第25話「ひなたの告白:怖いのは、ひとりになること」
街を離れると、音が一枚ずつ剥がれていった。
露店の呼び込み、馬車の軋み、笑い声――それらが背後へ薄れて、代わりに森の静けさが近づいてくる。
夜の森は、深い。
枝葉が風に擦れる音が、遠い波のように続く。虫が低く鳴き、どこかでフクロウが一声だけ落とした。暗闇は黒ではなく、濃い藍色で、火を入れない限り輪郭を許さない。
蒼真と日向は、街道から外れた小さな窪地に腰を下ろした。根が盛り上がった古木の陰。背後は岩肌。逃げ道を確保しつつ、風を避けられる場所だ。
蒼真が枯れ枝に火を移すと、焚き火が小さく咲いた。
炎が立ち上がり、ぱちぱちと薪を弾く。火の匂いが湿った土を押し返し、二人の顔に色を戻した。
日向は膝を抱え、火を見つめていた。炎に映る瞳は金色のはずなのに、今夜はどこか翳って見える。蒼真も同じように火を見つめ、胸の中のざらつきを鎮めようとしていた。
「……疲れたね」
日向が、息を吐くように言った。
その声はいつもより低い。街で見せた笑顔の残り香が、かろうじて形を保っているだけだった。
「ああ」
蒼真は頷いた。
真実を見せた。
広めてくれると言ってくれる者もいた。
けれど、騎士は現れ、また逃げた。
前へ進んでいるのに、同じ場所を走り続けているような感覚がある。足場は揺れ、背中に追跡の気配が貼りついたままだ。
「でも――」
日向は火の中へ視線を落とし、指先で小枝の端をいじった。炎の熱で先が黒くなっていく。
「少しだけ、進めたね」
「……ああ。最初の一歩だ」
蒼真も火を見た。
あの酒場の主の震える声。
十年前に死んだという息子の話。
“罰だ”と信じ込まされていた年月。
真実の破片が、あの男の中で何かを壊した。
壊したのは信仰だけではない。
押し込めていた怒りと悲しみを、ようやく呼吸させたのだ。
沈黙が降りる。
薪が爆ぜる音だけが近くで鳴り、森の闇が呼吸する音が遠くで続く。
日向は――笑っていた。
口元だけで、柔らかく。いつものように。
蒼真は、その笑顔の“薄さ”に気づいてしまった。
笑顔が、仮面みたいだった。
火の光が揺れるたび、仮面の縁が一瞬だけ浮き上がる。
「……日向」
「ん?」
日向は顔を上げる。ぱっと咲く笑み。
でも、その速度が早すぎる。反射だ。癖だ。身につけた防具だ。
「お前――無理してないか」
言った瞬間、日向の笑顔が固まった。
目が一瞬だけ泳ぎ、唇が軽く開いて、閉じる。
「え……?」
「ずっと、笑ってる」
蒼真は落ち着いた声で言葉を積む。責めない。追い詰めない。ただ、確かめる。
「怖いはずだ。追われてる。捕まれば……終わる。なのに、お前はずっと笑ってる」
日向は視線を逸らした。火に向けた目が、揺れる炎の中に逃げ込む。
「……大丈夫だよ」
小さな声。軽い言い方。
けれど、指先が膝を強く掴んでいる。白くなるほど。
「蒼真が、守ってくれるから」
「守る」
蒼真は頷く。
それは嘘じゃない。ここまで来た理由でもある。
「でも、それは俺の気持ちだ」
蒼真は続けた。「お前の気持ちは? お前は、どう思ってる」
日向の肩が小さく震えた。
「気持ち……?」
「ああ。怖くないのか。つらくないのか」
日向は何も言わない。
火を見つめたまま、黙っている。横顔が、泣きそうに歪んでいた。
蒼真は一度だけ息を吸い、もう一度呼んだ。
「……日向。正直に言ってくれ」
その呼びかけが、最後の留め具を外した。
日向は――笑顔を崩した。
初めて、蒼真の前で。
目に溜まった涙が、火の光を受けてきらりと揺れる。頬を伝い始めるまで、時間はかからなかった。
「……怖いよ」
声が震える。喉の奥がつまる音がする。
「すごく、怖い」
涙が落ち、焚き火の前の土に黒い点を作る。
「教会に追われて……いつ捕まるか分からなくて……蒼真が傷つくかもしれなくて……」
言葉が途中で切れる。
呼吸が浅くなり、唇が震えた。
「怖くて、たまらない」
蒼真は黙って頷き、その“怖さ”を受け止める場所になる。
日向は涙を拭うでもなく続けた。
まるで、胸の奥に溜めていた水を、今夜で全部こぼしてしまわなければ溺れるみたいに。
「でも――それより、もっと怖いことがある」
「……それより?」
蒼真が聞き返すと、日向はほんのわずか、息を整えた。
「うん」
彼女は震える指で頬を拭き、呟くように言った。
「ひとりに、なること」
蒼真の胸が、ずん、と鈍く鳴った。
日向は膝を抱え直し、身体を小さくする。焚き火の光が、彼女の肩の線を細く縁取った。
「私――ずっと、ひとりだった」
彼女の声は、炎の音に溶けそうなほど小さい。
「村にいたとき、“祝福の子”って呼ばれてた。……でも、みんな……私を怖がってた」
髪に触れる。金色の髪が指の間をすり抜ける。
「金色の髪。光の力。普通じゃないって……」
彼女は笑う――いや、笑おうとして、失敗した。
唇が引きつり、涙がまた落ちる。
「子どもたちは近づかなかった。大人は敬ってるふりをして、距離を取った。優しくされるほど、余計に孤独だった」
蒼真は言葉を失った。
“祝福”という名は、近づくための言葉じゃない。遠ざけるための言葉になることがある。
日向は続ける。
「教会に行っても、同じだった」
拳を握る。爪が掌に食い込む。
「他の光持ちもいたよ。でも、みんな怯えてた。半魂と契約させられることを」
日向の視線が火から外れ、宙を見る。過去の廊下を見ている目だった。
「知らない人と一生縛られる。相手がどんな人かも分からない。笑う人か、怒る人か、怖い人か――」
息を呑む。
「それが……すごく怖かった」
蒼真は、日向の手をそっと取った。
彼女の指は冷たかった。火の前にいるのに、芯が冷えている。
日向が顔を上げる。涙で濡れた目が、蒼真を正面から見た。
「でも――蒼真と出会った」
その言葉には、少しだけ光が戻る。
「最初は怖かった。契約も嫌だった。……だって、蒼真は“半魂”だったから。私がいないと生きられないって、言われたから」
彼女は苦笑するように言う。
「ね、重すぎるよね。いきなり“君がいないと死ぬ”って」
蒼真は何も言わず、指先に力を込めた。
“重い”のは確かだ。だが、それだけではない。
日向は、泣きながら笑った。
「でも蒼真は、優しかった」
火の光が涙を金色に変える。
「私を道具として見なかった。祝福だとか、器だとか、そんなのじゃなくて……ちゃんと、人として見てくれた」
握った手が、少し強くなる。
「初めて……ひとりじゃないって思えた」
そして、言葉が震える。
「だから――蒼真がいなくなるのが怖い」
日向の唇が、かすかに歪む。
「また、ひとりになるのが……怖くて、たまらない……」
最後は声にならず、日向は泣き崩れた。
蒼真は、迷わず抱き寄せた。
肩を包み、背中を撫でる。焚き火の熱と、彼女の震えが胸に伝わる。
「……ごめん」
蒼真の声は小さかった。だが、確かだった。
「気づかなかった。お前が……そんなに、ひとりを怖がってたこと」
日向は蒼真の胸で泣いた。嗚咽が、息に混じる。
「ごめんね……」
掠れた声で言う。「ずっと隠してた。笑顔でごまかしてた。蒼真に心配かけたくなくて……」
「隠さなくていい」
蒼真は髪を撫で、優しく言った。
「弱いところ、見せてくれ。俺も――弱い」
日向が顔を上げる。涙で濡れた睫毛が火を反射する。
「蒼真も……?」
「ああ」
蒼真は頷いた。
そして、胸の奥に溜めていた言葉を、今夜の火にくべるように吐いた。
「俺は依存してる。お前に」
一拍、日向の呼吸が止まる。
「半魂だからじゃない。……それもある。でも、それだけじゃない」
蒼真は日向を見る。逃げずに。
「お前がいないと、俺もひとりになる」
日向の瞳が揺れた。
蒼真は続ける。
「前世で、俺はひとりだった。家族も友達もいた。でも……本当の自分を見せられなかった」
焚き火が揺れ、影が二人の背後で踊る。
「強い自分。できる自分。完璧な自分。……そういうのを演じてた。弱さを見せたら終わる気がして」
笑う。自嘲の笑い。
「でも本当は、怖がりで、不安で、いっぱいいっぱいだった」
言葉が遠くなる。過去が胸の内で形を結ぶ。
「無理して、無理して……最後は、ひとりで倒れた。過労で。誰にも“助けて”って言えないまま」
日向が蒼真の手を握る。
その温度が、今夜は鎖ではなく救いだった。
「この世界に来て、お前に出会った」
蒼真は小さく笑う。今度は温かい笑みだ。
「半魂で、不完全で、お前に頼らないと生きられない。……それを恥じてた。情けないと思ってた」
目を伏せる。
「だから、俺はお前を“解放”しようとした。……たぶん、罪悪感を消したかったんだ。自分が依存してることを、なかったことにしたかった」
日向が首を振る。涙が散る。
「違う。蒼真は、私のことを思ってくれてた」
「……いや」
蒼真は遮らず、正直に言った。
「両方だ。お前のためでもあった。でも、自分のためでもあった」
言い切ると、胸の奥の重石が少しだけ動いた。
「でも、もうやめる」
蒼真は日向を見る。
「お前の選択を、俺の罪悪感で塗り潰さない」
日向の涙が、静かに止まっていく。
焚き火の前で、二人は互いの弱さを差し出し合っている。逃げ場のない夜の森で、逃げないまま。
日向が、震える声で言った。
「私も……蒼真に頼ってる」
彼女は涙を拭き、笑う。今度は仮面じゃない笑いだ。
「光持ちは強くあるべきだって。祝福の子なんだからって。弱音を吐いちゃいけないって……ずっと思ってた」
日向は胸に手を当て、ゆっくり息を吸う。
「でも違った。怖くてもいい。弱くてもいい。蒼真に……頼っていい」
二人は、見つめ合った。
火が揺れ、影が踊る。光と影の輪郭が、互いに溶け合う。
「……俺たち、似てるな」
蒼真が呟くと、日向は小さく笑った。
「うん。ずっと強がってた。笑顔でごまかしてた」
蒼真も笑う。
「でも、もういい」
彼は言う。「弱さを共有できる。お前となら」
日向は頷いた。
「うん。それが……強さだね」
「ああ」
蒼真は日向の頭を撫で、肩を抱く。日向はその腕に寄りかかった。
焚き火の光が二人を照らし、刻印が淡く呼吸するように灯る。
金色の太陽と、黒い影が――ただ隣り合うのではなく、手を取り合っている。
「……ありがとう」
日向が囁いた。
「何が?」
「弱さを、見せてくれて」
蒼真は小さく息を吐き、頷いた。
「お前もだ。怖いって言ってくれて。ひとりが嫌だって教えてくれて」
日向は蒼真の胸に額を預ける。
「……もう、隠さない」
その声は、決意を帯びていた。
「怖いときは、怖いって言う。つらいときは、つらいって言う。蒼真に……全部見せる」
「ああ」
蒼真も誓う。「俺も隠さない。弱いときは弱いって言う。頼りたいときは頼る。……全部見せる」
二人の刻印が、同時に淡く光った。
循環するのは、光と影だけじゃない。
恐れも、弱さも、言葉も、行き来する。
支配ではなく、共有。
所有ではなく、意志。
焚き火が小さくなってきた。蒼真が薪を足すと、炎がまた息を吹き返す。小さくなっても、消えずに燃え続ける。
日向が蒼真の隣に座り、肩を寄せた。
「……明日からも、大変だね」
「ああ」
蒼真は頷き、夜空を見上げた。星が無数に散っている。一つ一つは弱い。けれど集まれば、闇の輪郭を描ける。
「でも――お前がいる」
日向は笑った。
「私も、蒼真がいる」
焚き火の炎が揺れ、二人の影が並ぶ。
その影は、もう薄くない。
その光は、もう暴走しない。
怖くても、弱くても。
ひとりじゃない。
蒼真と日向は、同じ夜を生きることを、意志で選び直した。




