第11話「日向の秘密:祝福ではなく"器"」
その夜、ヒナは眠れなかった。
宿の狭いベッドで、横になっている。
古い木のきしむ音が、時折聞こえる。隣にはソウがいる。手は繋いだまま。繋いだ手のひらが、微かに汗ばんでいる。
けれど、彼女の目は開いていた。
天井の木目を、じっと見つめている。
まばたきもせず、何かを――重い何かを、考えている。
呼吸が浅い。
「……ヒナ?」
ソウが、闇の中で声をかけた。
「眠れないのか」
「……うん」
小さな、か細い声。
「さっきの話、考えてる?」
薬師の老人の話。
半魂と光持ち。世界の敵。
器としての運命。
ヒナは、ゆっくりと、重く頷いた。
その動きが、まるで水の中にいるように遅い。
「……ねえ、ソウ」
「ん?」
「私、話してないことがある」
その声が、震えている。
まるで壊れそうな陶器のように、今にも割れそうな脆さがある。
ソウは、ハッと体を起こした。
ベッドが、ギシリと音を立てる。
「何だ?」
ヒナも、ゆっくりと体を起こす。
月明かりが、窓から静かに差し込んでいる。その冷たい銀色の光が、彼女の横顔を青白く照らす。
まるで、幽霊のように。
「私が――なんで、"祝福の子"って呼ばれてたか」
ヒナは、自分の手を見た。
月明かりの中で、その手が震えている。
「本当の理由」
ソウは、息を呑んで黙って聞く。
「……村の人たちは、私を"祝福の子"って呼んでた。神様から祝福を受けた、特別な子供だって」
ヒナの声が、少しずつ小さくなる。
まるで、何かに怯えるように。
「でも、それは――嘘」
「嘘……?」
ソウの声が、かすれた。
「うん」
ヒナは、ゆっくりと頷いた。
「本当は、"光の器"」
その言葉が、静かに、しかし重く夜の闇に響いた。
「光の、器……」
ソウが、呟く。
「そう。私は、生まれたときから――光を溜めるための、器だった」
ヒナは、震える手で自分の胸に触れた。
そこには、ソウと同じ金色の刻印がある。
けれど今は、服の下に隠れて見えない。
「普通の人より、魂が大きい。そして、光を生み出す力が強い」
彼女の目が、遠くを――どこか遠い過去を見ている。
瞳に映る月明かりが、揺れている。
「村の司祭さまが言ってた。私は"神の恵み"だって。私の光で、多くの人を救えるって」
その声に、苦しみが滲む。
「……」
「でも、それって――」
ヒナの声が、ひび割れるように震える。
「私自身のためじゃない。他の人のため」
彼女は、唇を強く噛んだ。
白い歯が、下唇に食い込む。
「私の光は、私のものじゃない。みんなのもの。私は――ただの入れ物」
ソウの胸が、ギュッと締め付けられた。
呼吸が、苦しくなる。
「生まれたときから、そう言われてきた。"あなたは特別な子。だから、人を助けなさい"って」
ヒナは、両手を拳に握りしめた。
爪が手のひらに食い込んで、白くなる。
「転生者が来たら、助ける。怪我人がいたら、治す。病人がいたら、癒す――」
その声が、少しずつ強くなる。
けれど、それは強さではなく――。
抑えきれない感情の爆発だった。
「それが、私の役目。私の、存在意義。それ以外は――何もない」
「ヒナ……」
ソウの声が、震える。
「でも、私――」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
その目に、涙が滲んでいる。
月明かりを反射して、キラキラと光る涙。
「ただの、人間でいたかった」
涙が、一筋、また一筋と頬を伝い落ちる。
「友達と遊んで、笑って、普通に生きたかった――」
声が、かすれる。
ヒナは、手の甲で乱暴に涙を拭った。
「でも、みんな――私を"祝福の子"として見る。対等に見てくれない」
彼女の肩が、小刻みに震える。
「近づいてこない。触れてこない。まるで、聖域みたいに――まるで、ガラスケースの中の人形みたいに」
その声に、どれほどの孤独が詰まっているのか。
ソウは、言葉が出なかった。
喉の奥が熱くなり、何も言えない。
ヒナは、ずっとそう感じていたのか。
孤独を、誰にも言えずに抱えていたのか。
「司祭さまは言ってた。いつか、教会が私を迎えに来るって」
ヒナは、窓の外――暗い夜空を見上げた。
「中央教会に連れて行かれて、そこで――光の器として、管理される」
「管理……」
その言葉が、まるで氷のように冷たい。
「うん。私の光を、最大限に使うために」
ヒナの声が、感情を失ったように冷たくなる。
「どれだけ光を生み出せるか。どれだけ人を治せるか。どれだけ、役に立つか――」
彼女は、自分の手をじっと見つめた。
その手が、月明かりの中で白く、儚く見える。
「それが、私の価値。それ以外は、何もない」
沈黙が、重く降りた。
部屋の中に、二人の息遣いだけが響く。
ソウは、拳を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。
怒りが、熱い溶岩のように湧き上がってくる。
ヒナを、道具として見る人々への怒り。
彼女の人生を、勝手に決めつける世界への怒り。
彼女の笑顔の裏に、こんな痛みがあったことへの――悔しさ。
「……それで」
ソウは、喉の奥から、かろうじて声を絞り出した。
「お前は、どう思ってたんだ」
ヒナは、少し黙っていた。
長い、長い沈黙。
遠くで、夜の鳥が鳴く声が聞こえる。
やがて――。
「……諦めてた」
ささやくような、小さな声。
「これが、私の運命だって。光の器として生まれたんだから、それを受け入れるしかないって」
彼女は、膝を抱えて丸くなった。
まるで、小さな子供のように。
「でも――」
その声が、震える。
「でも、怖かった」
ヒナは、膝の間に顔を伏せた。
「教会に連れて行かれて、一生、光を搾り取られる。まるで――まるで、果実から果汁を絞り出すみたいに。それが、怖かった」
涙が、ポタリ、ポタリと膝に落ちる。
その音が、静寂の中で大きく響く。
「私の人生が、私のものじゃなくなる。私という人間が、消えてなくなる。それが――」
彼女の肩が、大きく震えた。
「嫌だった。怖かった。逃げたかった――」
ソウは、もう我慢できなかった。
ヒナの肩を、優しく抱いた。
彼女は、そのままソウの胸に顔を埋めた。
温かい涙が、ソウの服に染み込んでくる。
「ごめん……ごめんね、ソウ」
震える声。
「謝るな」
ソウの声も、震えていた。
「でも……私、ずっと嘘ついてた」
ヒナの声が、くぐもる。
「明るく振る舞って、笑って――でも、本当は怖くて、辛くて、逃げたくて――」
「……知ってた」
ソウは、静かに、優しく言った。
「え……?」
ヒナが、わずかに顔を上げる。
「お前が、無理してるの――分かってた」
ソウは、震える手でヒナの頭を撫でた。
「いつも笑ってる。でも、その笑顔の奥に――痛みがあった。悲しみがあった。孤独があった」
ヒナは、涙で濡れた顔を上げた。
その目が、驚きと――安堵に揺れている。
「……気づいてたの?」
「ああ」
ソウは、頷いた。
「でも、言えなかった。無理に聞き出すのは、違うと思った。お前が話すまで、待とうと思ってた」
ヒナの目から、また涙が溢れた。
けれど今度は――少し違う涙。
「……ありがとう」
その声が、小さく、けれど温かく震える。
ソウは、ヒナをギュッと抱きしめた。
彼女も、ソウの背中にしがみついた。
細い指が、服の布を強く掴む。
二人の鼓動が、重なる。
トクン、トクンと、同じリズムで。
胸の刻印が、服の下で淡く、優しく光る。
二人を繋ぐ、金色の光。
しばらく、そのままでいた。
時間が止まったかのように。
二人だけの、静かな世界。
やがて、ヒナが胸の中で小さく呟いた。
「……ねえ、ソウ」
「ん?」
ソウの声も、優しく、穏やかだ。
「私、蒼真に出会えて――良かった」
その声が、温かい。
まるで、春の陽だまりのように。
「初めて、対等に見てくれた。友達として、接してくれた」
ヒナは、ソウの胸から顔を上げた。
涙で濡れた目が、月明かりを映している。
「初めて、私を"日向"として――一人の人間として見てくれた」
その目が、真っ直ぐだった。
濁りのない、純粋な瞳。
「だから――契約したこと、後悔してない」
ソウの胸が、ドクンと大きく鳴った。
熱いものが、胸の奥から込み上げてくる。
「……俺も」
言葉が、自然に、心の底から出た。
「お前に会えて、良かった」
ヒナは、涙の跡が残った顔で――微笑んだ。
その笑顔は、今までで一番穏やかで。
今までで一番、本物だった。
「これからも、一緒にいてくれる?」
その声が、わずかに不安に揺れる。
「当たり前だ」
ソウは、迷いなく答え、ヒナの手を握った。
しっかりと、離さないように。
「お前を、教会には渡さない。光の器として、使わせない」
ヒナは、驚いたように目を見開いた。
「でも……私たち、世界の敵で――」
「関係ない」
ソウは、力強く断言した。
「世界がなんと言おうと、俺はお前を守る。誓う」
ヒナの目に、また涙が滲んだ。
けれど今度は――嬉しさの涙。
「……ソウ」
その声が、震える。
「お前は、道具じゃない。器じゃない」
ソウは、震える手でヒナの頬に触れた。
温かい。柔らかい。生きている人間の、温もり。
「一人の、人間だ。日向という名前を持った、たった一人の――」
その言葉に、ヒナは――。
堰を切ったように、泣き崩れた。
声を上げて、泣いた。
今まで我慢してきたすべてを、吐き出すように。
ソウは、黙って抱きしめた。
ただ、優しく、強く。
彼女が、どれだけ我慢してきたか。
どれだけ、孤独だったか。
どれだけ、怖かったか。
それが、今、すべて溢れ出ている。
ソウは、ヒナの背中を優しくさすった。
まるで、子供をあやすように。
もう、一人じゃない。
もう、器として扱われない。
自分が、守る。
どんなに世界が敵対しても。
どんなに教会が追ってきても。
どんな困難が待っていても。
ヒナの人生は、ヒナのものだ。
それを、誰にも奪わせない。
絶対に。
* * *
泣き疲れたのか、ヒナはソウの腕の中で眠った。
寝息が、穏やかに響く。
スゥ、スゥと、規則正しい呼吸。
ソウは、彼女を優しく抱いたまま、窓の外を見た。
満月が、街を銀色に照らしている。
静かな夜。
世界が眠っている。
けれど、その静けさの下に――危険が潜んでいる。
教会は、まだ諦めていないだろう。
光の器を、そう簡単に手放すはずがない。
そして、半魂と光持ちの契約を――世界の敵として、排除しようとする。
容赦なく、確実に。
ソウは、片手で胸の刻印に触れた。
服の上から、微かな温もりを感じる。
金色の紋様。
ヒナとの繋がり。
命の契約。
これが、罪だというなら――。
罪を背負って、生きる。
ヒナを守るために。
彼女の自由のために。
彼女の笑顔のために。
ソウは、眠っているヒナの顔を見下ろした。
涙の跡が、頬にまだ残っている。
けれど、その表情は――穏やかだ。
眉間の皺もなく、唇は微かに緩んでいる。
初めて見る、本当の安らぎ。
――この顔を、守りたい。
心の底から、そう思った。
どんな代償を払っても。
どんな犠牲を強いられても。
ソウは、ヒナを優しく抱き直した。
彼女は、夢の中で小さく呟いた。
「……ソウ」
寝言だろうか。
ソウの名前を呼ぶ、その声。
「……ありがとう」
その声が、幸せそうだった。
まるで、温かな夢を見ているように。
ソウは、胸が熱くなって――小さく笑った。
「どういたしまして、ヒナ」
ささやくように、優しく答える。
窓の外で、雲が月を隠した。
暗闇が、ゆっくりと部屋を包む。
けれど、胸の刻印が――服の下で淡く光っている。
二人を繋ぐ、金色の光。
命を繋ぐ、希望の光。
それが、今は――未来への希望に見えた。
たとえ世界が敵でも。
たとえ行く先に困難が待っていても。
この光がある限り――。
二人は、生きていける。
* * *
翌朝、ヒナは目を覚ました。
窓から差し込む朝日が、彼女の顔を照らす。
瞼が、少し腫れている。
昨夜、たくさん泣いたから。
「……おはよう、ソウ」
かすれた声で、ヒナが呟く。
「おはよう」
ソウが、優しく微笑む。
「気分は?」
「……すっきりした」
ヒナは、伸びをしながら小さく笑った。
その笑顔に、昨日までの無理がない。
「たぶん、初めて――ちゃんと泣いた」
「そっか」
ソウの声が、温かい。
「うん」
ヒナは、窓の外を見た。
朝日が、オルディアの街を金色に照らしている。
新しい一日の始まり。
「これから、どうする?」
ヒナが、ソウを見つめる。
「まず、老人がくれた薬を使う」
ソウは、枕元に置いてあった小瓶を手に取った。
青緑色の液体が、朝日を受けて美しく輝く。
「光を抑えて、教会に気づかれないようにする」
「うん」
ヒナが、真剣な顔で頷く。
「それから――」
ソウは、少し考えて――言った。
「この街にいるのも、そろそろ限界かもしれない」
「……そうだね」
ヒナは、寂しそうに、けれど納得したように頷いた。
「長くいすぎると、目立つ」
「次の街へ移る。また、兄妹として」
「うん」
ヒナは、ベッドから立ち上がった。
朝日が、彼女の髪を照らして輝かせる。
「じゃあ、準備しよう」
彼女の目が――昨日よりも強い。
昨夜、すべてを吐き出したから。
もう、隠すものはないから。
もう、偽りの笑顔で自分を守る必要がないから。
ソウは、その変化を――ヒナの成長を感じた。
ヒナは、もう――無理に笑わない。
本当の自分を、見せてくれる。
それが、何より嬉しかった。
「ヒナ」
「ん?」
ヒナが振り返る。
「これから、もっと大変になるかもしれない」
ソウの声が、真剣だ。
「分かってる」
ヒナは、迷いなく笑った。
その笑顔は、昨日までとは違う。本物の強さがある。
「でも、ソウがいれば――大丈夫」
その言葉が、ソウの胸に温かく響いた。
「……ああ。一緒に、乗り越えよう」
「うん」
二人は、荷物をまとめ始めた。
といっても、ほとんど何もない。
着替えが二、三枚。少しの食料。そして、薬師の老人がくれた小瓶。
「これで、全部?」
ヒナが、小さな荷物を見て尋ねる。
「ああ」
ソウは、頷いた。
「身軽な方が、逃げやすい」
「……逃亡者らしいね」
ヒナは、少し苦笑した。
けれど、その笑顔に――悲しみはなかった。
ただ、前を向いている。覚悟を決めた目。
二人は、荷物を背負って宿を出た。
朝の街。
人々が、新しい一日の始まりに動き始めている。
市場へ向かう商人の荷車がゴトゴトと石畳を走る。
井戸で水を汲む女性たちの談笑。
焼きたてのパンを運ぶ子供の元気な足音。
平和な、当たり前の日常。
けれど、自分たちには――その日常はない。
いつも、逃げている。隠れている。
「……行こう」
ソウが、静かに呟く。
「うん」
ヒナは、ソウの手をギュッと握った。
二人は、街の門へ向かって歩き出した。
石畳を踏む足音が、朝の静けさに響く。
次の街へ。
また、新しい場所へ。
逃亡者として。
けれど――。
ソウは、隣を歩くヒナを見た。
彼女は、真っ直ぐ前を向いている。
その横顔に、迷いはない。
昨夜、すべてを打ち明けた。
本当の自分を、弱さも恐怖も、すべて見せた。
もう、偽りの明るさで、自分を守らない。
もう、一人で抱え込まない。
そして――。
ソウも、決めた。
ヒナの人生を、ヒナ自身のものにする。
器として、道具として――扱わせない。
どんな犠牲を払っても。
どんな困難が待っていても。
それが、昨夜誓った――変わらぬ決意だった。
街の門が、朝日に照らされて見えてくる。
門番が、あくびをしながらも特に何も聞かずに通す。
二人は、オルディアの街を出た。
少し歩いて、振り返る。
城壁に囲まれたオルディアの街並みが、朝日を浴びて輝いている。
短い間だったけれど――そこで、多くを学んだ。
偽りの兄妹として生きること。
日常を演じること。
そして――ヒナの本当の想い、本当の痛みを知ること。
「……さよなら、オルディア」
ヒナが、小さく呟いた。
その声に、わずかな寂しさが混じる。
「また、いつか来れるかな」
「……分からない」
ソウは、正直に答えた。
嘘はつかない。それが、二人の関係だから。
「でも、いつか――平和に暮らせる場所を見つける」
ヒナは、ソウを見上げた。
その目が、希望に輝いている。
「約束?」
「約束だ」
ソウは、強く頷いた。
二人は、手を繋いだまま、朝の道を歩き出した。
道の先に、何があるか分からない。
けれど――。
二人で歩けば、怖くない。
二人でいれば、乗り越えられる。
ヒナの秘密を知った今――。
ソウの決意は、さらに強く、固くなった。
彼女を守る。
彼女の人生を、彼女のものにする。
彼女の笑顔を、守り抜く。
それが、自分の役目だ。
朝日が、二人を優しく照らす。
長い影が、道に伸びる。
新しい旅が、始まる。
祝福ではなく、器として生まれた少女と――。
欠けた魂を持つ、転生者の――。
終わらない逃走が、続く。
けれど、もう二人は――。
孤独ではない。
手を繋いだ温もりが、それを証明していた。




