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僕はひなたで生きていく  作者: とま


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第1話「目覚めた場所は、光が刺さる森」

 冷たい。

 まず、そう思った。


 背中に湿った土の感触が張りついている。頬に触れる空気は冬の朝のように澄んでいるのに、肺の奥へ入ってこない。息を吸おうとするたび、胸の内側が薄い氷で塞がれているみたいだった。


 ――死んだ、はずだ。


 脳裏に、白いヘッドライトの輪郭が焼きついている。雨に濡れたアスファルトが黒く光り、右から迫る車体が異様にゆっくり見えた。ハンドルを切る暇もなく、衝撃が全身を砕いて、世界が折れた。


 それなのに、今、手足はある。痛みもある。生きている。

 ただし、生命が続かない。


 心臓は打っているのに、次の一拍が来る確信がない。時計の針が止まりかける瞬間だけを延々と繰り返しているような感覚。鼓動と鼓動の間に、深い穴が空いている。


 目を開けようとする。まぶたが重い。やっとの思いで持ち上げると、そこは森だった。


 高い木々。細い枝が重なり、空が格子状に切り取られている。葉の隙間から差し込む光が、刃のように斜めに落ちていた。日本の森とは違う――そう断言できるほど、色が違う。緑が濃く、影が深い。匂いも、土の匂いに混じって知らない甘さがある。


 喉が乾いている。声を出そうとしても、空気が擦れるだけで音にならない。


 起き上がらなければ、と頭では分かっているのに、身体が従わない。指先に力を入れた瞬間、視界の端が暗く歪む。血が引く。世界が遠ざかる。


 ――やっぱり、死んでいるのか。


 いや、違う。死なら、もっとはっきり終わっている。これは終わらない不具合だ。電源が入りかけては落ちる機械のような、情けない継続。


 耳を澄ますと、鳥の声がする。軽やかで高い。風が木々を撫で、葉が擦れる音が連なっている。自然は平然と続いている。続いているのに、自分だけが続けられない。


 焦りが胸の底に沈む。焦りは熱になるはずなのに、体温は上がらない。指先は白く、唇は痺れている。震えさえ起きない。凍えているときの最後の静けさが、肌の下にある。


 どれくらい経ったのだろう。

 意識が薄くなるたびに、黒い水の底へ沈み、また浮かぶ。それを何度も繰り返した。


 そのとき、足音がした。


 落ち葉を踏む音。迷いのない歩幅。森の音の中に、確かな人間のリズムが混じる。


 誰かがいる。助け――。


 声を出そうとして、咳き込む。乾いた咳。胸が痛い。痛むのに、息が入らない。視界がまた暗く縁取られ、光の筋だけが鋭く残る。


 影の向こうから、眩しいものが現れた。


 少女だった。


 年は――十六、いや、もっと幼いかもしれない。肩までの髪が陽に透けて、薄い金色に見えた。服は簡素な白のチュニックに、濃い色の上着を羽織っている。森に溶け込むはずの色なのに、彼女自身だけが浮いて見える。まるで、日差しそのものが形を取ったように。


 そして、彼女は笑っていた。

 困っている人を見つけたときに浮かべる、柔らかい笑み。見知らぬ相手への警戒ではなく、迷子を見つけた安心のような笑み。


「……起きて。聞こえる?」


 言葉は日本語だった。

 それが、逆に現実味を奪った。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 彼女はしゃがみ込み、ためらいなくこちらへ手を伸ばした。

 細い指。温かそうな掌。


 触れた瞬間だった。


 胸の奥の氷が、ぱきり、と音を立てて割れた気がした。空気が流れ込む。肺が膨らむ。痛いほどに、息が入る。


「……っ、は……」


 声が漏れた。喘ぐような呼吸。生きている者の呼吸。

 遅れて、涙が滲む。痛みと安堵が一緒に押し寄せて、視界が揺れた。


 少女は、さらに力を込めて手を握った。

 その温度が、掌から腕へ、胸へと伝わってくる。凍った血が溶けて流れ始めるみたいに、身体の感覚が戻っていく。


「よかった。ちゃんと戻ってきた」


 少女はほっとしたように息を吐いた。彼女の頬には森の光が落ちていて、目がまっすぐこちらを見ている。その瞳の色は、蜂蜜を薄く溶かしたような金だ。


「……君は……誰だ……」


 やっと言えた。言葉は掠れて、喉が痛む。


「私は日向。ひなた」

 少女は名前を告げ、少しだけ首を傾げた。「あなたは……蒼真、だよね?」


 背筋が冷えた。

 名前を、呼ばれた。初対面のはずなのに。


「な、んで……俺の……」


「分かるの」

 日向は、当たり前のことみたいに言った。「分かっちゃう。だって――」


 言いかけて、彼女は唇を噛んだ。笑顔がわずかに陰る。気づかないふりをした笑いではない。痛みを知っている人の、自制の表情だった。


「……それより、今は離しちゃだめ」


 彼女はそう言うと、握った手を少し持ち上げて見せた。二人の掌の間に、淡い光が揺れているように見えた。錯覚かと思ったが、目を凝らすほど確かに、透明な糸がそこにある。


「離したら、また息が苦しくなる。そうでしょ?」


 確かめるように、日向は指をほんの少し緩めた。


 瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。肺がしぼむ。視界が狭まる。

 あの“続かない”感覚が、戻ってくる。


「……っ」


 慌てて彼女の手を掴み直す。日向はすぐに力を戻し、握りしめた。温度が戻る。息が戻る。


「ね。だから、今は大丈夫。私がいる」


 その言葉に、胸の奥が別の意味で痛んだ。

 自分の生命の条件が、目の前の少女ひとりに依存している。


 こんなことが、あるのか。


「ここは……どこだ」


「森。……だけど、村からは少し離れてる」

 日向は周囲を一瞬見回し、表情を引き締めた。「蒼真、立てる? 無理なら、ゆっくりでいい」


 立つ。立てるのか。

 日向の手を握ったまま、反対の腕で地面を押す。土の湿りが掌に残る。膝を立てる。脚が震えたが、折れない。日向が支えるように体を寄せてくれる。


 肩が触れ、体温が伝わる。

 それだけで、体の芯が解ける。


「……ありがとう」


 礼を言うと、日向は少し驚いた顔をして、すぐに照れたように笑った。


「うん。いいよ。……でも、今はまだ“ありがとう”だけじゃ足りないかも」

 彼女は笑いながら、真剣な目で言う。「蒼真、あなた、欠けてる。だから――」


 日向は言葉を探し、ゆっくり続けた。


「私がいないと、生きられない」


 言い切った瞬間、森の音が遠のいた気がした。

 自分の心臓の音だけが、耳の奥で大きく鳴る。


「……そんな」


 否定したかった。こんな理不尽、受け入れられるはずがない。

 けれど、掌の中の温度が真実だった。さっき離れかけた瞬間に襲ってきた窒息が、真実だった。


 日向は、こちらの表情を見て、小さく息を吐いた。


「怖いよね。ごめんね、いきなり」

 その声は優しい。慰めの言葉なのに、どこか覚悟が滲む。「でも、私も……あなたが倒れるの、嫌」


 日向は握った手を少し強くする。

 その力が、命綱を引き寄せる力に思えた。


「村に行こう。司祭さまがいる。きっと分かる」

 彼女は自分に言い聞かせるように言って、そしてこちらを見る。「蒼真。歩ける? 私、支えるから」


 支える――それは、単なる介助ではない。

 彼女が支えなければ、自分は生きられない。


 胸の奥に湧いたのは、ありがたさより先に、恐怖だった。

 少女ひとりに、自分の生死が握られている恐怖。

 そして、もっと深い恐怖――彼女を失う未来を想像してしまう恐怖。


 それでも、今は選べない。

 呼吸をするために、彼女の手を離せない。


「……行く」


 絞り出すように答えると、日向は少しだけ微笑んだ。晴れ間が差したような笑顔だった。


「うん。じゃあ、ゆっくり。いち、に、いち、に」


 日向は歩幅を合わせ、森の中へ踏み出す。落ち葉が柔らかく鳴り、木漏れ日が二人の影を切り取る。

 手の温度が、身体の中で脈打ち続ける。


 歩きながら、ふと空を見上げた。枝の隙間に見える青が、どこか異様に深い。雲の形も、見慣れない。

 ここが、もう“元の世界”ではないと、ようやく実感が追いつく。


 そして、隣を歩く少女の名を、心の中で反芻した。


 日向。

 ひなた。


 その名はあまりに明るいのに、なぜか胸が締めつけられた。

 光が刺さる森の中で、彼女の温度だけが救いで、同時に鎖でもある。


 日向は、歩きながら何気なく言った。


「ねえ、蒼真。村に着いたら、まず水を飲もう。あと、ちゃんと座って。急に動くと危ないから」


「……慣れてるのか」


「うん。そういう人、たまに来るから」

 日向は笑った。軽い調子に見せたまま、視線は前を見据えている。「でも、あなたは……少し違う気がする」


 違う。何が。

 聞き返したかったが、喉の奥に言葉が引っかかった。


 代わりに、握った手を見た。

 その手の中に、自分の生命がある。


 生きるために、日向が必要だ。

 今は、それだけが確かな真実だった。


 森を抜ける気配が近づく。木々の間から、遠くに煙が見えた。人の暮らしの匂いがする。

 その先に、答えがあるのか、別の絶望があるのかは分からない。


 ただ、日向の手が少し強く握り返される。


「大丈夫。私がいる」


 その言葉に、蒼真は小さく頷いた。

 頷くしかなかった。

 けれど、その頷きの中に、かすかな決意も生まれていた。


 ――この温度を、失わない。

 何があっても。


 光が刺さる森の出口へ向かって、二人はゆっくり歩き続けた。


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