番外編2(完結)
あまりの衝撃で放心状態に陥り一分後。はっと我に返って時計を一瞥し、部屋を飛び出す。
「イブキくん!?」
勢いよくリビングに入ったものの、そこには誰も居なくて。
あたしは内下口唇を噛み締めると階段を駆け上がり、彼の制服を身につけ鞄を掴んで飛び出し、玄関扉を開け放った。
「っと! っぶないな。イブキ? 珍しいね、もう準備終わってるの? いつもなら」
「リクくんっ!」
敷居を跨いだ背中に思わず叫ぶと、怪訝そうな顔が向けられた。
「……くん? どうした?」
「あたし松宮キリエなんです! 起きたらこうなっちゃってて……!」
「は?」
そう言って目を点にしたリクくん。
冷静な部分のあたしが、鳩が豆鉄砲を食らったようなリクくんは滅多にお目にかかれないわね、と囁く。
「あー、ちょっと待って」
扉を施錠したリクくんがあたしに向き合う。
「まあ、いつものイブキと違うし、そうだったとして話を進めるけど。そうなった原因、わかる?」
床に視線を落とし思考を巡らす。
(やっぱり、あの夢……しか、ありませんわよね)
「あの。……起きる寸前までみていた夢のせい……かな、と思うんです」
不思議な世界にイブキくんといたこと。
イブキくんと現実世界と同じように会話ができていたこと。
人間離れした麗人たちに自己紹介を受け、お茶をしたことなどを、掻い摘んで伝える。
「なるほど? 朝食は?」
「えっ!? いえ、まだですけど……」
「簡単に作るから椅子に座ってなよ」
「ええっ!? で、でもイブキくんが……!」
迷いもなくキッチンへ向かい、卵をフライパンに割るリクくんに訴える。
「その体は、まずイブキのでしょ。それに、きみが起きるの早かったから今朝は時間がたっぷりある。なにより、こんな早い時間にきみの家にいるかもしれないイブキに会いに行くと、親御さんが驚くでしょ」
「あっ……、そ、それは、そうですね……」
数分後にはテーブルの上に、目玉焼きのレタス添えと苺ジャム付きトースト、牛乳が置かれていた。あたしは感謝を伝え、黙って頂く。
一息ついた瞬間、食器がリクくんの手に攫われてゆき、洗い物を申し出るも突っぱねられ、がっくり肩を落とす。
何から何まで世話をしてもらって、罪悪感しかない。
「それじゃ、食事も終えたし行ってみようか」
「は、はいっ!」
エプロンを置くや否や玄関に向かうリクくんのあとを、あたしは急いで追った――。
「あら、おはようイブキくん。迎えに来てくれたの?」
「は、はい! そ、そうなんです!」
「まあまあ、ごめんなさいねぇ。さあどうぞ」
イブキくんの真似ができているだろうか、と冷や冷やしているあたしの前に、よく見知った間取りが映り込む。
靴を脱いで上がると、お母さんの目線が背後に流れた。
「もしかして、あなたがリクくん?」
「はい。初めまして、喜多見理玖といいます」
「ああ、やっぱり! イブキくんの幼馴染なんでしょう? 娘から話しは聞いているのよ。仲良くしてくれてどうもありがとう。これからもよろしくお願いね」
「はい、こちらこそ」
にっこりしたお母さんが正面奥のあたしの部屋へ向かっていく。
「ごめんなさいね、いつもはこんなことないのだけど……あの子ったら、何回声を掛けても起きて来なくって」
ぶふっ、と吹き出す音が僅かに鼓膜を揺らす。俯いたリクくんが肩を震わせていた。
「さ、さすが……」
くつくつと笑いながら零したその言葉に、あたしもつられて笑ってしまった。
お母さんが扉をノックし「キリエ―?」と入って行くその背後で、あたしの耳元でリクくんが囁く。
「おれが声かけてみるから」
「は、はい」
小声で答えると、あたしより一歩前に出るリクくん。
「キリエ―、お友達が迎えに来てくれたわよー? 早く起きなさいー」
「おはよう、リクが迎えに来たよー」
部屋の前からリクくんが叫ぶと、布団の膨らみがもぞもぞと動いた。
「う~ん……リクぅ~……? もう朝ぁ~……?」
「ああ」
「えぇ~……もっと寝たい……」
「遅刻するよ」
「えぇ~……うぅ~ん……」
やり取りを黙って聞いていたお母さんは「まったくもう」と唇を尖らせる。
「ごめんなさいね、喜多見くん。キリエ、先に下りておくからねー」
「うぅ~ん……だ、れ……」
既に廊下に出ていたお母さんに、イブキくんの問いかけは聞こえなかったようだ。そのままリビングへ入って行く。
「イブキ、起きろ。松宮さんが迎えに来てるぞ」
「えっ……?」
がばっと起きた眠気眼と、覗き込んだあたしの目線が合う。
瞬きを数回繰り返し、あたしの姿をしたイブキくんは小首を傾げて。
「鏡……?」
と、あたしの頬に触れた。
「イブキくん……あたし、キリエです。松宮キリエ。さっきまで同じ夢、見てませんでしたか? 起きたらあたし、イブキくんの体になってたんですの。ほら、イブキくんも起きて……よく見てください」
腕を引っ張って立たせると、全身鏡の前へ突き出す。
「イブキくん、今あたしの体の中にいるんですわ。ほら、動かしてみてください」
イブキくんがぼんやりしたまま、あたしの体を動かす。徐々に意識がはっきりしてきたのか、顔が歪んでいく。
「…………え、僕、キリエさん…………?」
「ですわ」
ぱっとあたしを振り返ったイブキくんは、流石に驚いた顔をしていた。
「とりあえず、着替えてください」
あたしはクローゼットから制服一式を取り出し、ベッドに置いた。
「自分の体ですし、あたしが手伝いますわ。イブキくんはちょっと……目を閉じてくださいまし」
「えっ?」
言ってる意味が分からない、といった風だったイブキくんは数秒後、ぼっと頬を紅潮させ。
「は、はいっ」
と瞼を伏せた。
「じゃあおれちょっと出てるねー。イブキ、がんばれー」
どことなく面白がっている風に言い、リクくんは部屋から出ていった。
「では、始めますわ。とりあえずブラウスから……」
イブキくんはあたしの指示に従順に従ってくれ、用意はすぐに終わる。
今日の時間割を確認し、教材を仕舞った鞄をイブキくんに手渡すと、リクくんと合流、相談し、急いで家を後にしたのだった。
学校へ向かいながら、イブキくんはコンビニのパンで朝食を済ませ『背のびのびーるミルQ』をぢゅーと吸い込む。
(あたしの体でそれを飲む必要は…………もう習慣ですわね)
「イブキくん、今日は、あたしたちの行動に気を付けないといけませんわ。あたしは二年のクラスにいかなくてはなりませんし、イブキくんもあたしの教室にいかないといけません。あたしの席わかりますか?」
がこん、紙パックが跳ね返って、道端の屑籠が音を鳴らした。
「うん~……席は大丈夫だけど……今日の授業なにがあるの~?」
「問題は体育ですが……そちらは先生に「具合が悪い」と言って見学させていただきましょう。移動教室はないので、あとは大丈夫ですわ」
「うん、わかった~」
「今日は移動がなくてよかったですわ……」
「イブキ。昼は屋上だよ。おれ、迎えに行けないからちゃんと来てね」
「うん~わかった~」
学校につき、イブキくんを三階の教室まで見送ると、あたしはリクくんと共に二階へ移動した。
(確か……この席よね)
着席し、机の中を探って教科書の裏の名前を調べる。
席は間違いない。
懐かしさで感慨深く思っていると、チャイムが鳴って担任が教団へ立った。
不意にあたしと目が合って首を傾げたと思ったが、話を続け、去って行く。
一限目のチャイムが轟いた。
あたしを一瞥するも、授業を始める先生。黒板にスペルを綴っていく。
教材に目を落とす前に、あたしをちらちら見てくる。何故だろう。
授業が終わり、先生が首を傾げながらあたしに視線を残し去って行った。
(あたし、イブキくんの真似ができていないのかしら? すごく不安だわ)
二限目は日本史。
教科書を開くと、思わず口元が緩む。
(これ、あたしのだわ。イブキくん、使ってくれてるのね……嬉しい)
時々先生と視線がぶつかり合うが、その度に不思議そうな顔をされる。
何故かしら? クラスメイトたちもざわざわしている気がした。
三限目は数学。
あーあったなぁ、と思いながら、ノートに数式を解いていく。
(やけにノートが新しいのよね)
そんなことを考えながら顔を上げると、目をまん丸にしている先生が慌てて背を向けた。
周囲に視線を走らせると、ちらちらこちらの様子を窺う生徒がいて、あたしは顔を顰める。
(落ち着かないわね……やっぱりどこかおかしいのかしら、あたし)
四限目は現代文。
教室へ入った途端あたしを一瞥した先生は、すぐに授業に移る。前の席の方から朗読の順が回ってきて、あたしの出番になり立ち上がると、周囲が仰け反り先生からは穴があく程ガン見された。
一体何なのかしら? 何がいけないのかはっきり言ってもらわないと困る。
あたしはリクくんに相談しようと心に決めた。
苦痛の連続だった午前中がおわり、あたしは席を立ったところで思い出す。
(あ、お昼用意し忘れてるわ……)
この学校には一応購買がある。でもお金はもっていない。
あたしは急いで三階へ向かった。
顔を覗かせると、キリエの姿で机に突っ伏せているイブキくん。
(イブキくんは体が変わっても眠いのね……)
微笑ましく思いながら近づき、背中をゆすった。
「キリエさん、起きて。お昼です」
「んぅ~…………あ……ふぁぁ~ぁ。もうお昼ぅ~?」
「です。先に屋上へ行っててください。あた、僕はちょっと購買へ行ってきます」
「購買~? 一緒に行くぅ~」
あたしは机に掛けてある鞄を掴み、手を引いて、購買へ向かう。サンドウィッチとオレンジジュースを購入し、屋上へ行くと、ベンチへ座ったリクくんが片手を振った。
定位置に移動しパンを取り出すと、リクくんからお弁当を渡される。
「それ、イブキのだから」
(あ、そうでしたわね……)
欠伸をするイブキくんの口にもおかずを運びつつ、リクくんお手製のお弁当を有難く頂いておく。
食べ終わったあとで、はっとした。
(リクくんのお弁当、あたしの体に食べさせてしまいましたわ……女の子たちに睨まれなかったらいいのですけど……)
胸中に不安が渦巻いた。
その後、意を決してリクくんに近づく。
「あの……あた、いや僕、どこか、おかしいでしょうか」
「まあ言葉遣いはね。で、なに?」
ぐっと言葉を詰まらせたあたしだったが、続ける。
「その……先生もクラスメイトもみんな……ちらちら見てくる……ん、だけど」
「ふぅん? 授業、どんな感じだった?」
「どんな、って……懐かしく思いながら受けま……、受けたよ。朗読に当たったり」
「あぁーなるほどねー。まあ今日は仕方ないんじゃない? 甘んじて受ければいいと思うよ」
「えぇ……」
にやにやするリクくんに戸惑いの表情を向けるも、彼の態度は変わらない。
(はぁ……)
なんの収穫もなく別れ、教室へ戻る。
五限目は古典。
教団の前の先生が、やはりあたしを凝視する。
一体何なのですか?
終了間際になって、あたしの横に立った先生が神妙な顔で口を開いた。
「斎藤……お前、今日体調悪いのか……?」
「え? そんなことありませんけど」
「そうか……そうだよなぁ。いや、普通起きてる奴に体調悪いかって訊くのも変なんだけどなぁ……」と何やらブツブツ言いながら去って行くが、小声で聞き取れなかった。
内心首を傾げながら、六限目の用意をする。
ようやく最後の授業。
世界史の先生が教科書を朗読する。眠気に襲われて落ちそうになり、寸でのところで起き上ると、目が合った先生が笑顔で頷いている。
普通逆じゃないですか? とつい口に出そうになった。
ようやく終業時間の鐘が轟き、精神的に疲労したあたしは机に突っ伏す。
(なんだかすごく疲れましたわね……)
溜め息をつきつつ、鞄を持ってイブキくんの元へ行くと、同じく突っ伏している姿が視界に入り、胸中で大きく頷く。
(わかりますわイブキくん……疲れましたわよね。あたしは去年習っているからいいですけれど、イブキくんにとっては飛び級も同然ですもの……授業についていけれないですわよね……)
そっと近づいたあたしは華奢な背中に手を添え、耳元で優しく囁いた。
「今日一日お疲れ様でした、イブキくん」
ぱっと顔を上げたイブキくんはあたしを見つめ、微笑んだ。
「終わり~?」
「はい、帰りましょう」
「うん~」
連れ立って、二階の教室へ行く。席を立ったばかりのリクくんを捕まえたあたしたちは、足早に昇降口へ移動し、帰路へついた。
「授業どうでした?」
歩きながらイブキくんに尋ねると、彼は首を傾げて答える。
「眠たかった~」
「そうですよね」
背後からふっ、とリクくんの笑い声が聞こえたけど、一体何なんだろう?
一旦イブキくんの家に行くことが決まり、家まで無言が続いたが、リビングへ集まると思い思いに荷物を下ろす。
「はぁ~、なんだか疲れましたわ……イブキくんもお疲れ様でした」
隣りに座ったイブキくんは微笑んで「キリエさんもお疲れさま~」と労ってくれる。
「ノート取るの大変じゃありませんでした?」
「え?」
「え?」
「ぶふっ! くっくっくっ……!」
顔をつき合わせていたあたしとイブキくんは同時に振り向き、吹き出したリクくんをジッと見つめる。
「どうして笑うんですの?」
「いや……、本当、面白すぎて……」
一頻り肩を震わせたあと面を上げたリクくんは、口を開いた。
「松宮さんは、授業中ずっと起きてたんでしょ?」
「え? 当たり前ですわ」
「そう。……イブキは、いつも通りだよね?」
「……うん」
間が気になって振り返る。
イブキくんが若干、バツが悪そうに見えるのは気のせいかしら?
「さて、夕食の準備でもしようかな。松宮さん……というか、イブキは松宮さんちに帰るの?」
「え~………………帰りたくない……」
「じゃあ電話で連絡したほうがいいんじゃない?」
「ん~、外泊させてもらえるかなぁ~?」
「ちょっと……電話してみないとわかりませんわね」
リクくんが台所へ回るのを尻目に、あたしたちは家電と対峙する。
番号を押してコールが鳴り、あたしはイブキくんへ受話器を手渡す。そのまま会話を聞いていたけれど、すんなり許可が下りたようで、電話を切ったイブキくんは胸を撫で下ろしていた。
イブキくんがソファでうたた寝を始め、手持ち無沙汰になったあたしは食事の準備を手伝うことにする。
三十分過ぎる頃には夕食が並べられ、舌鼓みを打ちながら平らげるとお風呂の時間となった。
「おれも今日泊まろうかな。先に風呂入ってきていい? その間に二人とも、どうやって済ますか話し合っておけば?」
「「え?」」
「だって、お互いの体見てみなよ。べつに何も思わないならいいけど。じゃ」
言い残していったリクくんの言葉をしっかり吟味して、はっと目を見開いた。
(そうよ! このままではあたしの体、イブキくんに見られてしまうんだわ! それだけならまだしも全身を……! それはだめー!!)
「イブキくん!」
「あ、うん?」
「目隠しして、お互い洗いっこしましょう!」
「…………え?」
このときのあたしは、それはそれで凄いことを言っている自覚はまるでなく、風呂からあがったリクくんに対策を話した際吹き出したことも、不思議でならなかった。
実際に体験して理解した。
風呂は、戦争である。
「……なんだか……学校より、疲れましたわ…………」
「そ、うだね……」
並んでソファーに座っているものの、顔を赤くして、あたしから目を逸らしているイブキくん。
彼が次にあたしと目を合わしてくれるのは、いつになるだろうか。
穴があったら入りたい気持ちと寂しさが相まって、あたしの心に暗い影を落とす。
溜め息をつくと、リクくんの声が飛んできた。
「じゃあおれ、イブキの寝室借りるね」
「「え?」」
「え? って……。まあ別に、おれはいいけど? 松宮さんの体のイブキと寝ても、イブキの体の松宮さんと寝ても」
「「……………………」」
ぶふっ、と吹き出しておかしそうに笑うリクくんに、ジットリとした目線を送るあたしたち。
笑いながら「ほんと、面白すぎだって」と呟いて二階へ消えていく。
二人っきりで残されてしまい、ドキドキと心臓が早鐘を打つ。
どう話し掛けようか躊躇していると。
「……じゃあ、僕たちも寝ようか~」
と、ソファーから立ち上がったイブキくんが、もう一つのソファーへ移動し、寝転がった。
ほっとする反面、簡単に離れていったことがショックで胸が痛んだ。
一緒の部屋に居るのに、淋しい。
「……おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい~」
声が震えないようにするのが精いっぱいで。
あたしもソファーの背に背中を向けて体を丸めた。けれど、こんな悲しい気持ちが溢れているのに、寝つける筈もなく。
滲む涙を拭いながら、ぎゅっと瞑る。
ぎし、と向こう側からイブキくんが寝がえりを打つ音を耳にして、無意識に気配を探ってしまう。
(はぁ……だめよ、キリエ。泣くのは我慢しなきゃ。気にしてはダメ……)
ぼすっ、と音がした刹那、頤を掬われ息を呑んだ。
真上から見下ろすイブキくんと視線が絡み合って。
「……泣いてるの? キリエさん」
きゅ、と内下口唇を噛む。
「泣いてないですわ……」
指先を払い、顔を背けると、正面に回ってきたイブキくんが、あたしの涙を拭った。
「ごめんね。僕、気遣うのとか……できなくて。泣いてるのが僕の所為なら……ごめん」
イブキくんの気持ちが嬉しくて申し訳なくて、喉元に込みあげる嗚咽を抑え、伸ばされた手をぎゅっと掴み、指先に口づけを落とす。
それだけで、さざ波立っていた感情が、凪いでいく。
「……ごめんなさい、あたし……イブキくんが目を合わしてくれなくなったから……淋しかったの」
「うん……ごめんね。僕も、その……ちょっと、は、はずかしく……て……」
「……はい……」
ふぅ~、と感情を吐き出すような溜め息を吐いたイブキくんは、あたしの頭をゆっくり撫でる。
「キリエさんが寝付くまでここに居るから……」
「でも……」
「大丈夫~。昼間、よく寝てたし……」
理解するのに数秒かかって、吹き出した。
先生やクラスメイト、そしてリクくんの態度の原因が、ようやく分かった気がする。
一頻り笑ったあと、穏やかな気持ちで「おやすみなさい」と口にし、瞼を閉じた。
髪の毛を掬う指先が、とても心地よかった。
気がつくと、色とりどりの実が成っている大きな木を見上げていた。
「あら、お帰りなさい」
聞き覚えのある声音に振り返れば、稲穂のような草原に立つ、桃色の髪の女性。
「あ、こんにちは……。あの……ロヴン、様……」
「ええ。そうですわ。時期に皆さん集まりますから、先に頂きましょう?」
そう言って示されたのは、用意済みのアフタヌーンティーテーブル。
あたしの体――イブキくんの姿は見えないけれど、ご麗人に逆らう気も起きず、言われるがままに腰を落とす。
「さ。淹れたてのうちに、どうぞ」
前回と違い、今回は赤い液体が入っていた。一口含むとフルーティーな香りが鼻孔をくすぐる。
「お。戻って来たようだな」
顔を上げると、白髪を揺らして近づいて来る凛々しいご麗人。
確か、スカジ様と言った。
「こんにちは、スカジ様。先に頂いております……」
「ああ、よいよい。先日はすまなかったな。おい、その姿、いい加減やめたらどうだ?」
後半は、ロヴン様に言ったようだった。睨み付けてくるスカジ様に見向きもしないロヴン様だが。
「キリエさん!」
振り返れば、あたしの体にはいったイブキくんが飛んで来た。
「一人にしてごめんね!」
「いいえ、大丈夫ですわ」
(こうして来てくれたもの)
「こんにちは」
「ああ」
「お帰りなさい。どうぞお座りになって」
前回と同様に着席したイブキくんの前に、あたしと同じ赤いお茶が出される。それは、スカジ様も同じ。
「今回は、ここのモルキュアナという実の果汁を数滴垂らしてみましたの。……では、これを」
そう言って置かれたのは、青藍色のクリスタル――甘味付けだ。
「お一つずつ、どうぞ」
「……では、お言葉に甘えて……」
青藍をそっとカップに落とすと、さらっと溶けて消える。再び舌に転がしたお茶は甘みが増して、おいしかった。
ふふ、と笑うロヴン様を睨み付けるスカジ様だったが、その目線を穏やかな眼差しに変えて、あたしたちに向きなおす。
「すまなかったな。見たところ……心と体が入れ替わってしまったんだろう?」
「分かるのですか!?」
「ああ、本当にすまないな……。ほら、お前も謝れ、ロキ!」
ふふふ、と楽しそうに笑うロヴン様。
目を丸くして瞬きをするあたしたちの前で、彼女は指先を交差させた。
「楽しませてもらったよ! 人間ってのは面白い生き物だな! はははははっ!」
「おい! それは謝罪じゃないだろう!?」
「いいじゃないかスカジ神、細かい事を言うな! 喉元すぎればなんとやらというではないか! いい思い出になったであろうよ!」
ははははは! と愉快そうに笑った女性はふわりと浮き――宙で長い脚を組む。
「気持ち悪いからその変身もとけ!」
「いいんだよ私はこのままで! 気が向いた時に戻るさ!」
ぐぬぬ、とするスカジ様と軽快に笑うロヴン様を行ったり来たりしていたあたしに、ロヴン様が問う。
「楽しめたかな?」
なぜかその瞳に――逆らってはならない気がした。
「……はい。良い思い出になりました」
「そうだろう、そうだろう! ほらなスカジ神! 私のいった通りだよ!」
「何を言う! お前が脅迫しただけだろう!?」
「心外だな! そのような脅しは一言も告げてまいに!」
「この、嘘つき一柱!」
ははははは! と楽しそうな声が鼓膜を揺らす。
(スカジ様とロヴン様、仲がよろしいのね……まあ、ロヴン様じゃないみたいだけど……)
言い合っている二柱を眺めつつ、残った紅茶を頂く。
残したら勿体ない。
隣りのイブキくんを窺えば、彼もカップを傾けていた。
そして不意に、体が透けていることに気付く。
また現世で目覚めるのだろうか? そして体は元に戻っているのだろうか。
「っと、どうやら時間が来たようだな」
近づいてきたスカジ様の言葉に「はい」と頷く。
「「ごちそうさまでした」」
「いや、ロキが迷惑をかけたね。すまなかった」
「いいえ」
頭を振ったあたしに、スカジ様がほっとしたような顔をする。
「ではな」
片手を挙げたスカジ様に、あたしは腰を折った。
瞼を押し上げるとイブキくんの寝顔があって、思わず叫びそうになった寸でのところで耐える。
(あ……あぶなかった、ですわ……)
早鐘を打つ心臓を落ち着かせてから、そっと起き上って見下ろす。
目の前にいるのはイブキくん。そしてこの体は――自分のもの。
(どうやら……戻ったみたいですわね)
胸を撫で下ろし、耳を澄ませるも、上の方から音は聞こえない。
(リクくんはまだ寝ているのかもしれないわ。イブキくんも寝ているし……)
いつの間にかかかっていた掛布団でイブキくんの体を包んでから、立ち上がる。
時間は、朝の八時。
(今日は、あたしが朝食を作りましょう)
椅子にかかっているエプロンを腰につけ、台所へ向かう。
口元を綻ばせ、想像した。
起きたら二人とも、どんな顔をするかしら――……。
ーfinー
番外編、神のいたずらにより体と魂の取りかえっこ、という内容になっていました。
これで本当に終わりとなります。
読んでいただきありがとうございました。