夏夜
さあ寝ようかと布団へ寝転がった際、綾の自室窓をコンと小石が叩く音がした。これは幼馴染の孝文が、綾を遊びに誘う時の合図だ。
綾は聞かなかったことにしようと思い目を瞑ったが、窓に小石を次々と投げつける孝文に観念し瞼を開けた。
居間に入ると、まだ火のついている蚊取り線香がゆらゆらと煙を立てていた。
綾は缶を左腕で抱え、家族を起こさぬよう足音を消し玄関へ向かった。引戸を開け、門の先に立ち控えめに手をあげる孝文を軽く睨みつけた。
「悪い、寝とった?」
孝文がそう言い口元に微笑を浮かべるところを見るに、微塵も悪く思っていないことが伺えた。
綾は少し腹が立ち
「これから寝よ思とった」
と後ろ手で引戸を閉めつつ、ぶっきらぼうに返した。門を開錠し、孝文へそこに座れと顎でしゃくった。
そこ、というのは門のある段差のことだ。ここは地面にコンクリートが乗っており、一段高くなっている。綾達は軽く会話を交わす時、よくこの一段高い段差を使う。俗に言う特等席だ。母の真記には
「ご近所さんの目もあるんやからやめてや」
と叱られるが、今更な気がしてならず場所を変えていない。
段差に腰掛けた孝文の左足元へ蚊取り線香を置き、綾はそれを右足で挟むように隣へ座った。
綾がふと横を見ると、家の塀へ寄せるように孝文の自転車が停められていた。
「なんで自転車?タカの家から俺ん家まで徒歩二分やん」
「コンビニ行って花火買って来た帰りや」
ニカッと白い歯を見せ笑う孝文は、とても無邪気だった。
「花火?」
「そお、花火。やっぱ夏といえば花火やろ」
孝文らしい安直な考えだなと思い、綾は微笑んだ。
「他人に寄せる好意なんかな、微熱くらいが丁度えぇねん」
門のある段差へ綾と少し間を開け座る孝文は、時折このように物事の核心を突く。
綾があの後台所から取って来たラムネは、残り半分になっていた。
持ち上げると、冷えた瓶内と鬱陶しく纏わり付く夏の熱気の差により生じた水滴が綾の掌を潤した。炭酸が抜け、爽快感や温度のぬるくなったラムネは喉に優しかった。
「なんでまたそんなこと」
閑静な深夜の住宅地に、彼等の声は静かに響いた。
「色恋沙汰の例え話で、濃いジュースばっか飲み続けたら飽きるけど、味の薄い水は飽きんと飲み続けれる。ってよお聞くやろ?それと一緒や」
だからどうしてそんなことを言い出したのかを知りたい、と思い綾は隣を見遣った。
そこにはじっと正面だけを見据え、
「余計なことは聞くな」
とでも言いたげに物憂げな顔をした孝文が居た。おそらく、溺愛していた彼女ー沙耶に振られたのだろうと綾は思った。
沙耶は孝文が高校へ入学してから出来た、三人目の恋人だ。腰まで伸びた黒髪が、艶やかで綺麗だったと綾は記憶している。
「あぁ、なるほどな」
深掘りはせずただ話を聞く。これが、綾に出来る精一杯の慰めだ。
孝文の左足と綾の右足の間から、蚊取り線香特有の好いとも嫌ともとれる独特な匂いを乗せた白い煙が立ち昇っていた。
「双方の好意の温度が高ければ高いほど恋は燃え上がるけど、終わるんも早いって訳」
孝文は自身が先刻コンビニで購入した花火の詰め合わせを、ガサガサと大きな音をたてレジ袋から取り出した。
綾の脳裏に、油が足らずギィギィと鳴る自転車を汗を滲ませ漕ぐ孝文の姿が浮かんだ。
一番スタンダードな花火を引き抜き、デニムジーンズのポケットから取り出したライターでその先端を炙る孝文は、爽やかな白のシャツがよく似合う褐色肌をしていた。
ボッと火が付き、色とりどりの光が眩しいほどに輝いた。火花は、次々に色を変え煌めいたかと思うとすぐに地面へ落ち姿を消した。
「こんな風にな」
ドキドキしとったらいつの間にか終わんねん。と言葉を紡いだ孝文の瞳は、涙で濡れていた。それは花火の煙によるものなのか、失恋がもたらしたものなのか綾にはわからなかった。
「うん」
孝文は綾が頷くのを見届け、飲み終えたラムネ瓶に先程の花火を突き刺した。
「微熱の恋なんか、俺にはわからん」
弱々しく呟いた孝文は、飼主に叱られしょげている子犬のように可哀想で痛々しく綾の目に映った。
「タカ、ちょっとそれ貸して」
と花火の詰め合わせを指差し言う綾に応じ、孝文は素直に手渡した。
綾は固定するために貼られたセロハンを丁寧に剥がし線香花火を手に取ると、孝文に突きつけ先端を炙るよう促した。
孝文の関節が太く短い親指がプッシュ式ライターのボタンを押すと、カチッと音をたて小さな炎がついた。
「微熱の恋ってゆうんはさ、こうゆうことやと思う」
着火すると、直径五㎜程度の火球が確かな光を灯した。
次第に黄色くパチパチと輝き、激しさを増した火花が四方八方へ散る。
綾は大きくなりゆく火球を落とさぬよう、線香花火を持つ右腕に神経を集中させた。
勢いが衰え、火球から飛び出す火花が細くやや下を向き始めた。
「綺麗や」
孝文は優しさを含んだ眼差しを火花へ向け、静かに見つめた。
火花は散るのをやめ、重く垂れ下がる火球が色を失い地面へポトリと落ちた。