月谷潤というタラシ
「ふはははは!
この!
潤さんに!!
不可能はなぁーいッ!!!」
けたたましいアルトボイスの哄笑と共に、水の跳ね返る音が響いた。
一面に広がっていた黒く蠢く影が、水流と共に一掃される。隠れていたコンクリートの床が露わになり、部室へと続く通路が元の姿に戻った。
わあっ、と背後から歓声が上がる。
「ありがとうございます月谷先輩!」
「よかった、これで部室に入れますー!」
しかし後輩たちは及び腰で壁の向こうに隠れたまま、前に進もうとはしない。さっきまで床を席巻していた黒い影がまた現れないか不安で、なかなか足を踏み出せないようだった。
先ほど哄笑をあげた当人、月谷潤は、しばらくその天然パーマのショートヘアをかしげて待っていた。が、やがて躊躇している後輩の手から鍵を奪うと、ずらりと並んだ部室のドアの一つを開ける。そのまま中に入り、部室にあった目的の物を取り出した。
「ほらよ。受け取れハニーたち!」
鍵と一緒に、後輩たちへトートバックを放って投げる。さっきとはまた別の熱を帯びた声で、きゃあっという歓声が飛んだ。
ありがとうございます、と再度の礼を言ってから、後輩は不思議そうに潤を見上げる。
「でも月谷先輩、その『理術』って……」
「おっと。それは聞いちゃあいけないよお嬢ちゃん」
潤は長い人差し指で後輩の唇にちょんと触れ、にっこり笑んだ。
「実は今、特別任務を請け負ってるんだ。だから普段と違う特殊な術を使ってるけど、理由は言えない。
ともかく今日は校内のあちこちでさっきみたいな化物が蔓延ってる。だから、この後は真っ直ぐ帰るんだよ」
真正面から顔を覗き込まれた後輩は、照れと嬉しさとで頬を緩ませた。
彼女の反応に、潤もまた重ねて爽やかな笑みを浮かべる。
「よし。じゃあ門まで送るよ。この状況じゃいつ遭遇するか分からないしな」
ごく自然に二人の腰へすっと手を添え、潤は後輩たちをエスコートする。
心なしか弾んだ足取りで、彼女たちはその場を後にした。
すらっと背が高くやや色黒の肌、加えてナチュラルに飛び出すあの言動の潤は、一見して気障な好青年に見えなくもない。
しかし。
ここは、県立舞橋女子高校。
女子校である。
今現在も彼女はこの舞橋女子高校の夏の制服、半袖ブラウスに箱ひだスカートを着用していた。
今しがたのような立ち振舞いゆえ、月谷潤は友人たちからこう呼ばれる。
曰く『タラシ』、と。
後輩たちを校門まで送り届けると、タラシ、もとい潤は体育館の方角へ歩を進めた。
校内にはみんみんと喚き立てる蝉の鳴き声が虚しく響き渡っている。いつもは夏休みでも部活や自主学習の生徒がそこここにいるが、お盆休みである本日はしんと静まりかえっていた。
うだるような暑さの中、目に眩しいほど澄みきった青い空と白い雲が夏の盛りを目一杯に主張している。じんわりと潤のブラウスを汗が濡らした。
焦がすような日差しが降り注ぐ日なたから、影のある渡り廊下に逃げ込み、潤はほっと息をつく。
途端。
潤の後方から、閃光が迸る。
視界の隅でそれを捉え、まずいと思うが早いか。
「ぶがぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!」
避ける間などなく飛んできた電撃をまともにくらい、潤は崩れ落ちた。首元を押さえながら涙目で後ろを振り返る。
そこには、潤と同じく舞橋女子高校の制服で眼鏡をかけた少女が右手を広げて立っていた。彼女は首元にかかったポニーテールを邪魔そうに払いながら、悪びれない口調で言い放つ。
「あっちゃー。女の子をたぶらかす害虫かと思ったら、つっきーだったわ。駄目じゃんちゃんと避けなきゃ」
「あっちゃーじゃねぇ! 『はったん』、お前ぜってーわざとだろ!」
「やだなぁつっきー、そんなのわざとに決まってんじゃん」
『はったん』こと畠中春は、声のトーンを落としてどす黒い口調で笑んだ。春は手の平からパリパリ音を立てて、小さな雷の筋を立ち上らせる。
「くっそ。強化したらはったんの理術は……『雷』の威力は冗談じゃねぇ」
「大丈夫だよちゃんと加減してあるから」
「当たり前だボケ!」
毒づいて、頭を振りながら潤はのろのろと立ち上がった。
理術。
それは誰しもが使える、使い物にならない力の事だった。
理術は、己の持つ『属性』に応じたものを、呼び出し操ることができる力だ。
属性は十種類存在し、大きく分けて『自然系統』、『人為系統』の二つに分類されている。
自然系統が『炎・地・草・水・風・雷』の六種類。
そして人為系統が『古・霊・鋼・音』の四種類である。
人々はいずれか一つの属性を先天的に有し、その力を老若男女問わず全ての人間が使うことができた。
いわゆる『魔法』とよく似ているが、これらは理術と区別されている。
何故なら理術は誰もが使えたため、『魔』ではない……つまり異質な力ではないことと。
そして物語に出てくるような魔法と比較するのも馬鹿らしいほど、実に小規模な力であったからだ。
例を挙げると、潤のような水属性なら水鉄砲程度の威力、春の雷属性は冬の静電気程度の威力しかない。
だから理術は『役に立たないもの』として人々に認識されており、日常生活では道具が手元になかった時や悪戯くらいでしか使用されることはなかった。
はず、であった。
「全く。私たちが働いてる間に、なーに女の子たらしこんでるんだよ」
「たらしこんでなんかなーいー! 部室に忘れ物したっていうから助けただけですぅ! 部室の前にワッサワサあいつらが居やがったから!」
「見りゃ分かるわ。そういうことじゃない言動がタラシだって言ってんの!」
「タラシじゃないですぅーただの親切ですぅー」
「だったら腰に手を添える必要はないだろタラシめ」
「え? 腰?」
「マジかよ無自覚かよこの男!」
「男じゃねーし! これでも一応女子だし!」
二人が互いにまくし立てていると。
ざわり、と体育館へ続く渡り廊下から異質な気配がした。先ほど潤が追い払ったものと同種の黒い影が塊となって、じわじわと静かに二人の近くに迫る。
気付いた潤と春はキッとそちらに顔を向け、そして。
「ガサガサうっせーな邪魔すんじゃねーよ虫ィ!」
二人同時にそう叫び、各々の手の平から理術を放った。
水流と電流とが絡み合い、相手に直撃する。理術が弾けた後、件の黒い影からはぷすぷすと煙があがった。
黒い影――床を覆い尽くすほどの、おびただしい数の虫たちである。
彼女たちは理術を使い、何故か学内に大量発生している虫を駆除している真っ最中なのであった。
残骸を一瞥して、それらがもう動かないことを確認してからまた春は口を開く。
「あとね、何が化物だよ。虫じゃん! 量はおかしいけどただの虫じゃん!」
「まあいいじゃん別にー。その方がカッコよくてなんかテンションあがるじゃんか!」
「私らしかいないし、別にいいけどさぁ。……ところで」
言葉を切り、春は潤に向き直る。
「つっきー。ちょっと、いいかな」
潤の胸元へ意味ありげに目線を送り、春はすっと目を細めた。