去の記憶と結びついて増幅している。
光の声は冷たくない。だが、甘くもない。
「その恐怖を越えろ。それが最後の試練だ」
蒼真は日向を見た。
彼女の指は震えている。怖いのだ。離れるのが。ひとりになるのが。
――昨夜、彼女は言った。怖いのは、ひとりになることだと。
そして蒼真も同じだと、告白したばかりだ。
「……日向」
蒼真が呼ぶと、日向は涙を浮かべたまま、蒼真を見返した。
「大丈夫だ」
蒼真は、笑おうとした。勇気づける笑いではなく、恐怖を一緒に抱くための笑い。
「俺はここにいる。手を離しても――」
胸の刻印に指を当てる。
そこに、微かな温度がある。触れていないのに、確かに感じる温度。
「ここで繋がってる」
日向は唇を震わせる。
「でも……怖い……」
「怖いよな」
蒼真は正直に言った。「俺も怖い。お前の手を離すのが。ひとりになるのが」
日向が息を呑む。
恐怖は“弱さ”ではない。共有できるものになったと、昨夜決めた。
「でも――」
蒼真は言う。「昨日、決めただろ。隠さない。怖さを共有する。なら――」
蒼真は日向の手を、今度は“支配”ではなく“合図”として握った。
「一緒に怖がろう。一緒に挑もう」
日向は涙を拭い、頷いた。
泣きながら、笑う。
「……うん。やってみる」
蒼真は光へ目を向けた。
「どれくらい離れればいい?」
「まずは――一歩だ」
一歩。
たった一歩。
だが、その一歩が、三十歩より遠く感じた。
握った手を離すことは、距離の問題ではない。心の癖を剥がす行為だ。
「……行くぞ」
「うん」
二人は、ゆっくり指をほどいた。
掌が離れ、温もりが消える。
その喪失感が、いきなり胸の内側を叩いた。
蒼真は一歩、後ろへ下がった。
その瞬間――胸が締め付けられる。
「――っ!」
心臓が痛む。呼吸が浅くなる。視界が白く霞む。
身体が「戻れ」と叫ぶ。
だが――倒れない。
足は震え、膝は笑っているのに、立っている。
日向も胸を押さえ、苦しそうに息を吐く。
「熱い……胸が、熱い……」
光が溢れそうに肌の内側で脈打つ。
しかし、暴走には至らない。
“循環”が、どこかで回っている。
触れていないのに、回っている。
「……できてる」
蒼真が掠れた声で呟く。
「一歩、離れた……でも――繋がってる」
日向の頬を涙が伝う。
「うん……苦しいけど……倒れない……」
光が言った。
「よくやった。次は――もう一歩」
蒼真の喉が鳴る。
二歩。距離が倍になる。恐怖も倍になる。
「もう、一歩……?」
「ああ。恐怖を越えろ」
蒼真は日向を見る。
日向もこちらを見る。
泣いているのに、目が頷いていた。
「……行くぞ」
蒼真はもう一歩、後ろへ下がった。
二歩。
たった二歩のはずが、崖を一段降りたみたいに体が重くなる。
痛みが増す。胸の奥が裂けそうだ。
「――っ!」
蒼真は膝をついた。息が詰まり、視界が白くなる。
日向もよろめき、倒れそうになる。
「蒼真……!」
日向の声が遠い。
光が、溢れている。押さえきれない。熱が尖る。
蒼真は歯を食いしばり、叫んだ。
「日向……! 循環だ……! 意志で……流せ……!」
日向は震えながら、目を閉じた。
意志する。
光を、送る。蒼真へ。
蒼真も、同時に意志した。
影を、送る。日向へ。
見えない。
触れていない。
なのに――確かに“流れ”が生まれる。
胸の中を、熱が通り抜ける。
呼吸が戻る。
心臓が、もう一度“次”を打つ。
日向の肩の震えも、少しずつ収まっていく。
「……できた」
日向が呟く。息が戻った声だった。
「二歩……離れた……」
蒼真はゆっくり立ち上がった。まだ脚は震える。だが、立てる。
笑いが漏れた。痛みの中の笑いだ。
「……すごいな」
日向も泣きながら笑う。
「うん……苦しいけど……倒れない」
光が言う。
「さらに――もう一歩」
蒼真は思わず顔をしかめた。
「まだ、やるのか……」
「限界まで試せ。どこまで離れられるか」
日向が蒼真を見る。
その目に、迷いと覚悟が同居している。
「……やる?」
「ああ」
蒼真は頷いた。
逃げない、と決めたからではない。
“離れても繋がれる”と知った今、逃げる理由がない。
三歩目――蒼真が下がる。
痛みが来る前に、意志で流す。
光と影を、互いに押し付けるのではなく、通す。
四歩目――視界が揺れる。
日向の頬が青白くなる。
蒼真の背中に汗が滲む。
五歩目――。
「もう……無理……!」
日向が膝をつく。
同時に蒼真も、息を吸うことさえ苦しい。胸がきしむ。視界が薄れる。
「……俺も……」
そのとき、光が言った。
「待て。もう十分だ」
言葉が落ちた瞬間、空間の圧がほどける。
蒼真と日向は、その場に座り込んだ。汗が頬を伝い、呼吸が荒い。痛みは残っているが――生きている。
五歩、離れても。
倒れなかった。
「……よくやった」
光の声は優しかった。試験官ではなく、見届ける者の声。
「お前たちは証明した。絆は距離を超える。手を離しても繋がっている」
蒼真は、日向を見る。
五歩離れた場所に、彼女がいる。
遠いのに、近い。
胸の刻印が、淡く灯っている。
循環が続いている。
見えない糸が、確かに張っている。
「……日向。聞こえるか?」
「うん」
日向が笑う。涙が乾ききらないまま。
「聞こえる。離れてるのに……近くに感じる」
「ああ」
蒼真は胸に手を当てた。
「お前が、ここにいる」
日向も胸に手を当てる。
「蒼真も、ここにいる」
光が告げる。
「これが意志の契約。所有ではない。支配ではない。距離を超えて繋がる絆だ」
白い空間が、ゆっくり溶けていく。
輪郭が戻り、匂いが戻り、風が戻る。
* * *
森の朝。
焚き火の灰の匂い。湿った土。木々の間から差し込む斜光。
蒼真と日向は――少し離れて座っていた。
意識して、五歩。
さっきの試練の距離。
苦しい。
けれど、倒れない。
触れていないのに、温もりがある。存在がある。
「……本当に、できたね」
日向が言った。声はまだ弱いが、芯がある。
「ああ」
蒼真は自分の手を見る。空っぽの手。
なのに、掌の中心に、日向の温度の“記憶”が残っている。
「怖かった」
日向は正直に言った。
「手を離すの。ひとりになるみたいで」
蒼真も頷く。
「俺も怖かった。でも――ひとりじゃなかった」
日向が涙を浮かべ、笑う。
「うん。蒼真が、いた」
蒼真は立ち上がった。
そして、日向の方へ歩き出す。
五歩。
四歩。
三歩。
二歩。
一歩。
手を差し出す。
「……戻ろう」
日向は、その手を取った。
「うん」
指が触れた瞬間、痛みがほどける。呼吸が深くなる。
楽になる。温もりが戻る。
「……やっぱり」
日向が笑う。「手を繋いでる方が、楽だね」
「ああ」
蒼真も笑った。
「離れられる。けれど――」
蒼真は、日向の手をしっかり握った。
今のそれは、必要に迫られた握りではない。
「一緒にいる方が、いい」
日向も握り返す。
「うん」
二人の刻印が、穏やかに灯る。循環がより滑らかになったのが、肌で分かった。
離れられる。
でも、離れない。
それは依存ではない。
選択だ。
蒼真と日向は森を出た。手を繋いで。
けれど今の二人は知っている。
繋がなければいけないのではない。
繋ぎたいから、繋ぐのだと。
最後の試練は終わった。
手を離す一歩を越えた。
距離を超えて繋がる強さを手に入れた。
そして、二人は歩き続ける。
真実を広めるために。世界を変えるために。
そして――自分たちの絆を、何度でも“意志”で選び直すために。




