第12話「初めての喧嘩、初めての願い」
オルディアを出て三日目。
次の街までは、まだ遠い。
二人は、街道沿いの小さな宿場町に泊まった。
部屋は狭く、窓も小さい。壁は薄く、隣の部屋の物音が聞こえる。
けれど、安全だ。ここまで、追手の気配はない。
ヒナは、ベッドに座って薬草を煎じていた。
小さな火鉢の上で、薬草の葉が静かに沸騰している。独特の苦い香りが部屋に満ちる。
老人がくれた、光を抑える薬。毎日、朝と晩に飲まなければならない。
ソウは、窓の外をじっと見ていた。
夕暮れ。空が、血のように赤く染まっている。
街道を行き交う人々――荷車を引く商人、家路を急ぐ旅人。平和な、当たり前の日常の風景。
けれど――その風景が、重い石のように胸に圧し掛かる。
「はい、ソウ」
ヒナが、煎じた薬を小さな木の椀に入れて差し出した。
湯気が立ち上り、苦い香りが鼻を突く。
「ありがとう」
ソウは、それを無表情で受け取った。
一口飲む。
苦い。舌が痺れるほど苦い。喉を通るたび、胸の奥がズキリと痛む。
この薬を飲むたび――思い出す。
自分が、世界の敵だということを。
ヒナを巻き込んでいるということを。
彼女の光を、少しずつ削っているということを。
「……ソウ?」
ヒナが、不安そうに尋ねる。
その声が、やけに遠く聞こえる。
「大丈夫? 顔色、悪いよ」
「……平気」
そっけない返事。
視線は、窓の外に向けたまま。
ヒナは、少し黙った。
部屋に、気まずい沈黙が流れる。
「……最近、元気ないね」
ヒナの声が、わずかに震えている。
「そんなことない」
冷たく、ぶっきらぼうな返事。
「嘘」
ヒナは、小さく首を振った。
「ずっと、何か考えてる。私に、話してくれない」
「……別に」
ソウは、視線を逸らした。
窓の外、夕日が沈んでいく。
ヒナは、もう一度尋ねようとして――口を開きかけて――やめた。
沈黙が、重く部屋を満たす。
息苦しい空気。
それは、オルディアを出てから、ずっと――三日間ずっと続いていた。
* * *
翌朝、二人は街道を歩いていた。
手は繋いでいる。三十歩以内。契約の制約。いつも通り。
けれど――会話がない。
足音だけが、乾いた土の道に響く。
ザッ、ザッ、ザッ。
ヒナは、時々こちらを見る。
横目で、不安そうに。
何か言いたそうに、口を開きかけて――閉じる。
ソウは、黙って歩き続ける。
前だけを見て、一言も発さず。
胸の中で、何かがくすぶっている。
罪悪感。
自己嫌悪。
苛立ち。
それが、黒い煙のようにどんどん膨れ上がっていく。
「……ソウ」
ヒナが、遠慮がちに小さく呼んだ。
「ん」
返事も、素っ気ない。
「あのさ――」
「何だ」
冷たい、拒絶するような口調。
ヒナが、びくりと肩を震わせた。
「……ううん、何でもない」
彼女は、視線を落とした。
繋いだ手が、わずかに震えている。
ソウは、それを見て――さらに苛立った。
なぜだ。
なぜ、こんなに苛立つんだ。
ヒナは、何も悪くない。
ただ、心配してくれているだけだ。
それなのに――。
胸の奥が、苦しい。
「……ソウ、ちょっと休憩しない?」
ヒナが、また恐る恐る声をかけた。
「疲れてるみたいだから――」
「疲れてない」
ソウは、言葉を遮った。
その声が、自分でも驚くほど冷たい。
「まだ歩ける」
「でも――」
「いいから、黙ってついてこい」
言葉が、鋭い刺のように口から出た。
ヒナは、ハッと息を呑んだ。
ソウは、すぐに後悔した。
心臓がドクンと跳ねる。
けれど――謝れなかった。
言葉が、喉の奥に引っかかって出てこない。
まるで、石が詰まっているように。
二人は、黙って歩き続けた。
繋いだ手が、重い。
空気が、さらに重く、冷たくなる。
* * *
昼過ぎ、道端の木陰で休憩を取った。
大きな樫の木の下。葉が風に揺れて、サラサラと音を立てる。
ヒナは、水筒から水を飲んでいる。
喉を通る音が、静けさの中で大きく響く。
ソウは、木に背を預けて座っている。
粗い樹皮が、背中に食い込んで痛い。
しばらく、重い沈黙が続いた。
遠くで、鳥の鳴き声。
風が、草を撫でる音。
やがて――ヒナが、意を決したように口を開いた。
「……ねえ、ソウ」
その声が、小さく震えている。
「……何」
ソウの返事も、冷たい。
「私、何か――悪いことした?」
その声が、今にも泣き出しそうに震えている。
ソウは、ハッと顔を上げた。
ヒナは、涙を必死に堪えているような顔をしている。
唇を噛みしめ、目を潤ませている。
「最近、ソウ――すごく冷たい」
その声が、か細い。
「……」
ソウは、何も言えない。
「何か、怒ってる?」
「怒ってない」
短く、否定する。
「嘘だよ」
ヒナは、悲しそうに首を振った。
「ずっと、私を避けてる。話してくれない。目も合わせてくれない」
彼女の目に、涙が滲む。
それが、陽の光を反射してキラキラと光る。
「私、何かしたなら――謝るから」
その言葉が、鋭いナイフのように胸に突き刺さった。
そして――。
何かが、プツンと切れた。
「お前は、何も悪くない!」
声が、一気に大きくなった。
叫びに近い声。
ヒナが、ビクッと体を震わせる。
「悪いのは、俺だ!」
ソウは、勢いよく立ち上がった。
落ち葉が、バサッと舞い上がる。
「俺が、お前を巻き込んだ! 俺が、お前を縛ってる!」
拳を、ギュッと握りしめる。
爪が手のひらに食い込んで、痛い。
「お前は――俺のせいで、自由を失った」
声が、震える。
感情が、制御できない。
「教会に追われて、逃げ続けて――まともな生活もできない」
ヒナは、驚いた顔で黙って聞いている。
「それなのに、お前は笑う。"大丈夫"って言う」
ソウは、涙で滲む視界でヒナを見た。
「でも、大丈夫なわけないだろ!」
叫んだ。
森に、その声が響き渡る。
「お前の人生を、俺が奪ってるんだ!」
胸の奥から、抑えきれない言葉が溢れ出る。
「お前は、もっと自由に生きられたはずだ。誰かと笑って、普通の生活をして――普通の幸せを掴めたはずなのに!」
ソウは、拳を震わせた。
「それなのに、俺なんかと契約して――」
言葉が、喉に詰まる。
「お前の光を、削って――寿命を、縮めて――」
涙が、頬を伝って落ちた。
「俺は、お前を――殺してるんだ」
その言葉が、空気を凍らせた。
風が、止まった。
鳥の声も、消えた。
ヒナは、目を大きく見開いている。
ソウは、顔を背けた。
もう、見られない。
彼女の目を、見られない。
「……だから、苛立つんだ」
小さな、絞り出すような声。
「自分が、情けなくて。何もできなくて」
拳を、さらに強く握りしめる。
「お前を守るって言ったのに――結局、お前に守られてる」
自己嫌悪が、泥のように胸を満たす。
「俺は、ただの――お荷物だ」
その言葉を吐き出した瞬間――。
力が抜けて、膝をついた。
沈黙が、重く降りた。
風が、木の葉を揺らす。サラサラと。
遠くで、鳥が鳴いている。
長い、長い沈黙。
やがて――。
「……ソウは」
ヒナの声が、静かに、しかし強く響いた。
「私のこと、そんな風に見てたの?」
その声に、何か――。
ソウは、ハッと顔を上げた。
ヒナは――泣いていた。
涙が、大粒の涙が、頬を伝って次々と落ちている。
けれど、その目は――。
怒っている。
「私が、可哀想だって? 縛られてるって?」
その声が、震える。
けれど、それは悲しみではなく――怒りの震えだ。
「私の人生を、奪ってるって?」
ヒナは、両手を拳に握りしめた。
「……違うよ」
小さく、けれど強く首を振る。
涙が、飛び散る。
「ソウは――私に、人生をくれた」
ソウは、ハッと息を呑んだ。
「私、ずっと――生きてる意味が分からなかった」
ヒナは、手の甲で乱暴に涙を拭った。
「光の器として、生まれて。人を助けるためだけに、生きて」
その声が、痛みを――深い深い痛みを滲ませる。
「誰も、私を見てくれなかった。私自身じゃなくて、私の光しか――私という人間は、そこにいないみたいに」
ヒナは、涙でぐしゃぐしゃの顔でこちらを見た。
「でも、ソウは違った」
その目が、真っ直ぐだ。
涙に濡れているのに、強い。
「私を、"日向"として見てくれた。光じゃなくて、私自身を――一人の人間として」
涙が、また次々と溢れる。
「初めて、必要とされた。光じゃなくて、私自身が――」
ヒナの声が、どんどん大きくなる。
「それが、どれだけ嬉しかったか――ソウは、分かってない!」
その叫びが、森に響き渡る。
ソウは、言葉を失った。
喉が、締め付けられたように何も言えない。
「確かに、自由じゃなくなった。確かに、光を削ってる」
ヒナは、震える手で胸に触れた。
そこには、契約の刻印がある。
「でも、それでもいい――それでも、嬉しい」
その目が、涙で濡れている。
けれど、その目は――真剣だ。
「誰かに――ソウに、必要とされてる。それだけで――」
彼女の声が、感情で震えた。
「生きてる意味が、ある」
その言葉が、鋭いナイフのように胸に突き刺さった。
いや――。
温かい光のように、胸に染み込んだ。
ソウは、力が抜けて膝をついた。
「……ヒナ」
かすれた声。
「私だって――」
ヒナは、涙を流しながら叫んだ。
「誰かに、必要とされたかった!」
その声が、魂の叫びのように森に響く。
鳥たちが、驚いて飛び立つ。
「ずっと、一人だった。ずっと、孤独だった」
ヒナは、両手の拳を震わせた。
「光の器として、崇められて――持ち上げられて――でも、誰も近づいてこなくて――誰も触れてくれなくて――」
その声が、悲しみと怒りで震える。
彼女は、涙でぐしゃぐしゃの顔でこちらを見た。
「でも、ソウは――隣にいてくれた」
涙が、止まらない。
ボロボロと、大粒の涙が次々と頬を伝う。
「一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に逃げてくれた――私を、一人の人間として扱ってくれた」
ヒナは、震える足で一歩、ソウに近づいた。
「それが、どれだけ嬉しかったか」
その手が、感情で震えている。
「だから――可哀想なんて、言わないで」
ヒナは、膝をついたソウの目の前に立った。
「私は、自分で選んだ。ソウと一緒にいることを――この契約を」
その目が、涙に濡れながらも――強い。
「後悔なんて、一度もしてない」
ソウの目から、涙が溢れた。
堰を切ったように、涙が流れる。
「……ごめん」
声が、嗚咽で震える。
「ごめん、ヒナ――本当に、ごめん」
ヒナは、ソウの隣に膝をついて座った。
そして、そっと――ソウの手を握った。
温かい。
「謝らないで」
彼女の声が、優しい。
「ソウも、辛かったんだよね」
その声が、包み込むように温かい。
「罪悪感で、苦しんでたんだよね。一人で、抱え込んでたんだよね」
ソウは、涙を流しながら頷いた。
「……ずっと、思ってた」
言葉が、震えながらゆっくり出てくる。
「お前を、守れてないって」
拳を、握りしめる。
「お前に、頼ってばかりで――何もできなくて――」
ヒナは、その握りしめた拳を両手で優しく包んだ。
温もりが、伝わってくる。
「ソウは、たくさんしてくれてるよ」
その声が、穏やかだ。
「……何を」
ソウが、涙声で尋ねる。
「隣に、いてくれる」
ヒナは、涙の跡が残った顔で微笑んだ。
その笑顔は――温かくて、優しくて、本物だ。
「それだけで、十分。それだけで――私は、幸せ」
ソウの胸が、じんわりと熱くなった。
「……でも」
まだ何か言おうとするソウを――。
「でも、じゃない」
ヒナは、強く首を振った。
「ソウがいるから、私は頑張れる。ソウがいるから、逃げられる」
彼女は、握った手を少し強くした。
その手の温もりが、心地よい。
「ソウがいるから――生きていける」
その言葉が、温かい光のように胸に沁みた。
ソウは、ヒナの手をギュッと握り返した。
「……ありがとう」
小さな、けれど心からの声。
「こちらこそ」
ヒナは、涙の跡が残った顔で笑った。
二人は、しばらく黙って並んで座っていた。
手を繋いだまま。
風が、優しく吹く。サラサラと。
木の葉が、静かに揺れる。
鳥が、また鳴き始める。
やがて――ソウが、ぽつりと口を開いた。
「……俺、弱いな」
「うん」
ヒナは、間髪入れず即答した。
「えっ」
ソウが、驚いて顔を上げる。
「弱いよ、ソウは」
彼女は、クスリと笑った。
「すぐ、一人で抱え込む。話してくれない。壁作っちゃう」
「……ごめん」
ソウが、しゅんとする。
「でも、それでいい」
ヒナは、優しい目でこちらを見た。
「私も、弱いから」
その目が、柔らかい。
「すぐ、無理しちゃう。笑顔で、誤魔化しちゃう。本音を隠しちゃう」
彼女は、少し照れたように笑った。
「だから、お互い様」
ソウは、その言葉に――小さく、けれど心から笑った。
「……そうだな」
「うん」
ヒナは、嬉しそうに頷いた。
「だから、これからは――ちゃんと話そう」
彼女は、右手の小指を立てた。
「辛いときは、辛いって。苦しいときは、苦しいって」
その小指が、少し震えている。
「……約束、か」
「うん。約束」
ソウも、小指を出した。
二人の小指が、ゆっくりと――絡まる。
「約束」
二人で、一緒に言った。
その声が、森に優しく響いた。
ヒナは、嬉しそうに――本当に嬉しそうに笑った。
「これが、初めての喧嘩だね」
「……喧嘩?」
ソウが、きょとんとする。
「うん。だって、ソウ――すごい怒ってたし」
ヒナは、少しおどけて目を丸くして見せた。
「怖かった」
「……ごめん」
ソウが、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ううん、いいよ」
彼女は、優しく首を振った。
「ちゃんと、本音を言ってくれたから。隠さないで、全部ぶつけてくれたから」
ヒナは、青い空を見上げた。
白い雲が、ゆっくりと流れている。
「私も、初めて――ちゃんと怒れた」
その横顔が、晴れやかだ。
吹っ切れたように、明るい。
「いつも、我慢してたから。怒っちゃいけないって、思ってたから」
彼女は、ソウを見た。
その目が、輝いている。
「でも、ソウになら――怒れる。本音をぶつけられる」
その笑顔が、陽の光を浴びて眩しかった。
ソウは、胸が温かくなった。
じんわりと、春の陽だまりのように。
「……ありがとう、ヒナ」
「こちらこそ」
二人は、立ち上がった。
服についた土や葉を払う。
手を繋いで、また歩き出す。
さっきまでの重苦しい空気は、もうない。
代わりに――温かい繋がりがある。
本当の意味で、互いを理解した繋がりが。
「ねえ、ソウ」
「ん?」
ソウが、優しい声で返す。
「次、辛くなったら――すぐ言ってね」
ヒナの声が、真剣だ。
「……ああ」
「約束だよ」
ヒナが、繋いだ手を少し揺らす。
「分かってる」
ソウは、握った手をギュッと強くした。
「お前も、無理するな」
「うん。約束」
ヒナは、太陽のように明るく笑った。
街道を、二人で歩く。
足音が、リズムよく響く。
初めて、本音でぶつかり合った。
初めて、互いの弱さを認め合った。
それが――逆に、繋がりを強くした。
ソウは、空を見上げた。
青い空。白い雲。
穏やかな、午後の光。
まだ、追手は来ない。
まだ、平和だ。
けれど――いつか、また追われる。
それは、分かっている。
それでも――。
ソウは、隣を歩くヒナを見た。
彼女は、軽やかに鼻歌を歌っている。
機嫌が良さそうだ。スキップしそうなくらい。
その姿が――愛おしかった。
守りたい。
けれど、守られてもいる。
それが、自分たちの関係だ。
片方が片方を一方的に支えるのではない。
互いに、支え合う。
弱さを認め合い、助け合う。
それが――循環だ。
契約の、本当の意味。
ソウは、歩きながら胸の刻印に手を当てた。
服の上から、微かに温かさを感じる。
金色の紋様。
ヒナとの繋がり。
それは、もう呪いではない。
絆だ。
二人で生きていくための、かけがえのない絆。
「ソウ」
「ん?」
「お腹空いた」
ヒナが、子供のように笑いながら言った。
「次の町で、何か食べよう」
「……そうだな」
ソウは、穏やかに笑った。
「何が食べたい?」
「んー……パン! 甘いパン」
ヒナが、嬉しそうに答える。
「分かった。探そう」
二人は、手を繋いだまま、また歩き出した。
初めての喧嘩を乗り越えて。
初めての、本当の願いを知って。
互いを――もっと深く理解して。
手のひらの温度が、温かい。
鼓動が、トクン、トクンと重なっている。
それが、今の道しるべ。
どこへ行くにも、何があっても――。
二人で。
それが、変わらない真実だった。
午後の陽が、二人を優しく照らす。
長い影が、土の道に伸びる。
けれど、その影は――もう、孤独じゃない。
寄り添って、重なって、一つになっている。
それが、今の二人の姿だった。
風が吹く。
二人の髪を揺らし、優しく背中を押す。
まるで、祝福するように。
二人は、笑顔で――。
前へ、前へと歩いていった。




