三度の足音
三度の足音
暗い夜道を歩くたび私は思い出す。
冬であれば十七時に差し掛かり、夏であれば十九時を過ぎる頃。世界は例外なく夜の闇に包まれる。
それはつまり、私は永遠に罪の記憶に苛まれ続けるということだ。
街灯が照らすアスファルトの上、両手で耳を塞ごうとも歩いている限り、衝撃となり体を這うようにして上って来る自らの足音。狂気に陥りそうになりながらも私は今日も歩き続ける。
生活を続けるため。
否。
ただ生きるために。
震えながら歩く中、私はあなたに問い続けたい。
果たして私に罪はあるのだろうか、と。
当時、私は十七の少年だった。
特別劣った所もない代わりに特別優れた所もない。ただどこにでもいる少年。
そんな私の姿にあなたを重ねてほしい。
あなたが女性であるならば、私を少女に置き換えてほしい。
私は。
あなたは。
学校の部活を終えて帰路についていた。
十一月。季節は秋と冬、どちらであるのだろうか?
無論、私の告白の主軸は曖昧な季節にない。ただ、あなたに想像して欲しかったのだ。
霜月の肌寒さと夜の深みを。
部活が終わったのは十八時半。私はすぐには帰らず部活仲間とくだらぬ雑談を……ちょうどあなたが友人とするような会話をした後に両親が待つ家へと帰っていた。
『まだ帰らないの?』
母からの問いが映る携帯画面を見つめ『もうすぐ帰る』と手早く入力して私は携帯をしまった。
ちらりと見えた時刻は十九時を過ぎるか過ぎないかくらいだったと思う。
街灯が、道路を走る車のライトが、ありふれた店の光が世界を照らしていた。
星の光など不要だった。世界はこんなにも明るかったから。
けれど、私の家へ向かうには所謂路地裏を歩く必要があった。
路地裏などと言うと細道を想像してしまうかも知れないが、要は表通りに面していないと言うだけで一本の道路があるただのありふれた道でしかない。
車が二台通るのは厳しい。対面から車が向かってきたなら、相手か自分が出来る限り端に寄るか、あるいは広い道まで戻らなければならない。
そんなどこにでもある道。大通りと比較すれば街灯の数は少なく、結果的に民家の明かりの存在感が大きくなっていた。
私はそこを歩いていた。普段と同じく。
暗い道。けれど、その薄暗さを意識したことなど一度もない通りを私は歩く。
最中、否応なく一人の人物の後姿を目にした。
同じ高校の女子生徒だった。
私と同様に特別何か特徴があるわけではない。そんな一人の生徒。
ただ、唯一他者と違う点を挙げるとするならば、彼女は私のことを一方的に避けていた。
別に珍しい話ではない。誰かを疎ましく思ったり、嫌ったりするのにさして大きな理由は必要ない。
あなたもきっと似たような経験をしたことがあるのではないだろうか?
その人物を彼女と置き換えて想像して欲しい。
とにかく私を一方的に避ける……つまり、不愉快な行動をし続ける彼女のことを私はよく知らなかった。
正直な所、名前さえも曖昧だった。
だからこそ、まず、彼女の背中を見た時に感じたのは倦怠感を含んだ不快さだった。
わざわざ進んで彼女に接するつもりもなどない。かと言って無言で足早に彼女の隣を通り過ぎようとすれば、一瞬でも彼女の視線の中に私は入ってしまう。
その時、反射的になされる彼女の反応。理不尽な嫌悪感に晒されれば私はどこにも捨てようのない 不快感を抱えることになる。
おそらくはそんな考えの下に当時の私は彼女との距離を詰めずに一定の開けたまま歩くことを選んだ。
実際、それは途中までうまくいっていた。私は緩慢な速度にならざるを得ない歩行に苛立ちこそ覚えていたが、足を速めて追い越したために、こちらに一切の非が無いにも関わらず、舌打ちやあるいは私の背中に向けられるであろう理不尽な嫌悪の視線を受けるよりは遥かに良いと思えた。
実際、目論見通り彼女もまた私の存在に気づかないまま携帯を見ながら歩いていた。
私と彼女の距離は変わらなかった。
ある瞬間までは。
きっかけは私が道端に転がる小石に躓いたことによる微かな音だ。
靴底がぐらりと揺れてそのまま転びそうになり、私は慌ててもう片方の足を地面につけることで体を安定させる。
しかし、歯車は確かにずれてしまった。
車の通らない静かな道にアスファルトを強く打った足音が響く。
世界に響いた一度目の足音。
私の。
あなたの。
視線の先に居た不愉快な人物は音に気付いて振り返り、そして。
私の。
あなたの姿を捉えた。
「うわっ」
距離があるにも関わらず相手の声は耳に届いた。
あるいは空耳だったかもしれない。
だが、いずれにせよ彼女は一瞬の内に前を向いて先ほどより早く歩き出した。
不愉快だった。彼女の全てが。
あなただってそう思うだろう?
止まっていた足を動かし、あなたもまた歩き出す。
先ほどより早く。
しかし、彼女との距離を詰めるわけでもない。
ただ一定の間隔を保つだけ。
早くなったあなたの足音を聞き彼女は振り返り、そしてさらに足を速めた。
あなたは苛立った。
だってそうだろう? あなたは何も悪いことをしていない。向こうが一方的に嫌っているだけなのだから。
怒鳴りつけたい気持ちを抑える。ここで声を出しては自分の負けだ。
しかし、何もしないのも腹が立つ。
そう思ったあなたは二人分の足音が響く中でわざと大きな足音を立てた。
二度目だった。
世界へと響いた確かな足音。
彼女はもう一度振り返り、今度は早足と言うには言葉が足りず、駆け足と言うには大げさな歩みを始める。
失礼にならない程度の気遣いを込めた最低限の礼儀を持つ彼女の行動。
少なくとも彼女はそう思っているのだろうとあなたは知った。
腹立たしさはピークを迎え、あなたは意地になって彼女との距離を保つ。
嫌がらせだ。
いや、向こうが先に仕掛けたのだからあなたの行動は何でもない。
悪くない。
何度だって繰り返そう。あなたは悪くない。
あなたは。
私は。
決して悪くない。
道の終わりが見えてきた。表通りの光が見える。
安堵し、免罪符を得たかのように彼女の体から一瞬力が抜けた後、勢いをつけて走り出した。
あなたの苛立ちが限界を超えた。
最後の嫌がらせだ。
先の二度より強く、大きく、自分の存在を主張するように、地面を蹴りつける勢いで足音鳴らす。
三度目。
響く音。
彼女の足はリレーの合図を待っていたかのようにしてさらに早くなり、そして。
何か大きな音が聞こえた。
車のクラクション。
悲鳴。
彼女のものか。あるいはそれ以外が混ざる混沌とした声。
ブレーキの音。
不協和音が耳を通して脳にまで届く。
音の波が去る。
あなたの目に世界が映った。
『道路に出る時は必ず左右を確認しなさい』
脳裏に蘇る、小学生か、あるいはもっとずっと幼い頃にあらゆる大人から口酸っぱく言われた言葉。
鐘が鳴るように反響する。繰り返され続ける。
いつまでも。
いつまでも。
記憶の色が薄まり、現実へと引き戻される。
彼女は即死だった。事件性はなく、ただの不注意だとされた。
運転手に怪我はなく、ただ大きな十字架だけが理不尽に背負わされた。
数えきれないほど歩き続けた夜の道。
生きている限り、決して変わることの無い世界を行く自分の姿を想起し、今日もまた強く言い聞か せる。
自分は悪くない。
決して、悪くない。
街灯の光が。
道路を行き交う車のライトが。
ありふれた店の光が。
体を照らした。
身の潔白を証明するように。
あるいは。
世界でただ一人真実を知りながら、ひた隠しにして生きている者を晒しだすように。
あぁ。
動悸が激しくなるのを感じながら、今日も生きる。
あの日、確かに。
あなたは。
私は。
人を殺したのだ。
垣間見える真実に蓋をして私は夜を歩き続ける。
脳裏に響き続けるあの日鳴らした三度の足音。
世界を変えてしまった私の罪。
良心は贖罪を望んだ。
本心は怒りを訴えた。
どちらに従えば良いのか、私には分からない。
思いだされる名も知らぬ生徒。
彼女が悪いのだ。
彼女が仕掛けて来たのだ。
そうだ。
そのはずなのだ。
「ちくしょう」
私の声が世界に響く。
罪の意識に苛まれる苦しみと決して自らは悪くないと信じる心の声。
「ちくしょう」
相槌を打つように私の足音が響き渡る。
一度、二度、三度。
四度目の足音が聞こえない。
三度目を終えると、私の脳裏に響くのはいつも一度目だ。
私は自らに追われるようにして帰路を急ぐ。
一度、二度、三度。
音は決して私を逃がしはしなかった。
了