胡蝶の夢②
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。わたしであることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、わたしではないか。
風が吹く。静かな水辺が揺れ、周りの木々が葉擦れの音を立てる。
その風は、冷たさの中にわずかな暖かさを感じさせる風だった。
ゆっくりと世界が形取られていく。
そこは、湖畔だった。
風に揺れ波打つ湖には、夜空の星を覆い隠すように輝く月が映り込む。柔らかなそれでいて眩い光が、あたりを照らしていた。
初めて見る月明かりに照らされる湖は、普段目にしていた湖よりもどこか幻想的で胸が締め付けられた。
湖に浮かぶ月は、風が吹くと揺れ動く。月は形を変え時には、水辺から消えた。まるでそこにあるのは本物ではないかのように、水泡のように気がつくと消えてしまうかのように、人が見る夢のように儚かった。
何故そう思ったのか。ただ月が浮かぶ湖を見て何故そう考えたのか。
今この胸を締め付ける理由が、分からなかった。
「目が覚めましたか?」
澄んだ優しい声色が、内にこもっていた意識を表へと呼び起こす。
そこに、1人の女性がいた。
言葉で表現できないとは、目の前にいる者のことを指すのではないか。
絹糸のような透き通る銀色の髪が靡く。柔らかな表情を浮かべた顔立ちは、どこか現実離れした美しさがあり、月光に照らされる光景も重なって幻想的な姿であった。
しかし、その美しさに目を奪われたのは一瞬であった。胸の内に浮かんだのは、彼女がつぶやいた言葉とそこから浮かぶ疑問。
だが、それよりも一つ確認しなければならないことがある。
「あんたは誰だ?」
女性は、柔らかな表情のまま口を開く。
「その質問は、私という存在に対してか、それとも私の名前を聞いているのかはわかりませんが、あえてあなたの質問に答えるとしたら、ルナと申します」
ルナと名乗った女性は、優雅にお辞儀する。
「…ルナか、それがあんたの名前か」
「ええ、私を表現するものの一つです」
静かな夜に、風が吹く。ルナの身につける白のドレスが、わずかに揺れていた。
ルナにはまだ聞きたいことがあった。どこから現れたのか、どうやってここにきたのか。
それでもこの疑問を口にしたのは、先ほどまで見ていた夢のようなものが、夢にしては現実的で懐かしさを感じたものであったからだった。
「あの夢はルナ、あんたが見せたのか?」
ルナは、微笑みを浮かべた。
「見せたとは少し違いますが、貴方が先程見ていたものは私が関係していますよ」
ルナは言葉を切る。柔らかな声は、まるでただの日常会話のようにあっけなく、しかし自分の身に起きた不可思議な出来事を肯定した。
「貴方が見たものは、夢ではありません。ましてや幻の類でも」
「それなら、あれは…」
なんだと続けて声に出そうとした時、頭に違和感を感じ。それほど気にするものではなかったが、突然の出来事は顔の表情を変えるのに十分であった。
その表情を目にしたルナは、一度息を飲むと話し始めた。
「あれは、貴方の持つ記憶。誰でもない、貴方自身が体験したものです」
その言葉は、何故か胸にストンと落ちた。
ふと、自分の手を見る。その手は、自分の記憶のものよりも小さい。
小さな手から視線を外し、地面を見る。地面は、自分の記憶の物よりも近くに見えた。
そして何より、あの光景はこの世界では見たことがないものが存在していた。
胸落ちたルナの言葉は、形を変えて新しい疑問を作り出す。
「あれが、俺の記憶?」
「ええ、貴方の中に確かに存在した、紛れも無い貴方の記憶ですよ」
ただ、とルナは続ける。
「今の貴方ではなく、前世の貴方の記憶ですが」
目の前に立つ女性は、先程見た不可思議な光景を、夢でも幻でもなく記憶であると言う。それも今の自分ではなく、前世の自分だと。
頭に痛みが走った。
「…突拍子も無いことだな」
にわかに信じがたい内容だった。しかしあの光景に感じた既視感と、ルナの言葉に納得を覚えた気持ちは、前世の記憶であると訴えかけていた。
「そうでしょうか?見たことのない場所、見たことのない人、今の自分より成長した自分。前世の物と言われた方が腑に落ちますよ」
「確かにあの光景を、前世のものと納得しようとしている自分がいる。だかな、初めて会う人間に突然、貴方が見た光景は貴方の前世の記憶です、私が見せたものですと言われて、はいそうですかと言えるほど俺は人を信じてねえからな」
そう、目の前にいる女性は、初めて会った人である。知っていることは容姿とルナという名前だけである。
「貴方の考えは一理あります。でしたら私の言葉を信じていただくためには、何を伝えれば良いのでしょうか?」
ルナの問いかけに、これまでの会話で疑問に持ったことを口に出した。
「んじゃ遠慮なく聞かせてもらうわ」
ルナに、3つの指を立てた右手を突き出す。
「1つは、なぜ俺に接触してきたのか」
指を一つ折る。
「2つは、あんたは何者か」
2つ目の指を折る。
「最後に、なぜ前世の…ッ、記憶を呼び起こしたのか、だ」
頭の痛みが強まり、言葉に詰まってしまったが、伝えたい言葉を吐き出す。そして最後まで立てていた指を折った。
「…わかりました。では1つ目から答えていきましょう」
ルナは、右手を上げ人差し指を立てた。
「1つ目の質問、貴方の前に現れた理由は、貴方にある力を授けるため」
「ある、力?」
「力については、次の質問で答えましょう。では2つ目の質問、私が何者かについてですが、これは見てもらった方が早いでしょう」
ルナは、蒼に染まる瞳を閉じた。興味深く見つめていると、僅かに彼女の体から光が浮かび上がる。
初めに目に映った光は注意深く見なければ分からなかったが、時が経つにつれて眩さが増した。ついには直視するのが難しくなり、目を閉じ顔を反らす。
月の光さえ覆い尽くす光は、目を閉じても瞼の裏に感じられる。だが、それは次第に収まり、ゆっくりと目を開ける。
顔を上げ、ルナを見ると息を飲んだ。頭の痛みなどひいてしまった。
白の翼が羽ばたいた。
言葉では表現できない美しさを持っていた彼女。その背には白翼が伸び、月明かりに照らされた彼女は神々しい雰囲気を醸し出す。
その姿は、彼女が何者であるか理解するのに充分だった。
ルナは蒼の瞳を開き、右手の中指を立てた。
「これが二つ目の質問の答えです。納得できましたか?」
「ああ、十分にな」
この国で生きている者達で、知らない者はいないと言っていいだろう彼女の姿は、いや彼女自身はそれほど有名であった。
名前を言われた時、頭に引っかかっていたがそれでもありえないと言えるような出来事が、目の前に起こるとは。
彼女の正体を知って、疑問がさらに増えたんだが…
そんなことは御構い無しに、ルナは話を進める。
「そして、貴方に与える力についても、理解してもらいましたでしょうか?」
「…あんたの正体を知っちまったからな、ある程度検討はつくさ」
ルナの言わんとする力について、理解してしまった。それは幼い自分でも知る力。その力は、断続的に現れ歴史に名を残してきた。人智を超え、世界を守り続けてきた力。
再び、頭の痛みが出てきた。
「それでは3つ目の質問、貴方の前世の記憶を呼び覚ましたのか」
ゆっくりとルナが近づいてくる。彼女は、手を伸ばせば届く範囲まで近づいた。
頭が割れるように痛い。酷くなる痛みは、立っているだけでも辛いものであった。
その様子を見てか、ルナは表情を歪め、目線を合わせるように膝を曲げた。
「ふふ、綺麗な瞳ですね」
蒼の瞳が優しい色を浮かべていた。
蒼の瞳が近づく。
動けなかった。頭痛が酷くなり判断力が落ちた為か、それとも間近で見たルナの美しさに見惚れていたのか、または別の理由か。
柔らかいものが唇に当たった。
気づくと、ルナは柔らかな微笑みをー悲しさと切なさが見えたー浮かべている。
目がそれを認識するのと同時に、睡魔が頭痛を押しのけ、脳味噌を蕩かすために襲ってきた。
「貴方にこれを与えます。…貴方の旅路にお役に立ててください」
首元になにかをかけられた。確認しようと視線を下げたが、体のバランスを崩してしまう。
そのまま地面へ落ちて行く体は、優しい手つきで抱きとめられた。
もはや現実と夢の境がわからなくなっていたが、それでも言葉を呟く。
「…そ、それで、俺のぜ、前世の記憶を、よみ、がえらせた理由は…」
目は見えないが、ルナが笑ったのが分かった。
自分の体を支えていた手が離れ、体が地面に横たわる。
「最後の質問の答え合わせは、またいつかにしましょう」
睡魔に反抗しながら、言葉を吐き出す。
「や、やく、そ、くだ…ぞ」
掠れゆく意識の中、意識を手放す寸前、その言葉が聞こえた。
「紡ぎなさい、貴方の物語を。貴方だけの生き方を」
私が夢の中で蝶となったのか、実は蝶であって、今の自分が夢なのか、いずれが本当なのか私にはわからなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
面白いなって思ったらブクマや評価を頂けると嬉しいです!