第23話「光は暴走し、影は消えかける」
街道は、乾いた砂利が靴裏に噛む音だけを返していた。冬に近い風が頬を撫で、道脇の草がかすかに波打つ。空は澄み、陽は高い――旅には悪くない日だと、蒼真は一瞬だけ思ってしまった。
その「一瞬」の直後だった。
日向の足が、ふっと止まる。
まるで糸が切れた人形のように、彼女の身体が前へ崩れた。
「――っ!」
蒼真は反射で腕を伸ばし、抱きとめる。軽すぎる。抱きとめた掌に伝わってくる体温が、異様に熱い。
「日向!」
日向は胸を押さえ、唇を強く噛んでいた。呼吸が乱れているのに、息が入っていかない。瞳が泳ぎ、喉の奥からかすれた声が漏れた。
「……痛い……」
指先が震える。いつもの明るさは影も形もなく、ただ苦痛だけが顔面に浮き彫りになっている。
「胸が、熱い……燃えてるみたいに……」
蒼真は彼女の襟元を覗き込んで、息を呑んだ。
刻印が――光っている。
いや、光っているなんて生易しいものじゃない。金色の紋様が、呼吸のたびに膨れ上がるように脈動し、皮膚の下で“何か”が暴れている。太陽の輪郭が揺らぎ、光が溢れ、抑えきれずに滲み出していた。
暴走。
その言葉が喉に引っかかり、冷たい汗が背筋を伝った。
「日向、落ち着いて。俺を見るんだ」
蒼真は彼女の肩を掴み、視線を合わせようとする。
「深呼吸。ゆっくり、吸って――」
「で、できない……」
日向の声は震え、涙が滲む。
「息が……苦しい……」
その瞬間、彼女の肌の隙間から、金色の光が漏れた。
灯りではない。温度を伴う光だ。薄い霧のように滲み、粒子のように舞い、周囲の空気そのものを白く染めていく。木々の葉が眩しさに輪郭を失い、影が薄くなる。地面の砂利が、焼けた金属のように乾いた匂いを立てた。
「日向!」
蒼真は彼女を強く抱きしめた。胸を合わせ、体温を押し返すように。
「抑えるんだ、光を! 頼む、戻ってこい!」
「抑えられない……っ!」
日向が叫ぶ。悲鳴に近い。
光がさらに膨れ上がった。陽そのものが彼女の内側に押し込められていたのかと錯覚するほど、眩しい。視界が白に侵食され、蒼真の網膜が痛む。
「くそっ……!」
蒼真は歯を食いしばり、自分の影を呼んだ。
いつものように、黒い刃を。盾を。束ねた闇を。日向の暴走を押さえ込むために――。
しかし。
何も、応えない。
「……え?」
蒼真は自分の手を見下ろした。
影が――薄い。
掌にまとわりつくはずの濃い黒が、霧のように透けている。足元へ視線を落とす。日差しがある。なのに、影がほとんど落ちていない。輪郭のない灰色が、かろうじて地面に貼りついているだけだ。
「影が……ない……?」
言葉にした瞬間、胸の奥がひやりとした。
嫌な予感が、確信へ変わる速度が速すぎた。
蒼真は自分の胸元へ手を伸ばす。服越しに刻印の位置を確かめ、布を掴んで開く。
刻印も――薄くなっていた。
金色の太陽はまだ灯っている。だがその周縁を縁取るはずの黒い影の部分が、削り取られたみたいに消えかけている。まるで、存在そのものが薄れていくように。
「まさか……」
血の気が引く。
影が消える。自分の力が消える。
それはつまり――。
息が、苦しくなった。
「――っ」
胸を押さえる。心臓が弱くなる感覚が、肌の内側から伝わってくる。鼓動と鼓動の間が伸びる。呼吸は浅く、冷たく、肺が空気を拒む。
あの感覚。
“生きているのに、生命が続かない”――始まりの悪夢。
「やばい……」
膝が折れ、蒼真は砂利に片手をついた。視界が狭まり、音が遠のく。
影が消えれば、半魂は生きられない。
知っていたはずの理屈が、今は刃のように刺さる。
――契約は繋ぎ直した。
所有から、意志へ。
あの場で、確かに選び直した。
なのに、どうして。
「蒼真……?」
日向が苦しみながら、蒼真の顔を覗き込む。彼女の瞳は涙で滲み、金色の光が溢れそうに揺れている。
「どうしたの……蒼真……」
「お前こそ……っ」
蒼真は日向を見る。彼女の光は止まらない。噴き出すように溢れ続け、周囲を焼く。
そして、自分の影は消えかけている。
二人とも、同時に。
「――そうか」
蒼真は、喉の奥から絞り出すように呟いた。
「契約の……反動だ」
日向が息を呑む。
「反動……?」
「俺たち、契約を変えた」
蒼真は胸を押さえながら、刻印を睨むように見た。「所有から、意志へ。つまり……仕組みそのものを変えたってことだ」
日向の瞳が揺れる。理解しかけて、恐怖が追い越す。
「仕組み……」
「ああ」
蒼真は短く頷く。「今までの術式は、教会の論理で動いてた。光持ちが半魂を“所有”して、光を一方通行で流す……それが安定の形だった」
唇を噛む。呼吸が浅い。だが、続けなければ。
「それを俺たちが壊した。だから――」
日向が、震える声で繋いだ。
「バランスが……崩れてる……」
「そういうことだ」
光は制御不能。影は消失寸前。
新しい仕組みは、まだ“身体”に馴染んでいない。意志で結び直した契約は、ただの理念ではなく、血肉の上に載る現実だ。
「どうすれば……」
日向の声が掠れる。「このまま暴走したら……私……」
「分からない」
蒼真は正直に言った。嘘で安心させる余裕がない。
ただ、絶望で終わらせるわけにもいかなかった。
蒼真は日向の手を取った。熱い。焼けるほどに。
だが、その温度こそが鍵だと直感が囁く。
「一つ、試したい」
日向が蒼真を見る。痛みに濡れた瞳が、わずかに問いを宿す。
「……何?」
「循環だ」
蒼真は言う。
「光と影の循環。お前の光が暴走してるなら――俺が受け止める。俺の影が薄いなら――お前に渡す。互いに流し合って、回す」
日向が息を呑む。
「でも、どうやって……」
「契約を使う」
蒼真は刻印に意識を向けた。「今の契約は“意志”だ。なら、意志で動かす」
蒼真は日向の両手を包み込み、目を閉じる。
「日向。光を――俺に送れ。意志しろ」
日向は震えながらも頷いた。歯を食いしばり、まぶたを閉じる。
「……分かった。光を……蒼真に」
次の瞬間、溢れていた金色が、向きを変えた。
蒼真へ。
川が流れを変えるように、光が吸い寄せられる。
「――っ!!」
体内に熱が流れ込む。焼ける。皮膚の内側を刃でなぞられるような痛み。喉の奥が乾き、視界が眩しさで白く滲む。
だが。
心臓が、動き始めた。
ドクン。
ドクン。
弱かった鼓動が、確かな拍動へ戻っていく。肺が空気を受け入れ、呼吸が深くなる。世界が戻る。
足元に、黒が生まれた。
影が戻ってくる。濃い黒。確かな輪郭。
手に、闇が絡みつく感覚が蘇る。
「……戻った……」
蒼真は呟き、安堵の息を吐く。
「蒼真……」
日向が囁いた。彼女の身体から溢れていた光が、いったん収まっている。刻印の中に、火が落ち着いたように灯っている。
「光が……少し、楽になった……」
「よかった……」
蒼真がそう言いかけた、そのとき。
「待って……」
日向が胸を押さえ、顔色を失った。
「今度は……私が……苦しい」
蒼真の背筋が凍る。
「え?」
「息が……浅い……心臓が……弱い……」
蒼真は、すぐ理解した。
光を蒼真に流した分、日向の内側に“支え”が足りない。影が不足している。
「くそ……!」
蒼真は日向の手を握り返した。
「今度は俺だ。影を――日向に」
目を閉じ、意志する。
影を送る。渡す。支える。
影が動いた。自分の内側から、日向へ。
流れ込むと同時に、日向の頬に血色が戻り、呼吸が少し深くなる。
「……楽に、なった……」
日向が息を吐く。
しかし――今度は蒼真が息を詰まらせた。
「――っ……!」
心臓がまた弱くなる。影を送りすぎた。
身体の芯が空洞になり、足元がふらつく。
「蒼真!」
日向が慌てて身を寄せる。「また光を――」
「待て……!」
蒼真は手を上げて制した。息を整えようとしても、空気が冷たい。
「これじゃ……キリがない。光を送ればお前が苦しくなる。影を送れば俺が苦しくなる……」
日向の唇が震えた。
「じゃあ……どうすれば……」
蒼真は、ひとつ深く息を吸い込んだ。
痛い。苦しい。だが、言葉ははっきりしていた。
「同時に流す」
蒼真は日向の両手をしっかり握り、額を寄せるほど近づいた。
「お前は光を俺へ。俺は影をお前へ。――同時に。循環にする」
日向の瞳が、理解で揺れる。
「循環……」
「ああ」
蒼真は頷く。「教会の術式は一方通行だった。光持ちから半魂へ。でも俺たちは違う。双方向だ」
日向は小さく息を吐き、決意のように頷いた。
「……やってみる」
二人は目を閉じた。
手を繋いだまま、意志を重ねる。
光を送る。
影を送る。
同時に。
最初は、乱れた。
光が強すぎて蒼真の内側が焼け、影が薄すぎて日向の呼吸が詰まる。流れはぶつかり、せき止められ、跳ね返った。
「……ゆっくりだ」
蒼真が掠れた声で言う。「焦るな。押すな。流れに……任せろ」
「うん……」
日向も息を整え、肩の力を抜く。「怖いけど……やる……」
意志を強くするのではない。
ほどく。通す。
互いの内側に、道を作る。
すると、少しずつ――整っていった。
金色は蒼真へ、黒は日向へ。
互いに奪い合うのではなく、渡し合う。
呼吸のリズムに合わせて、潮の満ち引きのように。
刻印が光った。
二人の刻印が、同時に。
金色の太陽と、黒い影が――ひとつの輪の中で脈動している。
行き来する。巡る。戻る。
止まらない、穏やかな循環。
「……これだ」
蒼真が呟く。
胸の痛みが、薄く遠のいていく。心臓は確かに打ち、肺は空気を受け入れている。
「これが……意志の契約……」
日向の頬を涙が伝った。
痛みの涙ではない。温度の涙だ。
「……温かい……」
光と影が流れている。互いを満たしている。
一方的じゃない。所有じゃない。
与え合い、受け取り合い、巡り続ける。
しばらくして、二人はゆっくり目を開けた。
暴走は止まっていた。
影の消失も止まっていた。
刻印は静かに灯り、金色と黒が調和している。街道の砂利も、木々の葉も、ようやく本来の色を取り戻していく。
「……成功、したな」
蒼真が息を吐くと、日向も小さく笑った。
「うん……」
だが、二人とも限界に近かった。全身が鉛のように重い。立っているだけで視界が揺れる。
「……座ろう」
蒼真の言葉に、日向は頷いた。二人は街道の脇、木の根元へ滑り込むように座り込む。背中を幹に預けると、冷たさがじわりと広がった。
しばらく、何も言えなかった。
ただ、呼吸を整える。
互いの鼓動が、耳の近くで重なり、ズレながらも寄り添っている。
「……痛みを、伴うんだね」
日向がぽつりと呟く。声は弱いが、どこか穏やかだった。
「完全になる過程って」
「ああ」
蒼真は頷き、空を見上げた。雲がゆっくり流れている。生きている世界の速度だ。
「俺たちは……システムを変えた。だから体が、まだ追いついてない。……でも」
日向を見る。彼女の瞳は赤いのに、確かな光が戻っている。
「慣れる。循環を体が覚えれば、今日みたいな崩れ方は減るはずだ」
日向は少し考えて、微笑んだ。
「……今日が、初めてだもんね」
「ああ」
蒼真も、かすかに笑う。「初めてにしては……上出来だ」
二人の間に、沈黙が落ちる。
けれど今度の沈黙は、恐怖で凍るものではなかった。
風が葉を揺らし、鳥が鳴き、街道を遠くで馬車が軋ませる――世界が続いている。
二人も、続いている。
「……蒼真」
日向が小さく言った。
「ん?」
「後悔、してない?」
恐る恐る覗くような声。「意志の契約、選んだこと」
蒼真は迷わず答えた。
「してない」
即答だった。痛みが残っているのに、答えだけは揺れない。
「お前は?」
「私も」
日向は笑う。弱い笑みなのに、まぶしかった。「痛かったけど……選んで良かった」
蒼真は日向の手を取り、握り返した。
掌の中で、刻印の温度が静かに脈打つ。
暴走でも消失でもない、ただ循環する熱。
「……もう少し休んだら、街へ行こう」
蒼真が言う。
日向は頷いた。
「うん」
選択には痛みが伴う。
けれど、その痛みは――“生きている証”でもある。
蒼真は目を閉じた。
日向の鼓動が聞こえる。自分の鼓動が重なる。
循環している。巡り、戻る。止まらない。
それが、新しい契約の形。
所有ではなく、意志の絆。
二人はその道を、選んだ。




