第10話「薬師の老人と、欠けた魂の話」
その老人が訪れたのは、街に来て八日目の午後だった。
いつものように、ヒナは広場で治療を行っていた。
膝の痛みを訴える男性に手を当て、淡い金色の光を流し込む。温かな光が傷ついた組織に染み込んでいく感覚――ヒナの指先から、優しい治癒の波動が広がっていく。数分後、男性は驚いたように膝を曲げ伸ばしし、満面の笑顔で何度も頭を下げて立ち去った。
次の患者を待っていると――。
コツ、コツ、と規則正しい杖の音が近づいてきた。
杖をついた老人が、ゆっくりと、しかし確固とした足取りで近づいてくる。
背は低く、腰が曲がっている。肩まで伸びた白髪は陽光を透かして銀色に輝き、深く刻まれた皺が顔に人生の重みを刻んでいる。服は質素な灰色の木綿だが、丁寧に繕われ、清潔に保たれている。
けれど、その目が――鋭い。
まるで研ぎ澄まされた刃のように、何かを見通すような目。
濁りのない瞳が、こちらを――いや、ソウを捉えている。
「治療師さん、ですか」
老人の声は、低く、落ち着いている。枯れた木のように乾いているが、その奥に何か――深い知恵を感じさせる響きがある。
「はい。何か、お体の具合が?」
ヒナが、いつもの明るい笑顔で応える。けれど、その笑顔の端に微かな緊張が見える。
「いや、私は別に」
老人は、ゆっくりと首を振った。
それから――視線を動かした。
ソウを、真っ直ぐに。
まるで皮膚の下まで見透かすような、鋭い眼差し。
「……そちらの方が、気になってね」
背筋を、冷たい何かが這い上がった。
皮膚の表面が粟立ち、心臓の鼓動が早くなる。
「俺……ですか?」
声が、わずかに掠れた。
「そうだ」
老人は、コツ、と杖を地面に突き、一歩近づいた。その一歩が、妙に重い。
「あなた、体調が悪そうだ」
「いえ、別に――」
「嘘はいい」
老人は、有無を言わさぬ口調で遮った。
「私は元薬師だ。長年、人の体を診てきた。あなたの顔色は青白く、呼吸は浅い。歩き方には微かな不安定さがある――すべてが、異常を訴えている」
言葉が、喉の奥で固まる。
反論しようとしても、声が出ない。
ヒナが、心配そうにこちらを見る。その瞳に不安の色が滲む。
「大丈夫だよ、ヒナ」
ソウは、口角を無理に持ち上げた。作り笑いだと自分でも分かる。
「ちょっと疲れてるだけ」
「疲れ、ではない」
老人は、岩のように動じず断言した。
「もっと根本的な、何かだ」
彼の視線が、ソウの胸元に突き刺さる。
服の上から――刻印がある場所を、正確に見つめている。
「……見せなさい」
「え?」
「その胸の、紋様を」
心臓が、バクンと大きく跳ねた。
冷や汗が背中を伝い落ちる。
なぜ、分かる?
服の上からは、見えないはずだ。
誰にも気づかれないよう、常に隠してきたのに――。
「……どうして」
「薬師の勘だ」
老人は、静かに、しかし揺るぎなく言った。
「何か、隠している。それが、あなたの異常の原因だ。そして――」
彼の目が、一層鋭くなる。
「それは、ただの病ではない」
ソウは、ヒナを見た。
彼女も、唇を噛みしめて迷っている目でこちらを見返す。
どうする?
見せるべきか。
見せたら、どうなる?
けれど――。
この老人には、嘘が通じない気がした。
その目は、すべてを見抜いている。隠し通せる相手ではない。
「……分かりました」
覚悟を決めて、ソウは服の襟元に手をかけた。
ゆっくりと、服をめくる。
胸の中央に、金色の刻印。
小さな太陽を中心に、複雑な幾何学模様が描かれている。微かに、脈打つように光が明滅している。
老人は、それを見て――息を呑んだ。
その顔に、驚愕と、畏怖と、そして――哀れみが混じる。
「……これは」
その声が、明らかに震えている。杖を握る手が、わずかに震えた。
「魂の、契約……」
老人は、杖を両手で強く握りしめた。木と手のひらが擦れる音が、静寂の中で妙に大きく響く。
「そして、これは――"半魂"の刻印」
「……ご存知なんですか」
ソウが尋ねると、老人はゆっくりと、重々しく頷いた。
「知っている。昔、一度だけ見たことがある」
その目に、遠い記憶の影が過る。
彼は、ヒナを見た。
「あなたも、同じ刻印を持っているのでしょう」
ヒナは、言葉を失って黙って頷いた。喉が乾いて声が出ない。
老人は、深く、長く息を吐いた。その吐息に、重い何かが混じっている。
「……少し、話をさせてもらえませんか。場所を変えて」
「場所を……」
「私の工房へ。ここでは、人目がある」
老人は、杖で周囲を示すように動かした。
確かに、市場には人が行き交っている。
商人の呼び声、子供たちの笑い声、荷車の軋む音。
こんな場所で、秘密の話はできない。誰が聞いているか分からない。
「……分かりました」
ソウは、ヒナの手を握りしめて頷いた。
* * *
老人の工房は、街の外れ、石畳の道が途切れた先にあった。
小さな石造りの建物。外壁には蔦が這い、窓は小さく、扉は古びて木目が浮き出ている。
けれど、一歩中に入ると――。
濃密な薬草の匂いが鼻を突いた。
土の匂い、草の匂い、そして微かに酸っぱい発酵の匂い。様々な香りが混ざり合い、独特の空気を作り出している。
壁一面の棚には、大小様々な瓶が整然と並んでいる。乾燥した草の束、色とりどりの粉末、琥珀色の液体。それぞれに丁寧な手書きのラベルが貼られている。
作業台には、使い込まれた乳鉢と乳棒。インクの染みがついた古い書物が何冊も積まれている。ページの端が擦り切れ、背表紙の文字が消えかかっている。
空気は冷たく、静かだ。外の喧騒が、まるで別世界のように遠い。
「座りなさい」
老人は、作業台の前にある木製の椅子を二つ引き出した。座面が擦れて滑らかになっている。
ソウとヒナは、並んで座った。
手は、しっかりと繋いだまま。互いの体温だけが、唯一の安心材料だ。
老人は、向かいに座り――杖を脇に置き、両手をゆっくりと組んで――口を開いた。
「まず、聞きたい。あなたは、転生者ですね?」
その言葉が、静寂の中に落ちる。
「……はい」
ソウの声が、小さく響く。
「そして、魂が半分しか定着していない」
「はい」
「その欠けた魂を補うため、この娘さんと契約を結んだ」
老人の視線が、ゆっくりとヒナに移る。
「あなたは、"光持ち"ですね」
ヒナが、驚いて目を見開く。唇がわずかに震えた。
「……光持ち?」
「魂に光を宿す者。世界でも稀な、祝福と呪いを同時に背負った存在だ」
老人は、深い溜息とともに静かに続けた。
「あなたたちのような組み合わせは――極めて危険だ」
その言葉と同時に、胸の奥が凍りついたように冷える。
「危険……?」
「そうだ」
老人は、コツリと杖を床に置いた。その音が、不吉な鐘のように響く。
「まず、"半魂"について話そう」
彼は、作業台に積まれた古い書物の中から、特に古びた一冊を手に取った。革の表紙が擦り切れ、ページの端が黄ばんでいる。
ページをめくる音が、パラパラと静寂を裂く。
「転生者の中には、世界に拒まれる者がいる」
「拒まれる……?」
ソウが、思わず身を乗り出す。
「そうだ。この世界には、目には見えない法則がある。魂の均衡、エネルギーの流れ、生と死の循環――」
老人の指が、古い図表をなぞる。複雑な円環と矢印が描かれている。
「転生者は、その法則を乱す存在だ。別の世界から、勝手に魂を持ち込むのだから」
その言葉が、鋭い刃のように胸に刺さる。
呼吸が、少し苦しくなる。
「世界は、それを拒絶しようとする。転生の際、魂を削る。完全に定着させない――」
パラリと、ページがめくられる。
「それが、半魂……」
「そうだ」
老人は、重々しく頷いた。
「魂が半分しか定着しない。だから、生命が不安定になる。呼吸が続かず、心臓が弱まる。まるで、世界そのものに拒絶されているかのように」
ソウは、無意識に自分の胸に手を当てた。
心臓の鼓動が、手のひらに伝わってくる。
確かに、最初はそうだった。
息が続かず、心臓が止まりそうで、世界が自分を受け入れてくれない感覚があった。
「けれど、あなたは生きている。なぜか分かるか」
「……ヒナの、おかげです」
ソウは、繋いだ手を握りしめた。
「そうだ。"光持ち"の力で、欠けた魂を補っている」
老人は、優しい目でヒナを見た。
「あなたの光が、この若者の魂を満たしている。まるで欠けた器に水を注ぐように。だから、彼は生きられる」
ヒナは、唇を噛んで小さく頷いた。
「しかし――」
老人の声が、鉛のように重くなる。
空気が、一瞬で冷たくなった気がした。
「それは、世界の均衡をさらに乱すことになる」
「均衡を……?」
「そうだ」
老人は、書物を静かに閉じた。パタン、という音が不吉に響く。
「本来、半魂は淘汰されるべき存在だ。世界に拒まれ、消えるべき者――」
その言葉が、冷たい水のように全身に染み込む。
「……」
「けれど、光持ちと結ぶことで、生き延びる。それは――世界が望まぬ存在が、生き続けることを意味する」
老人の目が、一層鋭くなる。まるで真実の重さを量るように。
「そして、光持ちの力は強大だ。世界の法則を捻じ曲げるほどに」
「法則を、捻じ曲げる……?」
「そうだ。あなたたちの契約は、本来あり得ない循環を生み出している」
老人の視線が、二人の繋いだ手に落ちる。
「半魂と光持ちが結ばれると、魂の循環が歪む。光が過剰に流れ、エネルギーの流れが乱れる。まるで川の流れを無理やり逆流させるように」
「それが、どうなるんですか」
ソウが、喉の奥から絞り出すように尋ねる。
「周囲に影響を及ぼす」
老人は、静かに、しかし確信を持って答えた。
「あなたたちがいるだけで、世界の均衡が揺らぐ。気候が変わり、魔獣が集まり、災厄が起きる――」
血の気が、サッと引いた。
手足の先が冷たくなる。
「まさか……」
「大げさに聞こえるかもしれない。だが、歴史にはそういった記録がある」
老人は、別の、さらに古い書物を取り出した。表紙には焼け焦げた跡がある。
パラパラと、慎重にページをめくる。
「百年前、北の大陸で。半魂と光持ちが結ばれた」
黄ばんだページに、古い文字が並んでいる。
「二人は幸せに暮らした。愛し合い、支え合った。しかし――その地域では異常気象が続いた。作物が育たなくなった。魔獣が大量発生し、村が一つ、また一つと滅んだ」
「……それは」
声が震える。
「二人のせいだ、と人々は言った」
老人は、悲しげに本を閉じた。
「そして、教会が動いた。二人を"世界の敵"と断じ、火刑に処した」
ヒナが、喉の奥で息を呑む音がした。
「処刑……」
「そうだ。それが、教会の方針だ」
老人は、哀れみの目で二人を見た。
「半魂と光持ちの契約は、世界の均衡を乱す。だから、排除する。容赦なく、確実に」
胸が、万力で締め付けられるように苦しい。
「じゃあ、俺たちは――」
「教会に狙われる」
老人は、断言した。その声に迷いはない。
「保護、という名目で。しかし、本当の目的は――」
彼は、わずかに言葉を濁した。
「……消すこと、でしょう」
ヒナの声が、震えている。
沈黙が、重く降りた。
薬草の匂いが、やけに強く鼻につく。
ソウは、拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込む。
やはり、教会の目的はそれだったのか。
保護ではなく、排除。
世界の均衡を乱す存在として――。
「……でも」
ヒナが、か細い声を出した。
「でも、私たち――何も、悪いことしてない」
その声は震え、今にも泣き出しそうだった。
「そうだ。あなたたちは、ただ生きようとしているだけだ」
老人は、深く、悲しげに頷いた。
「しかし、世界の法則から見れば――存在自体が、罪なのだ」
その言葉が、鉛のように重く沈む。
存在自体が、罪。
生きているだけで、世界を乱す。
誰も傷つけていないのに、ただそこにいるだけで。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
ソウが、必死に尋ねた。喉が渇いて、声がかすれる。
「逃げ続けるしか、ないんですか」
老人は、しばらく黙っていた。
工房の中に、重苦しい沈黙が満ちる。
遠くで、時計の秒針が刻む音だけが響いている。
やがて――。
「一つだけ、方法がある」
老人の声が、静かに響いた。
「方法……?」
ソウとヒナが、同時に顔を上げる。
「光の制御だ」
老人は、真っ直ぐにヒナを見た。
「あなたの光が、過剰に流れているから、世界の均衡が乱れる」
「過剰に……」
ヒナが、自分の手を見つめる。
「そうだ。あなたは、光を制御できていない。まるで蛇口が壊れた水道のように、必要以上に放出している」
老人は、作業台に向かい、棚から小さな瓶を取った。
ガラス瓶の中で、青緑色の液体が揺れる。
「この薬草を使えば、光の流れを抑えられる。完全には消せないが――」
「世界への影響を、減らせる……?」
ソウが、希望を込めて尋ねる。
「そうだ」
老人は、瓶をゆっくりと差し出した。
「これを毎日、朝と晩に一滴ずつ飲み続ければ、教会に気づかれにくくなる。完全ではないが――時間は稼げる」
ソウは、震える手で小瓶を受け取った。
ガラスの冷たい感触が、手のひらに伝わる。
中には、青緑色の液体が静かに揺れている。微かに苦い香りがする。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
「礼には及ばん」
老人は、首を横に振った。
「私は、ただ――あなたたちが気の毒だと思っただけだ」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。背中が丸まり、杖に体重をかける。
「生きたいと願うことが、罪だとは思わない」
その目が、温かく、優しい。
深い皺の奥に、確かな慈愛が宿っている。
「だから、逃げなさい。生き延びなさい。世界がどう言おうと――」
老人は、杖を強く握りしめた。
「あなたたちには、生きる権利がある」
胸が、熱くなった。
目頭が熱くなり、視界が滲む。
「……ありがとうございます」
ソウは、深く、深く頭を下げた。
ヒナも、涙を拭いながら同じように頭を下げる。
「本当に、ありがとうございます」
老人は、皺だらけの顔で小さく笑った。
「気をつけて。教会の目は、至る所にある」
「……はい」
二人は、何度も頭を下げて、工房を後にした。
* * *
外に出ると、夕日が街を染めていた。
オレンジ色の光が建物の壁を照らし、石畳に長い影を落としている。
空気は少し冷たく、秋の気配を運んでくる。
ソウは、小瓶を両手で握りしめた。
ガラスの冷たさが、手のひらに染み込む。
光を抑える薬。
それが、生き延びるための、唯一の鍵。
「……ソウ」
ヒナが、小さく呼んだ。
「ん?」
「私、怖い」
その声が、震えている。風に揺れる木の葉のように、か細く。
「私たちが、世界の敵だなんて」
「……」
「ただ、生きてるだけなのに」
ヒナの目に、涙が滲む。夕日を反射して、キラキラと光る。
「それが、罪だなんて」
ソウは、ヒナの手をギュッと握った。
温かい。震えている。
「罪じゃない」
はっきりと、力強く言った。
「でも――」
「老人も言ってた。生きる権利がある、って」
ソウは、ヒナの目を真っ直ぐに見た。
「俺たちは、何も悪いことしてない。ただ、生きようとしてるだけだ」
ヒナは、手の甲で涙を拭った。
「……うん」
小さく、けれど確かに頷く。
「だから、逃げる。生き延びる」
ソウは、小瓶を見つめた。青緑色の液体が、夕日を受けて美しく輝いている。
「この薬を使って、光を抑える。教会から隠れる」
ヒナは、唇を噛みしめて小さく頷いた。
「……頑張る」
その声に、涙と決意が混じっている。
「ああ。一緒に」
二人は、手を繋いだまま、宿へ戻り始めた。
石畳を踏む足音が、カツン、カツンと規則正しく響く。
夕日が、二人の影を長く、長く伸ばす。
まるで巨人のように、街の壁に映る影。
世界の敵。
均衡を乱す存在。
そんな烙印を押されても――。
生きる。
それが、今の答えだった。
ソウは、歩きながら胸の刻印に手を当てた。
服の上から、微かに温かさを感じる。
金色の紋様。
ヒナとの繋がり。
命の契約。
これが、罪だというなら――。
罪を背負って、生きる。
それだけだ。
カラン、カラン、と街の鐘が夕暮れを告げる。
オルディアの、穏やかな夕べ。
市場からは夕食の支度をする匂いが漂ってくる。人々の笑い声、子供の泣き声。
けれど、その穏やかさの下に――追手の影がある。
いつか追いつかれる。いつか、捕まる。
それを知りながら、二人は歩き続けた。
偽りの兄妹として。
けれど、本当の運命共同体として。
欠けた魂と、光持ちの――。
終わらない、逃走が続く。
小瓶を握る手に、少しだけ力を込める。
これで、もう少し――。
もう少しだけ、一緒にいられる。
夕日が沈み、街に闇が降り始める。
けれど、二人の手は離れない。
離さない。
繋いだ手の温もりだけが――。
この世界で、唯一確かなものだった。




