第15話「夜営の誓い、世界の果てへ」
夜が来た。
深い、静かな夜。
月は半分だけその姿を見せ、薄く世界を照らしている。
森の奥で、二人は小さな焚き火を囲んでいた。
パチパチ、パチパチと、薪が爆ぜる音が静寂を裂く。
火の粉が、まるで小さな星のように――赤く、金色に輝きながら闇に舞い上がる。
そして、すぐに消える。
周りは、静かだ。
リィーン、リィーンと虫の声。
遠くで、フクロウか何かが、ホゥ、ホゥと鳴いている。
風が、木々の葉を揺らす。サワサワと、優しい音。
けれど――その静けさが、逆に不安を際立たせる。
ヒナは、火の側で小さく丸くなっている。
膝を抱えて、頬を膝に乗せて。
疲れているのだろう。目を閉じているけれど――呼吸のリズムから、まだ眠っていないことが分かる。
ソウは、火をじっと見つめていた。
揺らめく炎。
赤く、橙色く、時々青く。
形を変え続ける、生きているような炎。
火を見ていると――心が落ち着く。
温かさが、顔に伝わってくる。
けれど――同時に、どうしても考えてしまう。
これから、どうする?
ずっと、こうやって逃げ続けるのか。
賞金首として、追われ続けるのか。
いつか、捕まる。
いつか、力尽きる。
そのとき――どうなる?
自分は?
ヒナは?
答えが、見えない。
「……ソウ」
ヒナが、小さく――か細く呼んだ。
その声には、不安が滲んでいる。
「ん?」
ソウが、顔を上げる。
「眠れない?」
「ああ、少し」
ソウは、静かに頷いた。
「お前は?」
「私も」
ヒナは、ゆっくりと体を起こした。
丸めていた体を伸ばす。
火の光が、彼女の顔を明るく照らす。
その顔には、疲れと――不安の色。
「色々、考えちゃって」
その声が、弱々しい。
「……同じだな」
ソウは、自嘲するように苦笑した。
ヒナは、火の方へ――そっと手を伸ばした。
掌を開いて、温かさを確かめるように。
オレンジ色の光が、彼女の手を照らす。
「ねえ、ソウ」
「ん?」
「私たち、これからどうするの?」
その声が、震えている。
少しだけ――いや、かなり不安そうだ。
ソウは、少し黙った。
考える。
必死に、答えを探す。
けれど――答えが、すぐには出ない。
見つからない。
「……分からない」
正直に、言った。
嘘をつきたくない。
「ずっと逃げ続けるのか。それとも、どこかに隠れて潜むのか」
ソウは、揺れる火を見つめた。
「でも、どっちにしても――いつか、限界が来る」
その言葉が、重い。
ヒナは、再び膝を抱え込んだ。
小さく、縮こまるように。
「……そうだね」
その声が、諦めに似ている。
沈黙が、二人の間に降りた。
重い、冷たい沈黙。
火だけが、パチパチと音を立てて燃え続ける。
けれど、その温かさは――心まで届かない。
やがて――ソウが口を開いた。
「……なあ、ヒナ」
「ん?」
「俺、思うんだ」
ソウは、言葉を探した。
「今まで、ずっと――逃げてた」
拳を、握る。
「教会から。追手から。世界から」
火の粉が、舞い上がる。
「でも、それって――」
ソウは、自分の手を見た。
「ただ、死なないように逃げてるだけだった」
ヒナは、黙って聞いている。
「生きるためじゃなくて、死なないため」
ソウの声が、少しだけ震える。
「それって、本当に"生きてる"って言えるのかな」
その言葉が、静かに響いた。
ヒナは、少し考えて――小さく笑った。
「……難しいこと、言うね」
「ごめん」
「ううん、いいよ」
ヒナは、首を振った。
「私も、同じこと考えてたから」
彼女は、空を見上げた。
木々の間から、星が見える。
「私たち、ずっと逃げてる。でも、どこに向かってるのか――分からない」
ヒナは、胸に手を当てた。
「ただ、追われないように。捕まらないように」
その声が、寂しげだ。
「でも、それって――ゴールがないよね」
ソウは、頷いた。
「……ああ」
二人は、しばらく黙っていた。
火が、小さくなってきた。
ソウは、薪を一本足した。
炎が、また大きくなる。
「……ソウ」
ヒナが、また呼んだ。
「ん?」
「ソウは、生きたい?」
その問いが、真っ直ぐだった。
まっすぐ過ぎて――心に刺さった。
ソウは、ハッと息を呑んだ。
「生きたいか、って……」
繰り返す。
その言葉の重みを、噛みしめるように。
「うん」
ヒナは、じっとこちらを見た。
炎に照らされた、真剣な目。
「ソウは、生きたいって――本当に思う?」
その目が、真剣だった。
遊びも、冗談も、一切ない。
ソウは、言葉に詰まった。
喉が、詰まる。
呼吸が、浅くなる。
生きたいか。
そんなこと――考えたことがあっただろうか。
転生して、この世界に来て。
魂が欠けて、死にかけて。
ヒナと出会って、契約して。
ずっと、生き延びることだけを考えてきた。
死なないように。
捕まらないように。
消えないように。
でも――。
生きたいか、と問われると――。
「……分からない」
最初は、そう答えた。
自信がなかった。
けれど――。
心の奥で、何かが動いた。
熱いものが、込み上げてくる。
すぐに、訂正した。
「いや、違う」
ソウは、両手を強く握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
「俺は――」
言葉が、喉の奥から――這い出てくる。
震えながら、けれど確かに。
「生きたい」
その言葉が――初めて、口に出た。
初めて、自分の意志として。
「俺、生きたい」
声が、震える。
涙が、目に滲む。
「死にたくない。消えたくない。誰かに決められて終わりたくない」
涙が、頬を伝う。
止まらない。
「ヒナと、一緒に――生きたい」
その言葉が、炎に吸い込まれていく。
夜の闇に溶けていく。
けれど、確かに――言った。
ヒナは、目を大きく見開いていた。
そして――。
涙を浮かべて、泣きそうな顔で――笑った。
心からの、温かい笑顔。
「……やっと、言ってくれた」
その声が、震えている。
嬉しさで、震えている。
「ずっと、待ってた。ソウが、自分の言葉で"生きたい"って言ってくれるの」
ヒナは、両手でソウの手を取った。
温かい手。
震える手。
「じゃあ、一緒に生きよう」
その目が、涙に濡れながらも――真っ直ぐだった。
「逃げるだけじゃなくて。ただ死なないためじゃなくて――ちゃんと、生きよう」
ソウは、ボロボロと涙を流しながら――頷いた。
涙を拭おうとしたけれど――止まらない。
「……でも、どうやって」
「方法は――」
ヒナは、少し考えた。
炎を見つめて。
言葉を選ぶように。
「あるよ」
その声が、小さいけれど――確信に満ちている。
ソウは、ハッと顔を上げた。
涙で濡れた顔で。
「方法? 本当に?」
「うん」
ヒナは、強く頷いた。
「薬師のおじいさん、覚えてる? オルディアの」
「オルディアの……ああ」
ソウは、思い出す。
あの、古い工房。
薬草の匂い。
半魂について教えてくれた、老人。
「そう」
ヒナは、揺れる火を見つめた。
「おじいさん、最後に言ってたよね。"もし、本当に自由になりたいなら"って」
ソウは、必死に記憶を辿った。
確かに――老人は、別れ際にそう言った。
けれど、そのときは――ただ逃げることに必死で、聞き流していた。
「何て――何て言ってた?」
ソウの声が、切迫している。
「"均衡の塔"」
ヒナは、静かに――けれどはっきりと言った。
「世界の果て。遥か北の大陸にある、古い塔」
ソウは、ゴクリと息を呑んだ。
「そこに――何があるんだ」
「半魂を、完全にする手段」
ヒナの声が、一段と真剣になる。
炎がパチパチと音を立てる中で、その言葉だけが響く。
「おじいさんが言ってた。"均衡の塔には、魂を補完する古代の術式が眠っている"って」
ソウの心臓が、ドクン、ドクンと早鐘を打った。
耳が、その音でいっぱいになる。
「魂を、補完……」
繰り返す。
その言葉の意味を、理解しようとする。
「そう」
ヒナは、じっとソウを見た。
その目に、希望の光が宿っている。
「ソウの半分の魂を、完全にする方法。欠けた魂を、元に戻す方法」
その言葉が、胸の奥深くに――染み込んでいく。
まるで、渇いた砂に水が染み込むように。
「もし、それが本当なら――」
ソウは、震える声で言う。
考える。想像する。
「俺の魂が完全になれば――」
「私との契約も、きっと変わる」
ヒナは、確信を持って頷いた。
「今は、私の光がないと――ソウは生きられない。三十歩以上離れたら、死んでしまう」
彼女は、繋いだ手をじっと見た。
「でも、魂が完全になれば――」
その目に、希望の光。
「もっと、自由になれる。離れても、大丈夫になる」
ソウは、胸の刻印に手を当てた。
服の上から、温かさを感じる。
金色の紋様。
循環の証。
生命の繋がり。
これが、変わる?
「でも――」
ソウは、急に不安になった。
胸が、ギュッと締め付けられる。
「契約が変わるってことは――お前との繋がりも――」
言葉が、震える。
「消えてしまうんじゃ――」
「消えない」
ヒナは、強く首を振った。
その目が、真っ直ぐにソウを見る。
「魂の契約は、そう簡単には消えない。一度結ばれた魂の絆は、永遠なんだって。おじいさんが言ってた」
彼女は、安心させるように――柔らかく微笑んだ。
「ただ、"依存"から"共存"に変わるって」
「依存から――共存……」
ソウは、その言葉を噛みしめる。
「うん」
ヒナは、ゆっくりと頷いた。
「今は――私がいないと、ソウは死ぬ。私の光がないと、魂が維持できない」
その声が、少し寂しげになる。
「それは、"依存"。強制された、繋がり」
彼女は、ソウの手を――両手でギュッと握った。
「でも、魂が完全になれば――」
その目が、キラキラと輝く。
「一緒にいたいから、一緒にいる。選んで、一緒にいる」
その言葉が、まるで温かい光のように――ソウの胸に染み込んでいく。
ソウは、胸が熱くなった。
涙が、また溢れそうになる。
「……それは」
声が、震える。
「そう」
ヒナは、涙を浮かべて――けれど笑顔で言った。
「本当の、絆。選び合った、絆」
ソウは、もう――涙を止められなかった。
「でも、均衡の塔って――」
ソウの声が、不安を帯びる。
「北の大陸。すごく、すごく遠い」
ヒナは、重く頷いた。
「危険もたくさんある。魔獣も、盗賊も――教会の騎士も」
彼女は、揺れる火を見つめた。
炎が、その顔を照らす。
「簡単な旅じゃない。死ぬかもしれない」
その声が、震える。
「でも――」
ヒナは、顔を上げた。
その目が、決意に燃えている。
「行く価値は、ある。絶対に」
ソウは、しばらく黙って考えた。
均衡の塔。
魂を完全にする方法。
依存から、共存へ。
呪いから、絆へ。
それは――希望だ。
ただ逃げるだけじゃない。
明確な、目的地。
目指すべき、場所。
「……行こう」
ソウは、決めた。
涙を拭って、顔を上げて――強く言った。
「均衡の塔に。二人で」
ヒナの目が、パッと輝いた。
まるで、暗闇に星が灯ったように。
「本当に? 本当に行く?」
「ああ」
ソウは、力強く頷いた。
「お前と、一緒に生きたい。ただ逃げるんじゃなくて――本当に、自由に生きたい」
彼は、拳を強く握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
「自分で選んで、生きたい」
ヒナは――涙を流しながら、ソウに抱きついた。
勢いよく。
全身で。
「ありがとう、ソウ」
その声が、嬉しさで震えている。
「ありがとう。ずっと、ずっと――この言葉を待ってた」
彼女は、ソウの服をギュッと掴む。
「私も、一緒に行く。どこまでも」
ソウは、ヒナを強く抱きしめた。
小さな体。
温かい体。
震える体。
「当たり前だ。お前がいなきゃ、意味がない」
その言葉が、心の底から出てくる。
「お前と一緒じゃなきゃ――どこに行っても、意味がない」
二人は、しばらく――長い間、抱き合っていた。
言葉もなく。
ただ、抱き合って。
焚き火が、パチパチと音を立てて燃えている。
温かい。
星が、無数に輝いている。
美しい。
風が、優しく吹いている。
穏やかだ。
この瞬間が――永遠に続けばいいのに。
そう、思った。
やがて、ヒナが顔を上げた。
「じゃあ、明日から――北を目指そう」
「ああ」
ソウは、頷いた。
「世界の果てへ」
「うん」
ヒナは、笑った。
「世界の果て、均衡の塔」
彼女は、星空を見上げた。
「そこで、ソウの魂を完全にして――」
その声が、希望に満ちている。
「本当の、自由を手に入れる」
ソウも、星空を見上げた。
無数の星。
どれかが、北を指している。
そちらへ、向かう。
長い旅になるだろう。
危険も、たくさんある。
けれど――。
もう、ただ逃げるだけじゃない。
目的がある。
希望がある。
「ヒナ」
「ん?」
「ありがとう」
ソウは、彼女を見た。
「お前がいなかったら、俺は――ここまで来れなかった」
ヒナは、首を振った。
「私こそ」
彼女は、ソウの手を握った。
「ソウがいなかったら、私は――ずっと一人だった」
二人は、微笑み合った。
火が、また小さくなってきた。
けれど、もう冷たくない。
二人でいれば、温かい。
「眠ろう」
ソウが、言った。
「明日から、長い旅が始まる」
「うん」
ヒナは、頷いた。
二人は、火の側で横になった。
手は、繋いだまま。
三十歩以内。
けれど、いつか――その制約も、変わるかもしれない。
ソウは、目を閉じた。
胸の刻印が、淡く光っている気がした。
光と影。
今は、依存の関係。
けれど、いつか――共存の関係に。
それが、目標だ。
均衡の塔。
世界の果て。
遥か北の大陸。
そこへ、向かう。
二人で。
光と影の、二人組として。
賞金首として追われながらも――。
希望を、手に入れるために。
ソウは、ヒナの手を握りしめた。
彼女も、同じように握り返してくれた。
鼓動が、重なる。
温度が、伝わる。
それが、今の繋がり。
そして、いつか――。
もっと強い、絆になる。
そう信じて――。
ソウは、眠りについた。
* * *
翌朝――。
朝日が、森を金色に染めていた。
二人は、北へ向かって歩き始めた。
太陽の位置を確かめながら。
影の向きを見ながら。
森を抜け、草原を渡り、丘を越える。
昨夜の焚き火の跡は、もう冷たくなっている。
けれど、二人の心は――温かい。
手配書が出回っている。
賞金がかけられている。
教会が、賞金首が、追ってくる。
けれど――もう怖くない。
いや――怖い。
けれど、恐れるだけじゃない。
目的があるから。
希望があるから。
均衡の塔。
魂を完全にする場所。
本当の自由を、手に入れる場所。
呪いを、絆に変える場所。
「ソウ」
ヒナが、明るい声で呼んだ。
「ん?」
「私、楽しみ」
彼女は、太陽のように――笑った。
「均衡の塔、どんな場所なんだろう」
「分からない」
ソウは、正直に答えた。
「見たこともない。聞いたこともほとんどない」
「でも――」
彼は、前を――遥か遠くを見た。
地平線の向こう。
まだ見ぬ世界。
「きっと、すごい場所だ。古代の術式が眠ってる場所なんだから」
「うん」
ヒナは、嬉しそうに頷いた。
二人は、手をしっかりと繋いで歩き続けた。
北へ。
世界の果てへ。
草原の風が、優しく――けれど力強く吹く。
草が、波のように揺れる。
空は、どこまでも青く広い。
雲が、ゆっくりと流れている。
道は、まだ見えない。
地図もない。
けれど、方向は分かる。
北だ。
そこに、希望がある。
そこに、未来がある。
ソウは、歩きながら胸の刻印に手を当てた。
服の上から、温かさを感じる。
金色の紋様。
循環の証。
いつか、これが変わる。
依存から、共存へ。
強制から、選択へ。
呪いから、絆へ。
それを信じて――。
ソウは、歩き続けた。
ヒナと、共に。
光と影の、二人組として。
夜営の誓いを胸に。
世界の果てを目指して。
新しい物語が――今、始まろうとしていた。
草原の向こうに、青い山が見える。
その向こうに、また山。
さらにその向こうに、雪を被った山々。
そして――遥か遠く。
北の大陸。
均衡の塔。
長い旅になる。
危険な旅になる。
辛い旅になるかもしれない。
けれど――。
二人でなら、辿り着ける。
必ず、辿り着ける。
そう信じて――。
ソウとヒナは、前を向いた。
手をしっかりと繋いだまま。
朝日に照らされて――二人の影が、地面に長く伸びている。
重なって、寄り添って――一つの影。
それが、今の自分たちの姿。
そして、いつか――。
その影は、もっと強く、もっと美しくなる。
光と影が、完全に調和した――。
選び合った、本当の絆として。
その日を夢見て――。
二人は、歩き続けた。
一歩ずつ。
確かに、前へ。
世界の果てへ。
均衡の塔へ。
希望の、その先へ。
草原の風が、二人を優しく押す。
まるで、背中を押すように。
行け、と。
進め、と。
諦めるな、と。
空は青く、広い。
道は長く、険しい。
けれど――。
二人は、もう迷わない。
北へ。
ただ、北へ。
光と影の、二人組として――。




