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僕はひなたで生きていく  作者: とま


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第2話「触れなければ、息ができない」

 村は、思っていたより近かった。けれど、その「近さ」が逆に、現実感を削ぎ落としていく。


 森の出口から丘を下ると、視界が開けた。石畳の道が、まるで白い川のように蛇行しながら村へと伸びている。両脇には風化した木の柵――苔むした支柱が、何十年もこの場所で立ち続けてきたことを物語る。そこから先に広がる家並み。白い漆喰と、黒ずんだ木の梁。屋根は褪せた茶色で、窓は驚くほど小さく、まるで家が呼吸を控えているようだ。煙突から立ち上る煙は、午後の光を受けて琥珀色に染まり、風に揺れながら空へ溶けていく。


 どこかの農村だ。けれど、日本ではない。

 ヨーロッパの田舎にも似ている。けれど、それとも違う。建物の配置、色彩、漂う空気の匂い――焼けた藁と、湿った土と、何か甘い香辛料のような、名前のつけられない匂い。すべてが、どこか"ずれている"。現実と記憶の隙間に落ち込んだような、浮遊感が胸の奥に溜まる。


「もうすぐ着くよ」


 日向の声が、風に混じって届く。手は、まだ握られたままだ。

 歩いている間、一度も離していない。彼女も、こちらも。繋がれた掌が汗ばんでいるが、それでも離せない。離したくない。離したら――。


 その温度がなければ、自分はもう倒れている。

 それは確信だった。理屈ではない、身体の奥底からせり上がってくる、生存本能に根差した確信。試す気にもならない。試せば死ぬと、全細胞が叫んでいる。動かしようのない事実が、この小さな掌の中に収まっている。


「……どんな、村なんだ」


「小さいよ。人もそんなに多くない」

 日向は道を見つめたまま答えた。「畑と森がほとんど。時々旅人が通る。でも――」


 彼女の声が、わずかに沈む。言葉の続きを探すように、視線が遠くへ泳いだ。


「でも?」


「あなたみたいな人が、時々、森に落ちてくる」


 落ちてくる。

 その表現が、妙に生々しくて、胸の奥に刺さった。落ちてくる。まるで、空から、ゴミのように、意図せず、何かの間違いで――この世界に"落とされた"のだと言われたような。


「俺みたいな、って……」


「記憶はあるけど、体がついてこない人。知ってる言葉を話すのに、ここの常識は知らない人」


 日向は視線を逸らさず、淡々と言った。まるで、何度も目にしてきた光景を語るように。


「転生者、って呼ばれてる」


 背筋に、冷たい水を流し込まれたような感覚が走る。

 その単語が、口にされた瞬間、否定の余地がなくなった。言葉が輪郭を持ち、現実として目の前に立ち上がる。


 転生。

 つまり――死んだ。そして、別の世界に生まれ変わった。


 いや、"生まれ変わった"という言い方も違う。記憶はそのままで、肉体だけが変わった。魂が移植されたのか。それとも、この身体は本当に"自分"なのか。元の自分は消えて、これはただのコピーなのか――。


「……俺、本当に……」


「うん。たぶん、そう」


 日向は頷き、手の中で指を組み直した。握る力が、少しだけ強くなる。その変化が、まるで生命線を太くされたように感じられて、息が少しだけ楽になった。


「でも、司祭さまに会えば分かる。きっと、何か分かる」


 その言葉に確信はなかった。ただ、希望を繋ごうとしているだけだ。

 けれど、それでも日向の声は温かい。風に揺れる炎のように、不安定だけれど、消えない温度を持っている。


 石畳を踏む音が、規則的に響く。足音が、村の静けさの中に吸い込まれていく。

 村に入ると、数人の住人が振り返った。皺の刻まれた顔。日焼けした腕。畑仕事の手を止めて、じっとこちらを見る目。


「日向、おかえり」


 畑仕事をしていた初老の男性が声をかける。しかし、すぐにこちらを見て目を丸くした。その視線は、驚きと、何か複雑な感情が混じっている。


「……その子は?」


「森にいた。今、司祭さまのところへ行くところ」


 日向は簡潔に答え、足を止めない。その歩調には迷いがなく、何度も通った道を行くような確かさがある。

 男性は何か言いかけて、けれど口を閉じた。その視線の中に、同情と諦めが混じっているように見えた。まるで、もう結末を知っている人間が、悲劇の始まりを見つめるような目だ。


 村の中心へ向かう。

 道は緩やかに下り、家々の間を縫うように続く。すれ違う人々の視線が、短く刺さっては離れていく。やがて広場のような場所に出た。中央に井戸があり、その周囲に敷かれた石が磨かれて滑らかになっている。その向こうに一際大きな建物が見える。十字架はない。けれど、窓は天井近くまで高く、入り口には風化した石の彫刻が施されている。聖なるものの気配が、空気に滲んでいた。


「あそこ」


 日向が示した先は、その建物だった。

 聖堂――そう呼ぶべきだろう。ここにも宗教があるのだと、ようやく理解が追いつく。この世界にも、祈りがあり、神があり、救いを求める場所がある。


 日向は迷わず扉を押し開けた。

 内部は薄暗い。外の光が遮られ、ひんやりとした空気が肌を撫でる。窓から差し込む光が、埃の粒子を照らしながら床に細長い影を落としている。その影が、まるで牢の格子のように見えた。祭壇のようなものが奥にあり、その前に一人の老人が立っていた。


 背は低く、白いローブを纏っている。杖を手にしているが、それは飾りではなく、長い年月を共にしてきた道具だ。その目は鋭く、こちらを射抜いた。見られているのではない。見透かされている。


「……日向か」


 低い声。威圧ではない。けれど、何かを見通すような、重い響きが胸に沈む。


「司祭さま。この人を、お願いします」


 日向は礼儀正しく一礼した。その動作が自然で、何度も繰り返してきたことが分かる。慣れているのだ。こうして、誰かを連れてくることに。


 老人――司祭は、ゆっくりこちらへ歩み寄った。杖の先が床を叩く音が、静寂の中で異様に大きく響く。

 視線が、蒼真の顔を捉え、握られた手を見て、全身をゆっくりと舐めるように見る。その目は診断していた。病を、欠損を、死の予兆を。


「……また、か」


 司祭は小さく呟いた。疲れたような、それでも驚きのない声。その一言が、自分がこの場所で何度も繰り返されてきた"異常"の一つに過ぎないことを告げていた。


「名は」


「蒼真、です」


 答えると、司祭は目を細めた。その瞳が、名前の響きを噛み締めるように動く。


「ソウマ、か。向こうの名だな」


「向こう、って……」


「お前が来た世界だ」

 司祭はあっさりと告げた。まるで、隣町の話をするように。「転生者だろう、お前は」


 もう、否定はできなかった。

 この老人の前では、嘘は意味を持たない。


「……はい」


 言葉が、喉から絞り出される。声が震えている。

 自分で口にして、初めて本当になった気がした。それは認めることであり、諦めることでもあった。


 死んだ。そして、ここに来た。


 司祭は杖を床に突き、深く息を吐いた。その吐息には、長年の疲労が滲んでいる。


「座れ。話が長くなる」


 彼は祭壇の脇にある長椅子を指差した。日向が支えるようにして、そこまで歩く。足が重い。まるで水の中を歩いているようだ。腰を下ろすと、足の震えがようやく収まった。けれど、心臓の鼓動は速いままだ。


 日向の手は、まだ握られている。離さない。離せない。


 司祭は二人の前に立ち、眉をひそめた。その顔には、憐憫と、諦観が浮かんでいる。


「お前、"欠けて"いるな」


 その言葉が、空気を裂いた。


「……え?」


「魂が、完全じゃない」


 司祭の言葉に、胸の奥が一気に冷える。氷を飲み込んだような、内側から凍りつく感覚。


「転生者の中でも、稀にいる。こちらへ来る際に、魂の一部が損なわれた者だ」

 彼は杖で床を一度叩いた。その音が、まるで判決を告げる槌のように響く。「そのせいで、肉体が生命を維持できない。呼吸も、血流も、すべてが不安定になる」


「じゃあ、俺は……」


「このままでは生きられん」


 断言された。

 その言葉が、刃のように胸の奥へ突き刺さる。呼吸が止まる。心臓が跳ねる。


「……どうすれば」


 声が震える。懇願するような、すがるような声が、自分の口から出た。


「日向がいるだろう」


 司祭は、握られた二人の手を見た。その視線は冷静で、感傷を含まない。


「彼女の魂が、お前の欠けた部分を補っている。だから、今は生きていられる」


 視界が揺れた。

 理解はしていた。分かっていた。けれど、明確に言葉にされると、現実が一気に重さを増す。漠然とした恐怖が、輪郭を持った事実へと変わる。


「つまり――」


「日向から離れれば、お前は死ぬ」


 冷たい宣告だった。

 容赦がない。けれど、それは真実だった。逃げ場のない、揺るがない真実。この小さな手を離した瞬間、自分の命は終わる。


 隣を見ると、日向はじっと俯いていた。

 その横顔に、痛みが滲んでいる。けれど、驚きはない。彼女は知っていたのだ。最初から、分かっていた。それでも手を握ってくれた。


「……なんで」


 声が震える。喉の奥が痛い。


「なんで、こんなことに」


「それは、分からん」

 司祭は首を振った。その動作には、諦めと、長年の疲労が滲んでいる。「転生の理由も、欠損の原因も、神のみぞ知る。我々にできるのは、与えられた条件で生きることだけだ」


「そんな……」


 拳を握りしめる。けれど、握っているのは日向の手だ。

 力を込めすぎないように、必死に抑える。怒りと、絶望と、申し訳なさが混ざり合って、どうにもならない。


 日向が、小さく声を出した。


「司祭さま……治す方法は、ないんですか」


 その声は震えていない。けれど、必死さが滲んでいる。


「ない」


 即答だった。その一言に、一切の希望が断たれる。


「魂の欠損は、補うことしかできん。そして今、それができるのは日向、お前だけだ」


 日向が息を呑む。

 その肩が、わずかに震えた。それは恐怖ではなく、覚悟を固めようとする震えだった。


 司祭は、二人を見下ろし、静かに続けた。その声には重みがある。


「お前たち二人は、今日から繋がった。蒼真は日向なしでは生きられない。日向は――」


 彼は、少しだけ言葉を濁した。その沈黙が、何よりも重い。


「――お前も、代償を払うことになるだろう」


「代償?」


 日向が顔を上げる。その目に、不安が走る。


「魂を分け与えるということは、そういうことだ。お前自身の力が削られる。疲れやすくなる。感覚が鈍る。場合によっては、寿命も――」


 その言葉が、まるで呪いのように空気に溶ける。


「それは……」


 蒼真は思わず立ち上がりかけた。けれど、足に力が入らず、すぐに座り直す。体が言うことを聞かない。


「冗談じゃない。日向に何かあったら――」


「私は大丈夫」


 日向が遮った。

 その声は、さっきより強い。強すぎる。無理をしている強さだ。


「私は、大丈夫だから」


「でも――」


「蒼真」


 彼女は、こちらを見た。

 その目は、泣いていない。震えてもいない。ただ、真っ直ぐだった。けれど、その真っ直ぐさが、逆に痛々しい。


「私が、あなたを助けたいって思った。だから、今ここにいる」


 握った手に、力が込められる。その温度が、熱い。


「だから、後悔しない」


 その言葉に、胸が詰まった。

 ありがたさと、申し訳なさと、恐怖が、全部混ざって喉の奥に溜まる。言葉にならない。言葉にできない。


「……日向」


「ん」


 彼女の返事は、優しい。それが余計に辛い。


「……ごめん」


 それしか言えなかった。他に何を言えばいいのか、分からない。


 日向は、小さく首を振った。髪が揺れて、その影が頬に落ちる。


「謝らなくていい。これは、私が選んだことだから」


 そして、少しだけ笑った。

 悲しい笑みではない。けれど、痛みを含んだ、諦めの混じった笑みだった。まるで、自分の運命を受け入れた人間の笑みのように。


 司祭は、二人のやり取りを黙って見ていた。その目には、何度も見てきた光景を眺める者の疲労が宿っている。

 やがて、深く息を吐き、杖を床に突く。


「……とりあえず、今日はここで休め。蒼真、お前は体力が戻っていない。動けば倒れる」


「……はい」


 答える声が、擦れている。


「日向。お前も、無理をするな。魂を分け与えている間は、自分の限界が分かりにくくなる。いつも以上に注意しろ」


「分かりました」


 日向の声は、穏やかだ。けれど、その穏やかさが作られたものだと、蒼真には分かる。


 司祭は、それ以上何も言わず、奥の部屋へ消えた。ローブの裾が床を擦る音だけが残り、やがてそれも消える。

 取り残された二人。


 聖堂の中には、重い沈黙が満ちた。

 窓から差し込む光が、床に細長い影を作っている。その影が、まるで二人を閉じ込める檻のように見えた。時間だけが、容赦なく、静かに過ぎていく。


 蒼真は、握られた手を見た。

 細い指。温かい掌。爪の形。手のひらの小さな線。

 その中に、自分の命がある。そんな小さな手の中に。


「……俺、どうすればいい」


 呟くように言うと、日向は少し考えて、答えた。その間が、やけに長く感じられる。


「今は、まだ分からない」


「分からない?」


「うん。でも――」


 彼女は、手を握り直した。その動作が、まるで誓いを立てるように見えた。


「分かるまで、一緒にいよう」


 その言葉が、救いなのか、呪いなのか、分からなかった。

 救済と束縛が、同じ形で差し出されている。


 ただ、日向の温度だけが確かで、その温度が消えたら、自分も消える。

 そのことだけが、動かしようのない真実だった。この世界で唯一、疑いようのない事実。


 蒼真は目を閉じた。

 暗闇の中で、心臓の音が聞こえる。それは、日向の鼓動と重なっているような気がした。二つの心臓が、一つのリズムを刻んでいる。


 ――生きるために、彼女が必要だ。

 ――彼女を縛って、削って、生きていく。


 それは、本当に"生きている"と呼べるのだろうか。


 答えは出ない。出るはずがない。

 ただ、掌の中の温度が、消えないでほしいと願った。それが自分のエゴであり、呪いであることを知りながら。


 それが、今の自分にできる唯一のことだった。


 窓の外で、夕暮れが近づいている。

 光が少しずつ傾き、影が伸びていく。オレンジ色が、聖堂の壁を染めている。一日が終わろうとしている。けれど、二人の"繋がり"は、終わらない。終われない。


 日向は、静かに蒼真の隣に座ったまま、手を離さなかった。その手の温度が、全てだった。


「大丈夫」


 彼女は、もう一度呟いた。その声は小さく、けれど確かだ。


「私が、いるから」


 その言葉が、温かいのに、どこまでも重かった。

 光のように優しく、鎖のように離れない。それが、この世界での二人の"始まり"だった。


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