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迷仔  作者: 芳田文之介
9/12

節分の日の風景





節分の日の風景





「ほら、真美、一度帝釈天の豆まきに行ってみたいって言ってたじゃない」

それは、周が久しぶりに休憩が取れたからと言って、わたしに電話をくれた時の言葉だった。

思えば、あの秋の日以来のデートだった。

今は、あの日わたしが人前で声を荒らげて本音を吐露し、二人の心の距離感が少しぎこちなくなっている時。

当日の朝、目を覚ましたわたしはベッドから起き上がり、先ず遮光カーテンを開いた。

そこに雨はなく、ホッと胸を撫で下ろす。

それよりも硝子窓の向こう側の景色には、明るい光が溢れていて、思わず頬が緩んだ。

大きく窓を開け放つと、ヒューと音を立てて、冷たい風がその頬を撫でてゆく。

一瞬、ブルっと身体が小さく震える。

けれど、心の中はとってもあったかい。

ベランダに吊るしておいたてるてる坊主に優しいまなざしを送ってあげる。

縺れていた糸をほぐす、そんな仲直りのきっかけとしての「今日」を願った。

百の数字をゼロからもう一度数え直すみたいに、二人の歴史も今日からもう一度やり直せればいいのにね……てるてる坊主を見上げて、そうそっと呟く。

こんな大事な日に時間に遅れてしまっては元も子もないーーそう心を急かして支度を整え、待ち合わせの場所へと急いだ。

初めて出逢ったあの日のように、明るい陽射しをキラキラと浴びて、周がそこに佇んでいる。

わたしは周に駆け寄りながら、それでも最初は少しぎこちない二人の心の距離感なんだろうなーーそんな思いを頭に描く。

けれど、車窓からの柔らかな陽射しを集めた電車のシートに座って、互いの肩を寄り添いながら揺られていると、二人の心の距離感は少しずつ縮まっていくように思えてくる。

電車は下町の風景の中をのんびりと進んでゆく。

その速度に合わせて、二人の時間がゆっくりと取り戻せていく心地の中で、わたしは頬を緩ませる。

参道の人混みの中を歩く。

「どうやら、ここが寅さんの映画の舞台になった団子屋さんみたいだね」

周が、顎をしゃくってその店を教えてくれる。

へえー、とわたしは歓声を上げて、そのお店の中に視線を送る。

ウイークデーだというのに、店内のテーブルはほぼ満席状態になっている。

その賑わいが、節分の豆まきがこの街にとっては、いかに重要な一大行事であるかを物語っているようでもある。

映画のセットのような参道を歩いていると、わたしも映画のワンシーンに紛れ込んでしまったみたいな錯覚に陥り、妙に気取った仕草をとっている。

境内に足を踏み入れる。

不意に、古色蒼然とした景色が目に飛び込んでくる。

ふと本堂の前で、和尚さんが誰かに向かって何かを諭しているような景色が頭に浮かんで、わたしは思わずにやけてしまう。

掲示板に張り出された時間割に目をやる。

どうやら豆まきは、一日に何回かに分けて行われるみたいで、次の時間まではしばらくの間があるらしい。

「真美、おみくじでも引こうか」

周もその時間を確認したみたい。古めかしい建物の前にできている行列に視線を送り、そこを指でさす。

そういえば、今年は毎年恒例の浅草寺の初詣に、ついに行くことはなかった。

だから、今年はまだ、おみくじを引いていない。

わたしはそれを思い出し、一瞬中途半端な笑みを浮かべるけれど、それでもすぐに気を取り直し、それを屈託のない笑顔に変えて、「うん」と頷き返す。

「どうだった?」

周がわたしのおみくじを覗き込もうとする。

「駄目、見ちゃあ」

わたしは、手を後ろに回してそれをさっと隠す。

「どうしてだよう……」

周が拗ねた感じで、苦笑いを浮かべる

わたしはそれを尻目に、境内にある木立ちへと小走りで向かう。

記された不吉な文字を封じ込めるようにして、力を込めておみくじを折り畳む。

わたしはそれを木の小枝に、きつくきつく結び付けた。

馬鹿……尖った目を作って、本堂を睨んだ。

おみくじには、『凶』の文字が記してあった……。



「福は〜うち」

豆まきは、その掛け声と共に始まった。

設えられた舞台の上には、たくさんの年男と年女が立ち並び、威勢のいい掛け声と共に、袋に詰められた豆を境内に撒いていく。

多くの参拝者が両手を掲げて、それを掴み取ろうとして必死にもがいている。

みんながなかなか上手くは、それを手に取れないみたい。

周もまだひとつもそれを手にしていなくて、「こっち、こっち」と舞台の上の男女に向かって、大きな声を張り上げている。

わたしはそれを虚ろな目をして眺めている。

今はおみくじの結果よりも、むしろ周に連れなくした自分に自己嫌悪を覚えて、わたしは少しばかり元気をなくしているのだ。

そんな自分に気づき、わたしって、どうしていつもこうなんだろう……とため息が漏れる。

その結果がどうであれ、お互いがその結果を共有して、たとえばそれが悪い結果なら、「残念……」とペロッと舌を出して、ちょっぴり悲しそうな表情を作ってしまえば、きっと可愛いく見えるんだろうな……そう思うと、切なさの溶けたため息が漏れるのだった。

けれどわたしは、どうしてもそんなふうには振る舞えない。

わたしは、そんな種類の女だ。

さらに、そんな自分にさえいじけてしまって、心はささくれ立っている。

これじゃあ、本当にそのうち周に嫌われちゃうよね……そう自分に言い聞かせても、結局は無意識のうちに自我が顔を覗かせ、それに翻弄されて戸惑う自分がいる。

撒かれた豆を掴もうとして必死にもがいている人たちの喧騒の中で、わたしはそんなことをぼんやりと考えていた。

その時だった。

何列か前の人が取り損ねた袋入りの豆が、なぜかわたしの足元に落ちてきた。

わたしはハッとして、咄嗟に腰を屈めて、それを手で掴む。

そして、立ち上がって、微妙な笑みを浮かべて、それを周に見せる。

おっ、と周が目を見張る。

「でかした、真美!」

周の笑顔が弾けて、わたしは彼の腕できつく抱きしめられていた。

単純なわたしは、そうされることで充分な幸福感に浸さられて、それであっさりと笑顔が戻っている。

そんな楽しい時間は、安堵感と寂しさをきっかり半分ずつ伴い、あっけないほどに儚く終わる。

本堂を通り過ぎる時、貴重な豆を手にすることができた幸運に感謝して、深々と頭を下げて境内を出るーーそんな都合のいいわたし。

駅を目指して、参道を抜けて信号を渡る。

すると視線の先に、たくさんの飲み屋さんが軒先を並べる風景が見えてくる。

それぞれがそれぞれに店先にテーブルを並べて、大変な盛況ぶり。

「ちょっと寄っていこうよ」

周がその中の一軒の店先の、テーブルの空席を見つけて、わたしの腕を引っ張る。

わたしは、「うん」と笑顔で頷いて、それに従う。

テーブルに腰を落ち着けると周が、店先で焼かれて、その香ばしい匂いが鼻を擽らせている焼き鳥をなん本かと、「あと、熱燗ね」と日本酒の二合徳利を注文する。

舗道に並んだ吹きっさらしのテーブルには、冬の午後の冷たい風が二人の身体を容赦無くなぶっていく。

それも手伝ったか、わたしも周も日頃あまり飲むことのない日本酒の杯を随分と重ねた。

とくに、周は隣に座ったオジサンと妙に気が合ったようで、そのオジサンに勧められるがままに、速いペースでかなりの量を飲んでいる。

「なんだよ、もう帰っちゃうのかよ」

そう剥れるオジサンに、わたしは愛想笑いを浮かべて、「ちょっとこれから用事があって……」と適当な理由を告げてお店を出る。

もうこれ以上は無理だな……とわたしは咄嗟に気転を利かせていた。

案の定、周はへべれけ状態。

「ねえ、周、大丈夫?」

わたしは心配して、周の顔を覗き込む。

周は、駅のホームのベンチに、背中をだらしなくもたれかけて、「へへん」と緩んだ笑み浮かべて、「らいじょうぶ、らいじょうぶ」と呂律の回らない口調で繰り言を重ねる。

「もう、調子に乗って飲むからだよ」

わたしは、やれやれと首を振り、「とにかく、今夜はあたしんに泊まろうね」と周の耳元で囁くのだった。



「それからが、本当に大変だったんだ……」

わたしは、あの日を振り返るようにして目を遠くに向け、再び公恵に話のつづきをはじめる。



わたしは、今夜は周の家に泊まろう、そう心に決めていた。

明日の朝食は、帰り掛けに周のマンションの近くのスーパーで食材を調達して、久しぶりに腕を振るおう、そんなつもりでもいた。

ところが、突然状況が変わった。

わたしは、とりあえずリビングのソファーに周を寝かせて、冷蔵庫を開ける。

情けないほどに、何もない。

最近はちょっとばかり横着をして、コンビニのお惣菜で済ませる日々の連続だった。

朝食は、近所のファミレスで摂るにしても、何か飲み物ぐらいは買って用意しておかないと……。

わたしは、今は気持ち良さそうに寝ている周の寝顔を見つめながら、苦い笑みを浮かべて呟く。

夜中や明日の朝とかに目が覚めて、きっと周は喉の乾きを覚えるはず。

「周、ちょっとコンビニに行って、何か飲む物を買ってくるわね。それまで、ここでゆっくり寝ててね」

わたしはそう言い残して、財布だけを手にしマンションを出た。

すぐ近所にはコンビニはなくて、駅の方まで歩かなくてはならない。

マンションからそこまでは、だいたい徒歩で、七、八分くらい。

トマトジュースなんかもいいわね、そうひとりごちて、それを手に取り買い物カゴに入れる。

ついでにアイスクリームも買っちゃおう。

頬を緩めて、それも手にする。

レジへと向かう。

一瞬、えっ!と眉を顰めた。

どうしたことか、レジの前には結構な行列が出来ている。

カウンターに目を向けると、なぜかレジは一台しか起動していない。

若い女の子がひとりで、苦笑いを浮かべながら、それと格闘している。

他のバイトの子はどうしたの……?

わたしは列に並び、ちょっとイラっとしながら、順番を待っていた。



「冗談みたいだけど、案外そんなことが、たまにあるんだよね」

公恵が、二本目の缶ビールをコンビニの袋から取り出しながら、微笑で呟く。

その日は二人のシフトで働いていて、いつもはそんなに混む時間帯ではないから、片方が「休憩に入りまーす」と言ってバックヤードの中に消えていく。

ところが、そんな時に限ってたまたまお客さんが重なる。

さらに、バックヤードにはモニターがあって、それで店内の様子は把握できるんだけど、運悪くその子がトイレに入ってたりなんかしていて……

「あたしんも商売してるから、なんだかそんな状況が目に浮かんじゃう」

公恵は、自分家の状況を頭に思い浮かべる感じでしんみりと呟くと、ビールを啜って喉を小さく鳴らす。

それがわたしの喉の渇きを気づかせて、わたしもコンビニの袋に手を伸ばす。

一口啜る。

乾いた喉には心地良くもあったけど、でも胸には甘酸っぱさが広がった。

ふうーと、アルコールの滲んだ苦い息を吐き出す。

そして、再び口を開く。

「それでね、三十分以上もかかってマンションに戻ったの。周、ただいま、って声をかけて部屋に入るとね……」

「部屋に入ると……」

「周がね、怖い顔して、ソファーに座っていたの……」



マンションのドアを開けて、スリッパをペタペタと鳴らしながら、リビングルームに入る。

「周、ただいま」と声をかけて、一瞬ハッとした。

周がソファーに座って、凄い形相を浮かべて、一点を見つめている。

周の視線の先に目をやる。

テーブルの上に置いてある、わたしのスマホが目に映る。

どきんと心臓が激しく鳴った。

唐突に、雨音が聞こえた。

気密性の高いマンションの厚い壁をすり抜けて、わたしの部屋で雨音が……。

雨音は不吉な予兆の旋律ーー

わたしは震える声で恐る恐る、「ど、どうしたの?」と周に尋ねる。

「俺さあ……」

周が視線をそのままにして、押しつぶしたように低い声で口を開く。

「随分と酔っていただろ。朦朧としていた。そんな中で突然スマホの着信音が耳にしたんだ。俺、つい自分のだと、そう思って出ちゃった……」

ふと、なぜかわたしの頭の中に故郷で暮らす誰かの顔が浮かんだ。

喉がからからに乾いていた。

「だ、誰からの電話だったの?」

「真美のおばあちゃんだって、そう言ってた……」

やっぱり……。

わたしの中では、いい予感はさっぱり当たらないが、悪い予感ほどよく当たる。

全身の力がスッと抜けて、立ちくらみを覚えた。

コンビニの袋が手のひらからスルリと抜けて、フローリングにドサッと音を立てて落ちる。

「話したの……?」

声が掠れている。

「ああ……」

周は頷くと、やるせなさが溶けたみたいな息を、ふうーと深く吐き出した。



「周くんは、真美のおばあちゃんと何を話したというの」

公恵は眉を顰めて、首を傾げる。

「実はわたしね、周にはずっと隠してたことがあったの……」

「何を?」

「公恵には、チラッとだけ話したことがあったと思うんだけど、故郷のこと」

「故郷のこと……ああ、真美は一人娘で、おばあちゃんが実家の本屋を継いでくれって煩く言ってたけど、それをお母さんが、あんたは自分の好きな人生を歩めばいいって言ってくれて、そのお陰で東京に出てくることができたんだっていう、あの話」

「そう、その話」

「それが、その通りだったとしたら、別に周くんに隠すことなかったんじゃないの?」

「う〜ん……」

わたしは、そこで言葉を詰まらせた。

確かに、わたしの立場から見ると、それは「正しい」と言えた。

けれど、祖母の側から見ると、それは「正しい」とは言えない。

正しいとか正しくないとかは、立場によってその答えは違ってくる。

わたしの「正しさ」は自分の人生を自分の足で歩むことで、祖母の「正しさ」は実家の本屋をわたしが継いでくれること。

そのお互いの主張は、いつまでも交じり合うことはなくて、ただ虚しく平行線を辿るばかり……。

それは、今夜見聞きした津川家の事情とも重なる。

和美さんの正しさ、公恵の正しさ、そしておじさんの正しさ。

わたしは、お互いの事情に向き合うことなく、結局祖母を騙し故郷を逃げるようにして離れた。

それは、相手が違うとはいえ、まるで和美さんのようでもあった。

そして、わたしはそれに対して罪悪感を覚え、だから、その事情を周に隠すようにして黙っていた。

わたしは、しどろもどろになりながら、わたしの胸の内を公恵に吐露していた。



「どちら様ですか?ってちょっと掠れた声の女性が尋ねるんだ……」

周は、相変わらず低い声で呟く。

「俺はてっきり自分のスマホだと思っているからね。逆に、そちらこそ、どちら様ですか?って尋ねてた」

普段耳にしたら吹き出してしまいそうな話を、周は無表情な顔をして抑揚のない口調で話す。

「するとその女性が、あたしは岡田真美の祖母ですけどね。これは真美の電話じゃないんですかね?って言うじゃない。驚いたよ。一気に酔いが覚めて、改めてスマホを眺めたよ。それで、ああ、これ真美のだと気づいた。慌てたけど、ここはきちんと挨拶しておかなくちゃいけないって思ってね」

そこで周は、今、真美さんはちょっと外に出ていて、それで自分はこうこういうもので、ただいま真美さんとお付き合いさせていただいておりまして、そしてできれば将来入籍なんかさせていただければいいなって、そう思っています、と照れながらもそんなふうに自分を紹介し、今の状況を説明したのだと言う。

わたしは、血の気を失った表情をして周の話を聞いていたけれど、一瞬、「入籍」というその言葉に、胸をドキッとさせられていた。

けれど、その感情は、周の次の話を聞いて、一瞬にして消え去ってしまう。

祖母は、「今は、そんな浮かれた話をしてる場合じゃないんですよね」とちょっと怒ったような物いいで、周にこんな話をしたという。

「このことは絶対に真美の耳には入れないでくれって、あの子の母親にきつく言われているですけどね……でもね、もう我慢できなくなって、それでつい……実は今この家では、真美の母親が体調を崩して病院に入院してしまいましてね。あたしは、元々足を不自由にしてるんです。それで、真美の父親が一人で仕事をしながら、あたしの世話をしたり、嫁の病院の見舞いに行ったりと、そりゃあ大変なことになってましてね……だから、真美に今の仕事を辞めて、すぐにここに帰って来てほしい、そう思って内緒で電話したんです。だいたいあの子は、あたしを騙すようにして東京に行ったんですよ。実家の本屋を継いでくれって、あんなにあの子には小さい頃から頼んできたというのにね。それをね……まあ、こんな愚痴をあなたに聞かせても仕方がないんですがね……とにかく、真美が帰って来たら、すぐにあたしに電話するように伝えてください。お願いしますね……」

それで電話は切れたのだという。



「真美、知ってたの?と周に怖い顔して訊かれたよ。実家がそんなことになってるなんて聞いてないもん、って強く首を横に振ったけどね……だって、この一年くらい実家とは音信不通状態だったから……」

わたしは、そこで言葉を区切って、一口ビールを啜って喉を潤す。

とっても苦い味がした。

その苦味が胸に染み渡り、それが再び目頭を熱くする。

刹那、一陣の風が舞い、頬を撫でた。

それが合図だったかのように、再び土手の上に風が吹き始めた。

さっきまでの風には春の温もりが溶けていたけれど、今吹く風には冬の冷たさが溶けていた。

そして、どこか雨の匂いがした。

「それで……」

公恵がポツリと呟く。

あの日の周は、「今の状況は別にして、どうして今まで実家の事情を俺に話してくれなかったの」と言って、暗く沈んだ目を向けた。

その目は、昨夜TVで観た、遠い異国の瓦礫の前で佇んでいた少女の目に、どこか似ていた。

それがわたしの身体に突き刺さる。

当然、わたしを責めていただろう。

けれど、あの日の周は、むしろそんな目をしながら、「そんなに俺って、頼り甲斐がない男に見えるのかなあ」と言って自分を責めていた。

その優しさが、より一層わたしの心を苦しめる。

わたしは、心で悲鳴を上げる。

違うよ、頼り甲斐があって、素敵な人だから……だから、ずっと一緒にいたいと思っていたから……。

だから、逆に話せないこともあるんだよ……と。

わたしはフローリングにひざまずき、両手で顔を覆って泣いていた。

「そんなことがあってしばらくして、大事な話がある、菜の花でも見ながらゆっくり話をしよう、って電話があったの……周のことだから、二人が結ばれた日のその記念の場所だから、きっとそこを選んだ……そんな気がするんだよね」

「周くんって、ロマンティストだもんね。終わりも始まりも同じ場所でって、そんなふうに思ったのかなあ……」

公恵は、切ない話だね、と涙声になって呟く。

「きっとそうだと思う……でも、その日は雨でね。それで、昨日の夜、明日会いたいって電話があったの。だからね、明日で終わりなんだ……きっと、わたしたち」

「……そう」

公恵も、さすがにそれで納得したみたいで、もうそれ以上の言葉はなかった。

その時……。

ポツンと冷たい雫がおでこを濡らした。

雨……?

そう思った刹那、不気味な雲から川面を打ち付けるようにして、ざあーと雨が落ちてきた。

わたしたちは、わっ、と声を上げてベンチを立って走り出す。

浅草駅の改札口。

公恵が、わたしの目をジッと見つめて、「そにしても、お互いが家庭の事情に翻弄されるなんてね……」そう言って、滲んだ目をして、ふふっと悲しそうに笑った。




つづく

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