第24話「街の噂、最初の種を蒔く」
夕暮れの空は、火の粉を散らしたように赤かった。街道の向こう、地平の端で陽が沈み、石と鉄の輪郭だけが最後まで残る。
蒼真と日向が辿り着いたのは、巨大な城壁に抱かれた都市――ガルディア。
門は石造りで、見上げると首が痛くなるほど高い。衛兵の槍の穂先が夕陽を弾き、行き交う人々の影が長く伸びている。荷車の車輪が石畳を叩き、馬の鼻息が白く混じり、露店の呼び込みが波のように押し寄せた。
オルディアよりも大きい。
そして――生きている。
「……大きい街だね」
日向が呟いた。声はかすかに弾んでいるが、その奥に警戒がある。視線は人混みの表面をなぞりながら、どこかで白い鎧を探している。
「大きいほど、噂は早い」
蒼真は頷き、城壁の影の奥を見上げた。
人が多い分、嘘も真実も、同じ速度で広がる。
懐に指を入れる。指先に触れるのは、冷たい球体――均衡の塔から持ち出した記録。石でも金属でもない、滑らかな感触。触れるだけで、胸の奥が微かに疼く。
あれは“情報”ではない。
あれは、世界の仕組みを暴く刃だ。
「本当に、ここで?」
日向の声が小さい。
蒼真は、あえて笑わなかった。怖さをごまかす必要はない。二人とも同じ恐怖を抱えている。
「ああ。ここで撒く」
蒼真は言う。「芽が出る土がある」
日向が球体を見つめ、唇を結ぶ。
「でも、誰に……」
「まずは――情報が集まる場所だ」
蒼真の視線が止まった先に、灯りのにじむ建物があった。看板は擦れて読みにくいが、酒と煙と声が漏れ出している。人が集まり、舌が回り、噂が生まれる場所。
「あそこだ」
* * *
酒場の中は、熱気で曇っていた。
焼いた肉の脂、麦酒の酸味、汗と革と煙草。笑い声が天井にぶつかり、乱暴な乾杯の音が床を震わせる。冒険者の鎧が擦れる音、商人が銭袋を確かめる音、旅人が地図を広げる音――ここには、街の鼓動が詰まっていた。
蒼真と日向は、目立たない端のカウンターに腰を下ろす。日向は背筋を伸ばし、蒼真の半歩後ろに位置を取る。いつでも動ける姿勢。手は、無意識に蒼真の袖を掴む寸前で止まっている。
カウンター越しに、初老の男が二人を見た。無精髭、太い腕、目は鋭いが疲れている。酒場の主――この街の噂の出入口だ。
「いらっしゃい。何にする?」
蒼真は即答した。
「水を二つ」
男は眉をひそめ、口元を歪める。
「酒場で水か。……まあ、いい。飲め」
木杯が二つ、どんと置かれる。蒼真は一口飲み、喉の乾きと一緒に、胸の緊張を少しだけ落とした。日向も同じように飲むが、目は周囲の客の動きから離れない。
蒼真は耳を澄ませた。
噂の糸をたぐる。
「……教会の騎士が増えたらしいな」
隣のテーブルで、旅装の男が言う。酒の匂いと一緒に、嫌な単語が流れてくる。
「ああ、何か探してる。教会直々だとよ」
「賞金首だとか……」
蒼真は、杯を持つ指を強くした。日向の肩がほんの僅かに揺れる。二人の間に、冷たい現実が落ちる。
「……やっぱり、追われてるね」
日向が小さく言った。
「追われてるから、撒ける」
蒼真は低く返した。恐怖で引くのではなく、恐怖を燃料にする。そう決めたからだ。
蒼真は酒場の主を見上げる。
「なあ、聞きたいことがある」
「なんだ?」
男はカウンターを拭きながら、こちらを睨むでもなく、測るように見た。
「教会について……どう思う?」
「教会?」
男は小さく鼻を鳴らす。「普通だ。寄付を集めて、困ってるやつを助ける。光持ちを保護してくれる。……それで終わりだ」
「それ以外は?」
「それ以外?」
男は首を傾げる。「何もねぇ。騎士が増えりゃ治安も良くなる。……お前、教会に恨みでもあるのか」
蒼真は、言葉を選びながら続けた。
「半魂については?」
男の手が止まった。
拭いていた布が、カウンターの同じ場所に押し付けられたまま動かない。
「……半魂か」
声が一段、低くなる。酒場の喧騒の中でも、その調子だけが際立った。
「可哀想な存在だな。魂が不完全で、光持ちがいねぇと生きられねぇ。……前世で、よっぽど悪いことでもしたんだろう」
蒼真の胸に、鈍い痛みが走った。
予想していた言葉。けれど、聞くたびに深く刺さる言葉。
罰。呪い。自業自得。
そういう物語で世界が回っている限り、教会は揺らがない。
だから――壊す。
「もし」
蒼真は静かに言った。「半魂が、自然に生まれるものじゃないとしたら?」
男が眉を寄せる。
「……は?」
「誰かが、意図的に作ってるとしたら」
酒場の主の目が鋭くなる。
「おい、やめろ。与太話なら他所で――」
「与太じゃない」
蒼真は懐から球体を取り出し、カウンターに置いた。石の上に落ちた水滴が、球体の表面で弾かれ、転がった。
男は球体を凝視する。
「……なんだ、それ」
「均衡の塔の記録」
蒼真は言う。「真実が刻まれてる」
「均衡の塔? 伝説の……?」
「伝説じゃない。俺たちは行った」
主は鼻で笑いかけたが、蒼真の目の色を見て、その笑いが途中で止まった。嘘を言っている者の目ではない。命を担保にしている者の目だ。
「……見せろ」
蒼真は球体に指を置いた。
冷たさが、皮膚の奥へ染みる。
球体が、静かに発光した。
眩しさではない。澄んだ光。水面に月が映るような、透明な輝き。空中に薄い膜が生まれ、そこに映像が浮かび上がる。
古代の賢者たち。
儀式の場。
転生者の魂を、切り分ける手。
「欠け」を作り、光の器へ結びつける工程。
――言葉ではなく、光景で見せられる残酷さが、喉を締めた。
「な……」
主が息を呑む。
周囲の客も気づき始める。笑い声が減り、椅子が軋み、ざわめきが波紋のように広がっていく。
「何だ、あれ……」
「魂を……切ってる……?」
映像は続く。
教会の成立。契約の“所有”という概念。均衡を守る名目で、管理と回収が制度化されていく過程。
真実が、酒場の空気を冷やした。
「……嘘だろ」
主が呟く。
言葉が震えている。怒りか、恐怖か、あるいはその両方か。
「半魂が……人為的に……?」
「本当だ」
蒼真は言った。「教会は世界を制御してる。転生者を弱くして、光持ちを犠牲にして」
日向も一歩前へ出た。彼女の声は震えていたが、逃げずに言い切った。
「私たち光持ちは、道具じゃない。祝福でもない。……ただ、利用されてる」
客たちの顔に、次々と表情が生まれていく。
信仰が崩れるときの茫然。
怒り。
疑い。
罪悪感。
「でも、これ……本当に本物か?」
「教会がそんなこと……」
「どうやって確かめる?」
疑問が飛ぶのは、健全だ。
蒼真は頷いた。
「疑え。だからこそ、考えてほしい」
蒼真は球体を軽く押し、映像を止めた。光が薄れ、酒場の灯りが戻る。
代わりに残ったのは、沈黙だった。
「半魂がなぜ生まれるのか」
蒼真は、一人ひとりを見るように言った。
「光持ちがなぜ必要なのか」
「教会がなぜ管理するのか」
沈黙の中、誰かの喉が鳴る音がした。
「答えは――制御だ」
蒼真は言い切った。
「世界の均衡を守るという名目で、俺たちを不完全にしてる」
そのとき、酒場の主が、拳をぎゅっと握った。関節が白くなるほど。
「……俺の息子も、半魂だった」
声が、擦れる。
「十年前に死んだ。光持ちと契約できなかったからな」
蒼真は息を呑んだ。日向も目を見開く。
主は続ける。言葉を吐くたび、胸の奥の何かが削られているようだった。
「教会は言った。『前世の罪だ。罰だ』って。……俺は、信じた」
唇が震え、目に涙が溜まる。
「……息子を、責めた」
主はカウンターを叩いた。鈍い音が酒場に響く。
「でも……違ったのか……? あいつは……悪くなかったのか……?」
蒼真は、強く頷いた。
「悪くない」
声に、迷いはなかった。
「半魂は罰じゃない。誰かが勝手に作ってる――それだけだ」
主は顔を覆い、声にならない嗚咽を漏らした。
周囲の客の中にも、目を伏せる者がいる。
思い当たる人がいるのだ。
見下してきた記憶、笑って済ませてきた言葉、その全部が今、刺さり返している。
蒼真は立ち上がった。背筋を伸ばし、声を通す。
「この真実を、広めてほしい」
酒場の全員へ向けて、言う。
「街の人に伝えてくれ。教会が何をしてきたか。半魂がどうやって作られたか」
日向も続いて立ち上がり、泣き腫らした目で言った。
「私たち光持ちも、自由になりたい。道具じゃなく、人として」
しばらくの沈黙のあと――椅子がきしんだ。
一人の若い男が立ち上がる。冒険者の装い、旅慣れた目。
「……分かった」
男は蒼真を見据えた。「他の街にも行く。広めてやる」
「本当か?」
「ああ」
男は拳を握りしめる。「俺の仲間にも半魂がいた。死んだ。……もし教会が嘘をついてたなら、許せない」
その言葉が、火種になった。
「俺もだ」
「家族に伝える」
「市場で話す」
短い決意が、次々に立ち上がる。
蒼真の胸の奥で、重いものが少しだけ動いた。
これが――最初の芽。
「ありがとう」
蒼真がそう言いかけた、その瞬間だった。
酒場の扉が、軋んで開く。
白い鎧。
教会の騎士。
剣を腰に下げ、視線だけで空気を凍らせる男。
騎士は、蒼真と日向を見た。
その目には、探し当てた獲物を見る冷たさがあった。
「……見つけた」
低い声が、酒場の熱気を一刀で切る。
「賞金首。ソウとヒナ」
ざわめきが爆ぜる。
「賞金首……?」
「あの二人が……?」
騎士の手が剣の柄にかかる。金属が鳴った。
「大人しく来い」
蒼真は日向の手を取る。指先に刻印の温度が蘇る。
逃げる。だが、逃げながらも――もう種は撒いた。
「……行くぞ」
「うん!」
二人が裏口へ走り出したとき、酒場の主が前へ出た。
「待てよ、騎士さん」
かすれていたはずの声が、芯を持っている。
「答えろ。教会は――半魂を、人為的に作ってるのか!」
騎士は答えない。
ただ、主を押しのける。沈黙で、肯定するように。
だがその“沈黙”は、もう武器にならなかった。
酒場の空気が変わった。疑念が、確信へ向かって動き始めている。
蒼真と日向は裏口を飛び出した。
* * *
路地は迷路だった。石壁が音を跳ね返し、足音が増幅する。
背後から、騎士の足音が追ってくる。規則正しく、速い。
「こっち!」
蒼真は角を曲がり、日向が息を切らして続く。
影を伸ばす。足元の黒が蛇のように這い、騎士の足首へ絡みついた。
「――っ!」
騎士がよろけ、転倒する。その瞬間の硬い鎧の音が、路地に響いた。
蒼真は迷わず走る。日向の手を離さない。
市場の喧騒が近づく――人混みへ。
果物の匂い、焼き菓子の甘さ、布の色。人の波が二人を飲み込み、白い鎧の視界を遮る。二人は屋台の陰に身を滑り込ませ、息を殺す。
数拍。
十拍。
「……いない」
蒼真が囁く。騎士の姿は見えない。
日向が息を吐き、肩を落とす。
「……よかった」
二人は市場の隅に座り込み、背中を壁に預けた。身体は疲労で重い。だが胸の奥には、火がある。
「でも」
日向が言った。目はまだ濡れているのに、笑っている。「伝えられたね」
「ああ」
蒼真は頷いた。「最初の一歩だ」
夜が降りる。空に星が一つ、また一つと現れる。
ガルディアの喧騒は続いている。噂も、きっと今夜から巡り出す。
「これから、もっと大変になるね」
日向が蒼真の手を握る。刻印が淡く光り、循環が確かな温度として伝わる。
「ああ」
蒼真は笑った。疲れた笑みではなく、覚悟の笑みだ。
「でも、止まらない。もう戻れないくらい――撒いた」
二人は立ち上がる。市場の灯りが背中を押す。
街から街へ。
人から人へ。
真実という種は、今、土に落ちた。
芽吹くのは明日かもしれない。もっと先かもしれない。
それでも――芽吹く。
蒼真と日向は、夜道へ踏み出した。星明かりだけが道を照らす。
けれど二人は迷わなかった。
意志で選び、意志で結び、意志で進む。
最初の種は蒔かれた。
あとは、育てるだけだ。




