第21話「死にかけの呼吸、名前を呼ぶ」
それは、一瞬のことだった。
ヴィクトールが退く直前に。
彼は、最後の術を放った。
「これで、終わりだ」
ヴィクトールの声が、氷のように冷たい。
ゴゴゴゴッ。
杖が、黒く光り始めた。
今までとは、違う光。
闇のような、黒。
空気が震える。地面が軋む。
不吉な予感が、ソウの背筋を駆け上がった。
「光の抽出では、足りなかった」
ヴィクトールの目が、冷たく輝く。
「ならば――契約そのものを、断ち切る」
ソウの胸が、ギュッと凍りついた。
「契約を」
声が、出ない。
「そうだ」
ヴィクトールは、杖を振り下ろした。
ブォンッ!
黒い光が、二人を貫いた。
いや、正確には――二人の間を。
ソウの視界に、金色の糸が浮かび上がる。
自分とヒナを繋ぐ、細く美しい糸。
契約の、紐。
命の、繋がり。
それを――黒い光が、切断した。
パチンッ!
乾いた音が、空気を切った。
何かが、切れる音。
糸が、ほつれて散る音。
その瞬間に。
世界が、止まった。
ソウの体から、すべてが抜けていった。
温度――スゥゥッと冷たさが体を這い上がる。
音――ゴォォと鳴っていた風が、遠ざかる。
色――緑も青も金色も、すべてが褪せていく。
感覚――肌に触れる空気さえ、感じなくなる。
すべてが、消えていく。
まるで水が引くように。
心臓が、止まった。
ド、クン――。
最後の一度が、空しく響いた。
それきり、止まった。
完全に、止まった。
ドクドクと続いていた鼓動が、ない。
いつも耳の奥で聞こえていたヒナの鼓動も、消えた。
繋がりが、切れた。
呼吸ができない。
ハッ、ハッ、と口を開けても、肺が動かない。
空気が、入ってこない。
喉が締まる。苦しい。
視界が、白くなっていく。
暗闇ではない。
白。
真っ白な、何もない世界。
まるで濃い霧の中に落ちていくような、静かな白。
ああ。
これが、死か。
そう思った。
契約が切れた。
だから、死ぬ。
半魂は、一人では生きられない。
ヒナの光がなければ、存在できない。
体が、冷たい。
いや――冷たいという感覚すら、もうない。
何も、感じない。
指先の感覚が消える。足の感覚が消える。
自分の体が、どこにあるのかも、わからなくなる。
ただ、白い世界に、沈んでいく。
深く、深く。
底のない、白へ。
まるで雪の中に埋もれていくような、静けさ。
ヒナ。
名前を、呼ぼうとした。
けれど、声が出ない。
喉が動かない。唇が動かない。
口の形さえ、作れない。
ただ、心の中で。
ごめん。
謝った。
守ると、言ったのに。
一緒に生きると、言ったのに。
俺、先に逝く。
白が、さらに濃くなる。
まるで霧が濃くなるように、視界が真っ白になる。
意識が、薄れていく。
自分が、誰だったかも、忘れそうになる。
名前も、過去も、すべてが遠い。
そのとき。
声が、聞こえた。
「蒼真!」
遠い、遠い声。
白い世界の向こうから、かすかに届く声。
けれど、確かに聞こえた。
「蒼真、戻って!」
その声に、何かが引っかかった。
白い世界の中で、唯一の色を持つ声。
蒼真。
それは、自分の、名前。
本当の、名前。
ソウ、じゃない。
蒼真。
そうだ。
そう呼ばれていた。
誰に?
ヒナに。
いや、違う。
日向に。
彼女は、日向。
自分は、蒼真。
本当の名前で、呼び合っていた。
そうだった。
「蒼真!」
声が、また聞こえた。
今度は、もっと近い。
まるで耳元で叫ばれているような、鮮明さ。
「お願い、戻ってきて!」
その声が、錨になった。
白い世界の中で、唯一の色。
金色の、声。
温かな、声。
それが、自分を引っ張る。
沈んでいく自分を、必死に引き上げようとしている。
日向。
心の中で、呼んだ。
待ってろ。
体が、まだ動かない。
心臓も、止まったまま。
指一本、動かせない。
けれど、意識だけは、ある。
日向の声を、聞いている。
それが、まだ自分を繋ぎ止めている。
細い糸のように、自分を掴んでいる。
「蒼真、聞こえてる!?」
日向の声が、必死だ。
泣いている。
叫んでいる。
声が震えている。
「死なないで、お願い!」
その声が、痛い。
心臓が止まっているのに、胸が痛い。
彼女を、泣かせている。
彼女を、苦しませている。
ダメだ。
このまま、死ねない。
日向を、置いていけない。
ソウ――いや、蒼真は、意識を集中させた。
自分の体を、探す。
心臓は、どこだ。
肺は、どこだ。
手は、足は、どこにある。
すべてが、遠い。
白い世界に、埋もれている。
感覚が、ない。
けれど、探す。
必死に、探す。
日向の声を頼りに、自分の存在を手繰り寄せる。
そして、見つけた。
自分の胸。
そこに、何かがある。
刻印。
金色の紋様。
それが、まだ、光っている。
微かに、けれど確かに。
まるで最後の残り火のように、消えかけながらも灯っている。
契約は、切れていない。
いや、切られた。
ヴィクトールの術で、確かに切断された。
けれど、糸の端が、残っている。
切れた糸の、自分側の端。
それが、まだ、ある。
胸の刻印から、細く伸びている。
ならば。
蒼真は、手を伸ばした。
白い世界の中で。
自分の胸の、刻印へ。
糸の端を、掴む。
ピタリ。
指が、触れた。
冷たい。
けれど、確かにある。
細くて、繊細で、今にも消えそうな糸。
これが、契約の紐。
自分と日向を、繋いでいた紐。
切られた、紐。
けれど、もう一方の端は、日向にある。
彼女も、持っているはずだ。
ならば。
掴み直す。
蒼真は、糸を握りしめた。
ギュッと、力を込める。
離すものか。
絶対に、離すものか。
そして、引いた。
日向の方へ。
力いっぱい、引いた。
糸が、伸びる。
シュルルル、と音を立てて。
白い世界を、貫いて。
日向の方へ、届く。
そして。
「蒼真!」
日向の声が、すぐそばで聞こえた。
まるで目の前にいるような、鮮明な声。
「見えた、紐が見えた!」
彼女も、気づいた。
切れた紐の、端を。
伸びてきた、糸を。
「待ってて、今」
日向の声が、震える。
泣いているのが、わかる。
「今、繋ぐから!」
蒼真は、糸を握り続けた。
離さない。
絶対に、離さない。
そして、感じた。
もう一方の端が、動いている。
日向が、掴んでいる。
彼女も、必死に握っている。
温かな感触が、糸を伝って届く。
二つの端が、近づいていく。
蒼真が引き、日向が引き。
互いに、引き寄せ合う。
距離が、縮まる。
白い世界の中で、金色の糸が光り始める。
そして、触れた。
二つの端が、触れた瞬間に。
パァッ!
光が、溢れた。
金色の、眩い光。
まるで太陽が昇るような、温かな光。
それが、糸を包む。
切れた糸が、繋がった。
いや、繋がっただけじゃない。
より強く、太く、結ばれた。
自分たちの意思で。
能動的に。
選んで。
誰かに作られたのではなく、自分たちで繋いだ。
その瞬間に。
心臓が、動いた。
ドクンッ!
一度だけ、強く打った。
胸に衝撃が走る。
そして、また、打つ。
ドクン、ドクン、ドクンッ!
鼓動が、戻った。
自分の鼓動と、日向の鼓動。
二つが、重なっている。
シンクロしている。
同じリズムで、鳴り響いている。
呼吸が、できる。
スゥゥッ、と肺が、動く。
空気が、入ってくる。
冷たくて、新鮮な空気。
視界が、色を取り戻す。
白い世界が、サァァッと消えていく。
まるで霧が晴れるように。
代わりに、青い空。
緑の木々。
風に揺れる葉の音。
そして、日向の顔。
「蒼真!」
彼女が、泣きながら笑っている。
涙が、ポロポロと頬を伝っている。
けれど、笑顔だ。
くしゃくしゃの、嬉しそうな笑顔。
「戻ってきた!」
蒼真は、ゆっくりと息を吐いた。
「ただいま」
声が、掠れている。
喉が痛い。
けれど、出た。
言葉が、出た。
日向は、蒼真に抱きついた。
ガシッ!
力いっぱい、抱きついた。
「おかえり、おかえり、蒼真!」
その温度が、温かい。
生きている、温度。
柔らかくて、温かくて、確かな温度。
蒼真は、日向を抱きしめた。
両腕で、しっかりと。
「ごめん」
小さく、謝った。
「心配かけた」
「もう、やだよ」
日向の声が、震えている。
涙で濡れた声。
「蒼真がいなくなるの、もう見たくない」
蒼真は、彼女の頭を撫でた。
柔らかな髪が、指に触れる。
「大丈夫」
声が、少しずつ力を取り戻す。
喉の痛みが、和らいでいく。
「もう、離れない」
彼は、自分の胸を見た。
刻印が、変わっていた。
金色の紋様。
その中心に、小さな太陽。
けれど今、太陽の周りに、黒い影が絡みついている。
まるで、抱きしめるように。
守るように。
優しく、包み込むように。
「契約を、自分で、繋ぎ直した」
蒼真は、呟いた。
日向も、自分の刻印を見た。
ハッと息を呑む。
同じだ。
金色の太陽を、黒い影が抱いている。
美しい紋様。
「これ」
日向が、刻印に触れる。
指先が、紋様をなぞる。
「私たちが、自分で選んだ」
「ああ」
蒼真は、頷いた。
「ヴィクトールに切られた」
彼は、拳を握る。
力が戻ってきている。
「でも、俺たちが、繋ぎ直した」
日向は、涙を拭った。
手の甲で、ゴシゴシと。
「うん」
彼女は、笑った。
涙の跡が残る顔で、明るく笑った。
「もう、誰にも切れない」
蒼真は、日向の手を取った。
ギュッと、握る。
「ああ」
二人の刻印が、同時に光る。
ポゥッと、淡く。
金色と黒が、調和している。
対立ではなく、補完。
それが、新しい契約の、形。
自分たちで選び、自分たちで繋いだ。
絆の、証。
* * *
ヴィクトールは、その光景を見ていた。
杖を握ったまま、立ち尽くしている。
その目が、見開かれている。
「馬鹿な」
彼の声が、震えている。
初めて、冷静さを失った声。
「契約を、自力で繋ぎ直した?」
そんなことは、あり得ない。
契約は、教会の術式で作られる。
個人が、勝手に作れるものではない。
ましてや、切れた契約を、繋ぎ直すなど。
前例が、ない。
一度たりとも、ない。
「お前たちは」
ヴィクトールは、二人を見た。
信じられないものを見る目で。
「一体、何者だ」
蒼真は、立ち上がった。
ゆっくりと、体を起こす。
日向も、隣に立つ。
二人の手は、繋がったまま。
離さない。
「俺たちは」
蒼真は、前を向いた。
ヴィクトールを、まっすぐに見る。
「ただの、二人組だ」
足元から、影が広がる。
シュゥゥッと、波紋のように。
日向の光が、それに触れる。
キラキラと、影が結晶化する。
「光と影の、二人組」
日向も、頷いた。
「誰にも、離せない」
彼女の光が、強くなる。
ポゥッと、体が光る。
「自分たちで、選んだから」
ヴィクトールは、後ずさった。
ザッ、ザッ、と足が後退する。
恐怖が、その目に浮かんでいる。
初めて見る、表情。
教会の司教が、怯えている。
「退く」
彼は、杖を握りしめた。
手が、震えている。
「だが、教会は」
「来ればいい」
蒼真は、遮った。
声が、力強い。
「何度でも、繋ぎ直す」
彼は、日向の手を握った。
強く、握る。
「俺たちの絆を、誰にも壊させない」
ヴィクトールは、何も言えなくなった。
唇が、わずかに震えている。
そして、姿を消した。
シュゥッ、と煙のように。
残った騎士たちも、続く。
バタバタと、慌てて後退していく。
森に、静寂が戻った。
風が、葉を揺らす音だけが響く。
* * *
蒼真と日向は、その場に座り込んだ。
ドサッ、と力が抜ける。
全身が、疲れ切っている。
筋肉が震える。呼吸が荒い。
けれど、生きている。
二人とも、生きている。
「怖かった」
日向が、呟いた。
まだ声が震えている。
「蒼真が、白くなって」
彼女の声が、さらに震える。
「心臓が止まって」
涙が、また溢れる。
ポロポロと、止まらない。
「もう、戻ってこないかと思った」
蒼真は、日向を抱きしめた。
ギュッと、強く。
「俺も、怖かった」
彼は、正直に言った。
素直に、認めた。
「死ぬのが、怖かった」
拳を、握る。
まだ手が、わずかに震えている。
「でも、それより」
日向を、見る。
その目を、見つめる。
「お前を置いていくのが、怖かった」
日向は、蒼真の胸に顔を埋めた。
服を、ギュッと握りしめる。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
「お前が、呼んでくれたから」
蒼真は、彼女の頭を撫でた。
優しく、何度も。
「蒼真、って」
日向は、顔を上げた。
涙に濡れた目で、蒼真を見る。
「本当の名前で、呼んだ」
「うん」
蒼真は、笑った。
穏やかに、優しく。
「あれが、錨になった」
彼は、日向の頬に触れた。
親指で、涙を拭う。
「お前の声が、俺を引き戻した」
日向は、残りの涙を拭った。
手の甲で、ゴシゴシと。
「じゃあ、これからも」
彼女は、少し照れたように笑った。
頬が、ほんのり赤い。
「本当の名前で、呼ぶ」
「ああ」
蒼真は、頷いた。
「日向」
その名前を、口にする。
温かな響きの、名前。
「俺も、お前を、日向って、呼ぶ」
日向は、嬉しそうに笑った。
涙の跡が残る顔で、明るく笑った。
「うん」
二人は、また抱き合った。
しっかりと、抱き合った。
刻印が、淡く光っている。
ポゥッ、ポゥッ、と脈打つように。
金色と黒が、絡み合っている。
自分たちで繋いだ、絆。
誰にも壊せない、絆。
蒼真は、空を見上げた。
青い空。
白い雲が、ゆっくりと流れていく。
生きている、世界。
色も、音も、温度も、すべてが鮮やかな世界。
死の淵から、戻ってきた。
日向の声に、導かれて。
契約の紐を、自分で掴んで。
それが、今の自分たちの、強さ。
「行こう」
蒼真が、言った。
「街へ」
日向は、頷いた。
まだ涙の跡が残る顔で、笑顔を見せた。
「うん」
二人は、立ち上がった。
ゆっくりと、体を起こす。
手を繋いで。
ギュッと、しっかりと。
本当の名前で、呼び合って。
自分たちで選んだ、絆を胸に。
死にかけた呼吸を、取り戻して。
名前を呼び合う、二人として。
彼らは、歩き続けた。
ザッ、ザッ、と草を踏む音。
世界を変えるために。
真実を広めるために。
そして、互いと生きるために。
その決意が、何より強かった。
胸の刻印が、歩くたびに淡く光る。
蒼真と日向。
光と影の、二人組。
誰にも離せない、絆で結ばれた。
新しい時代の、象徴として。




