『北川古書店』【10】寄り添う心
人には、受け継ぐべきものと、手放すべきものがある。
叔父の帰還により、古書店をめぐる変化は、雅人にとって「これからどう生きるか」を真剣に考える契機となった。
それは、大人としての第一歩を踏み出す時間でもあった。
『北川古書店』【10】寄り添う心
金曜日の午後四時、綾乃が古書店に現れた。
「雅人、就活はどうしてるの?」
「社員十人ほどの出版社から内定はもらったけど……どうすべきか、悩んでる」
「実は……勇さんが帰ってきて、ちょっとした難題が出てきたんだ」
そう言って、松本移住と古書店相続の件を綾乃に詳しく話した。
「ご両親はなんて?」
「簡単なんだよ。次男だから勇さんの家に住めばって。それで終わりさ」
「……古書店をどうするか、じゃないのよね。雅人さんがどう生きるかって話」
しばらく沈黙が流れた。
「雅人さん、小説は書いてるの?」
「今は『松江の霧』を書いてるんだ」
「少し見せてくれない?」
「ぜひ読んで感想を言ってくれるなら、見せるよ」
雅人がパソコンを開くと、綾乃は真剣な表情で二十分ほど画面を見つめていた。
「雅人……あなた、すごくいいものを書いてる。びっくりした」
「どういうこと?」
「私より、小説家に向いてるかも」
「おだててもダメだよ」
「おだててないって。私も書いてるけど、こんなのは書けない」
そう言って、綾乃はカバンから印刷された原稿の束を取り出した。
「私の小説も読んで」
雅人は、その五十枚ほどの原稿をゆっくり、真剣に読み始めた。
「全部は読んでないけど……まあ、いいんじゃない?」
「『まあ』ってなによ!」
「言って! 率直に!」
「話の進展はあるけど、横の広がりがない。……書き方は脚本みたいだね」
「えっ、やっぱりそうなのよ。私も、あらすじを書いてるだけの気がしてた。雅人、ありがとう!」
そう言って、綾乃は雅人の手をぎゅっと握った。
「真剣に評価し合えるって、嬉しいよね」
ふたりとも、良い方向へ向かっていることを確かめ合った。
「誰も、こんなにはっきり言ってくれなかった。言ってくれる雅人は、すごいよ」
綾乃は思わず雅人に抱きついた。
しばらく、ふたりはお互いの体温を感じていた。
——キンコン、とドアのチャイムが鳴った。
「あっ……そうなんだ……」
和美が顔をのぞかせるなり、走って帰っていった。
ふたりは慌てて離れ、冷静さを取り戻した。
「こんなんじゃ、新人作家を発掘するなんて無理。私、才能ないかも……」
「なら、俺を新人として育てて」
綾乃はうなずいた。
「新雪社に入って、雅人の担当になる」
「目的ができた。嬉しい」
「雅人は古書店を経営しながら、作家を目指せばいい。ね?」
「ここに来てから、弁当ばかりだから、今晩は飲み会やらない?」
「菊坂以来だもの。いいよ」
「じゃあ、家に車を置いてから行くから、6時半に“雪国”でどう?」
「喜んで参加します」
雅人は店に置いていたメモ日記をカバンに入れて、家へ帰った。
「お母さん、これから飲み会に行ってきます」
そう言って、“雪国”に向かった。赤ちょうちんが灯る店に、足早に近づいていく。
店は混んでいたが、前回座った席がちょうど空いていた。
ビールと焼き鳥、生野菜、シシャモを注文して乾杯が始まった。
「綾乃さん、メモ日記を持ってきたんだけど、見てくれる?」
「古書店にいるときに見せればいいのに」
「しらふでは見せられないよ」
そう言って、ページをめくりながら差し出した。
「これ、面白いね。作家の取材旅行のメモだね」
「全国を巡ったんだ。ふーん……」
「雅人君、小説を書くときの、いい参考資料になるね」
ビールを飲みながら、さまざまな地方の話をした。
「雅人君、今日は楽しかった。お互いに、よく話し合えたね」
二人の間に芽生えた信頼と創作への意志は、これからの展開を静かに導いていきます。
次回、物語はさらに一歩踏み出していきます。