第2話 震えてたから
「それじゃあ俺はこれで……」
そう言って俺はその場を後にしようとした。まぁ、普通に我に返ってしまったのである。
何を思ったか分からないが俺が女の子をナンパから助けた。その事実は変わらない。
今になってカッコつけた自分が恥ずかしくなってしまったのである。
そんな俺は早くその場から立ち去ろうとした。
しかし――
「──あのっ!」
その声に振り向くと、さっきナンパから助けたあの“王子様”が、すぐ後ろに立っていた。
正面からまっすぐ目が合う。
こうして改めて向き合うと、やっぱり目立つというか……美人だ。
背も高くてスッとした顔立ちなのに、どこか抜け感があって。モデルって言われても信じるレベル。
確証は無いが制服も隣の女子校のものだし、やはりこの子が"女子校の王子様"なのだろう。
その子は俺の前で深々と頭を下げた。
「……改めて、ありがとうございました。助けてくれて」
「いえ、別に……そんな頭下げなくても」
そう言うと彼女は顔を上げた。そしてもう一度俺の目を真正面から見つめる。
「……でも、どうして、あんなふうに割って入ってくれたんですか?」
彼女の声は、さっきナンパに囲まれていたときよりも、ずっと落ち着いていた。けど、それでもまだどこか揺れている。緊張してるのか、それとも何かを探るようにしているのか。
なんでって、言われても。
正直俺自身もよく分からない。いつもなら素通りする、だけど今日は助けてしまった。ただそれだけ。
……いや、それだけではない。
「いや……なんか、震えてたんで」
「──っ」
彼女の肩がわずかに跳ねた。目が、見開かれる。
一瞬、時間が止まったような感覚。
言葉にできない空気が、その場に満ちた。
俺はただ事実を口にしただけだった。
いかにも強そうな王子様がナンパで声をかけられて、追い払いもせず、怯えるように震えていた。そして俺はそれを見た。
それ以上でもそれ以下でもない。
でも、彼女にはそれが特別な何かに触れたようで、まるで張りつめていた糸が音もなく切れたように、ゆっくりと息を吐いた。
「……気づいたんですね」
小さく、それだけつぶやく。
その顔が、ふっとやわらいだ。
まるで、仮面が外れたように。
なんだろう。
その表情が、どうしようもなく綺麗だった。
“王子様”じゃなくて、ただの女の子の顔。
怯えて、それでも立っていた、あのときの彼女の続きみたいな顔だった。
「と、とにかく、本当に助けてくれてありがとうございました!」
そう言うと、彼女はくるりと身をひるがえして、小走りでロータリーのほうへ駆けていった。
その背中を見送る俺の足元で、何かが音を立てて落ちた。
「……ん?」
ふと見下ろすと、小さなぬいぐるみが落ちていた。
手のひらに収まるサイズの、ちょっとくたびれたくまのぬいぐるみ。
毛並みは少しほつれてて、でも洗濯されたような清潔感がある。
ボタンの目は片方が微妙にズレていて、それが逆に愛嬌になっていた。
俺はそれをそっと拾い上げる。
「……今の、落としたよな」
彼女が走り去るとき、カバンの口が開いていた。そこから滑り落ちたようにしか見えなかった。
まさか、間違いじゃ……いやいや、間違いじゃない。
俺は確かに見た。スカートにブレザー。隣の女子校の制服。
「──ぬいぐるみ、だよなこれ……?」
誰がどう見ても、間違いなく、ぬいぐるみだった。
俺は手の中のくまを見つめる。
どう考えても、このくまは彼女のものだ。
ということは──あの“王子様”が、こんな可愛いぬいぐるみを持ち歩いてるってことになる。
「……いやいやいや、マジか?」
誰が聞いても信じないだろう。
俺もさっきまで信じてなかった。“王子様”なんて存在しないって思ってた。
でも。
確かに彼女はいた。そして、その子が落としていったのは、このぬいぐるみ。
あの完璧なルックスの女子が。
堂々とナンパ男を追い払ってもおかしくないような、“王子様”と呼ばれる存在が。
「ぬいぐるみ……好き、なのか?」
信じられないような気持ちと、
どこか胸の奥がじんわりと温かくなるような、そんな感情が混ざり合っていた。
“完璧な人”だと思っていた。
誰からも好かれる存在で、自信に満ちた王子様。
でもその人が、実はちょっとくたびれたぬいぐるみを大事に持ち歩いてて。
ナンパされて、怖くて、震えていた。
なんだろう、それが妙に──
「……可愛い、な」
思わず口にしてから、そして少し恥ずかしくなった。
ぬいぐるみを見つめる俺。
客観的に見たらなんだそれ、だけどでもそのぬいぐるみからはなんだか目が離せなかった。
こうして手のひらに収まっている小さなぬいぐるみが、何だかとても大きな“秘密”に見えた。
これはきっと、彼女の“本当”の一部なんだ。
そして今、それを俺だけが知っている──
「……明日、もっかい来てみるか」
彼女に会える保証なんてない。でも、会いたいと思った。
返すべきものがあるっていうのは、たぶん言い訳だ。
俺の中で、“王子様”って呼ばれるその少女が、ただの噂じゃなく、
“目の前で震えていた、ぬいぐるみを落とすような可愛いものが実は好きな女の子”になっていたから。
*******
私――白銀レイは走っていた。
駅のホームへと続く階段を上りながら、私はそっと胸元を押さえた。
さっきまでの出来事が、まだ心の奥で小さく波紋を広げている。
──なんか、震えてたんで。
彼の言葉が、何度も頭の中でリピートする。
誰にも気づかれないように張った仮面の裏。
王子様なんて呼ばれているけど、あのとき本当は……怖くて、ただ足がすくんでいた。
なのに、彼は見てくれた。
私の声じゃなく、肩の揺れに、手の震えに。
「……ちゃんと、見てくれたんだ」
思わずこぼれた独り言に、自分でも少し驚く。
それだけで、なんだか少しだけ安心してしまった。
王子様なんて呼ばれなくても。
かっこよくなくても。
“私”を見つけてくれる人が、ひとりでもいるのなら──
それだけで、今日は少しだけ、救われた気がした。