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迷仔  作者: 芳田文之介
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隅田川の土手(二)

隅田川の土手



(二)



「まあ、結局、真美が周くんと結ばれて、この街で幸せな日々を送っていることを思えば、あたしたちのおせっかいもまんざらじゃなかったってことだね」

公恵は、風に靡かれて乱れてしまった長い髪に手櫛を入れて、そう微笑む。

わたしはその言葉に一瞬躊躇いを覚えてしまうけれど、「もちろんだよ」と公恵の横顔にまなざしを向ける。

「この街で今こうして幸せな日々を送れるのは、本当に公恵のお陰。感謝してる。ありがとう」

わたしはそう礼を述べながらも、「ありがとう」の言葉にそんなには心がこもっていなかった自分に気づき、瞳を曇らせる。

一瞬、チラリと公恵の視線が刺さる。

けれど、すぐにその視線は前方の風景に戻る。

「まあ、そう改めて頭を下げられると照れちゃうけどね。でもさあ、今夜は本当に助かったよ。真美がいなかったら、マジで修羅場になってた……だから、あたしも改めてお礼を言わせてもらう。真美、今夜は、本当にありがとう」

公恵にしては珍しくしんみりと礼を口にする。

いつしか、土手の上の風はやんでいた。

目の前を流れる川は、雨水を集めた濁った水を湛え、静かに流れている。

川面は、今はすっかり凪の状態にあり、それがなぜか嵐の前の静けさを思わせて、どこか不気味でもある。

日常から切り離されたこの土手の上を、吹き止んだ風に代わって、その不気味さが包み込んでいるようでもある。

この街で、いつも公恵にお世話になりっぱなしのわたしが、今夜は彼女の役に立てていた。

それが嬉しくもあり、なんだかやるせなくもあった。

ふと、数十分前の風景が頭に蘇る。

なにかの感情を踏み潰すみたいに、どしどしと階段を這い上がる足音。

一瞬の躊躇いの後、開かれる引き戸。

そんなふうに二階のリビングルームに入ってきたおじさんは、しかめっ面をわたしたちに見せながら、テーブルを挟んだ目の前の椅子を乱暴に引き、そこにドスンと腰を下ろす。

おじさんは、しばらくは無言のままあらぬ方向に視線をやり、組んだ膝を忙しく揺すりながら、タバコを吹かしていた。

灰皿にタバコの灰を落とす時おじさんが、ちらっと鋭い目付きで公恵を覗く。

公恵も負けじと、それに尖った視線をぶつける。

そのぶつかり合いが火花を散らし、緊張感を高める。

おじさんは、吸っていたタバコを灰皿で押しつぶし、両手を胸の前で組んで、時々息を吸って、何か言葉を吐き出そうと試みる。

けれど、それは挫折して、ただ声のない息が漏れるだけ。

それが繰り返される時間が、テーブルを挟んだ空間に、重苦しく流れてゆく。

わたしは俯いて、胸をドキドキさせながら、目の端でその光景をそっと覗いている。

不意に、ガタンと音がする。

おじさんが席を立った。

一瞬、公恵を睨みつけて再び何かを口にしようとするけど、やっぱり今度もそれは挫折する。

どうやら、おじさんは言葉よりも感情が先走ってるみたい。

刹那、バターンと両手でテーブルを強く叩く音がした。

鋭い眼光が公恵の顔を刺す。

じりじりとした、沈黙が流れる。

「好きにしろ!」

おじさんがやっと吐き出した言葉は、それだけだった。

そして、乱暴に引き戸を閉めて、おじさんは部屋を出て行った。



「今夜は、あれですんだけどね……」

公恵が、まなざしを遠くに向けて呟く。

「なんたって、真美はお父さんのお気に入りだからね。そりゃあ、あんたの前じゃ、感情乱して声を荒らげるわけにはいかないもん。ああ見えてお父さん、意外とええかっこしいだからね。そういった意味では今夜は作戦、バッチリって感じ」

公恵は口を結んで、笑っているような目をして、うんうんと頷く。

「あーあ、でもねえ……これからのことを考えるとねえ……とっても憂鬱よねえ」

今度は表情を一変させ、大きくため息をついて、両手で頭を抱えこむ。

感情の起伏の激しい公恵の、その言葉の中に一瞬、わたしは胸をチクリと刺されていた。

作戦……?

それって……???

わたしは眉間に寄せた皺に、人差し指を当ててみる。

すると何かが閃く。

それって、もしかして今夜のわたしは、ダシに使われたってこと?

おじさんの公恵に対する怒りを和らげる、そんなダシにわたしは……。

さっきは、「親友のあんたに……」という健気な気持ちに絆され、あんなに公恵の優しさに感極まっていたわたしだったのに……なんだかそれが虚しく思えて、惨めな気分にさせられる。

思えばかつてのわたしは、物語の主人公を演じることができていた。

わたしは、駅前で一番大きな『岡田書店』の一人娘で、そこは文房具や雑貨なんかも取り扱う人知れたお店だった。

町を歩くわたしは、「ああ、あの本屋さんのお嬢ちゃんの、真美ちゃんね」とみんなによく声をかけられたものだった。

幼稚園のお遊戯会ではいつもお姫様の役を演じていたし、小学生の頃は決まってクラス委員長に選ばれてもいたし、そして、なによりも中学や高校の制服を着ている頃は仲の良かった女の子のグループの中では、いつも話題の提供者だったりもしていた。

ところが、この都会に来ると、その状況は一変する。

主役の座から引きずり降ろされたわたしは、名も無い役者として、舞台の隅っこの方に追いやられる。

たとえば、それはお芝居の中のその他大勢の通行人の、その一人のような存在として。

もちろん、わたしの中のお芝居の主役は、いつも決まって公恵が演じている。

今夜もわたしは、『津川家の人々』というお芝居の中で、ほんの数分しか出番のない、そんな脇役のような存在でいた。

足を組んで膝の上で頬杖を付き、唇を突き出して上目遣いで頭上を仰ぐ。

風がやんだ空には、流れて行った雲に代わって、不気味な色が滲んだ別の雲が湧いている。

それを目にしたわたしの胸に、わたしだってね、とやるせない感情が湧いてくる。

わたしだってね、今は悲劇のヒロインを演じている真っ最中なんだからねーーそんな嫉妬に似た感情が、ふつふつと……。



「閑話休題ね」

突然、公恵が、わたしにはまったく意味不明の言葉を口にする。

頬杖を付いた姿勢のまま、首だけを公恵の方に捻って、わたしは眉を顰める。

「あたしの物語は、これでおしまい。だから閑話休題。これからは、真美が主役の物語のはじまり、はじまり」

公恵はおどけた顔をわたしに向けて、パチパチと手を叩く。

「ど、どういうこと?」

わたしの表情は、ますます怪訝になる。

「わたしの物語って……?」

ダシに使っておいて今さら何よ……その言葉は飲み込んで、わたしはいじけた目をして公恵を睨む。

公恵は、わたしのそのまなざしを器用に逸らして、フンって鼻先で笑うような仕草を見せる。

「真美、一体あたしと何年付き合ってると思ってんの。 あんたは、あたしがとっても勘の鋭い女だって、よーく知ってるでしょ」

「そ、それは……まあ」

だ、だったら、何よ……。

「だったらさあ、いい。昨夜のあんたのなんだかワケありな様子に、あれっ、真美なんかあった?って気づかないあたしだとでも思ってんの?」

ええっ……!

わたしの瞳に、驚きの色が浮かぶ。

「確かに昨夜のあたしは何時にもまして強引だった。あんたの事情なんてお構いなしよって、そんな雰囲気バンバン醸し出してた。でもね、ちゃんと気づいてたわよ。しばらく会わないうちに、あたしと同様に、あんたにも何かのっぴきならない事態が起きてるな、ってね」

あっ!

わたしは、絶句していた。

心臓が何かで鷲掴みにされたみたい。

公恵の顔をまじまじと見つめた。

そこには、幼いわたしの顔と違って、硬質的な美しさを持った、洗練された大人の女性の顔がある。

わたしは、改めて感心していた。

いつもマイペースで冷静で、他人のことなど全く気にしていないような素振りを見せているようでも、実は鋭い観察眼をしている彼女を。

不思議な人だ。

わたしは、目を細めて口を半開きにして、公恵を見つめている。

「最初はさあ、真美をダシに使っちゃおうっていう思いも、確かに頭の片隅にはあるにはあったよ。でもね、それよりも親友のあんたに……って気持ちの方が断然強かったよ、マジでね」

「そ、そう。それは、嬉しいけどさ……」

だったら、それに気づいた昨夜の時点で、わたしの相談に乗ってくれたって良かったんじゃないの……と、わたしは恐る恐る言ってみる。

「昨夜のあたし、一瞬、沈黙していた時間があったでしょ?」

あっ、そういえば確かにそうだった。

「あん時、そんな思いが微かに頭を過ってもいたわ。でもさあ、なんだか電話じゃ埒があかないような気がしてね。だから、顔を合わせて話した方がいいのかなって、そう思ったんだ」

公恵はそこまで話すと、再びカチッとライターの音を立てて、タバコに火を点けた。

フッと、わたしに顔を背けて煙を吐き出す。

さっきまでは、わたしの反対方向に流れていた風は今はやんでいる。

多分公恵は、それに気を遣ってくれたのだろう。

そんな彼女の何気無い優しさも、ジーンと心に沁みる。

それが、わたしの瞼の裏を熱くする。

「だから、強引にうちに誘ったの。それで、あんたの姿を見て確信したよ。なんたって、あんたのその切なさの匂い、半端ないもん。あはは……とにかく、あたしの物語はこれで終わり。さあ、今度は真美の物語の番。ゆっくり聞いてあげるから、ほら、話してごらん」

瞳に止まっていた涙がじわっと溢れて、その雫が頬を伝わる。

それを公恵の優しいまなざしが、いつものようにジッと見守ってくれている。

沈黙が二人を包む。

わたしは、目尻を人差し指でそっと拭う。

そして、やっと重い口を開き、今までの経緯いきさつをとつとつと話し始める。

公恵は、うんうんと頷きながら、なんの言葉も挟まずに、わたしの話しを聞いてくれる。

一旦、言葉を区切る。

「そうだったの……」

公恵が、深くため息をつく。

「でもさあ……」

彼女は、何かを悟ったように言葉を継ぐ。

「大事な話がある、っていう周くんからの電話……それって、こんな時は、普通いい意味で使われない。なんだか、別れを告げる時には、不自然のような……」

公恵は、そんな気がするんだけどね……と首を傾げる。

「ううん……」

わたしは、左右に強く首を振る。

「間違いないの、わたしの場合は……だってね……」

わたしはそこで、節分の日の風景を、切なさと共に語るのだった。



つづく

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